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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #12 ハイヒールを身体化すること──地面は凹凸に満ちている

タトゥー、身体改造、ボディビル、異性装……絶えざる変容の動態に生きるオイルペインター亜鶴の、数奇なるスキンヒストリー。第十二回は「ハイヒール」について。点で感じる地面を通じた世界観の再構築。

ハイヒールへの欲望

 もう昨年の話になってしまうのだが、僕はハイヒールデビューをした。

 実は以前、この話をnote(というSNS)に投稿したことがあるのだが、ありがたいことに反響はとても大きかった。そこで、この連載でもあらためて書いてみたいと思う。noteの方は現在も公開中なので、同じことを書いても仕方ない。あれからそれなりに時間も経ったので、今感じていることをまとめよう。

 ハイヒールとは女性的なアイテムだという認識が世間一般にはあると思う。 そのためか、世間では#Kutooのように、ジェンダー化された「ヒール」をめぐって社会運動なども起こっている。ハイヒールという1つのアイテムから広がる世界はとてつもなく広く大きいが、そうしたハイヒールをめぐって起こっている語りには、芯を食っていると思えるものもあるとはいえ、多くが表層的な語りに終始してしまっているようにも思う。それゆえ、結果としては何も生まず、理解を深めあうに至らない場合が多いように思う。

 そもそも、この世には「気にしないといけない」とされてしまっている事があまりにも多すぎる。明文化されていない、暗黙のルールのようなものが実に多い。本来、至れたか至れなかったのかの二つしかないと考える僕は、基本的にこうした「気にしないといけない」とされてしまっている事からは距離をとって生きている。ハイヒールデビューをしたのも、その一環だ。僕は何かに至ろうとしてハイヒールに手を出した。

 とはいえ、ハイヒールデビューすることで何に至りたかったのかは自分でもよく分からない。なので、ここでは少なくとも自分自身の感覚で「至れた」と思うことについて話したい。

 

31センチメートルのハイヒール

 まず前提として、僕にとってハイヒールとはずっとカッコいいアイテムでしかなかったのだ。

 僕の足は幼少期から人一倍大きい。現在、スニーカーのサイズは31cmだ。 小学生の頃は、制定の上履きに足が入らなかったため、僕だけエアジョーダンを履いていた。 そして以前コラムにも書いた事があるが、柔道に打ち込んだ結果、足の靭帯を何本か切ってしまったことがあり、その後遺症というか、今でこそだいぶマシになったとは思うが、歩き方が少しひょこひょこしていると言われたことがある。

 そういったことが原因だろうか。僕は足に対する執着が人よりやや強い。そんな僕がハイヒールに手を出したきっかけは単純なものだった。クラブに出入りしていた頃、僕の視界には日常的にドラァグ、フェティッシュに身を包んだ人達がいて、若き日の僕の目には、彼らの姿が自信に満ち溢れたものとして映っていた。その人たちが足元に纏っていたもの、それはほとんど必ずといっていいくらいにハイヒールであったのだ。

 ある日、ファッション業界に身を置いていた知人に「亜鶴くん、次はハイヒールなんて良いんじゃない?」だなんてことを話の流れで言われた。彼もまた僕が実体験型の人間であることをよく熟知している。その瞬間、ヒールを履く自身の姿が目に浮かんだ。きっとカッコいい。

 たださっきも書いた通り、僕の足は大きい。スニーカーを買うにしても苦労するのだ。それなのに、僕の足のサイズに合うハイヒールなんて売っているのだろうかと思い、まず周囲のヒール族にリサーチをかけてみることにした。

 はっきり言ってヒールについての知識はゼロだった。どういった形のものが歩きやすいのか。そもそもヒールにはどんな形状、種類があって、それはどれくらい多様なものなのか。一切知らなかった。ハイヒールという存在自体に、僕は至っていなかったのだ。

 果たしてサイズは合った。餅は餅屋と、周囲のヒール族のアドバイスを受けた結果、僕はキンキンの18cmのピンヒールを購入した。

 初手なのでローヒールやパンプスタイプを勧められたりもしたのだが、どうせトライするのであれば巨大な壁にぶつかりたい。巨大な壁を見上げた時にこそ、人は壁自体の存在をしっかりと知覚することが出来る。なんなく乗り越えてしまえる程度のことは、わざわざ時間もコストも割いてトライする必要はないだろう。それならイメージの範疇で収められるし、すでに至っているのだから。

 海外のネット通販でヒールを購入して届くまでの2週間の間、YOUTUBEなどで「Highheels How to walk」などで動画検索し、歩き方を調べてみたり、普段の自身の服装とヒールをどう組み合わせようかと考えていた。

 

 

 当時の恋人のヒールにこっそり足を通してみたりもした。当然入らなかったわけだが自身のセクシュアリティがにわかに波立つのを感じ、深夜一人で自身の欲望に身を浸して喜ぶキッズの気持ちが分かったような気もした。

 ステロイドを投与してまで身体を鍛えていることからも分かるように、僕はいわゆる男性性への強い執着がある。雄弁であるよりも寡黙な、いわゆる背中で多くを語るような「漢」と書かれるタイプの「男」像に、僕は強い憧れを抱いてきた。だからこそ、せっかくヒールに挑戦するのであればしかとそれを履きこなし、綺麗に歩きたい。街中で時たま見かけるような、重心が低く落ち、ヒールを履きこなすどころかヒールに身体をコントロールされてしまっているような、無様な姿は見せたくなかった。ただ、今思えば、その時の僕はヒールに関して、見た目の問題にしか興味が向いていなかったのだ。

 ちなみに、僕のハイヒールへの挑戦宣言を、周囲の女性たちは漏れなく喜んでくれた。そして頑張って歩けるようになったら一緒に買い物に行こうと多くの女性に言われた。逆に困惑を示していたのは男性陣だった。これは面白い現象だなと思う。きっと周囲の女性陣はヒールにすでに至っていたから「お手並み拝見」といったところもあったのだろう。

 

地面を3Dで捉える体験

 さて、いざ現物が届き、実際にハイヒールを履いて街を歩くにあたって生じた、様々な知覚の変容についてを記していこう。

 

 

 まず、巷には女性専用車両を女性特権や特待だという論調もあったりするが、実は女性専用車両の必要性を訴える当事者からすれば、別段、男性を絶対悪として規定しているわけではなく、これはどうしようもない、しかたのない話なのだということが分かった。

 というのも、初めてヒールで外出した時、僕のミスで愛犬の散歩がてら出てしまったこともあり、 思っていた以上にフラついてしまったのだ。いつにも増して言うことを聞かず縦横無尽に駆け巡る愛犬を見つつ、ため息が出たのを覚えている。

 そして、その時に思ったことは、万一、屈強な何かが僕にそのタイミングでタックルして来たなら身体を許す他に為す術がないなということだった。慣れていないこともあっただろうが、ヒールを履いただけで、生物としては圧倒的に、少なくとも物理的には弱者になってしまったのだ。これは自分より身体の大きな存在と密空間を共にする上では大きなハンディキャップだろう。

 しかし、あえて動物としては倒錯的な、運動に不便な格好をすることで得られる強さもあるのだ。 だからきっとハイヒールを履きこなし街を悠然と闊歩する女性、あるいはダンスを華麗に踊る女性などがカッコよく見えるのだろう。そうした、ハンディをものともしない逞しさを連想させることから、ハイヒールは戦う強い女性のアイテムとして周知されているのかもしれない。

 それにしても、ハイヒールの体験は鮮烈だった。デビューの初日から早速、より深く身体にアクセスするための扉が開いたように感じた。 なんせ生まれてこの30年弱、スニーカーユーザーとして地面を2Dの面としてしか捉えたことがなかったのだ。ヒールを履いて外を歩いた瞬間に、それは一変した。アスファルトのミリ単位の凹凸、側溝など、地面の隆起の全てを、ハイヒールにおいては点で捉えることとなるのだ。僕は初めて地面が3Dであることを思い知った。物事へのフォーカスの尺度や前提が大きく覆され、どこか価値観が再構築されたような気分さえあった。

 

 

 また筋肉の動かし方についても深く考えさせられた。ふくらはぎや、ハムストリングスは分かりやすく収縮した状態になる。それはスニーカーでの歩行における筋肉の動かし方とは大きく異なる。当然、歩き方が変われば風景も変わる。当初はヒールを履くことによる自分の見た目の問題にしか至っていなかったのだが、実際にそれを履いて街に出たことですぐさま身体の問題に至れたのだ。

 知人のDr.Martensコレクターが以前言っていたことを思い出したりもした。 Dr.Martensコレクターオフ会では、靴の自慢だけではなく「マーチンダコ」と呼ばれる自分の足のタコを披露しあうこともあるらしい。その位置にそのタコがあるということは、もしかして○○を持っている(履きこなしている)んですか!?  みたいな話になったりするらしい。モノに対して身体を合わせていくことで、その身体が鑑賞対象になる。これは実に面白い遊びだと思うし、ハイヒールにも通じるものがある。

 僕は自身の趣向として、扉を開けることで明かりを作っていくようなタイプではないと自認している。周囲を埋めていくことによって最後に残った一寸の光のもとに走っていくタイプだ。ヒールというアイテムはその僕の趣向にぴったりだったのだと思う。

 

 

 

「そんな格好をしている方が悪い」という狂った意見

 さて、僕としてはこのハイヒールデビューを始め、あらゆる身体変容の試みは遊びである。遊びとして実践しながら、僕はただ僕のために好きなフォルムを選んでいるだけなのだ。

 しかし、 その容姿を性的に消費する人間がいたり、蛮族を見るような目で見る人間もいたりするのも事実であり、 あるいは逆にヒールを履いたことによって僕自身を「リテラシーのある人間」みたいにもてはやしたりしてくれたりする人がいるのも事実だった。

 正直、別にヒールを履いたからと言って女性万人を理解することができたわけでも、できるわけでもないし、そもそも理解しようとしたわけでもない。ただ一点、僕が僕のために選択をしたこと、自分の好きなフォルムを手に入れるためにやっていることを、一方的なまなざしで搾取や消費されるということは本当に不愉快であり、よろしくないことだと痛感させられた。

 極端な例で言えばミニスカートを履いている女性が押し倒されてしまったり、電車内で痴漢にあってしまったりする状況に似ていると思う。その嘆かわしい状況に対して「そんな格好をしている方が悪い」という狂った意見を押し付けるというのは、控えめに言っても愚者の行為だと感じる。連載の前々回で触れた、ギャラリーや作家に対して勝手な警鐘を鳴らしていた批評家の行為もまた同じようなものだろう。

 僕は全ての物事を自身の身体、皮膚を通して考察し行動するようにしているが、自身の身体に向かい合うという行為はともすると周りがどうでもよくなってしまいがちで、ある種、自己中心的にもなってしまいかねない。曲がりなりにも「社会生活」なるものを送らないといけない今日においては、非常に繊細なバランス感覚を要することでもあるのだろう。

 だから世間はあまり身体にアクセスしようとしないのかも知れない。 その中で、逆風を浴びながらも僕が身体改造を端にし、身体へとアクセスし始めて、もう20年弱。 最近、やっと何かへ至ってきたような気がしてきてはいる。

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas