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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #05 食べるべきか、食べないべきか、それが問題だ(後編)

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第五回は「断食」ならぬ「不食」への挑戦。ひとは食べなくても「便」をする。

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不食の心構え──「食べない」と「食べられない」

 期間を限定して食を断つことが「断食」、特に期間を限定しないで食を断つことが「不食」、というのが私の捉えだ。

 で、今回、人生で初めて「不食」に挑戦するにあたって、ひとつだけルールを設定することにした。「少しでも無理を感じたらすぐに中断する」というルールである。

 「食べない」と「食べられない」は著しく違う、と私は思っている。

 「食べない」はあくまで自分の選択であるからいつでも止めていい。しかし自分で選んだわけではなく、無慈悲な現実に巻き込まれて陥る「食べられない」という状況、すなわち「マジの飢え」は、自分で止めることなどできるわけもなく、だからかなり「ヤバイもの」である。

 ここで思い出すのは、かつて読んだ、水木しげるの『妖怪辞典』だ。

 ありとあらゆる妖怪が網羅されたその不朽の書の中に、「ヒダル神」なる者が紹介されている。夜、森の中などで道を歩いている最中にこの「ヒダル神」に襲われると、強烈な飢餓感に襲われて、そこから立てなくなってしまう、との記述がそこにある。

 その頁で驚くのは、水木先生が「私は子どもの頃、この『ヒダル神』に出くわしたことがある」とナチュラルに記述している点だ。異界と肉薄しながらも、どこかドライな距離感を保っている印象のある水木先生が、しれっと「この妖怪には会ったことがある」と告白しているのである。どういうことだ、美輪明宏がいつのまにか「前世や守護霊が見える人」みたいなことになっていて軽くショックを受けたことがあるが、それと同じことなのか。

 水木先生は少年時代、「食べ物に卑しい」子どもであったと他の作品などで述懐している。また第二次世界大戦時には遠きジャングルの地・ラウバルに派兵され、そこで食べるや食べざるやの地獄を経験されていたりもする。水木先生にとって、「食べられない」という状況は、実感の値が強い理不尽であり、それが存在性の濃い妖怪の姿に変わったのだろう。

 晩年に至るまでの水木先生のガッツやエネルギーには目を見張るものがあったが(九十歳になろうともいうのにビッグマックを完食した様などはツイッターを騒がせたりした)、あれは「マジの飢え」を生き抜いた人ならではのものだったのだろう。「マジの飢え」を通じて、水木先生は身体の中になにかしらの「物の怪」を宿してしまったに違いない。

 私には、水木先生ほどの生命力を持ち合わせている自信はない。「マジの飢え」とは、できれば生涯、お近づきにはなりたくない。

 そこで、「不食」に挑戦はするが「あ、ちょっとヤバいかも」となったらすぐに中断するというルールを自分に課したのだ。これはあくまで「東海林さだおのエッセイでも読むか」みたいなライトな感覚の挑戦であり、「舞城王太郎の小説でも読むか」みたいな肩に力の入った挑戦ではないのである。

 いったい、どこまで「食べない」は持続可能なのだろうか。

 「食べない」を続けていると、なにが起こるのだろうか。

 私はドキドキしながら、「不食」をスタートさせた。

 

食欲のダンキンドーナツ化

 一日目から三日目に至るまでの間に起きた現象は、先日の「断食」の際の道筋とほぼ同じだった。

 まず、一日目の夜になかなかハードな空腹感に見舞われる。それを乗り越えた二日目、日中は時折、お腹が鳴ったりするが、夜に向かっていくうちに不思議な落ち着きを見せていく。そして三日目、徐々にハイな状態になっている自分に気がつき、夜も深まった辺りでは「なにも食べたくない」というゾーンに突入している。

 さあ、ここからが「断食」の向こう側、未知なる「不食」の領域である。

 四日目。ハイな状態は持続されていた。といっても、頭がギラギラしているとか、全然眠ることができないとか、「そうだ!毎週木曜日に肉屋が来るたび、村から子どもが一人ずついなくなるんだ!これが世界の真理なんだ!」などと妄言を叫びながら半裸で商店街を歩くとか、そういったハイ状態ではない。現状に確かな幸せを感じられるような、穏やかで健やかで、そして静かなハイ状態だ。

 要は、身体が軽やかなのである。

 きっちり、眠気も訪れる。依然として、なにかを食べたいなどを思うこともない。食べてもいいが、べつに無理して食べなくてもいいや、という感じなのである。口にするのは水分だけでいい。

 かつて日本には「ダンキンドーナツ」というチェーン店があったが、ある年を境に全店が撤退し、その姿は消えた。いま、私と同じ世代の者に「ダンキンドーナツ」というワードを伝えれば、必ず「ダンキンドーナツ?ああ、そういえば昔、そういう店があったね」というコメントが返されるだろう。それと同じニュアンスで、私は「食欲?ああ、そういえば昔、そういう欲もあったね」という状態に足を踏み入れていた。

 食欲の存在値が「ダンキンドーナツ」と同等になり、あけて五日目。ここまで食べていなくて平気だろうか、とちょっとした不安がよぎりはしたが、しかし無理はなにもなかった。穏やかな気分の高揚は依然として続き、特になにかを食べたいという欲求も湧かない。「満腹」という状態とは違うのだが、しかしすでに満ち足りてしまっているのである。

 食欲が完全に、私の中から消えていた。

 

ひとは食べなくても便をする

 五日目の夜、驚くことが起きた。便通があったのである。

 「不食」を始めて三日目に至ったあたりから、便通はなくなっていた。食べてないんだからそりゃ当たり前だよな、と思っていたのだが、ここにきて普通にそれはまた現れたのである。なんだ、お前、どこから来たんだ。私の知らない、スタッフオンリーの裏口でもあるのか。

 動揺し、私は慌ててネットで理由を探った。すると、思いも寄らない事実にぶつかった。

 私はいままで、便とは「食べ物の残滓」だと思っていた。しかし、それはかなり大きな勘違いであるというのだ。

 食べ物というのは、人間の身体に取り込まれると、繊維質以外はほぼ全てが一度、吸収される。だから「食べ物の残滓」という概念は、ほとんど存在しないに等しい。

 じゃあ、便の正体ってなんなのか。

 便の内訳から考えていけば、その正体は明らかとなる。まず、水分が約70%。そして消化されなかった繊維質などが約5%(これを『食べ物の残滓』と捉えることはできる)。じゃあ、残りの25%はなんなのかというと、なんと死滅した腸内細菌と、古くなった腸(厳密には『腸粘液』や『腸壁細胞』)だというのである。

 なんてことだ。便って、要は使い終わった腸だったのか。私たちは、自分の身体を排泄していたのか。

 三十年余り生きてきて、初めて知った事実に、立ち眩みを起こしそうになる。つまり「不食」の状態であっても腸内は更新されるから、便が排泄されることは別に異常なことではないのだ。

 体重計に乗ってみる。すると、「不食」開始日より、体重は4キロも落ちていた。ということは、私は4キロ分の「身体」を便で排出したことになる。食べ物を摂取していないのにこうして生きていられるのは、体内に蓄えられていたエネルギーを使っているからだろう。

 つまり私はいま、自家発電状態に切り替わっているのである。たとえ食べなくても、私たちの身体は生命活動をしばらく維持できるのである。

 「一日三食、きっちり食べなければいけません」の欺瞞は、いま暴かれた。べつに食べなくても、しばらくは生きていけるのである。

 なんだか私は、自分の身体に心強い思いを抱いていた。やるじゃないか、お前。頼りないと思っていたけど、踏ん張るときは踏ん張れるんじゃないか。

 ここで私は、マーベルの「ハルク」を想起した。物理学者のロバートは、身体の中に緑の超人を宿しており、負の感情が高ぶった時にそれは発動する。ロバートは巨大な「ハルク」となり、暴れまわる。

 私の中にも、心強い超人が宿っているのだ。それは普段眠ってはいるが、「不食」が高ぶった時にだけ、発動するのである。

 

考えるミミズ

 いや、こんなに自分の身体に感動しているのは、もしかしたらハイな状態が持続しているのが原因かもしれない。私はあわてて、かぶりを振る。

 そういえば、腸でひとつ、思い出した話がある。

 ある日、仕事を通じて出会った、自然科学を研究している学者さんと雑談を交わす機会があった。そこで、「心とはどこにあるか」という話の流れがあった。私は当然、「心=頭」という前提で雑談を進めていたのだが、そこで突然その学者さんはストップをかけてきたのである。

「いや、頭だけに心があるっていう考えは、現代の科学界ではあまり常識的ではないかな」

 え?

 私は戸惑った。脳以外に、感情や思考の座なんてあるのか?

 すると、その学者さんはこう述べた。

「腸にも心はあるんだよ」

 私の戸惑いをよそに、学者さんは続けた。

 たとえばミミズなんかの原始的な生物は、我々の古い祖先の仲間なわけだけど、彼らは私たちのような「脳」を持ってはいない。そこにあるのは腸と神経だ。でもミミズにだって思考があることは確認されている。ということは、進化の道筋においては、腸が先にあって、それから「脳」が作られていったと考えるほうが自然だ。つまり、たとえるなら、腸が「心」の基本のOSで、頭はオプションのクラウドサービス、みたいなことかもしれないよ。

 学者さんは、笑ってそう説明してくれた。

 私は自然科学を愛好している人間だが、しかし「たくさんあるうちのひとつの思想が科学」という捉えの距離感でそれとは付き合うようにしている。だからこの時の学者さんの話は面白くは聞いていたが、どこかで眉に唾もつけていた。

 しかし、もしあの学者さんの話していたことに本質が含まれているのだとしたら、腸ってかなりのハードワーカーだ。思考もして、感情も動かして、ついでに消化や吸収もしなきゃいけないなんて。だいたい、異物を肉体に変換するのって、かなりの離れ業なんじゃないのか。

 そんな考えを巡らせているうちに、こんな仮説が湧いた。

 食べ物を断じると、いままで働き詰めだった腸は休まる。するとOSに無理がなくなるのだから、クラウドサービスである頭もおのずと動きが穏やかになる。デブリや容量が減り、動作がクリアになっていく。

 OSの本来的な機能が明らかになり、頭が主語ではなく、腹が主語、という状態が現れる。これがいまの私に「本当の高揚感」みたいなものをもたらしているのでないのか。

 つまりこのハイな状態は「頭ではなく、やっと身体が主役になった!」という肉体の喜びなのではないだろうか。

 「肉体の喜び」って。自分は村上龍なのか。私は再び、かぶりを振る。「不食」に与えられた高揚は、思考のキャラクターまで変えてしまうようである。

 

永谷園、万歳

 「不食」を続けて、六日目の夜。私はお湯を沸かしていた。お茶漬けを食べるのである。

 もう「食べない」は終わりにしていいかな、と思った。無理が来たというより、単に飽きてしまったのである。それに、このまま続ければ、なんだか「食べない」ではなく「食べられない」の状態に陥ってしまうような気がしたのだ。

 お茶漬けの素を白飯にふりかけ、そこにお湯を注ぐ。胃の奥がキュッと鳴るような、久しぶりの感覚が現れる。

 ゆっくりと箸をたぐる。美味しい。食べ物って、こんなに美味しかったっけ。

 今回、「不食」を試してみて得たものは、ふたつだった。

 ひとつは、「やっぱり何事も真剣にやるものではないな」という感想である。

 どんなことだって、ライトな感覚でトライできれば、それが一番だ。修業みたいな「断食」や「不食」には、どこか違和感を覚える。でも、レジャー感覚で飢餓を味わうことは、けっして悪いことでない。少なくとも、身体は軽くなり、気分はクリアになる。そして、お茶漬けは美味しい。

 「食べない」という縛りを自分に設ければ、おのずとストレスは発生する。でも、それはあくまで穏やかなストレスだ。

 ゆるやかなストレスに身を委ねている状態こそが健康で、ストレスもなく満たされているのにさらに満たされようとしている状態こそが不健康なのかもしれない。「食べたい」という欲求からのストレスがあった時にだけ食べるのが、本当は健康的な判断なのかもしれない。食べることに、そんなに真剣にならなくてもいいのだ。

 もうひとつの、得たこと。それは、自分の身体の中に「奥の手」が潜んでいる事実を知れたことである。

 たとえ食べられない状況に陥ったとしても、私の身体はしばらくの間、生きることを維持してくれる。そのボーナストラックは、案外に長い。だから、「いつか食べられなくなったどうしよう」という不安を強く抱く必要はない。食べられなくなったら、「ハルク」が発動してくれるのである。

 水木しげる先生は「食べられない」という体験を通して「物の怪」のようなものを身体に宿したが、私は「食べない」という体験を通して「超人」を宿した。いや、すでに宿していたということを知った。

 そして、ついでに、忘れかけていた「食べること」の喜びも、知ったのだ。

 ああ、お茶漬け、美味しい。永谷園、万歳。

 ずっと後ろから迫っていた魔王の姿は、もうずっと遠くに霞んでいた。

 それから私は食べることの喜びを知りすぎて、一日四食がデフォルトの生活となり、一気に7キロほど太った。

 そしてまた、「このままでいいのか」と不安になった。

 

『食べるべきか、食べないべきか、それが問題だ』編、了

(illustration by Michihiro Hori)

 

〈NEW RELEASE〉

『ヤバイ鳥』(監修・ワクサカソウヘイ/エイ出版)

 

特報:「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」展が、10月に那覇の沖縄県立博物館・美術館で開催。現在、クラウドファンディング募集中。

 

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。