大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #17 マジック、アイデンティティー、伝統、意味……、いろいろ御託を並べてサマになるのはそもそもブッチギリで上手い彫師だけなのだ
タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。今回はキング・オブ・トライバルタトゥー「ポリネシアン」編、第三回。マルケサスタトゥーのモチーフの意味をめぐって。
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バラバラに枝分かれしたモチーフの意味
日本という異文化圏でマルケサス=タヒチのオーダーを受ける者としての大きな関心事項として、デザインの意味ということがあった。
マルケサス=タヒチのシンボルは非常に豊富だ。そしてそれは世界的にもある程度認知されていることなので、クライアントとしては、タヒチデザインは象形文字のように何でも表現する事が可能であるであるとの印象を抱きやすいところがあるが、はたして現場ではどうなっているのか。実際、自分のこれまでの人生のストーリー展開をマルケサスデザインで表現して欲しいというオーダーは東京でもけっこう入るのだが、これまでの僕の知識の範囲ではそこまで複雑なことまでは出来なかったのだ。日本のマンガの読み方のようなちょっとしたコツみたいなものがあるのだとしたら是非ともそれを習得したいところだ。
これについてはマナオの他にも多くのスタジオのタトゥーイストに同じ質問を延々と繰り返し続けた結果、ようやくなんとなく実像が見えてきた。
結論としては、マルケサスの大量のデザインモチーフ群は文字の発明に連なる発想の萌芽のようなものでもあるのだとは思う。しかしそれは古代中国やエジプトなどの象形文字ヒエログリフはおろか、マヤ文明などの絵文字ピルグリムほどの段階にも達していないものなのだと個人的には思うようになった。
というのも、やはりここタヒチの現場でもタトゥーのデザインにさまざまなモチーフを編んでいって一つの物語的な展開を持たせることはクライアントとタトゥーイストの間の了解のもとに普通に行われているのだが、そのデザインの意味なりストーリーなりを、第三者である専門家などが当事者間の意図のままに正確に読み取れるのかというと、はたして実際のところはそんなことは全く無理な話だったからだ。かつてはそれが出来ていた可能性もあるが、少なくとも現時点ではまず物語の枠組みやIDの構成要素の型のような決まり、つまり身体のどこの部分のそれが何を表しているのかというような、基本となる共通の了解事項が存在していなかった。
そして特定のデザインの「意味」は二重の構造になっている。まずはそれが何のモチーフを表しているのかという「意味」。そしてそのモチーフに付随する抽象的なイメージとしての「意味」だ。一例を挙げれば、カメのモチーフは「安定」などを表しているとされている。
ところが現場では、まずモチーフの特定自体にもけっこうバラつきがあって、あるグループでカメと解釈されているものが別のグループではトカゲだったりもする。そしてそれにまつわる抽象イメージに関してはもう千差万別といった感じで、安定、家、愛、海の護符、など互いにほぼ関係ないような概念がそれぞれのタトゥーイスト達によってバラバラに説明されていたりする。これではデザインの意味の第三者目線での復元は無理に決まってる。
だからそれらはさまざまなモチーフの個人的なコレクションというのが現状の捉え方としては妥当なところということになる。つまりこれは現代の日本のタトゥーファンが龍とか花とかの柄を入れて楽しむ感覚と基本的にはそんなに違わないということなのだ。
幸いにして僕ら日本人は龍や花などに関して独自のデザインの世界を持っているので、この構造を説明するのが比較的に容易いと思う。まず、頭に角が生えていて、ナマズのようなヒゲがあり、身体が蛇のように長く、カギ爪を持った手足がある生物のデザインがあったとする。これが龍をモチーフに描かれたものだということは我々の間では概ね了解されている。が、さらに指の本数や角の生え具合でそれが龍王だったり蛟(ミズチ)だったりという解釈は大多数に共有されているとまではいかないだろう。
そして龍のイメージ的サイドの「意味」なのだが、大地の力の象徴、水の化身、そこから転じて五穀豊穣、勇壮、立身出世、とか実にさまざまなバリエーションで語られている。が、それらに実際、統一感はほとんどないのだ。おそらくこれらは龍をめぐる古今のさまざまな言い伝えや物語から抜き出された個別のイメージなのだと思われる。
ままあることではあるが和彫りの龍が入っている外国人タトゥーファンが自分に彫られている龍の「意味」を滔々と語り、日本人タトゥーイストである僕にそれがさも自明の理であるかのように同意を求めてくることなどがあると毎度のようにびっくりさせられる。マジか!? と思う。龍のタトゥーを入れている人はすべからく地域の五穀豊穣を願っている農家の人々だと読み取らないといけないのだろうか?
僕らローカルはそんなストーリーを背負いたくて龍を入れてるわけじゃない。龍の意味は龍なのだ。さらにもっと踏み込んで言うならばべつに龍を入れたいわけですらもない。もし龍という概念が欲しいのならば「龍」という漢字を彫ればいいわけで、そうではない僕らはむしろただそのカッコいいデザインを入れたいだけなのだ。
現場を良く知るタトゥーイストやタトゥーファンではなくても、日本人ならすんなり分かる例え話だったと思うのだがどうだろうか。
だからストーリーの第三者からの完全な復元が出来ないからといって、マルケサストライバルタトゥーを手がけるタトゥーイストたちが不誠実というわけではないのだ。むしろタトゥーを外側から見るほかにすべがない初心者や外国人にとっての関心事である「意味」に、たとえ一方通行みたいなものではあるにせよなるべく形を整えて提供しようと努力しているのだとも言える。オーダーを受けるプロのタトゥーイストはなるべくクライアントの期待に応えようとするわけなのだ。
たとえば「愛」というオーダーがきたとする。しかし、そういう抽象概念を直接に指し示す伝統的シンボルデザインは実はない。あるのは神、生物、植物、道具などの無数の具象デザイン群だ。だからそういったそれぞれの具象にまつわるイメージをどのように読み解いて豊かに膨らませるかがプロの腕の見せどころということになる。例えばティキの腕、カメ、花、ココナツの殻の食器。どれに辿り着くのか、そしてそこにどういう物語を乗せるかはタトゥーイストの感性と知識によって実にさまざまということになるようだった。これは一種の連想ゲームみたいなものだと思う。
とにかく実際に彫れば、タトゥーそのものが持つ本質的な作用を内側から体感することになり、もはや理屈や説明だけに頼らなくてもよくなることも分かっているので、そこまでの安心や納得をサポートする橋渡しとしてはかなり気が利いている特別なサービスだと思う。そういう意味ではマルケサスのデザインモチーフの豊富さはやはり世界のさまざまなトライバルタトゥーの中でも群を抜いて魅力的であることに変わりはないのだ。
もちろんかつてはもうちょっとコミュニティ内でデザインのモチーフ、イメージ、あるいはストーリーが読み取り可能なぐらいにタイトに共有されていた時代もあっただろう。それはおそらく島単位とか集落ごとにとか、あるいは家系によって受け継がれるとかのごく狭いコミュニティ内でだ。
同じデザインのモチーフの解釈が、例えばハワイとサモアなどの島によって食い違うのは今、ポリネシア全域を見渡しても当たり前に観察出来ることだし、日本の琉球弧のハジチの詳細な調査では、琉球弧全域を貫く定型がありつつも島ごとにユニークなアレンジに枝分かれし、さらにその中の集落ごとにも独自のトレンドがあったりする様子が克明に記録されている。
デザインの形やそのモチーフ解釈という相当ざっくりした認識ですらもそれぐらいの単位で細分化していかざるをえない部族社会の当時の情報伝達環境を考えると、モチーフにまつわるイメージなどは本当に儚すぎて、もしそれが実際にあったとしても家族、親類などのさらに小さなコミュニティの中ぐらいでしか共有は出来なかったのではないかと思う。
それがフレンチポリネシアという大きな一つの括りの中に多くの島々が収まった今、モチーフの解釈やそのイメージに域内共通の認識が自然と存在するわけもない。それらは伝播していく過程で当然のごとくバラバラに枝分かれしているのだから。そしてそういう自然の成り行きの結果は今となってはちょっとした誤解や混乱を生み出す原因になることもある。
トライバルタトゥーの流儀
タヒチのタトゥーイスト達は実はリバイバル初期から現在まで何度も離合集散を繰り返している。00年代後半に僕が廻って実際に話したタトゥーイスト達だけでもおそらくそれらは3つ以上のグループに分かれていたように思う。ごく狭い地域に全く同じスタイルのタトゥーイスト達が密集し、海外からの観光客を目当てに鎬を削っているのだから互いにナーバスになりやすいのもよく分かる。こういうのは程度の差こそあれ世界中どこでもあることだし、またタトゥー業界に限ったことでもない。
が、さらにタヒチの場合はそれぞれの出身地の島の年寄りなどから直接得ているモチーフやイメージの、互いに確信に満ちているだろう知識同士の食い違いが対立の根っこの部分でくすぶり続ける火種にもなっていた。自分は正しいけれど貧乏で、他のやつらは何も知らないくせに商売のズル賢さだけには長けていて目障りにしゃしゃり出てくる詐欺師。文字にすると笑ってしまうのだが、ポリネシア人の率直さとフランス文化の批判好きが合致して拗れた状況はシリアスだった。そこに酒でも入った日には、ポリネシア系はフランス系を、さらにマルケサス系はその他の島出身のポリネシア系を、それぞれ盗人呼ばわりするなどのカオスにまでエスカレートすることもしばしばだった。世界の他のトライバルタトゥーと比べて圧倒的なほどに豊富なデザインモチーフ群を誇るアドバンテージが最初からあるせいで、なんだか金持ちの家の遺産争いみたいなことになっているような気がした。
僕は東洋の島国から来た珍しい部外者としてグループ間を自由に横断できた。そして自分の作品ポートフォリオを持参していたのでどこでも真剣に向き合ってもらえた。勝手な思い込みかもしれないが、とにかく作品を見てもらえれば僕が頭がおかしいほどタトゥーを愛して止まない男であることは、同じようなタトゥー愛を持つ者にとっては一目瞭然のはずと考えている。ほんと単細胞の甘チャンなんだなキミは、なんて地球を何十周もするほど飛び回って、酸いも甘いも嚼み分けたオランダの先輩たちからはよく呆れられたりもしているけれど、そういう空気の読めなさ加減も含めての楽観的な突破力は僕の武器でもある。
あと、行く先々で「マキコの友達なのか?」などと聞かれ、タトゥーのことを調べに来た日本人であるというだけでえらく歓待されていたような気配もあったが、これはおそらくタヒチのタトゥーリバイバルシーンに関する研究の世界的権威である日本人、桑原牧子の功績と人柄によるものなのだと思う。いつかお会いする機会でもあればお礼を言いたいところだ。
そうやってあちこちで仲良くさせてもらって多くを学ばせてもらったからこそ、感謝の意として酒の席では僕も率直に提言した。「世界最強人種」と呼ばれ、レストランでフライドチキンを頼むと丸鷄一羽と別の大皿にピラミッドみたいにそびえるフライドポテトが普通に一人前として出てくるこの国の、ゴリラ並みの体格の酔っぱらい達にペシャンコにブッ潰されるのもある程度は覚悟してだ。
タトゥーイストなら言葉で他人をこき下ろすのではなく堂々と作品の格好良さで勝負するべきだ。勿体つけたりせず、同じリングの上でだ。人種や出自なんてどうでもいい。立ち回りの巧拙や金のあるなしも関係ない。流儀の違いなんて融通利かせればいいのだ。いつの時代のトライバルタトゥーの流儀もその時それを行なってきた人間達が自分で決めてきたのだ。そんなもの、あらかじめ存在しているわけでも、空から降って来るわけでもないのだから。カッコいい仕事。それだけやっていれば他に何もなくたっていいんだよ。オレたちは宗教家や学者じゃない。
けっこう無茶なことを言ったと我ながらにして思うが、まあ、売り言葉に買い言葉ってやつだ。トライバルタトゥーやネオトライバルをやっている以上、それだけが価値だなんてもちろん本当は思ってないが、これまで雑種の野良犬としてリアルに生き残ってきた己の矜持としては本音の部分でもある。爆風のような「祭り」の空気に当てられたのだ。
課題をクリアするために南太平洋の果てまではるばるやって来て、結局はもっと大きな宿題を抱えることになってしまった。
口に出してしまったからにはもう実際にやるしかないのだ。言い出しっぺの僕自身で。
マジックやアイデンティティーや伝統や意味だとか、いろいろ御託を並べてサマになるのはそもそもブッチギリで美味い料理、もとい上手い彫師だけなのだ。当面これでいい。
テアモの裏庭食堂でタトゥーを彫っていると、隣家のピットブルが近づいてきて何かを訴えかけてきた。辺りを注意深く見渡すと、木漏れ日が全て三日月のように細くなっているのに気づいた。
やがて鳥たちが一斉に飛び立った。
日蝕だった。
アポカリプト。
終わりの、始まりだ。
来るときのいたたまれなさとは違う気持ちを抱えて帰りの飛行機に乗った。
タヒチとのファーストコンタクト後に僕の創作活動には大きな変化が訪れた。
数年後に島に再び戻った時のことを次回は回想してみよう。
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