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神本秀爾 『History Hunters ラスタファーライの実践』 #12 歴史を狩るハンターたちの教え

文化人類学者・神本秀爾によるジャマイカ・レゲエの旅。ボボとSOV、そして日本のラスタたちの実践についてのレポートを経た最終回、あらためて、現世を生きるための教えであり実践としてのラスタファーライの豊かな可能性を考える。

ギルロイの根(roots)と経路(routes)

ここまで11回、ラスタのことを書いてきた。初回に書いたことなどは、もう少し時間が経つと気恥ずかしくて消してほしくなるような中身な気がするけれど、2-7回はボボのこと、8-10回はスクール・オブ・ヴィジョンのこと、前回の11回は日本のことを書いてきた。全12回の予定だったので、ひとまずここで、これまでの話をいったんまとめておきたい。

 

この9月に行ったジャマイカで撮影した壁画

 

この連載の主題はhistory huntersとなっているけれど、実はそのことについては何も触れてきていないので、今回はその話をしないといけない。あと、連載の初回で出したキーワードに、マルチ・グラフト(multi-graft)というものもあった。それでは、こういったキーワード群は、ぼくが経験してきたラスタの世界と、ラスタの世界を描くことでぼくが表現しようとしてきた世界と、どのように結びついているのだろうか。まず、連載の初回でマルチ・グラフトという言葉について書いた内容をおさらいしてみる。

マルチ・グラフトとは、複数の植物をひとつの木の枝や幹に接ぐ、多品種接ぎを指す園芸(藝)用語に由来している。枝や幹にまつわるこの用語は、実は、アフリカ系ディアスポラについて論じたギルロイの根(roots)と経路(routes)という同音異義語を意識している。

そう、このマルチ・グラフトというアイデアには、下敷きにしている根(roots)と経路(routes)というアイデアが存在する。この同音異義語が用いられたのは、ディアスポラに関する文脈で、その後ジェイムズ・クリフォードという人が書いた「ディアスポラ」というエッセイのことも意識している。そのことはともかく、ディアスポラというのは離散した(させられた)人々のことを指す。ジャマイカに即して言うと、奴隷として強制的に移動させられ、カリブ海に植え付けられた(transplanted)アフリカ系の人々は、アフリカ系ディアスポラということになる。もちろん、19世紀半ばから彼らに変わる新たな労働力としてジャマイカに入ってきたインド人や中国人もディアスポラだ。根を絶たれた人という意味では、ジャマイカ白人もディアスポラと言っていいが、彼らの多くは社会の主流であることからは降りなかったという点では、ここであげた他のディアスポラとは立ち位置は大きく異なる。

連載の第3回目で古谷嘉章さんの『異種混淆の近代と人類学』(2001)という本について少し触れた。そのなかで古谷嘉章さんは、「アイデンティティ=文化=地域=歴史」という等式を出して、「この等式を無条件に前提とするイデオロギーは、このイデオロギーによって不利益を被る人をさえ支配してきたのだ」[古谷2001:54]と述べている。それでは、ジャマイカにおいて「アイデンティティ=文化=地域=歴史」という等式はどのような強制力を持つのかあらためて考えてみたい。

 

歴史を狩り、歴史を編み直す

この等式が意味するのは、特定地域の歴史が刻印された文化の中心的な担い手であってこそ、首尾一貫したアイデンティティが担保されるというようなことである。ジャマイカという地域で先住民は死に絶えてしまったけれど、中心的な地位を占めてきたのは、イギリスの植民地化が進むなか移住してきたイギリス人を中心とした白人である。つまり、ジャマイカではイギリス的文化に高い価値が置かれてきた。それは同時に、その他の文化を否定したり、低い位置を与えたりすることで担保されるようなものだった(より正統なものは本国にあるとしても)。

一方で、アフリカ系ディアスポラの場合はどうだろうか。彼らの多くは西アフリカに起源を持つが、その文化の多くはプランテーションで生活するなかで失われていったし、残っていたとしても、正統的なものとはされてこなかった。少なくとも、各地から寄せ集められた彼らは、公用語である英語、あるいは英語にアレンジが加わったパトワを用いなければ意思疎通もままならないようになっていったのであり、アフリカ由来の世界観や身体技法をいくらか保っていたとしても、それが、いつの時代のどのトライブのものなのかということなどは、わからなくなっているのである。

例えば、西アフリカ、ガーナの民族分類を見るといろんなトライブの名前が出るのに、ジャマイカでは黒人(black)となっているのは、彼らが数世代にもわたって混淆していくなかで、全体として黒人としてしか呼び表せないような存在になっていったことを意味している。そして、何よりも、彼らの過去と結びついたアフリカ由来のものは、長期にわたって低い価値を与えられてきた。肌の色は薄い方が、髪の毛はストレートに近い方が好まれる、というジャマイカの一般的な感覚が現在も残っているということが、何よりもの証拠である。

そのような社会のなかでラスタが試みたことは、彼らの元ご主人様、宗主国の人びとのものだったキリスト教聖書を再解釈して大胆に読み替え、アフリカ系(あるいは黒人)というアイデンティティをリスペクタブルなものとするために、オルタナティブな文化・地域・歴史を創造したということだ。ただし、それらは、前回のエッセイで書いたように、ジャマイカという土壌に染み込んでいる聖書宗教的な世界観自体に疑いの目をもつことはなかった。

とは言え、宗教的信念が宗教的信念で有り得るのは、無根拠なものを信じ、その信念にもとづいて世界を理解するところにあり、ラスタの文化・地域・歴史観は、かなりの程度、信念の領域に関わるものである。ボボがドレッドをターバンで覆いホウキを製作する時に言及する過去は、史実というよりも物語に属する。史実を積み重ねてなるべく客観的な物語を作り上げようとするのが正統な歴史の編み方だとすると、ラスタの場合は、物語を担保し強化するような史実を拾い上げてつなげたり、新たな解釈を加えたりすることで歴史を編み直すブリコラージュ的な方法をとる。第7回で書いた、ジンバブエでの白人経営農場の強制接収をめぐるぼくの理解とクレイグの理解がずれたのは、そういうことだ。このような意味で、彼らは歴史をhuntし(狩り、追求し)、必要なものだけを取捨選択し集める傾向が強い[1]

 

不発弾に足をかけるセラシエ

 

彼らが物語的な過去に固執するのは、彼ら自身はジャマイカ社会の歴史の中心的な語り手ではなく、むしろ一方的に語られてきたからであり、彼らをめぐる物語は、彼らを肯定するよりも否定するものに偏ってきたからである。否定されてきた過去に肯定的な意味を与えるために、彼らは聖書の様々なエピソードや過去の出来事に再解釈を加えた。エチオピアに侵攻していたイタリアの不発弾に足をかけたセラシエの写真は、聖書世界の現前とも言え、ヨーロッパ世界に立ち向かうアフリカ世界というビジョンを示すものにもなった。しかし、そのような二項対立的な世界観へのこだわりは、ラスタファーライに内在する対抗性を刺激し、簡単に他者への優越意識にも結びついた。ボボ内部でもマイノリティに対する差別的な発言を生み出すことがあった。そうは言うものの、ラスタのなかでボボは割と柔軟な方なので、そうでないグループの人たちのなかに行ったときなどは、彼らこそレイシストだと思うときすらあって、物足りなさを覚えたこともあった。ラスタの世界でぼくは当然のようにマイノリティなので、黒さへの肯定を通じて、普遍的な愛に到達しようとしたマルティネス(第7回)のようなスタンスに強く共感する。

たしかに聖書を読み替えて自分たちの救世主を称えるというカウンター攻撃にはインパクトがあった。ただ、カウンター攻撃を始めたとしても大事なのはその結果で、マルティネスの視点に寄り添うならば、せめて同じ側に立とうとしている仲間とのチームワークがうまくいくように心がけるべきだろう。自分たちの過去というルーツ(根)にこだわりすぎていては、いま目の前にいる人、同時代を生きている人と目線を合わせて素直に向き合うことができず、結果的に出会い損ねてしまうような気がする。そういうことを残念に思うときがあるからこそ、起源ではない、経路の方のルーツも重視しようというギルロイのアイデアは、拙速に判断を下すことなく、お互いに宙吊りのアイデンティティの持ち主として対峙するべきという要請を感じて、実践的なものとしてぼくは気に入っている。

 

究極の「one love」という答え

ここまで書いてようやく、マルチ・グラフトという言葉の手前まで到達した。この言葉を使いながらぼくの頭の中にあるのは、人間を木になぞらえてイメージしたとてもシンプルなヴィジョンだ。一般的に根は地上から見えない。そして過去を想起させる響きがある。それと比べて、幹やその上に生い茂る枝葉は簡単に見ることができるし、風に吹かれる様子も見えるし、変化も捉えやすい。

多くの人にとって、幹になるアイデンティティは(日本人でもアジア人でもなんでもいいけれど)、基本的に変わりづらいものだと思う。ただ、積極的に異種を接ぎ、その癒着した一部だけでも融和的に変容していくことで、自分と異なる存在と共生する未来のことを考えられるようになるのではないだろうか。そして、みんなが変なところからよくわからない花を咲かせたり、実をつけたりするようになって、標準的な木という概念などなくなってしまえばいいと思っている。

そういった意味で、ぼくは「ラスタファーライが答えだ」と言い切ってしまう人はあまり信用できない。むしろ、過去や歴史と向き合い、他者との未来を開くためのきっかけであっていいと思う。その先に究極のone loveという答えに人々が到達するのが、現世を生きるための教えであり実践(way of life)としてのラスタファーライの豊かな可能性だと思う。少なくとも、かつてぼくが憧れて自分に接ぎ足したラスタファーライという枝は、こういうことを言う人間にぼくという本体を育てた。そのことをぼくは気に入っている。

ここまで書いてSkip MarleyとDamian Marleyのコンビネーションを思い出した。そのなかでのDamianのパートは、とてもシンプルで、ここまで言い切ってもらえると清々しい。

 

Health is better than wealth, and peace is better than war.

Now is better than later. The present is better than past.

 

Healthと書いて思い出したついでに、最後にあとひとつだけ余計なことを。自分を木になぞらえると、アイタルが自然な栄養となっていることを実感できて、よりおいしくなるのも気に入っている。

 

 

 

ハーフウェイツリーのアイタル・レストランで

 

[1] どれほどのラスタがラスタファーライに混じり合っているインド的な要素を肯定するか考えてみるといいかもしれない。

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

神本秀爾 かみもと・しゅうじ/1980年生まれ、久留米大学文学部准教授。専門は文化人類学。著書に『レゲエという実践—ラスタファーライの文化人類学』(京都大学学術出版会)など。