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2019年7月21日、参議院議員選挙に寄せて|芳賀英紀

7月21日、参議院議員選挙が行われます。今回はHAGAZINEの代表として、また芳賀書店の代表として、この参院選に関連して、少しだけ皆さんにお話させて頂きたいことがあります。

 

 

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7月21日、参議院議員選挙が行われます。

今回はHAGAZINEの代表として、また芳賀書店の代表として、この参院選に関連して、少しだけ皆さんにお話させて頂きたいことがあります。

現在、日本の状況は決して明るくありません。私自身、豊かさを求め続けた結果、逆に豊かさが失われていってしまっているということを、常日頃、暮らしの中で実感しております。私のように感じている方も、決して少なくないだろうと想像します。

しかし、ここでいう「豊かさ」とはなんのことでしょうか。求人倍率、失業率、貧困率のことなどではありません。あるいはGDPやGNPなど、国民経済の指標の話でもありません。よくメディアでも取り上げられる、幸福度や生活満足度の話などとも、少し違う気がします。

もちろん、現在の社会では生きていくためにお金が欠かせません。貧困や行き過ぎた格差は、間違いなく憂うべき問題です。ただ、私たちの暮らしの「豊かさ」が必ずしもお金とイコールかと言えば、そうではありません。あらためて言うまでもない話ですが、お金は物質的な豊かさしかもたらしてくれないからです。お金では仲間も友人も買えません。お金で繋がった人間はお金がなくなると離れていってしまうということを私は身をもって経験しています。

だから、私が考える「豊かさ」とは、もっと身近な問題に関わります。それは、「日々をどう生き、どう受け止め、どう感じ取るか」という私たちの態度をめぐる問題です。自分ときちんと向き合い、他者ときちんと向き合う。それがきちんと行われているところでは、私は「豊かさ」を感じます。逆にお互いがお互いを罵り合い、それぞれが自分本位に私欲を満たすためだけの行動を取っているところでは、私は「貧しさ」を感じます。

誤解しないでください。私は、「みんなもっと仲良くしよう、もっと思いやりを持って互いに手を取り合っていこう」といったような、お花畑の話をしているのではありません。何かを行うときには徹底的にぶつかり合うことも重要です。きちんと喧嘩することもまた真剣なコミュニケーションの一つです。

ただ、その時に、自分のことばかりを向いてしまっていてはいけない、と私は思います。自分の立場を守るために、自分の利益を守るために、自分の過ちを正当化するために行われる争いは、正直言って不毛です。大事なのは、なんのためにぶつかり合い、なんのために喧嘩するのか、ということではないでしょうか。そして、その争いの理由が、自分より大きなもののため、であることが重要だと、私は感じているのです。

そうした視点に立って、現在の日本を見渡した時、私は現代が「被害者の時代」になってしまっていることをつくづく感じます。SNSなどを眺めていると、毎日のようにたくさんの被害者が加害者たちに向けて呪いの言葉を放っています。一方、そこで加害者と指さされている人たちを見てみると、彼らもまた被害者として加害者たちに向けて呪いの言葉を放っているのです。これではあたかも一億総被害者時代です。誰もが被告かつ原告として、無限に終わらない裁判の只中にいるかのようですらあります。

私はアダルト産業に関わる人間ですが、この業界においても、今書いたような構図が多く見受けられます。たとえば、エロ本というメディアについてもそうです。

最近、コンビニからのエロ本の撤退が決定いたしました。では、この問題における被害者とは誰でしょうか。たとえば、エロ本のコンビニからの撤退を望んでいた人たちは、これまでコンビニにの目立つところにエロ本があることで非常に不快な思いをしてきたわけであり、被害者であると言えます。では一方、コンビニ向けエロ本を作ってきた人たちが加害者かと言えば、そう簡単な話でもありません。彼らはこれまで法の許す範囲で仕事をしてきただけです。そして、コンビニにエロ本を置けなくなることで、大変な経済的不利益を被ることになります。実際に職を失ってしまい、食いっぱぐれてしまうという人も少なくないでしょう。よって彼らもまた被害者であると言えます。

私は双方の立場の人と会う機会があり、またお話を聞くことがあるのですが、気にかかるのは、それぞれ異なる言い分はあるにせよ、共にその語り口において「自分こそが被害者」となってしまっていることです。その時の加害者は特定の人物や団体であることもありますし、時代や社会といった、より大きなものである場合もあります。いずれにしても、大体の場合が「悪いのは○○だ」といったように、何かに加害者性が仮託され、当の自分は無垢な被害者という位置付けになってしまっています。

自分は普通に生きているだけなのに、それを妨害する嫌なやつがいっぱいいる、今の社会って本当に最悪すぎる――ようするに、彼らはそう言いたいわけです。

今はエロ本の例を出しましたが、私には一事が万事、そのようになってしまっているように感じられます。政治についても同じで、「国が悪い」「社会が悪い」「世の中が悪い」、そのせいで「自分は苦しんでいる」というような言葉を数多く目にします。もちろん、そう感じる気持ちは理解します。私もまた、芳賀書店の社長に最初に就任した当時こそ十分な報酬を得ていたものの、あの3.11以降、今に至るまでずっと、月給12万円で生きてきました。日々が苦しいと、どうしても世の中を呪いたくなる、その気持ちは痛いほど分かります。

それに、世の中が間違っていると感じたときに声を挙げること、糾弾することは大切なことです。その声によって、実際に何かが変わることがありますし、またそのようにして変えていかねばなりません。

しかし、一方ではこうも思うのです。自分の苦境を政治や社会のせいにしてみてはいるけど、では、自分にはその状況に対して一切の責任はないのか、自分は本当に無垢な被害者であると言えるのか——と。

私は今年で38歳になります。それはつまり、この38年間、アダルト書店の三代目という奇妙な立場でありながらも、日本社会の構成員として生きてきたということです。では、私はその38年間において何をしてきたのか。何かをきちんと変えようとしてきたのか。もし、今の世の中が「豊か」でないのだとしたら、数多くの「被害者」を生み出しているのだとしたら、その責任は私にはないのか。むしろ、私は今の「豊か」ではない社会の形成に積極的に加担してきてしまった一人ではないのか。

社会が悪い、世の中が悪い、時代が悪い、と言うことは簡単です。しかし、その社会、その時代を作っているのは他でもない自分です。少なくとも、自分はその一人ではあります。私はついさっきこの世に降り立ったばかりのものではありません。私はすでに十分にこの社会の中で生きてきたのです。だとすれば、どうして私が、この世で起こっている全ての問題に関して、「気づいたらこうなっていたんだ」などと無垢な被害者を気取ることができるというのでしょう。どうして、無関係な第三者のふりをして、特定の対象を「加害者」と罵ることができるというのでしょう。

誤解して欲しくないのですが、これは「お前が貧しいのはお前が努力しなかったからだ」といった自己責任論とは全く違います。そうではなく、そうした自己責任論のような冷たい考えが蔓延する社会にしてしまったこと、そのことに対する責任の話です。この責任の所在はどこにあるのでしょうか。この問題の当事者は誰なのでしょうか。他でもありません。私こそがその当事者なのです。

なぜこのような話をしたのかと言いますと、私の目には、今、このような当事者意識を欠いたまま、被害者意識ばかりが非常に広く蔓延しているように感じているからです。勘違いだったら本当にすいません。そうではないという人もたくさんいることだろうと思います。ただ、自分の暮らしの中で感じた苦痛の原因を「社会のせいで」「政治のせいで」と、特定の何かを加害者に見立て、そこだけに限定してしまうような発言が多く見られるのもまた事実です。

これが問題だと感じるのは、そのような態度でいる限り、本当の意味での「豊かさ」は絶対に訪れないと私は考えているからです。たとえば、自分の望んだ政党が政権を取ったとしても、日々の暮らしの中で自分自身が社会を運営する当事者としての意識を持てない限り、また何かあれば「社会のせいで」「政治のせいで」という言葉を口にしなければならなくなります。でも、それっておかしいと思うんです。「社会」を創りだしているのも、「政治」を行なっているのも、本来、自分自身に他ならないんですから。

とはいえ、国の政治に期待なんてしないで、勝手にやっていこうぜ、とも思いません。当然、選挙は重要です。議会を通してでなければ変えられないことがあり、そうした変えるべきことは、はっきりと変ていくべきです。私が言いたいのは、良いと思う政治家に投票し、その人が当選したらそれで終わり、社会は放っておいても良くなり日々の暮らしが豊かになる、だなんて考えてる人がいるのだとしたら、そんなわけはない、ということなのです。

私は書店の人間ですが、出版社がいい本さえ作れば黙ってても売れる、なんてことはありません。売るためには、いい本をきちんと読者に届ける書店の努力が必要であり、またいい本を「いい本」として受け止め、支援するだけの素養を持った読者が多くいなければなりません。本に限らずですが、何を買い、何を買わないか、ということもまた、選挙に行くのと同じくらい大きな一票だと私は感じています。

私個人のことを申しますと、私は世田谷区民の一人として、区議会議員さんとの話し合いのもと、街灯が少ないエリアの住人の方々への聞き込みを行い、これまで街灯設置の取り組みに協力してきました。また、最近では、大変ささやかなことではありますが、骨髄バンクへの登録を行いました。いずれも本当に小さなことです。ただ、この小さなことの積み重ねが、私の考える政治です。それこそ道に迷って困っている人に声をかけ、道を教えてあげるようなところから、政治活動は始まっていくのだと思っています。

もちろん、自らが当事者となり社会を運営していくための方法論をめぐってはさまざまに意見の違いがあることだろうと思います。その場合はしっかりと心ゆくまで戦うのが良いと思います。被害者であることをやめ、真に当事者となったとき、その戦い方や言葉遣いはきっと今とは違うものになっているはずです。少なからず、これまでよりもそれぞれの許容できる範囲は広がっているでしょう。私は個人的に許容の精神を重んじています。

 

 

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さて、長くなってしまいました。選挙前になんだか水を差すようなことを言っていると思われたかもしれませんが、そうではありません。当事者であればこそ、投票には絶対に行きましょう。

ちなみに今回の参院選で私が誰に投票しようと考えているかについては、ここでは明示しないでおこうと思っています。それを明かす以上は、その理由についても書く必要がありますし、この文章を書いた目的は、どこに投票するか以前のそもそも論の部分にあるからです。

ただ最後に、私が政治家を選ぶ基準についてを少しだけ書かせていただくなら、その人物と政策がどれだけ長期的かつ巨視的な視野を備えているか、という点を私は重視しています。ネイティブ・アメリカンは、7代先の子孫を見据えて生きていると聞いたことがありますが、私もそうありたいと日頃から願っています。自分自身が歴史を紡ぐ歯車の一部であるという考えにたつと、今まで見えなかった問題が多く見えてきます。

もちろん、目の前の苦しさを取り除き、豊かさを目指すことは大変大事なことですが、それが次の世代、そのまた次の世代の豊かさとトレードオフの関係にあるやり方なのだとしたら、やはり間違っているでしょう。あるいは、日本の豊かさが、他のどこかの国の貧しさと対の関係になってしまっているとしたら、やはりよくない。きれいごととしてだけではなく、それによって生じた憎しみが負債となって、必ずや未来を圧迫することになるからです。現在に対してだけではなく、未来に対してもまた、私たちはきちんと当事者であるべきではないでしょうか。

その上で、みなさんがどの候補者を選ぶかは、みなさんが考えて決めるべきことです。そして、投票したらそれで満足するというのではなく、その後もずっと考え続けることをやめてはならないでしょう。私もそうしたいと思います。

参院選は7月21日、次の日曜日です。

 

芳賀英紀

 

 

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