logoimage
HAGAZINE

吉山森花 『だけど私はカフカのような人間です』 第十六回《私にとっての音楽》

沖縄県恩納村に生きるアーティスト・吉山森花のフォト・エッセイ。第十六回は《私にとっての音楽》について。

 

✴︎✴︎✴︎

 

 

 お金がない。一週間前から財布には100円も入ってない。一時的に小銭が入っても、またすぐに消えていってしまう。そんなことが一ヶ月くらい続いて、どうにもこうにも食料まで底をついてきたため、私は両親に食料を分けてもらおうと恩納村の実家まで帰った。

 もう梅雨だからか、一日中雨が降っている。気持ちがさらに沈んでしまいそうな気がして不安になる。けれど、ここで気持ちまでネガティブな方向に向かってしまうと、現状のような状態をまた未来で引き起こしてしまいかねないので心を強く持ち続ける努力をする。

 実家に着くといつも通り父親の不器用な愛情表現が待ち構えていた。ここは今まで学んできた知識で言いくるめるに限る。学歴社会で生きてきた父親には、知識で会話を楽しむということしか知らず、それが一番スムーズに話が終わる。実家へ帰ってきたわけを話すと母親はとても苦しそうな心配するような顔をした。父親も一緒になって、実家にある食料を全部持っていきなさいと言ってきたが、それはあまりにも私が心苦し過ぎたので、一週間くらいはもつだろう食料を分けてもらって帰路についた。

 帰り際に母親が涙を流しながら、「こんなに苦しい思いしないで、いったん実家に帰ってきて、また落ち着いたら一人暮らしするとかでも良いんだよ? こんなにやつれて……」と言いながら、なけなしの金をかき集めて私の手に握らせてくれた。スーパーの商品券もお金に混じって入っていて本当に母親の全財産を私に握らせてくれているのが分かって苦しくなった。溢れ出しそうになる涙をグッと堪えて、どうにかしてでも今年こそ人に心配かけないくらいに自立できるように頑張りたいと心中硬く決意した。

 帰り道、私はなんとも言えない複雑な気持ちを抱え、車を運転していた。車中では最初、XXXTENTACIONの死後に作られたアルバムが流れていたが、車が沖縄市に入った頃には映画Moonlightのサントラに収録されいてるBARBARA LEWISの「Hello stranger」が流れていた。ちょっと複雑な気持ちの夜のドライブは何故かいつだってBARBARA LEWISに行き着く。確かこの曲は恋愛について歌っている曲だったと思うが、何かしら私の中で無意識にこの曲を求めているところもあるのだろう。雨に濡れたキラキラとした道と音楽がドラマティックに私の複雑な気持ちを表現してくれているようでとても感動する。人間にとって音楽はなくてはならないものだと確信めいた気持ちになりながら、猫2匹の待つアパートへ私は帰って行った。

 

Photo by MORIKA

 

✴︎✴︎✴︎

 

 幼少期から音楽に触れる機会が私はとても多かった。音楽がなければドライブするのも嫌になるくらい、人間にとって音楽とは大きな力をもたらすものなのだと私は思っている。

 母親が若い頃にローカルラジオのDJをしていたため、実家には数百枚のレコードがあった。私は絵を見るのがとても好きだったので、そのレコードを聞かないにしても、色とりどりのジャケットを眺めてどんな音楽がその一枚一枚に録音されているのかを想像するだけで楽しかった。おそらくレコードをちゃんと聴くようになったのは小学生に上がってからのことだ。クラシック、ジャズ、ロック、シャンソン、ポップス、ソウル、ディスコ、ブルース……色んなジャンルのレコードが揃っていて、ジャケットと流れる音楽が私的に一致するかどうかジャッジして遊ぶのが私は大好きだった。

 

 

 それが今の私にも大きく反映されていて、私には“このシーンでは絶対にこの曲でなければダメなんだ”というような変なこだわりがある。例えば国道58号線の夏の昼下がりの嘉手納付近でかける曲はWanda Jacksonの「Fujiyama Mama」が圧倒的に多い。後ろから煽り運転をされて不快な思いを後続車に感じさせられた時はゴッドファーザーのテーマソングでおなじみの愛のテーマを爆音でかけたり、もしくはGhostemaneの「Nihil」を爆音でかけたりしながらずっと迷惑運転をしてきた車を追いかけたりして遊ぶのが好きだ(デスプルーフごっこと私は呼んでいる)。昼の雨の日はラナデルレイやレディオヘッドが多い気がするし、道が歪んでいったりして幻覚が酷い時はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番をかけていないと正気を失う気がして怖かったり……。

 夜のドライブで開放的な気分の時はKID FRESINOとNENEフューチャリングの「Arcades」を聴くととても気持ち良い。これについては完全にMVの影響が大きいだろう。ただ、もちろんMVのかっこよさなんかもとても大切なんだけれど、基本的に私は何よりも、心揺さぶられる音楽が大好きなんであって、今すぐこれを聴きながら何処かへ行きたい、この曲をこんなシーンでかけたい! そんな私の創造性を掻き立ててくれる音楽にいつも脱帽させられている。

 

 

 どのシーンで、どの曲をと、私の実際にやっている曲選びを細かくここに書いていたら何万字にもなってしまうためこれくらいにしておくが、もしもっと知りたいという人がいたら、私とドライブしてみればいいと思う。いずれにしても、私にとって良き音楽とは、創造性と探究心をどこまでも掻き立ててくれる、そうい音楽だ。

 

Photo by cadecalcandy3

 

 私の母も叔母もピアノの先生だったため、私は小さな頃からピアノを習ったけれど身にならなかった、中学では吹奏楽部でトロンボーンを習ったけれどこれも卒業と同時に演奏するという興味をなくしてしまったし、高校生になってからは三線の古典音楽を習い始めたけれど、これも長くは続かなくて、私は自分が音楽をするとなると全く力が出せない。どんなに音楽が好きでも私の領分ではないのだろうなぁと三線をサボるようになった頃にやっと気がついた。

 歌うことは今でも大好きだけれど、人前で歌うとなると私は自分の力が出せなくなる。喉にティッシュの塊を詰め込まれたように喉が詰まって声が出なくなる。思い返せばどの楽器にしても力が試される場面で私は失態をおかし続けてきた。おそらく音楽をするには私はあまりにも自分勝手すぎる性格なのだと思う。音楽で人に感動を与える以前に、私の場合は人前に立つことが怖いという気持ちがあって、その気持ちばかりが優先されてしまうのだ。

 音楽をやっている人たちはきっと、自分が怖いということよりも人を感動させることに、音の世界に浸ることに集中できる人で、優先順位がきっと私とは違うのだろうなと考えている。アドラー的に言えば私は音楽で貢献感を得ることが難しい人間なのだろう。そして音楽を人前で演奏できる人たちは演奏することによって貢献感を得られているのではないかと。そんな人達がこの世界にたくさん居てくれることに私は感謝したい。その人たちのおかげで私は今日もかろうじて楽しく過ごせているのだ。

 

Photo by cadecalcandy3

 

 先日、友達が音楽について書いたエッセイを読ませてくれた。彼の文章もとても良かったし、彼は実際音楽をする側でもあるから、そこに刺激を受けて今回音楽をやらない私にとっての音楽観を書いてみたくなったのだが、私は私でしかないのであくまで私の主観でしか音楽について書けないけれど、私が言いたいことは私の友達が言いたいことと同じだと思う。もっと言えば音楽が大好きな人たちとほとんど同じだと思う。映画でも無音映画が苦手だと言う人は多いけれど、それと現実世界も同じなんだと私は考えている。この世界が無音だったらと想像すると私には堪え難いし、無音ほど圧力のある音はないとも感じる。人間の世界を楽しむには音楽は絶対に必要な要素の一つだ。私は死ぬまで音楽に心揺さぶられていたいのだ。

 実家にあった数百枚のレコードは私が中学生の時に生活費の足しにするため母親がほとんど売却してしまった。私は母親の思い出と私の思い出がお金に変わってしまったことがあの時悲しかったけれど、いつかタランティーノみたいに音楽を楽しむ部屋を作ってまたレコードを集めたいと思っている。それが実現できた時に母親が生きていたら、母親の好きな音楽をその部屋で思う存分味わってもらいたいと……そんなことを考えながら私は今日も音楽を聴いている。

 ちなみに今この文章を書きながら聴いている曲はSmokey Robinson&Miraclesの「You Really Got A Hold On Me」だ。いつかデヴィット・リンチみたいに画家として映画を作ることができたなら、私が今までずっと大切にしてきたこのシーンではこの曲を使うのだと密かに夢見ている。

 

 

✴︎✴︎✴︎

 

 余談ではあるが、最後に数日前に友達が貸してくれた、1990年公開の『老人と海』という映画について書いておきたい。ジャン・ユンカーマン監督の映画で、与那国島で漁師をしていたオジィのドキュメンタリー映画なのだが、私はこの映画を観て今の私の生き方は絶対に間違ってないと思った。私が選んできた道はこの小さな島で素朴に生きるオジィと同じだと思ったのだ。オジィは素朴でありながらも美しかった。ジャン・ユンカーマン監督の切り取りセンスも、こんな小さな島のオジィに着目したことも素晴らしい。オジィの漁をしているシーンは船酔いしてしまいそうなほどの躍動感があるが、それでいてとても静かで凛とした空気の流れを感じた。

 圧倒的な美しさだった。当時の本物のウチナーグチを聴けるのも私にとってはとても勉強になった。オジィは映画公開前にカジキと思われる大魚に引きずり込まれて死んでしまったらしいが、オジィは自分の信じた道を全うして死を選んだのではないかと私は感じた。釣り糸から手を離すことだってできたかもしれないのに、オジィはそうしなかった。私も自分で選んできた道を歩いているのだからオジィのように最期まで信念を貫きたいと強く実感させられた。映像美もそうだが、素朴に素直に生きる一人の人間の生き様がもたらす感動が、きっと現代の人間には必要なんだ私は思う。淡々と進められるストーリーをつまらないと感じるかそうでないかは個人差があるだろうけれど、私はこの映画をつまらないと感じる人間は盲目だと思ってしまうかもしれない。自信を持って皆に勧めたい。この世界をもっと感じて欲しいのだ。消費することに意識を全て持っていかれないで欲しい。生きるとは何かを見つめさせてくれる時間を、きっとこの映画は作ってくれると私は思う。

 

Photo by MORIKA

 

 

〈MULTIVERSE〉

「今、戦略的に“自閉”すること」──水平的な横の関係を確保した上でちょっとだけ垂直的に立つ|精神科医・松本卓也インタビュー

フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳×辻陽介

「人間の歴史を教えるなら万物の歴史が必要だ」──全人類の起源譚としてのビッグヒストリー|デイヴィッド・クリスチャン × 孫岳 × 辻村伸雄

「Why Brexit?」──ブレグジットは失われた英国カルチャーを蘇生するか|DJ Marbo × 幌村菜生

「あいちトリエンナーレ2019」を記憶すること|参加アーティスト・村山悟郎のの視点

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「タトゥー文化の復活は、先住民族を分断、支配、一掃しようとしていた植民地支配から、身体を取り戻す手段」タトゥー人類学者ラース・クルタクが語る

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

logoimage

PROFILE

吉山森花 よしやま・もりか/沖縄県出身、沖縄県在住。Instagram @morikarma。