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吉山森花 『だけど私はカフカのような人間です』 第十三回《ずっと死にたい女》

沖縄県恩納村に生きるアーティスト・吉山森花のフォト・エッセイ。第十三回は煙草と希死念慮と純粋な瞬間について。

 

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 私はいつも煙草を吸っている。私が一人で煙草を吸っている時に、煙草の煙は一時停止と逆再生を繰り返し私を楽しませてくれる。思い出せば、私は昔、煙草が大嫌いだった。ヤニで歯が汚れることがたまらなく嫌で、煙草を吸う人間を憎々しく思う時さえあった。

 私が煙草を吸うようになったのは二十歳の頃に付き合っていた彼氏の影響だ。彼は四六時中煙草を吸っている人で、私が嫌がるのも気にせず、とにかくずっと煙草を吸っていた。ある日、彼が薔薇の香りのする煙草を吸っていた。薔薇の香りをつけてまで煙草を楽しむ意味が私には理解できなかったけれど、その日の私は機嫌が良かったのか、ほんの好奇心からその煙草を吸ってみることにした。その時の感覚は今でも覚えている。初めての煙に咳き込んだりしたくなくて、私は煙をゆっくり少しづつ吸った。吸った煙を口から吐き出す時、とても不思議な気持ちになった。それは私が煙草にハマるに十分すぎるくらいに魅力的な感覚だった。それから私は煙草を自分でも買うようになり、今日に至るまで煙草を吸っている。

 

 

 今では母親に「早死にする」と脅されても、早く死ねたほうが楽だから別に良いのだと憎まれ口を叩くほどに、私は煙草が好きだ。しかし、この時に母親に吐いた憎まれ口はあながち嘘ではない。もし煙草が私のことを早く死なせてくれるなら、そうしてくれたほうがありがたい。

 私はずっと死にたい女である。そもそもこの死にたい、消滅したいが始まったのは小学2、3年の頃からだ。私は貧乏な家に生まれ、両親が毎日お金のことでケンカしているのを聞いていた。それだけではなく母親は三つも仕事をしていたため、私はほぼ毎日一人でお留守番が多かったのだ。そんな状況が私に死んだほうが良いと思わせるようになったのかは定かではないけれど、とにかく私は家族の厄介者だとその時から自覚していたし、私が消えればこの家族は幸せになれるんじゃないかと思っていた。もちろん死にたいほどに寂しかったのもあったのだろうと今は思う。

 そんなわけで私はその頃くらいからずっと死にたいと思っている。学校の学年が上がれば上がるほどその願望は強くなった。私は昔から自己分析がとても好きなタイプの人間なのだが、ずっと死にたいと願っているわりには随分と長生きしているものだと思う。これは本当におかしなことだとずっと考えていたのだけれど、死にたい人間ほど生きたいという願望もとても強いのではないかと最近は思っている。

 死にたいと口に出すのは一種のSOSで死にたくないから助けてくれと言っているのだと捉えることもできる。つまり私の死にたいを細かく説明すると、生きることがあまりに困難で、生きているだけで災いが次々に降りかかってきて、あまりの理不尽に耐え兼ねてるから、助けてくれないならいっそのこと殺してくれ! と叫んでいる、というわけだ。なんとも自己中心的な主張だけれど人間の大半は自己中心的な価値観を他人に押し付け、他人を踏み潰して歩いているようなものだから、私の主張など可愛いもんだと思う。とはいえ、私は自己解決型の人間だから、結局のところ誰にも話すこともできず、私が私と話をすることによって色々な己の問題を解決してきた。

 私の中には生に対する願望と死に対する願望が同時に等しく存在している。その結果、私はいつだって暗い人間である。

 生きることがこんなに難しいことだとは学校で教えてはくれなかった。こんなに社会という場所が私には理解しがたいモノだとは誰も教えてくれなかった。だからと言って社会に対して完全に背を向けている荒くれ者と話が合うわけでもなく、そもそも人間と関わるということが非常に困難であるということが最近ようやく分かった。私という生き物は人間と関わると良いことが本当にない。最近は一時間以上の外出を一人ですると熱発して二日は寝込んでしまう始末である。

 医者に助けを乞うても薬を処方されるだけで問題の根本的解決には何も繋がらない。自分で解決するしか方法がないため最近は哲学書と医学書を読みあさっている。それによって徐々にではあるがリハビリ生活も終わりに向かいそうな兆しが見えているが、ここで油断してはいけない。ここで油断してまた信用できない人間と関わったりすると私は再び穴蔵生活に戻ってしまうだろう。

 じゃあ、周りの人間はどうすればいいのか。死にたいって言っている人がいたら死にたくないって言うようになるまで死にたいって言葉をずっと聞いてあげたら良いと思う。腕に自信のある人は死にたいって言っている人を一度立てなくなるまで殴り続けたら良いと思う。私がそう言うのには理由がある。

 私がとてつもなく苦しくて、もう死ななきゃいけないのだろうかと、一人でウィスキーをストレートで飲んだ時のことだ。もともと酒に弱い体質なのだが、最近は異常に酒に対する抵抗力がなくなってきていて、グラス半分も飲まないのに息が苦しくなって眠りにつくと、しばらくして自分の心臓の音で目が覚めた。激しい動悸と吐き気に襲われたが、トイレに行きたくても行けない。匍匐前進でやっとのことでトイレまでたどり着いたが、吐き終わっても手足が痺れ、意識はあるものの、そのままトイレから動けなくなった。そんな時に私は苦しさのあまり死ぬのかな? と考える。そして死ぬことの怖さを感じる。

 矛盾しているけれど、苦しい思いをすると人は生にすがりたくなるのだ。一瞬で死ねばそんなことも考えないだろうけれど、苦しみが長く続くと本能で生きることにしがみつく。私はそういうとき、人間とは本当にしぶといし面白い生き物だと感動する。だから、死にたいと言っている人がいたら半殺しにしてもよいという契約書に一度サインしてもらってから、立てなくなるまで殴ってあげたら良いと思う。きっと痛くて、生きていることを感じて抵抗するだろうし、生きることが何かをあらためて考えられるんじゃないかと思う。うまくいけば、ただ生きることが苦しくて、自分の力ではどうすることもできなくて、助けを求めているだけなんだと気づくことができるかもしれない。

 

 

 腹を刺されて倒れている人がいたらほとんどの人が救急車を呼び、心配の声をかけてあげるだろうけど、見えない痛みを心配してあげることができる人はあまりいない。みんな自分自身のことで手一杯で、世間や誰かに認められるために必死で、心が痛いと主張する人間の心に寄り添ってあげられるだけの余裕がないのが現実だろう。

 私は最近ずっと泥を背負っている気分だ。視界が晴れなくてモヤモヤしていて息苦しい。そんな息苦しさの中で生きるとはなんだろうかと考えている時に、モーコがジブリの『かぐや姫の物語』をオススメしてくれたので、観ることにした。観終わる頃には大泣きで顔がグシャグシャになっていた。アニメーションや音の入れ方、最初から引き込まれたけれど、一番私が感動したのはかぐや姫のセリフだった。「私はここに生きるために生まれてきた、私は苦しいも悲しいも楽しいも嬉しいも色々なことを感じるために生まれてきた」、そうかぐや姫は言うのだった。

 私はその言葉に私が苦しいことの理由がわかった。私が死にたいと思う理由がわかった。私は色々なことを感じながら、素直に、純粋に、正直に生きたい、つまり、この世界を楽しみたい。だけど、それがとてつもなく難しい世界だから、私はずっと死にたい女なのだろう。色々な欲望とエゴと嘘に埋もれた世界に、私はきっとショックを受けていて、それを変えたいのだけど、そんな力もなくて、それに気づく人間も少なくて、裏切りと欲望と不平等が平然と押し付けられる世界に未だに戸惑っているのかもしれない。生まれた時からずっとそうなのかもしれない。私はずっと戸惑って生きている。だから私は消えて、何も感じないところに行きたいと願ってしまう。

 息をするだけでも罪悪感が伴う。世間の当たり前が私の当たり前ではないから喜びも悲しみも私は人一倍感じてしまうんだろうか。自分を特別視してしまうクセみたいなのは昔からあるけれど、そんなもんぶっ飛ばしても特別な人間なんだと思わなければやってられないほど、ドラマでも起こらないような事件が私の人生には次々に起こる。こうやってHAGAZINEの連載を続けていて、読んでいる人は私が割と赤裸々に色々書いていると思っているかもしれないけれど、実のところ人様に言えないような事は書いていない。

 けれど書いている事は全て事実であるし、私の人生は本当に災いの連続で、もはや悲観する気も起こらない。とにかく私は死にたいけど死ねないんだから、もうちょっと生きて、絵を描いていたら、いつかは本当に大切な人たちに恩返しできるかもしれないし、私が一番心から願っていることも叶うかもしれない。また風船みたいな気持ちで外を歩けるようになるかもしれない。

 状況が悪いのではない。私が無で感じることを怠っていることに原因がある。色々な物理的事実を省いて、純粋な瞬間を私は捉えなくてはいけない。そこに真実がある。きっとそうなのだ。私が今見ているのは人間であり、かつ人間ではない。それは幻想に近い世界で、私が見るべきところはもっと深い無の場所なのだ。そこに行き着くまでに苦しみは伴うだろうけれど、きっと見えてくる。この世界の現実に囚われてはいけないのだ。この世界にある嘘に囚われてはいけない。私はもっと純粋な場所を見つめていなくてはいけない。

 

 

 途方もなく長い年月がすぎた気がしていたけれど、実際はまだ数年しか経っていなかった。一日は24時間とは思えないほど早く過ぎ去り、一ヶ月は三ヶ月のような気がするし、一年には三年以上詰まっていたんじゃないかと感じる。けれど実際のところ月日は短くもなく長くもない。この世がわからない。でも私はきっとそのうち答えにたどり着くと思うんだ。とてつもない苦しみを乗り越えた先にはいつも私が望んだ結果が待っている。それが遅いか早いか、一回で出る時もあれば何回も繰り返さなきゃいけない時もある。ただそれだけのことなんだ。

 ずっと同じことを書いているような気がして嫌になる。私には他に書けることがないんだろうか。人生の大半を自分が生きていい理由探しに費やしている気がする。

 

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(Photgraphy by MORIKA)

 

 

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PROFILE

吉山森花 よしやま・もりか/沖縄県出身、沖縄県在住。Instagram @morikarma。