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ケロッピー前田 『クレイジーカルチャー最前線』 #14 独立独歩の人類学者・鳥居龍蔵と明かされざる弥生時代のタトゥー

驚異のカウンターカルチャー=身体改造の最前線を追い続ける男・ケロッピー前田が案内する未来ヴィジョン。現実を凝視し、その向こう側まで覗き込め。未来はあなたの心の中にある。

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小学校を中退し独学で東大助教授になった男

 拙著『縄文時代にタトゥーはあったのか』(国書刊行会)において、その議論の出発点となったのは、1969年に出版された考古学者・高山純『縄文人の入墨』(講談社刊)であった。また、『魏志倭人伝』(紀元3世紀)に「黥面文身(顔面や身体のタトゥー)」という表記が残されていたことも日本の古代にタトゥーが存在した証拠として、専門家の間で長く議論されてきた。

 

高山純『縄文人の入墨』

 

 前回ご紹介した文字学の大家・白川静 (1910-2006)よりも40年早く生まれ、戦前に台湾・西南中国・朝鮮半島・旧満州・モンゴル・東部シベリア・樺太・千島列島、南米など、広範囲に調査して日本人の起源を探求した学者に鳥居龍蔵(1870-1953)がいる。

 鳥居は裕福な家庭に生まれ、学校教育に馴染めなかったため、独学で人類学や民俗学を学び、当時、東大人類学教室主任だった坪井正五郎との出会いから、その標本整理係となり、のちに東大助教授になった。現地調査や発掘、漢文やフランス語などの語学も堪能で、日本政府から要望されたアジア各地の調査にも派遣されている。

 そんな鳥居もまた、縄文時代におけるタトゥー議論において、多くのヒントを与えてくれている。多岐に渡る業績のなかでも、最も重要な著書に、大正7年(1918年)に出版され、ベストセラーとなった『有史以前の日本』(磯部甲陽堂/全集1巻所蔵・朝日新聞社、1975年)がある。

 

『有史以前の日本』鳥居龍蔵

 

 その本が出版された頃、鳥居は1913年に急死した恩師・坪井正五郎のあとを継ぎ、東京大学人類学教室主任の立場にあった。

 ところで、1918年といえば、スペイン風邪のパンデミックが起こり、その後の数年で世界中で5000万人から1億人が亡くなったと言われる。そのことが原因で第一次世界大戦が終結したほどであり、この本の執筆後、10年間はシベリア調査(1919年、1921年)、山東省(1926年)を除いて、海外調査が極端に少なくなっている。現在、コロナ禍にある我々からすれば、それがどのような状況だったか想像できなくもない。その代わり、この時期、鳥居は日本国内の調査に熱心で、大陸の古代史と日本の関係性を深く掘り下げている。

 

鳥居龍蔵(1870-1953) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E9%BE%8D%E8%94%B5

 

「弥生」という時代区分の発見

 鳥居の著書『有史以前の日本』には、重要なポイントは3つある。

 まず第一に、のちに「弥生時代」と呼ばれる時代区分を先取りしたことである。鳥居は「弥生式土器(当初は縄文土器の一種と考えられた)」を作った人たちは、縄文土器を作った人たちよりあとに大陸から渡来した別の集団だろうと指摘した。当時、縄文・弥生といった時代区分は存在せず、石器時代と総称されていた。「弥生式土器」は、坪井正五郎らが1884年に本郷弥生町で発見し、その名が付けられたが、縄文土器と比較してあまりにも簡素な作りで「中間土器」とも呼ばれた。それに対して、鳥居は「畿内の石器時代」について、自ら調査に赴き、石器とともに「弥生式土器」に類似した土器をいくつも発掘している。

 一方、「我が国の銅鐸は何民族が残した物か」と問い、銅鐸の表面に刻まれた図画から農耕を行っていたことを確認するとともに、音を鳴らす祭具として中国の銅鼓との類似点にも着目し、大陸文化の影響から生まれたものであるとした。ちなみに、弥生時代が農耕文化の時代としてはっきり認識されるのは、大戦後の1947年、登呂遺跡から水田や井戸の痕跡が見つかってからである(拙著85ページ、山田康弘『つくられた縄文時代』55ページ)。鳥居は、晩年の自伝『ある老学徒の手記』(1952年)において、「弥生式土器の問題は、これによって解釈せられ、(中略)何人もこれを中間土器などと疑うものがいなくなったのは実に大正6年のことであることを記録されたい」と書いている。彼こそが「弥生時代」発見の先駆であることは間違いないだろう。

 

『ある老学徒の手記』鳥居龍蔵

 

 

旧石器時代人の正体をめぐる二つの説

 第二のポイントは、縄文土器の発見者であるエドワード・モースから続く、日本人の起源についての論争を整理し、ひとまずの決着をつけたことにある。事の起こりは、明治10年(1877年)、モースが大森貝塚から縄目の文様がある「縄文土器(cord marked pottery)」を発見したことから始まる。彼は、土器の破片や動物の骨に混ざって、破損した人骨が発見されたことから、石器時代人は食人していたと考えた(拙著38ページ)。しかし、アイヌ民族は食人しないことから、石器土器人はアイヌ以前の先住民(プレアイヌ)であるとした。

 ちなみに、貝塚は、現在では再生の場と考えられることが一般的で、貝や動物のお墓であり、人骨を埋葬することでその人の再生や新しい生命の誕生を願っていると考えられている(拙著58ページ)。

 さらに鳥居の恩師・坪井は、モースの考えを引き継ぎつつ、プレアイヌでは具体的でないので、アイヌ民族の伝承にあるコロボックルが失われた先住民であるとした。これがコロボックル説である。

 これに対して、縄文土器を作ったのはアイヌの祖先であると考えたのが解剖学者・小金井良精や植物病理学者・白井光太郎らで、こちらはアイヌ説と言われた。石器時代人をめぐって、コロボックル説とアイヌ説の激しい論争が巻き起こったのである。

 1899年、鳥居は坪井の令を受けて千島列島に赴き、アイヌによって北海道を追われ、千島に渡ったコロボックルが残したとされる竪穴を調査している。その結果は、コロボックルは存在せず、竪穴は千島アイヌの祖先が残したものというものだった。恩師の学説を覆すことも異例だが、鳥居はアイヌ説を支持するとともに、弥生式土器を作った人たちが我々の祖先であるという「固有日本人論」を提唱した。

 ちなみに、現在でも弥生人が大陸から渡来して現在の日本人となり、縄文人は南北に逃げて、アイヌや琉球になったというイメージを持っている人たちがいる。だが、鳥居が「固有日本人論」を唱えた時代に、長谷部言人や清野謙次が形質人類学的な調査に基づき、石器時代人と現代の日本人の頭蓋骨は形質的に連続することが示され、「石器時代人=アイヌ」説は科学的に否定された。それでも、形質人類学的な調査だけでは、弥生式土器の謎は解けなかっただろう。

 

弥生タトゥーは中国発祥の龍子のタトゥーだった

 そして、第三は、当時、人類学と考古学が未分化である状況にあって、前述した通り、主流であった人骨や生体計測などの自然科学的な手法に基づく形質人類学に対して、鳥居は遺跡や遺物を調査記録する考古学的手法を重視したことである。

 ところで、拙著で紹介している雑誌『ドルメン』は、鳥居の教え子で出版社・岡書院を営んでいた岡茂雄が創刊したものである。この雑誌は学会誌とは違うスタンスで人類学、民俗学、民俗学、考古学を横断した学際的な雑誌で、昭和7年(1932年)発行の「刺青特集号」には、やはり鳥居の教え子・甲野勇の「日本の石器時代に文身の風習があったろうか」が掲載されている。その論文では、土偶の顔面にみられる文様は文身(タトゥー)ではないかという問題が検証されている。甲野は縄文時代にタトゥーがあったと断定することは避けたものの、土偶は縄文時代のタトゥー論争における重要なトピックスとなった。それこそが拙著の重要文献である高山純『縄文人の入墨』の中心的なテーマであった(拙著21ページ~)。

 

『ドルメン』(刺青特集号/1932年)

 

 再び、鳥居の著書『有史以前の日本』に戻るなら、そこにはズバリ「倭人の文身」という項目がある。鳥居は『魏志倭人伝』を漢文として丹念に読み込み、「黥面文身とは当時の中国に存在した「龍子」の文様ではなかったと記している。確かに『魏志倭人伝』が書かれた3世紀は、弥生時代の末期に当たる。それでも、縄文時代から続く文身の習俗は弥生時代になっても残っていたと考えられてきた。だが、鳥居が解釈する「倭人の文身」によれば、縄文時代とは異なる図柄のタトゥーを施す人たちがいたことになる。鳥居の考察を引き継いだ研究者に大林太良と国分直一がいる。大林は縄文タトゥー(文身他界観系列)と中国発祥の龍子のタトゥー(龍文身系列)との2つの系統があるという。国分は2つの系統という考えを踏襲しつつも、明確に2分できず、両者は混在したのではないかとした(拙著37ページ、吉岡郁夫『いれずみ(文身)の人類学』247ページ~)。

 『魏志倭人伝』の「黥面文身」が具体的にどのようなタトゥーであったのかは、すぐに答えが出せる問題ではない。

 それでも、この議論の出発点が鳥居龍蔵にあるならば、今から100年前、まだ近代文明とは無縁であったアジア各地を馬や徒歩で探索し調査記録し、収集した膨大な資料の価値は衰えることはないだろう。

 拙著の目的も、タトゥーを通じて日本人の起源を探ることであり、鳥居の著作に触れることで、日本の古代のタトゥーを非常にスケール感のあるものとして捉えることができるのである。

 

【EVENT】

6月11日(木) @阿佐ヶ谷ロフトA

『縄文時代にタトゥーはあったのか』

発売記念スペシャル座談会

19:00 – 22:00

有料ネット配信2000円

https://www.loft-prj.co.jp/schedule/broadcast/146685

 

【出演】

ケロッピー前田(身体改造ジャーナリスト)

大島托(タトゥーアーティスト)

望月昭秀(縄文ZINE)

川崎美穂(元TATTOO BURST編集長)

辻陽介(HagaZine)

 

【INFORMATION】

ケロッピー前田『縄文時代にタトゥーはあったのか』

大島托(縄文タトゥー作品)

国書刊行会 2020年3月19日発売

 

本体価格2400円(定価2640円)https://amzn.to/38OTAfb

 

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PROFILE

ケロッピー前田 1965年、東京都生まれ。千葉大学工学部卒、白夜書房(のちにコアマガジン)を経てフリーに。世界のカウンターカルチャーを現場レポート、若者向けカルチャー誌『BURST』(白夜書房/コアマガジン)などで活躍し、海外の身体改造の最前線を日本に紹介してきた。その活動はTBS人気番組「クレイジージャーニー」で取り上げられ話題となる。著書に『CRAZY TRIP 今を生き抜くための”最果て”世界の旅』(三才ブックス)や、本名の前田亮一名義による『今を生き抜くための70年代オカルト』(光文社新書)など。新著の自叙伝的世界紀行『クレイジーカルチャー紀行』(KADOKAWA)が2019年2月22日発売! https://amzn.to/2t1lpxU