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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #10 他人を勝手に「被害者」にするな

タトゥー、身体改造、ボディビル、異性装……絶えざる変容の動態に生きるオイルペインター亜鶴の、数奇なるスキンヒストリー。第十回は「責任の所在」をめぐって。

「きっと売れそう」という言葉に潜む脆弱さ

 先日、僕の仲間の一人が某深夜バラエティ番組に出た。

 日夜彼が生活、制作を行っている共同アトリエを取材する、というのが番組のメイン企画だったようだが 、仲間であるその彼はといえば「作家とは清貧であるべき」を地でいく男だ。作家というキャラクターを追い求めているのであろうか、それとも「あるべき作家像」へのミメーシスが彼の活動のバイタリティになっているのであろうか。彼のそうした「こだわり」は、たとえば彼が普段から作務衣を着ていること、常におかっぱ頭にしていることなどからも、その一端が窺える。インナー1枚にロングコート、スキニーパンツにブーツという外出時のいでたちは、おかっぱ頭と相まったとき、遠目にも分かりやすく奇抜で、キャラ立ちしている。そして、その姿はマスメディアのフレームに切り取られたとき、「THE作家」というメディア受けが最高に良さそうなフォルムとなった。

 そんな彼は金属を媒体とする作家である。もちろん彼の作品自体は僕も好きであり、そこに一切の含みはない。何なら僕と彼、そしてもう一人の仲間の作家の計3人で、この夏にグループショーを行う予定もある。その後も様々な企画を共に出来ればと思っている関係でもあり、だからこそ今回、話の枕に彼の話を書かせてもらっている。

 実は彼が出演したというバラエティ番組は僕が暮らしている大阪府ではいまだ放映されていない。しかし都内での放映日時は把握していたので、世間の目には彼がどの様に映ったのか、放送日になんの気なしにTwitterにて確認してみた。さすがはテレビメディア、すぐに大量の反応が引っかかる。どこぞの辺境ウェブメディアとは大違いだ。

 数多あった放送関連のツイートの中でまず目立って散見されたのは、「カッコいい」というワードだった。これは良しとしよう。そのほかにも一定件数が投稿されていた言葉がいくつかあったが、その中でも僕がもっとも違和感を覚えたのは「きっと売れそう」「売れると思う」という言葉だった。

 僕の仲間である彼が売れっ子のスターダムに伸し上がる。これは手放しで喜べることだ。身近にいる作家仲間としては張り合いも生まれるし、売れるということは多くの人に作品が認知されるということでもあり、それは当然、彼本人にとっても、ある程度の幸せを感じられることだろう。

 彼は「湯水の様に飛んでいく材料費。しかし這ってでも前へだ!」なんてことを日常的に口にするような熱血漢アピールの強い男であり、またその言葉の通りに絶えず貧してもいる。今回の放送で、もし多少なりとも売れっ子への道が開けたとすれば、制作における費用と生活費の工面にストレスを感じなくて済むようになるわけであり、それはそれで、シンプルに良いことだと思う。

 ただ、僕にはどうしても気になってしまうのだ。 放送後、日本中各地でつぶやかれた「きっと売れそう」という言い回しが。その言葉に潜む主体性の薄弱さが。

 というのも、「きっと売れそう」という言葉を換言するならば、それは「カッコいいとは思うけど自分は買わない(買えない)」、 もしくは「こういうのが好きな人が世の中にはきっと多くいるんでしょうね(自分は違う)」ということだろう。もし、作品にシンプルに魅かれたなら、その際に抱く思いは「作品が欲しい」か「展示を見たい」かのどちらか、または両方だ。その作家が「売れる」か「売れない」かは、その際、関係ないはずだ。

 要するに、「きっと売れそう」と語る主体は、自分が良いと思うものを良いと言いきること、そして、それを他者に表明することによって生じる責任を回避しているのだ。もしくは、それが良いかどうかを判断する際に、自分以外の誰かの目を通すことで、巧妙に「自分の意思」を隠蔽しているのだ。「売れそう」という表現においては、当の自分自身における「好きか嫌いか」の判断が棚上げされる。これは関係を持つ気のない異性に対して発される「モテそう」という言葉にも似ているだろう。すると当然、受けた側の返す言葉も「そんな気がないなら無責任なことは言うな」に統一したくなるってものだ。

 こうした意思の脆弱さを感じる表現が僕は嫌いだ。時事ネタで言うと新型コロナウイルスの件にしたって東京オリンピックの件にしたってそうだろう。まず目指されることは責任の分散であり、そのために全ての表現が抽象化していく。僕は新自由主義的な「自己責任」論にはまったく同意しないが、一方で、 昨今のそうした責任の所在をどこまでも曖昧にしていくノリにも大反対だ。全ての責任は我にこそあり。だからこそ、僕は僕自身の身体や皮膚という素材を、制作のモチーフとし続けているとも言える。僕の作品がもたらす帰結、そして、その責任の所在は、紛れもなく僕の身体にこそあるということを自覚し続けるために。

 

僕は保護されるべき無垢な被害者ではない

 責任の所在をめぐって、同じことではあるが、逆の観点から苛立つケースもある。つまり、自分自身の主体としての責任を回避するにとどまらず、自分以外の他者の責任をも勝手に免罪し、主体性を上から剥奪するというケースだ。実際、より厄介なのはこちらのケースかもしれない。なんせ、その剥奪は多くの場合、善意によって行われているかもしれないのだから。

 たとえば先日、僕が自信を持って、僕自身の責任のもとに取り組んでいたある事について、勝手な視座で捉えられた挙句、あたかも僕が被害者かのようなレッテルを貼られてしまう、ということがあった。僕は当然、これに非常に腹が立った。

 具体的な内容としては、僕が昨年末、個展を開かせて頂いたギャラリーに対する悪口をとある方が言っていたのだ。その方は「日本におけるアートという業界」では少なからず名前の通った方で、その彼曰く、そのギャラリーは自分で目利きをすることもなく、作家を育てることもなく、バリューのある若手の有名どころを引っ張って来て展示をさせているだけであり、作品にも作家にも敬愛が感じられない。だから、作家は消費されないよう、巻き込まれないように自衛を! ということだった。

 

撮影:松尾宇人

 

 正直、僕からすると「ふざけるなよ」である。彼の言い方では、そのギャラリーで展示した僕は、無垢な被害者である。あるいは、自分を消費したいだけの人間にそうと気付かずに踊らされ、やすやすと作品展示を行った、かわいそうな若手である。少なくとも、彼の物言いでは、そのような存在として、僕は世間に見られてしまう。なんて失礼な話なのだろうと思う。

 これは、たとえるならば、本人の意思を度外視して「●●の仕事をしてるだなんて、あの人は可哀想。救ってあげなければ」と勝手なことを外野から言っているのと同じことだろう。 その●●の仕事は、本人にとっては誇りを持って取り組んでいる「天職」かもしれないのに、だ。

 もしかすると「責任を持たない我々」というものが、もはや、あまりに当たり前の共通前提になっているのだろうか。すると、これはある種の社会的病理であって、彼自身もまたその被害者として、そうした失礼な発言に関しても責任を持たないということだろうか。いやいや、そんなわけないだろう。

 彼の発言の意図については正直よく分からない。彼の基準で「よくない」ギャラリーから若いアーティストを守りたかったのか、あるいは、リテラシーのある自分を演出する出汁として僕らの様な作家を使っただけなのか。別にどちらでもいい。善意であれ、悪意であれ、結果として、僕らは強制的に被害者として位置付けられ、それを指摘した彼は自動的に僕らを保護する存在として位置付けられた。その態度は僕からすれば、ミュンヒハウゼン症候群と変わらぬもので、 少なくとも非常に気分が悪いことだった。

 僕はそのギャラリーで展示したことによる恩恵を感じているし、展示に関しても自分の意思で判断し、決定した。もちろん、「巻き込まれた」なんてつもりもない。僕とギャラリー、そしてキュレーターの3者。当然各々の思惑はあっただろうが、その交点において共犯関係を作れたからこそ、僕は個展を開催するに至ったのだ。そして、その個展を多くの人が観に来てくれた。彼の発言は、そのギャラリーで僕の作品を良いと言って下さった方々に対しても無礼である。

 僕についてと同様に、僕は僕の仲間、身内に対しての失礼を決して許せない。 その仲間たちは僕にとって、すでに約1.7㎡の皮膚内の人たちだからだ。

 彼に言うべきこととしては、批判そのものが問題なのではない、ということだ。なぜ、あのような書き方がなされたのか。なぜ、出展アーティストが、訪れた観客が、ある選択のもとにそれを行なった“共犯者”ではないという前提に立っているのか。あらためて、考えてみてほしいと思う。

 

撮影:松尾宇人

 

「そこ」に至れているかどうか

 自分の発言や行動に責任を持つということは簡単だと思う。

 しかし「責任を持つ」とは一体どういうことなのかと、その本質へと思考を巡らせていくと、これは禅問答のようで難しい。とくに、今回、僕に降りかかったことのように、当事者以外の登場人物が増えることで、物事を多角的に見る必要が生まれ、難しさのハードルは上がる。

 ただ、少なくとも僕は僕自身に責任を持っている自覚があり、またそのことに自信を持っている。なぜなら、僕は“至っている”からだ。

 要するに、僕は僕の身体に100点の自信を持っているし、もし満たされないところがあれば満たそうとする。この世の全ての判断軸は「そこ」に自身が至れたか、至れなかったか、だけだと思う。

 人や物事のせいにするのは簡単だ。しかし何かのせいにしてしまった途端、本当の意味での「責任」の所在が不透明になる。ある不都合に対して「○○が悪い」「○○に巻き込まれたくない」と考えることは、問題の原因を見定め、物事をクリアにしているかのように見えて、実はその問題に蓋をしているだけなのだ。

 至れなかった、と受け止めることができる人間は、それを受け止めるほどに至れている。 では至れなかったことを受け止めることができない程度に至れていない人は、そこから至るためにはどうすればいいのか。

 おそらく、これ以上ないというほどに自分の最大出力量を発揮し、一点の曇りなくやりきったと思えるまでやることだろう。 とにかく思考し、思考したならば、行動することだろう。安直なようだが、それ以外に思い浮かばない。

 刺青にせよ、ピアスにせよ、僕は常に、僕がチョイスし続けているその全てを最高だと思い続けている。 そう思い続けられるために僕自身、色々と考え、行動している。 僕を信じ、僕の行為の責任を取ることができるのは僕だけしかいないのだ。 それを勝手な視座から、憐れみのまなざしでもって、不幸のレッテルを貼りつけてくるようなことだけは御免蒙る。文句があるなら、僕を批判すればいい。そのギャラリーは間違っている、そのギャラリーに出品してる奴も間違っている、と対等な立場から攻撃してくれればいい。

 僕は自分の意思とは別に何かに巻き込まれたことなどこれまでに一度だってないのだから。

 

撮影:松尾宇人

 

 

 

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas