大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #19「女」と「タトゥー」と「男」たち・前編
タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。20世紀後半のタトゥーブームを牽引したのは主に「男」たちだった。しかし、今、タトゥー業界は「女」たちによって牽引されつつある。
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気がつくといつの間にやらそうなっていた。
いや、女だらけになっていたのだ。
どこがって、うちのスタジオがだ。
いや、うちだけじゃない。世界中のタトゥースタジオがだ。
というかこれはそもそも世界中のクライアントたちがだ、というべきだろうか。
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20世紀末のタトゥーブームを牽引した男たち
僕がタトゥーを始めた頃は男ばかりだった。90年代半ばのゴアにはプロから趣味のアマチュアレベルまで、ワンシーズンに30人ぐらいのタトゥーイストが出入りしていたが、女は1人か2人とかそんなものだった。パーティーフリークの聖地であり、当時世界の最先端の文化の噴火口の一つであったであろう彼の地でもほんのその程度だったのだ。
欧米の船乗りや兵隊が育んだアメリカントラディショナル、江戸時代に始まる日本の和彫り、何百年も続くタイのサクヤンやサモアのペア。現代タトゥーが本格的にブレイクし始める80年代より前から現代まで脈々と行われていたこれらのタトゥー文化も、そのほぼすべては男達の手によって作り出されていた。
そう、タトゥーイストだけではなくクライアントたちもということだ。
男達、とは言ったが、それは必ずしも社会の一般的な男性全体を指しているわけではないことは分かるだろう。それは権力や法の支配に対して反抗的な人達だ。いわゆる不良の男どもだ。サクヤンはちょっと違うか。支配層の価値観とは距離があるとは言っても敬虔な仏教徒の証なわけだから。
日本社会はタトゥーとヤクザをイメージ的に直結させていて世界の価値観から遅れてる、などと僕ら日本のプロやファンは一応言ってはいるけれど、これは実はまあかなり眉唾物の言説だ。世界的に見て、タトゥーイストやクライアントに前科者や現役の犯罪者なんて珍しくもなんともない。
が、言っている手前、補足するとすれば、統計的相関関係と、科学的因果関係や論理的帰結は必ずしも同調するわけではない。
平たく言うならば、犯罪を行う者は犯罪者だが、犯罪者の行いの全てが犯罪というわけじゃないのだ。
とにかく近代国家によって否定されたタトゥーという行為を再び世に蘇らせたり存続させたりするには、それだけの蛮勇とも取れるような腕力や度胸が不可欠だったということだ。
そんな世界的なタトゥー流行の始まりからおよそ30年経った2011年の3月11日、新大久保の駅前の文化通り沿いにあった旧スタジオで施術していると、突然下から突き上げるような地震に見舞われた。とっさに僕は本棚を支えるべく走っていた。これが接客スペースの大きなグラステーブルに直撃したら酷いことになると感じたからだ。が、同時に水槽とテレビも相当にマズい状況だった。あいにく相方の彫あいは休暇で留守だった。
水しぶきで長いドレッドをびしょ濡れにしながらもなんとかそれらを押さえたのはその時に彫られていたクライアントだった。
本震が収まってから外に出てみると、ビルのオーナーの奥さんが地面に突っ伏して泣き崩れていた。右隣の部屋を待機所にしてるデリヘル嬢達や、左隣の闇金の社長、上の階のタコ部屋に泊まっている日雇い労働者達も、みんな下に降りて来て、上を見上げていた。ビル四階から他のビルに向かって取って付けたように伸びる、明らかな建築基準法違反の「渡り廊下」の外壁がヒビだらけだった。部屋の中で本棚にしがみ付いている場合ではなかったのかもしれない。
街の機能は麻痺し、電車も無くなり、ケータイも通じない。巨大な津波が東北の街々を呑み込んで原発がメルトダウンしていたようだが、実際どうしようもない。
だからそのドレッドのお客さんを誘って近所の焼肉屋でガンガン呑みまくった。そしていったいどんな話の成り行きだったのかはよく覚えてはいないが、彼、カケハシ君は僕の弟子になっていた。
ちなみに休暇中の相方の彫あいはこの日に今のカミさんと付き合い始めたという。
こういうのを心理学では「吊り橋効果」というのだろう。危機的状況を共有する者同士は相手が現実よりも魅力的に見えてしまうという例のやつだ。
今にして思えば、この心理的トリックがなければカケハシ君の前の00年代終わり頃の人たちが僕の最後の男の弟子になるところだったのかもしれない。
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タトゥー業界への「女」の参入を妨げていたもの
一応、タトゥーを含む日本の職人業界の一般的な用語として「弟子」というワードを使ったが、見習い、生徒、店員、スタッフ、アシスタント、とか別に呼び方は何でもいい。要は僕がタトゥーの技術を指導した人達なわけだが、これは今までにざっくり20人以上はいる。
ヒッピー時代は遊びの一環として多くの友人達に基礎を手ほどきした。僕自身も多くのタトゥーイストの友人達からいろいろな技術をそれぞれバラバラに学んできたし、それがいたって普通のことだった。だいたいヒッピーのやっていることにはプロとか遊びとかの境界線はないのだ。そこらの公園のスケボー少年たちみたいなノリだ。こういうのをいちいちカウントするならば弟子は軽く30人を超えてるかもしれないが、なにぶん朦朧としていた時期のことなのでよく覚えていない。
本や雑誌の情報によっては、僕の師匠はスイス人のラブー・ローランドとなっていることもあるのだが、正確には、ラブーはどこで道具を買ったらいいかを教えてくれた友人だ。プロ同士の紹介が入会必須条項の会員制のサプライヤーに、プロどころかまだアマチュアですらもない僕を紹介してくれたのはありがたいことではあったけれど、かなりテキトーだ。その道具をどうやってセットアップするかとか、針の作り方とかはまたそれぞれ別の人たちから教わっている。でもまあ、開いた口がふさがらないほどフリーキーなヒッピーだったラブーは、いろんなヒドい遊びの師匠であったことは間違いない。00年代に、ブッ飛んだ状態でどこかの2階か3階の窓から転落して腕を壊してからはしばらく引退していたらしいが、最近スイスのローザンヌで彼がまた復帰しているという噂を聞いた。せめてこれからは平屋でブッ飛んでくれと願うばかりだ。
オンザロードとして各地を転々と流れていた時期も、ネパールやカンボジア、ラオスなど発展途上国の多くではタトゥーマシンを使った現代タトゥー自体がかなり物珍しかったというのがあり、興味津々な地元の若者たちに請われて、彫りながら技術体系を解説したりすることはよくあった。みんな絵の素養なんてカケラもないような悪ガキどもで、シンナーとか、コデインのたっぷり入った咳止めシロップの中毒だったりしたのだが、彼らのうちの幾人かはその後プロにまでなったと思う。当時それらの地域でタトゥーイストになるのに差し当たって必要な才能は、社会の大半からの罰当たりなど意にも介さない面の皮と、クソみたいな粗悪マシンを嬉々としてチューニングし続ける機械フェティシズムだったわけだから。
そして端的に言ってそういう要素が、デザインセンスは素晴らしいけれど、良識のある男や、機械いじりが苦手な女の参入を妨げてもいたのだと思う。
このアンフェアな世界でキングフィッシャービールを
余談になるのだが、僕は経済的に恵まれた日本でほんのちょびっとだけバイトして作った金で世界へ旅に出た。そしてアジアの貧しさを目の当たりにした。インドの下層階級は特に酷かった。そしてそのインド人達にこき使われるネパール人達の暮らしはさらに苛酷だった。
行きつけの飯屋で働いていた、僕と同年代のネパール人やラダック人、シッキム人などと知り合いになり、顔つきやノリがわりと近いような感じもあり、パーティーで合流したり身の上話や先々の展望などを語り合うにつれ、まったくフェアじゃないな、と感じた。何者でもない若僧がたまたまそこで生まれたというだけの分際で、日本という経済大国で楽々と稼いだ金で旅をして、巨大な経済格差下にあるこの貧乏国で貴族のようにふんぞりかえって、彼らの月収にも匹敵するような価格のフルサイズのタンドリーチキンを食い散らかしている現実がだ。
だから僕は現地で働き出した。いや、実際はいちいち帰るのが面倒くさいからなのだが、そういう言い方も出来る、ぐらいにしておく。とにかく、いろいろ知恵を絞った結果として、やがて同じ飯屋で同じメニューをオーダーできるような体制を整えていった。そしてなおかつフェアじゃないと感じた。僕には知恵があって、それは育った環境によるものだからだ。学校も満足に行けず子供の頃から働き詰めだった彼らとの差は根本的に大きい。が、すでに備わっている知恵を無きものにすることは出来ない。これじゃガチンコで勝負を楽しめないだろ、と思って悩んだ。やるなコイツ、とかそんなふうに仲間をリスペクトしたかったのだ、当時の若かった僕は。以来、頭の中でシュミレーションするのが癖になっていった。
もしも自分がネパールの寒村で生まれ、口減らしとして幼児期にカトマンズの路上に捨てられていたとしたら、今現在の自分のように左手にキングフィッシャービール、右手にフルサイズのタンドリーチキンをわしづかみにしてマンガの海賊のように飲み食い出来るようになれるのか。
他のツーリスト達の在り方を否定しているわけじゃない。誰も別にそんな勝負なんかしてないだろうし、これは僕だけのゲームだ。むしろ世界に冠たる精神大陸であるインドで8年もの間、そんな低レベルのシノギと高カロリーのメシのことばかり考え続けていたなんてのはお笑い種そのものだろう。それは、観念的過ぎて生きることも死ぬことものっぴきならなかった頃の不安の反動だったのかもしれない。
僕が貧乏なローカルの悪ガキどもに気前良く手の内を明かして回っていたのは、地域に素早く浸透する手段だったと同時に、時間をかけて頭の中で編み出した成功パターンのシュミレーションの実践でもあった。
それは可能である。
僕はやっとそう確信してからインドを後にした。
どこからかブラっと流れて来た異邦人がその地域の何かの始まりだったというのはよく聞く話だ。
次回は東京に帰ってからのことを書いてみようと思う。
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