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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #10 服を捨てよ町へ出よう(後編)

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第十回は「衣食住」の「衣」に迫る後編。全裸暮らしの実践の果てに気づいた「衣」の真理とは。

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全裸への日々

 あくる朝、私は手持ちの衣服たちを前に、頭を悩ませていた。

 さて、今日はまず、どの服を着たものか。

 いまから選ぶ服は、その日の夜には捨てなければならないのだ。そして私はそのルールに則った暮らしをこれから毎日続け、自分を徐々に「全裸」の状態へと近づけていくのである。

 「セルフ追いはぎ」生活のスタート初日、最初に着るべき、そして捨てるべきは、いったいどの服なのか。

 

 その日は、昼に友人たちと食事をする予定が入っていた。

 となれば、それなりに小ぎれいな服を着ていくべきだ。

 どうせ捨てるなら、醤油のシミが付着したシャツとか、毛玉だらけのカーディガンとか、ティッシュと一緒に洗ってしまったトレーナーとか、そういう服を着ていきたいところだが、そういうわけにもいかないのである。

 というわけで、まずは例の「W」のセーターを着ることにした。「記号化」から「全裸化」へと着衣実験の方向をチェンジしたいま、このセーターにもう用はない。購入してから日も浅いそれは、毛玉も目立ってはいない。これなら食事の席にでも着ていくことができる。

 さて、じゃあ上はセーターだとして、下はどうするか。

 そこで、少しだけ、躊躇のようなものが走る。

 そう、ズボンだって一度穿いたら、捨てなければならないのである。

 正直、ズボンはそこまでの枚数を所有していない。となると、カードが尽きていくのは下半身サイドのほうが先だ。つまり私は、上半身こそ衣服を羽織ってはいるが、あとは下着だけ、という状態をこのままいけば近いうちに経由することになるのである。

 というか、自分は下着だってそんなに数は持っていないわけで。となれば、「上はトレーナー、下はフルヌード、これなあに」という奇怪なナゾナゾの答え、それが私です、というような未来がこれから先に待ち受けているということにもなり、ああ、なんで自分は服を身に着けてはストイックに捨てていく使命を己に課したのか、首を傾げるばかりである。

 しかし、これは「衣」の呪いから解き放たれるための試練なのだ。いきなり怯んでどうする。そう思い直し、どのズボンをセレクトするか、毅然とした態度での決断を自分に迫る。

 まだしばらくは、人と会わなければならない予定が数日おきに入っている。となれば、急な外出の場面でも穿けるようなオーソドックスなズボンはなるべく後半まで大事に残しておきたい。熟考した挙句、その日は七分丈のズボンを穿くことにした。これまでに一度だけ穿いたことのある、特に愛着のない安物のズボンである。

 姿見で自分の服装を確認する。

 上は、「W」がプリントされたセーター。

 下は、すねが露わな七分丈。

 ああ、なんともミスマッチ。季節感などあったものではない。

 しかし、背に腹は代えられない。私はそのファッションで食事の席に臨むことにした。

 誰よりも先にレストランへ入り、着席することで七分丈の存在を隠す。食事が始まってからは、トイレに行きたくなっても我慢をし、席を立つことはしない。デザートを食べ終え、さあ店を出ようかとなった際には、「自分はちょっとここでお茶を飲みながら、残って仕事をしていくわ」などと嘘を述べ、友人たちを席から見送ったのち、やっと立ち上がる。

 私はそのプログラムを完璧に遂行し、見事、自分の珍妙な服装を匿った。

 なんだか、拾ってきた猫を親に隠しながら、庭の物置で飼っているがごとき気分である。

 そして帰宅し、夜になり。

 「ごめんな、やっぱりうちでは飼えないんだ……」とばかりに、脱いだ服をすべて段ボールの中に放り入れた。明日には、この服たちはみんな、ゴミ捨て場行きだ。

 しかし、なんだか後ろ髪が引かれる思いである。

 捨て猫を元の段ボールに戻して立ち去る際に、「にゃあ」と細い声で鳴かれてしまった時のような。

 このまま打ち捨てるなんて、ちょっと気が引けてしまう。

 そうだ、どうせ手放すのであれば、リサイクルに回せばいいではないか。この実験の趣旨はあくまで「全裸化」にあり、だから「捨てる」の意味合いは拡大解釈したって、べつに問題ない。そうだ、リサイクルショップに売ることにしよう。

「いい人に拾われるんだぞ……」

 私は眠りに就きながら、枕もとの段ボールの中にいる「W」のセーターや七分丈ズボン、それに靴下や下着たちの未来を祈った。

 

着るものがない

 それから私は、「服を着ては捨てる」の日々を送り続けた。

 当初のそれは、おおむね快適なものであった。

 着衣すればするほどに、段ボールの中へと「不要」の服が溜まっていく。

 それがある程度の嵩になったら箱ごとリサイクル業者に発送して売り払い、小銭に換える。

 それを三度も繰り返すと、部屋の隅の衣服の山は、すっかり標高を減らしていた。なんとも、清々しい。ジャンクなものが生活スペースから消えていくのって、こんなにも気分がいいのか。ミニマリストの心情が、少しわかった気がした。

 しかし、これは「断捨離」や「ときめき片付け術」みたいな空間改善を目指してやっている実験ではない。徐々に自分を全裸へと追い込んでいく、「スローストリップ」に本筋があるのだ。

 だから、「快適」は、すぐに「困難」へと変わった。

 当たり前と言えば当たり前なのだが、着るものが、本格的になくなってきたのである。

 まず、予想していた通り、ズボンが底を尽き始めた。

 残るはカーゴパンツとスウェットが、共に一枚という状態である。

 さらに想定外なこととして、シャツなどの上半身に纏う衣服や下着の数も、なかなかのスピードで心もとなくなってきていた。この事態が起きてしまった原因は、「一度纏ったら捨てる」のルールを、日中に着る服にだけでなく寝間着にも課していた点にあった。

 部屋着としての万能性を誇るスウェットは「虎の子」的な存在なので、夜間の布団の中ではなるべくTシャツと下着だけを着用して過ごす。そしてそれも、朝には段ボール箱行きとなる。それを繰り返すことで、Tシャツや下着の消費量がどんどんズボンのそれに追いついていく。身に纏えるものが、かなりの勢いでわずかとなっていく。

 納戸を探せば冠婚葬祭用の礼服はあるはずだが、平時に役に立つとは思えないので数にはカウントしない。

 四度目の段ボール箱発送を済ませた段階で、いよいよ「困難」は切迫性の高い現実となって目の前に姿を現してきた。

 もう、この辺りで、こんな実験はやめておこうかな。そんな考えが脳裏をよぎる。

 だって、ズボンはあと二着しかないのだ。ということは、最大でもあと二日で、自分は外出が不可能となる。それって、普通に困る。わかっていたことではあるが、しかし実際的な状況に身を置いてみると、マジで困る。

 もうひとつ、私の気を萎えさせるのは、この実験に「成功」のムードがいまだ漂ってきていないという点である。

 衣服に対する真の欲求を召喚するため、私は全裸になる道を選んだ。だが、「もうすぐゴール」という地点まで来たというのに、そのような欲求はまったくもって姿の影も見せてこない。目の前にあるのは、ただただ着るものがなくなっていくことに不安を募らせる日々だけである。日常にウェイトをかけてくる「衣」の呪いに打ち勝つため、この「セルフ追いはぎ」を開始したはずなのに、これではむしろ余計に「衣」の呪いのドツボにハマってしまっているではないか。

 「全裸化」なんて、無理があったのかもしれない。

 そうだ、もうこんな実験、やめてしまおう。

 二本のズボンと、数枚のTシャツ、及びトレーナー。それにわずかに残った下着と靴下。これが私にとっての、着るべき服なのだ。「社会」に着せられているのではなく、私が「個」の当事者として着る服なのだ。これさえ身に纏っておけば、「衣」の呪いを防御できるのだ。だからもう、この実験はおしまいにしていいのだ。

 ……、……、……。

 釈然とはしていない自分が、そこにいた。

 

私だけのヌーディストリビング

 それからはしばらく、負け試合を引きずったような気分の日々だった。

 人と会う用事があるため、なけなしの服を着て、外へと出る。途中、ファストファッションの店が目に入る。

 どうせもう実験は終了したんだから、何枚か服を買っていこうかな。いまの手持ちの衣服枚数では、これからの生活がおぼつかないし。

 しかし、なんとか思いとどまり、「またこんどにしよう……」と店を横切っていく。

 いま服を買ってしまうことは、「衣」の呪いに対して完全に白旗を上げることと同義なのだ。

 勝てなかったことは認める。でも、どこかで抗ってはいたい。

 未練めいた想いをぶら下げながら、私は街を歩いていた。

 帰宅し、穿いていたカーゴパンツや上着を洗濯カゴに入れる。

 そしてスウェットを穿き、パーカーを着て、ふてくさるように寝てしまう。

 翌朝、天気がよかったので、洗濯機を回すことにした。

 カゴに入っていた衣類を洗濯槽に放り込み、スタートボタンを押す。あ、そうだ、どうせなら寝間着も一気に洗ってしまうおうと、着ていた上下を慌てて脱いで、それも追加で投げ入れる。

 ジョジョジョジョジョ。

 水が満たされていく音を確認してから、トランクス一枚の状態で、今日着る服を探し求めて部屋の中をさまよう。そして、そこでやっと気がつく。上半身に纏う服はトレーナーやTシャツなどがまだ数枚残っているが、残り二枚だけだったズボンは、どっちもいま、洗濯機の中で水浸しになっているということに。

 一瞬、やっべえ、やっちゃった、とプチパニックを起こすが、よく考えたら今日は休日で、人と会う用事もない。すっかり春らしい季節となってきたことだし、部屋の中で過ごす分には、トレーナーとトランクスだけでも、特に問題はなさそうだ。

 ていうか。

 どうせ誰とも会わずに家の中にいるんだったら、いっそのこと全裸で過ごしてみようかしら。

 そうだ、せっかく、ズボンが「ゼロ」の状態になったんだ。「セルフ追いはぎ」を全うすることはできなかった自分だけど、ささやかな抗いという意味で、今日だけは全裸生活を「お試し版」的に体験してみようじゃないか。目指していた究極的な全裸とはニュアンスが異なる体験なわけだが、それでももしかしたら、「衣」の呪縛から解き放たれるためのヒントを少しは得ることができるかもしれない。

 こうして私は、トランクスを脱ぎ、一糸纏わぬ姿で、リビングに立った。

 瞬間、爽やかな風が吹いた気がした。

 果たしてそれは、最高の気分であった。

 ああ、自分はいま、衣服から、そして社会から、完全に解放されている。

 なんの服を着るか、そんなことで頭を思い悩ます必要は、いまの私にはないのだ。人の目を気にしてなにかを羽織る必要は、いまの私にはないのだ。ここはヌーディストビーチならぬ、私だけのヌーディストリビング。全裸者だけに許された、夢の解放区なのである。

 古代ギリシアの物理学者・アルキメデスは、風呂に入浴している最中に『アルキメデスの原理』を思いつき、「ヘウレーカ!(わかったぞ!)」と叫んで、全裸で街に飛び出したという。そして私も、いま、全裸で叫びたい。これが自由!これがフリーダム! ヘウレーカ!

 負け試合の忸怩たる想いから一転、私は軽やかな心地に包まれ、自由を謳歌した。

 ヌーディストリビングでおもむろに寝転び、ヌーディスト廊下でおもむろに側転をし、ヌーディスト寝室でおもむろに文庫(西加奈子の『サラバ!』)を読んだりした。

 しかし、その自由の営みを、打ち壊す音が玄関から響いた。

 ピンポーン。

 来訪者が鳴らす、チャイムの音である。

 

非常に中途半端な裸エプロン

「宅配便でーす」

 しまった。

 そういえば、今日到着で、Amazonに商品を注文していたのだ。それは仕事に必要な物品で、いま受け取らなければ明日からの業務に多大な支障をきたしてしまう。だから、居留守を使うことは許されない。私はすみやかに、本格的なパニックに陥った。

 「はーい!いま出ます!」と玄関に向かって返事をし、それから右往左往しつつ、さっき脱いだトランクスを穿く。そして、トレーナーを着る。よし、玄関に向かおう。いや、ちょっと待て、この「上下が逆転した山下清」的な恰好ではまずいだろう、失礼だろうと、そこで廊下を引き返し、慌てふためきながらズボンを探す。いやいやいや、そうだ、ダメなんだ。ズボンは、洗濯機の中だ。干すのをすっかり忘れていたので、まだ濡れそぼったままである。銚子電鉄の濡れ煎餅って美味しいですよね。ああ、現実逃避をしてはいけない。混乱している。冷静になれ、自分。

 そうだ、礼服が納戸にあったではないか。あれのズボンを穿けばいい。

 急いで、納戸の扉を開く。しかし、礼服は見当たらない。あれ、おかしい、どこにやった。前にアレを着たのは、いつだっけ。あ、そうだ。クリーニングに出したままだったかもしれない。やばい、手詰まりか。

 その時、納戸の奥にある、一枚の衣服らしきものが目に飛び込んだ。

 これは……、エプロンだ。

 もう、これに頼るしかない。

 私はエプロンをクイックで着用し、下半身がトランクスのみである状態を隠した。

 「お待たせしました」

 私は、玄関のドアを開けた。

 そこには、宅配員のお兄さんが立っていた。

 「はい、ではこちら、お届け物となります」

 お兄さんはこちらのファッションに気を留める様子もなく、商品の入った小箱を渡してきた。私はチラッと下に目をやり、自分の姿を確認した。このエプロン、なかなかに丈が長いではないか。ズボンを穿いていないという事実は、きっとお兄さんにはバレていない。よかった、エプロンに救われたと、平常心を取り戻す。

 ところが。

 「そうしましたら、代引きとなりますので……」

 そうだった。この商品は、代引きで注文していたのだ。財布を用意しなければならない。しかし、財布はリビングのテーブルの上に置いてある。

 ということは、財布を取りに戻る時、私は宅配員のお兄さんに、後ろ姿を見せなくてはならない。ああ、私が現在「非常に中途半端な裸エプロン」の状態であることを、見破られてしまうではないか。どうしよう、後ずさりしながらリビングに戻り、絶対に背後を見せないようにして財布を取りに行くか。いやいや、いま廊下をゆっくり後ずさりしたら、このお兄さんに「こっちへついていらっしゃい」というサインを投げかけている感じにならないか。「なんでこの人は、オレを誘惑しているんだ……?」と不気味がられること、請け合いである。ダメだ、後ずさりは、できない。

 まあ、いいか。

 私はそこで潔く断念し、くるっとお兄さんに背中を向けて、自分の下半身がトランクスであることを露わにした。そして財布を手に取ると何食わぬ顔で玄関に戻り、代金を手渡しして、「ありがとうございました」とドアを閉めた。

 あー、やってしまった。

 きっと宅配員のお兄さんは、私のファッションを不可解に思っただろう。

 だが、まあ、身が焼けるような恥ずかしさを味わったかというと、そういうわけでもない。許容の範囲内での、淡い恥ずかしさだけが残っている。きっと明日には、この失態の件は忘れていることだろう。

 ……ん?

 なにかが、ひっかかった。

 だって、「下半身はトランクス一枚で、それをエプロンで隠す」など、社会的にはアウトなファッションだ。そんな恰好で街をうろつけば「なんだ貴様は」となること必至である。

 なのに、どうして私は、今回のケースにおいて、このファッションを「許容の範囲内」と判断できたのだろうか。

 

唯一無二の『本当の自分』

 もう少し、整理して考えてみよう。

 私は先ほどまで、部屋でひとり、全裸の時間を味わっていた。

 そのことにまったく恥ずかしさを覚えなかったのは、その場面における構成員が、私ひとりきりだったからである。つまり、「孤独の世界」において、全裸は許容に値するファッションということになる。「ひとりきりの場面」では、全裸であることを誰かに咎められる謂れなど、あるはずもない。

 で、宅配員のお兄さんが、そこに登場人物として加わると、「孤独の世界」は壊れ、私は着衣を余儀なくされた。そこでは全裸は認められてはいないが、しかし全裸と完全着衣の中間にあるファッション、「中途半端な裸エプロン」は許容された。

 玄関先に現れたのが、たとえば宅配員のお兄さんではなく、もう少し私と結びつきや関係性の強いご近所の人とかだったら、あの恰好はきっと許されない。宅配員のお兄さんとは記号的な関係性しか築いていないため、ラフな状態でも対面することが可能だったのだ。

 ということは、だ。

 「衣」って、場面によって、値が変わるということではないか。

 「ひとりきりの場面」においては、「衣」の値はかぎりなくゼロまで下げられる。全裸だって許容される。

 で、あとはそこに登場する他者とどのような場面を構成するかで、それぞれの「衣」の値の上限は決定される。たとえば、家族などの身内だけの場面であれば上下スウェットでもOKだけど、冠婚葬祭などの社会的なファッションコードが求められている場面では礼服で、それから記号的な関係を結んでいる宅配員のお兄さんの前では半裸でもギリギリ許されるけど、好意を抱いている相手との場面であれば清潔感の漂う服を着ていたい、などといった具合に。

 そうなのだ、「着たい」なる欲求の値は、特定の相手がいる場面でこそ、上昇するのである。

 つまり。

 「自分はこういう服を着たい」という欲求は、一見すると自主発生的なものだが、実はかなりの程度で、そこに現れている場面に委ねられ誕生しているということだ。

 「自分を全裸に近づけることで、衣服に対するプリミティブな欲求を召喚する」。そんな実験が、どうして成果を上げることができなかったのか、やっとわかった気がする。そもそも「衣」に対する欲求とは、自分と、そして他者とがいることで、化合生成されるものだったのだ。自分の内面だけを掘っていても、見つかるはずがないのである。

 私は、社会が発生させている着衣の義務感を、ひどく億劫に感じ、それを「衣」の呪いと呼んだ。「衣」の呪いによって、当事者的に着たい服がわからなくなり、やがては「本当の自分」というものを見失ってしまうのではないかと不安をよぎらせていた。

 それって、「内面のどこかに唯一無二の『本当の自分』が存在している」のだと、頑なに信じていたということだ。

 でも、「本当の自分」というものは、単一的なものではなく、実は複数的なものであったりはしないのだろうか。内面だけではなく、外面にもたくさん存在しているものであったりはしないのだろうか。

 外出先で、誰かと会う。その人と喋っていると、ああ、自分はこの人の前では、こういう喋り方をするな、なんて思ったりする。そしてそれから、また別の人と会うと、さっきとは違うモードの自分が発見できたりする。親と会っている時、地元の友人と喋っている時、最近知り合った人と対面している時、それぞれの場面において、異なる自分がいたりもする。

 それらはすべて、「本当の自分」ではないのか。

 我々は個人的な欲求の当事者になった時、「本当の自分」を発見する。

 そして、「この人とは、こんなことをして遊んでみたい」とか「この人とは、一緒にいて楽しいから、なるべくそばにいたい」とか、相手がいることでやっと生まれる個人的な欲求の存在は、特段に珍しいものではない。

 とすれば、「本当の自分」は、実は複数存在することを許されているのではないだろうか。

 

全裸の果てのまじない

 そう思い至った途端、急に気が抜けた思いがした。

 自分はこれまで、「個」の当事者として何を着ていいのかがわからず、それでも「社会」に参加するために漠然と服を着てしまっている状態に、気の重さを感じていた。

 でも、「個」って、実は他者に委ねて初めて生まれるものなわけで。

そして「社会」の中にこそ、その他者は存在しているわけで。

 衣服を前にして、私はいつも、孤立していた。「これが着たい!」という欲求は、自分ひとりで見つけなければいけないのだと妄信していた。で、結局のところ、「これが着たい!」という欲求は内側には見つけられず、そして「社会」に押し付けられるようにして着衣を行っていた。

 それってつまり、「個」を自己に預けきってしまっていたということではないのか。

 「個」と「社会」を不用意に分断し続けてきてしまっていたということではないのか。

 「社会」を外圧としてしか、認識していなかったのではないのか。

 だから私は、「衣」の呪いに負け続けていたのではないのか。

 「社会」の中に、いくつもの特定の他者の顔を描くこと。

 そしてそこに、「本当の自分」のチャンネルをいくつもにじませること。

 外圧としての「社会」の存在値は、それだけで薄まる。

 そうすることで、ようやく「自分はこれが着たい!」という本来的な欲求は発見される。

 自己の内側から「本当の自分」を探すことなど、あきらめていいのだ。自分の欲求の有様は、外界にいる他者たちと一緒に生成していいのだ。そしてその欲求を糧にして、私たちは未知に期待を込めながら、今日着る服に袖を通すのである。

 そう理解した瞬間、いままで敵に見えていた「社会」が、急におおらかな存在として目の前に広がった。そして、「衣」の呪いの効力が、みるみる緩んでいくのがわかった。

「個」として纏っている衣服をすべて脱ぎ捨て、一度、素っ裸になる。

そして震えながらもおそるおそる、他者との邂逅を果たす。

こうして我々は新たな「個」をまたひとつ、召喚する。

 これこそが、「衣」の呪いに打ち勝つための、全裸の果てのまじないだったのである。

 

中島がいるからカツオがいて、カツオがいるから中島がいる

「磯野、野球しようぜー!」

 中島は、折に触れて、磯野家の玄関の前で誘いの声をかける。

 さっきまで宿題をしなければと義務感に追われていたカツオは、中島という他者の存在が登場したことで、「自分は野球がしたい!」という欲求を見つける。そして社会から漠然と押し付けられていた宿題という課題を投げ捨てて、野球帽をかぶり、空地のグラウンドへと直行する。

 カツオは、中島がいるから、欲求に忠実な自分を現すことができている。そして、宿題という「当たり前」を軽やかに手放すこともできている。

 そうだ、中島の存在は、なによりも尊い。

 自分にとっての「中島」をいくつも描くことで、私たちはやっと、顔も知らぬ誰かがつくった「当たり前」から脱走することが可能となるのである。

 中島がいるからカツオがいて、そしてカツオがいるから、中島がいる。

 

 そんなことを考えながら、私はベトナムのとある町を歩いていた。シンプルに、旅行で遊びに来たのである。

 ベトナムでは、衣料品が安く買える。

 私はナイトマーケットの屋台で、いくつもの衣服を手に取り、吟味する。そして誰かの顔を思い浮かべ、「ああ、次にあの人に会う時は、この服を着ていきたいな」となった時にだけ、その衣服を購入していく。

 「本当の自分」を他者に委ねるのって、本当に気楽だ。

 もう大丈夫。これからの私は、「衣」の呪いに気を重くすることはない。私は「これが着たい」という欲求を召喚する魔法を、手に入れたのである。

 そんな感じで自信をみなぎらせていた矢先。

 ホテルへの帰りがけに現地のスーパーに立ち寄ったら、病的なデザインのパジャマを発見し、そしてなぜだか「これ、欲しいかも……」と心を揺らしている自分がそこにいて。

 自身の「衣」に対する欲求、その在り方に、私はまたしても大きな不安を覚えたのであった。

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。