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神本秀爾 『History Hunters ラスタファーライの実践』 #03「僕はラスタにはならない」

文化人類学者・神本秀爾によるジャマイカ・レゲエの旅。ラスタファーライの歴史と実践を追う。ボボが語る「客観的事実」からはズレた歴史と、僕たちはどのように向き合うべきなのか。2年間の滞在で神本が出した答えとは。

ジャマイカとは“混血”的な空間である

今回は、「現実とはそもそも何なのか」ということを少し真面目に考えて、ボボの人々の世界との向き合い方を、僕たちがどう理解できるのか考えてみたい。

ラスタをめぐるたいていのシンプルな説明を読むと、ネットのものでも本などでも、彼らは、強制的に奴隷として連れてこられる前に暮らしていたアフリカやエチオピアへの帰還を要求している、と書かれている。では、それはアフリカのどこなのだろうか。歴史をたどると、アメリカス(南北アメリカ大陸やカリブ海地域)に送り込まれた奴隷のほとんどは、ギニア湾沿岸にあるダホメ王国やベニン王国、アシャンティ王国などから購入されているので、肉体的なルーツは西アフリカにあると言える。一方で、エチオピアは東アフリカにある。この2つの地域では、そこで暮らす人々の言語や習慣はもちろん、体格もかなり違う。エチオピアは、ハイレ・セラシエが出現したことによって(そもそもそこからラスタが誕生したのだが)、帰還先として名指されるようになったのである。このことを適当だとか曖昧だとか言ってしまうと、それは現実を見誤る。

ジャマイカとは、西アフリカの多様な場所から連れてこられた人々が、それまでとは言語も習俗も異なる環境で生活をしていくなかで、数百年にわたって文化的にも混血を続けてきた空間である。もちろん、この空間には少数の白人やインド人、中国人やレバノン人なども同居して、彼らとも混じり合い続けている。そう考えると、「ジャマイカ人」の厳密なルーツをたどることは不可能なのである。

古谷嘉章さんは、『異種混淆の近代と人類学』(2001)という本のなかで、「アイデンティティ=文化=地域=歴史」という等式を出して、この等式の強固さを指摘する。この等式を無条件に前提とするイデオロギーは、このイデオロギーによって不利益を被る人をさえ支配してきたのだ[古谷2001:54]。このようなアイデンティティの理解の仕方は、近代の国民国家ができあがるプロセスで作り上げられてきたものである。ただし、そのプロセスとの向き合い方や結果は、時代や地域、そのなかで暮らす人々によって異なった。古谷さんは同じ本でブラジルのインディオは、「近代への別の入り方」をしたと言う絶妙な表現を使っている。そう、近代は各地でさまざまに経験されるのであり、世界には複数の近代(化)の経験のみが存在している。ラスタも、彼らなりの近代を生きてきたのであり、現在の表れはその止まることのない変化の瞬間を切り取ったものに過ぎない。今回は、最初にそのことを確認しておきたい。

 

ガーヴェイの黒人王国と『出エジプト紀』

ボボのコミューンの門を抜けてすぐのところにあるボードには、Ethiopia Embassy in Jamaica (Egypt)と書かれている。日本語にすると在ジャマイカ(エジプト)・エチオピア大使館ということになる(その他に国連がシンボリックに使われてもいるが、これは別のところで述べる)。この文字を見て僕が最初素直に受け止められたのは、エチオピアとジャマイカの二つの単語だけだった。ただ、この、大使館とエジプトという言葉はとても興味深かった。なぜなら、大使館という、近代の国民国家制度と深く関わっているものと、ジャマイカに根ざしているキリスト教の世界観と深く関わっているエジプトが一つのフレーズに混じりあっていたからだ。

 

在ジャマイカ(エジプト)・エチオピア大使館と書かれたボード

 

ジャマイカやトリニダード・トバゴなどのカリブ海のイギリス領植民地では、1838年8月1日に奴隷が解放された。だが、ボボでは、この奴隷解放は不十分なもので、現在も自分たちは隷属状態にあると説明されている。彼らは、次のような解放のヴィジョンを語る。奴隷解放とは、植民地支配にまつわる補償の一環としておこなわれるべきもので、大西洋をまたいで生きる、自分たちの先祖や地域に対する補償のひとつが、アフリカへの帰還だというものである。

そして、帰還のプロセスについても主張がある。帰還が実現する際に人々は、このコミューンで手続きをして、目の前に広がる海からエチオピアあるいはアフリカ各地に船で戻るべきだとされているのだ。この船には名前まである。それは、セラシエの戴冠を予言したとされる、ジャマイカ人の活動家でビジネスマンのマーカス・ガーヴェイ(1887-1940)所有の会社の船名、ブラック・スター・ライナーである。先に西アフリカのことを書いたので、ブラック・スターと聞いてサッカーのガーナ代表を思い出す人もいるかも知れない。ガーナと聞くと、ボボのコミューンの建物の多くはガーナ国旗の柄に塗り分けられていたということを思い出した人もいるだろう。実は、ここには大西洋をまたいだ、深いつながりがある。

マーカス・ガーヴェイという人はUniversal Negro Improvement Associationという組織をアメリカで作って、リベリアでの黒人王国の設立とか、黒人中心の経済網の確立などを主張していた分離主義的な人物だ。そして、このようなガーヴェイの思想に、ガーナの初代大統領クワメ・ンクルマ(1909-1972)は共感していた。このことが、ブラック・スターという、ガーナ代表の愛称の由来なのだ。それだけでなく、ボボの創始者エマニュエルは、1957年のガーナの独立後の1958年3月1日から約2週間、アフリカ帰還を要求する大規模な集会をキングストンのダウンタウンで開催していて、この日はグループの設立日とされている。ただ、そこから60年以上も経っているし、当然、ボボのなかも一枚岩ではないので、エチオピアを入口として、そこからガーナに戻るべきだという人がいれば、肉体的なルーツとしてはより近いガーナに直接戻るべきだという人もいる。いずれにしても、不法(無法状態)で連れてこられた人々が戻る際には、近代の制度である大使館というものを介さなければならない、という主張がボボと近代のもつれのひとつのあり方である。

 

ゲートハウスにかけられていた絵。下にある船にはブラック・スター・ライナーと書かれている。

 

それでは、エジプトの話に進もう。このエジプトは旧約聖書の『出エジプト記』のエピソードに由来している。このエピソードは、エジプトで暮らしていたイスラエルの民が、ファラオ(王)に奴隷化されるのだが、モーゼが彼らを率いてエジプトを脱出するというものである。紅海を二つに割って進んで追手から逃れたという話や、シナイ山で十戒を授かった話は知っている人も多いだろう。ここまで書くとジャマイカがエジプトと併記されている理由に気づくだろう。ジャマイカは、エジプトなのだ。ボボが、現在も自分たちは隷属状態にあると言い、そこからの解放の要求をするとき、アフリカ帰還は単なる政治的主張を通り越して、自分たちこそ救済されるべきだという選民思想とも結びついていく。場所との結びつきを強調するところに注目するなら、イスラエルへの帰還を主張するユダヤ教徒のシオニズム(Zionism)と同じ系統に位置づけることも可能だろう。

 

調査では頻繁に聖書の話が出るので、最初のころはノートと合わせて聖書を持ち歩いていた。

 

ボボの「歴史」をどう受け止めるべきか

ここで、この先の話とも関わる重要な問いが出てくる。それは、このようなボボの主張をどのように受け止めるべきなのか、ということである。少し前に「近代への別の入り方」という言葉を紹介したが、この言葉は、時代や地域によって、ある程度似た「近代への入り方」が存在した可能性は排除しない。そして、実際に、植民地化をきっかけとして、近代的な制度やキリスト教の選民思想がローカル(土着)のコンテクストに出会ったときに予想外の文化変容が起きて、新たな集団が出現している。

そのような現象については、宗教人類学と呼ばれる分野の研究として主に議論されてきた。たとえばフィジーのヴィチ・カンバニ運動(1910年代〜)[春日1999]では「会社」、ラミ運動(1940年代〜)[丹羽 2009]では「協同組合」という近代的制度と現地の土着の集団運営の論理が混じりあった新たな集団ができあがった。ユダヤ・キリスト教的な救済願望・預言者待望願望の要素が強いものとして、同じ南太平洋では、ソロモン諸島のクリスチャン・フェローシップ・チャーチ(1960年代〜)[石森2011]や、地域を変えれば、コンゴのキンバング運動(1920年代〜)[バランディエ1983]などもそのような例としてあげることができる。

このような運動は、『虐げられたものの宗教』の著者、ランテルナーリのように、当時の西洋人の目線を基準として「非理性」や「狂気」と分類されることがよくあった。しかし、植民地が続々と独立国家になっていったことや、現地人の研究者からの批判が出てきた、いわゆるポストコロニアルの時代を経て、このような外部からの一方的な査定の眼差しは批判の対象となっていく。ラスタの場合も同様で、初期の新聞記事や報告書では、差別的なニュアンスを持つ、ラスタファリ・カルトと呼ばれていた。その後、現地西インド大学の研究者たちによる、ラスタにかなり理解を示した報告書が出されたことや(1960年)、ジャマイカが独立を迎え、旧宗主国であったイギリスの影響を脱しながらナショナル・アイデンティティやエスニック・アイデンティティが模索されるなかで、ラスタへの好意的な見方が増えてきたことなど、これまたいろいろなプロセスを経て、ラスタファリ運動とかラスタファリアニズム、ラスタファーライという呼び方へと変わってきた。

1962年に独立国家になったジャマイカでは、かつては規範のような位置を占めていた、旧宗主国のイギリス的価値観とは異なる自分たちらしさが求められるようになった。そのような時代状況で、ラスタの、アフリカ的とされる要素を礼賛する側面は肯定的に評価され、ラスタは社会の中に「いるのが普通」の存在になっていった[Edmonds 2002]。このことは、カルトとして迫害され、場合によっては虐殺されてきたことを思い返すと、前向きに捉えるべきことである。このあいだで、主流社会(マジョリティ)の人々の平均的なラスタ認識が、「あの人たちは頭がおかしい」というのから、「あの人たちはそう考えるようだ(本当は違うけど)」に切り替わったということをできる。ただ、これでは、冒頭に書いた、「ボボの人々の世界との向き合い方を、僕たちはどう理解できるのか」という課題への答えとしては不十分だ。

そこで、簡単な思考実験をしてみよう。「ボボ・シャンティは在ジャマイカ・(エジプト)・エチオピア大使館である」という言明に対して、僕たちはどのように向き合うことが可能なのだろうか。一緒になって「そうだ」とか「そうであるべきだ」とか「そうかもしれない」と自分なりに実感することは可能だろう。異文化に入った人類学者がフィールドワークで最初に求められるのは、このような想像力を鍛えることである。歴史学者ということにはなっているが、そういった試みをギリギリまで推し進めた研究の例として、僕が院生になりたての時に読んだ、オーストラリア・アボリジニの研究をした保苅実さんの『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(2004)をあげることができる。これは、異文化の人が語る、僕たちが習ってきた歴史の語り口からすると「間違い」とされる歴史を真に受けることで、自分たちの歴史の捉え方を揺るがしてみるというとてもラディカルなものである。彼は、「客観的事実」としては誤りとされる、「ジョン・F・ケネディが自分たちの農場に来た」というアボリジニの語りを、「本当に来たのかも知れない」と真に受けるところから、彼らに見えている世界について論じようとした。

研究者見習いとして僕が最初にやらなければならなかったのは、ボボで出会うラスタたちが語るアフリカや黒人の歴史、植民地支配の歴史、同時代の状況の分析に耳を傾けることで、それは常に「客観的事実」とのズレを点検する作業でもあった。学問としては当然の作業だけど、そういった作業をやっているあいだに気づいたのは、僕はラスタにはならない、ということだった。彼らの語りの根底には、セラシエやエマニュエルへの強い思い入れや、そうでなくてもラスタ的な世界の捉え方があって、そこでは客観的な検証への関心は低い。宗教的な信念といってもいいが先に求める答えがあり、そこにたどり着くために情報を整理するというのがたいていの彼らのものの見方で、僕はその世界を疑わずに真に受けることはできなかった。僕には、彼らの世界に浸りきるのではなく、その内と外を行き来することの方が向いていた(ただ、これはラスタの場合、ある程度正確な事実認定ができる歴史が関わっていたことも関係しているかも知れないし、日本で生まれ育った人間として感覚的に理解しやすそうな、アニミズムなんかがテーマだったら、違ったような気もする)。

僕は博士論文を仕上げるまで、2年弱ジャマイカで過ごした。その間、ボボでセラシエには会わなかった。エマニュエルにも会わなかった。ただ、保苅さんのアボリジニの話のように、セラシエがボボに来たと語る人はいたし、1994年にエマニュエルが亡くなる以前からボボで暮らしていて、彼を身近に感じながら生きている人たちと共にいた。そして、できる限りその感覚に寄り添おうとしながら過ごしてきた。次回からは、彼らの語りやエピソードに迫りながら、彼らの生きる世界について書いていきたい。

 

引用、または言及した文献(50音順)

石森大知2011『生ける神の想像力ーソロモン諸島クリスチャンフェローシップ教会の民族誌』、世界思想社。

Edmonds, E.B. 2002 Rastafari: From Outcast to Culture Bearers, Oxford University Press.

春日直樹1999『太平洋のラスプーチンーヴィチ・カンバニ運動の歴史人類学』、世界思想社。

丹羽典生2009『脱伝統としての開発ーフィジー・ラミ運動の歴史人類学』、明石書店。

バランディエ、ジョルジュ1983『黒アフリカ社会の研究ー植民地状況とメシアニズム』(井上兼行訳)、紀伊国屋書店。

古谷嘉章2001『異種混淆の近代と人類学-ラテンアメリカのコンタクト・ゾーンから』、人文書院。

保苅実2004『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』、御茶の水書房。

ランテルナーリ、ヴィットリオ1976『虐げられた者の宗教ー近代メシア運動の研究』(堀一郎・中牧弘允訳)、新泉社。

 

〈MULTIVERSE〉

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「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

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PROFILE

神本秀爾 かみもと・しゅうじ/1980年生まれ、久留米大学文学部准教授。専門は文化人類学。著書に『レゲエという実践—ラスタファーライの文化人類学』(京都大学学術出版会)など。