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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #8 お金をめぐる冒険 ── 「泥団子の数だけ強くなれるよ」編

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第八回は「お金」編その三。物語は10年前のニューヨーク、もらいタバコをめぐって路上で問答する三人の男から始まる。

<<お金をめぐる冒険── 「必ず最後に液体は勝つ」編を読む

くしゃくしゃの1ドル紙幣──ニューヨークの路上にて

 お金について考えを巡らせているうちに、ある思い出が蘇った。

 十年ほど前、友人たちと三人で、ニューヨークに旅行で訪れた時のことだ。

 滞在三日目にして、ブロードウェイのミュージカルに有り金のほとんどを使い果たし、財布の中身を乏しくしてしまった我々は、マンホールから湯気の立ち昇る真冬のニューヨークの街を、特に行く当てもなく、途方に暮れつつ朝から歩き続けていた。ここは、お金を持っている者にとってはエンターテイメントに溢れた魅力的な観光地だが、そうでない貧乏旅行者にとってはとことんシビアな街なのだ。

 この街では、レストランでちょっとしたランチをするだけで「飲み会か」みたいな支払いが発生する。これでは日本に帰り着くまでに破産してしまうではないか。しかたがないので、路上の屋台で一番安いプレッツェルを買い求め、それで空腹をしのぐ。安いプレッツェルほど粗塩が効いており、ちょっとかじるだけで「海で溺れている」かのような味が口の中いっぱいに広がる。「貧乏人に複雑な味など必要ない、塩化ナトリウムのシンプルな味だけ感じられればそれで十分だろう」というドライな主張がそこには込められているように思えた。

 ニューヨークという街で溺死しそうになりながら、私たちはふらふらと歩き続ける。すると友人の一人が、私に声をかけてきた。

「なあ、タバコを二本、売ってくれないかな……?」

 私たち三人は、全員喫煙者だった。そして、当時のニューヨーク市では、タバコの販売価格がひと箱10ドル、日本円で約千円もした。「禁煙促進策」の名のもとにバカみたいな高額設定がなされているのである。

 こうなってくると、おいそれと簡単にタバコを買うことはできない。だから我慢をすることになるわけだが、それは長くは続かない。三人の中から、10ドルを断腸の思いで支払い、ひと箱のタバコを手に入れる者が現れる。そして他の二人は、その者に幾ばくかの恵みを乞うことになる。しかし、なにせ一本50セント(約五十円)もする代物だ。もらいタバコというのは、さすがに気が引ける。

 そこで、金銭によるやり取りが生まれた。二本なら1ドル、四本なら2ドルの計算で、タバコとトレードするわけだ。

 私は、先ほど地下鉄のキオスクで、なけなしのお金を使って買ったタバコの箱を開けて、そこから二本取り出し、友人に渡した。彼はそれをうやうやしく受け取ると、1ドル紙幣をこちらに渡してきた。そのやり取りは、ニューヨークに着いてから、我々の中ですっかりおなじみの光景となっていた。

 ニューヨークには世界に名だたる美術館がいくつも存在している。博物館も劇場もある。でも、お金のないニコチン中毒者がこの街でできることは、友人にタバコをねだりながら散歩をすることだけである。それって、ニューヨークじゃなくてもできる。葛飾区の青砥とかでもできる。我々は、いったいなにをしにこの街にきたのだろうか。

 半日歩き続けているうちにすっかり疲れ果て、公園のベンチに腰を下ろした。するとまたしても、「タバコを売ってくれ」という声が友人からかかる。私は慣れた手つきで、箱から二本、タバコを取り出した。

 と、その時。

「ちょっと待ってくれ。オレから買ってくれれば、三本で1ドルにしておくよ」

 そんなセールスの声を、もうひとりの友人が上げたではないか。見れば彼の手元には、いつのまに買ったのか、真新しいタバコのパッケージが光っていた。

「しかも、オレのタバコはロングだぜ。コストパフォーマンスも最高だ」

「おいおい、本当に、三本1ドルでいいのかよ?」

「ああ、大丈夫だ。うちは明朗会計でやらせてもらっているからな」

 それは、歩き続けること以外にやることのない「暇」から発生した、遊びのようなものだったのだろう。「タバコを値崩れさせて客を奪い取る」ごっこだ。

 こうして、私は「客」を取られた。取り出していた二本のタバコが、私の手元で虚しく行き場を失う。

 三本1ドルでタバコを買うことに成功した友人は、嬉しそうにそれを口元にくわえ、火をつけようとしている。

「ちょっと待ってくれ」

 気づけば、私は声を上げていた。

「オレからタバコを買ってくれれば、四本で1ドルにする」

 悔しかったのだ。遊びだとわかっていながらも、さっきまで自分の「客」であったはずの友人が、別の友人の「客」になることが、やけに悔しかったのである。大体、「きっとこの箱の中のタバコの半数は友人たちに売ることになるだろう」という目算で、私はこの10ドルもする嗜好品を買っているのである。「客」を取られてしまっては、当初の採算イメージが崩れてしまうではないか。

「おいおい、四本で1ドルだなんて、商売あがったりなんじゃ……?」

「大丈夫だ、そのかわり、これからはオレだけからタバコを買い続けると約束してくれ」

「よ、よし。じゃあやっぱり、お前から買うことにする」

 こうして「客」はこちらへと寝返り、「三本で1ドル」を謳っていた友人にタバコを返品すると、私に1ドルを渡してきた。私は商売に成功した。

 三人の中に流れていたトーンが、「遊び」から「本気」へと変わっていく。

 「客」を奪還された友人は、悔しそうな表情を浮かべていたが、もう遅い。私が提示した「四本で1ドル」は、すでに原価割れなのだ。もうこれ以上、値崩れを発生させることはできないのである。彼の商売は、ディスカウントショップの棚卸セールに負けたのである。

 しかし。

「ちょっと待ってくれ」

 敗者であるはずのその友人が、そこでさらにストップをかけてきた。

「うちもいまから、1ドルで四本にする。そしてサービスとして、ライターで火をつけさせていただきます」

 なんと彼は、付加価値を提示してきたのである。

「ほう……」

 そのセールスの言を聞き、「客」の口元がニヤリと曲がる。そして私に、

「悪いけど、そういうことだから……」

 と言いながらタバコ四本を戻し、手元から1ドルをひったくると、それを「ライターで火をつけるサービス」によって起死回生のビジネスチャンスを図った友人へと再び渡した。

 「客」がタバコをくわえると、私の商売敵は「これからもよろしくお願いしますよ……」と媚びへつらいながら、火をその口元へと差し出した。「客」は、満足そうにニューヨークの寒空に紫煙を吐き出していた。私はその様子を、ただただ敗北者として眺めるしかなかった。

 それから、三人の間に、非常に低次元の経済活動が生まれた。

 誰か一人が「タバコを売ってくれないか」と言い出すと、他の二人からは「うちは四本で1ドル!」という声が同時に上がり、そして、

「うちから買ってもらえれば、吸い殻の処理もいたします」

「うちから買ってもらえれば、秘密の喫煙スポットを教えます」

「喫煙後にガムをおひとつ、付けさせていただきます」

「タバコの臭いって、嫌ですよね。宿に戻った際にはお洋服にファブリーズを……」

 などと、様々なサービスが提示され、「客」の取り合いが始まるのである。

 こうして、我々三人の喫煙者の間で、くしゃくしゃになった1ドル紙幣が何度も循環していった。

 こうなってくると、1ドル紙幣はだんだん「誰か一人の独占物」ではなく、「三人の共有物」という意味合いを強く帯びていく。

 全員がタバコの供給者であり、需要者であるわけだから、誰かが販売者になったり、購買者になったりを繰り返すのだ。1ドル紙幣は次から次へと目まぐるしいスピードで三人の手元を巡り、やがては「抽象的なもの」へと姿を変える。

 「あれ?この1ドル紙幣って、誰のものだったっけ?」などと考える暇もなく、目の前にいた1ドル紙幣は他の友人の手にわたり、そうかと思えばすぐに自分の財布の中へと帰ってきて、そしてまた消えていくのだ。だんだん、その1ドル紙幣の持っている価値が、不明のものとなっていく。

 『ちびくろサンボ』のトラたちが樹を中心にしてぐるぐると回っていたらバターになってしまったように、お金も限定された場所で高速スピンをすると、その実体を溶かし、ペースト状になってしまうのである。

 そうしているうちに、その1ドル紙幣に対しての個人的な固執は消える。というよりも、固執のしようがなくなる。「これは自分のお金である」という意識を払う隙もなく、その1ドル紙幣は圧倒的なスピード感を伴って循環されていくからだ。そして循環されればされるほど、1ドル紙幣は帰属先を失っていく。

 そのうちに販売者と購買者の境が曖昧となり、だからサービス供給も矮小化の道をたどり、最後は「もうお金とタバコをトレードするの、まどろっこしいからやめないか?」ということになり、「もらいタバコをしたら、いずれ同じ本数のタバコを返す」というなんとなくのルールへと落ち着いていった。要は、長いスパンでタバコを貸し借りし合うというか、もしくは長期的な目線でタバコをシェアするというか。役割を失った1ドル紙幣は誰かのポケットの中にしまわれ、そして二度と登場することはなかった。

 おそらく、それは世界で一番低俗なキャッシュレス化の景色だったと思う。

 お金をお金たらしめている天下のウォール街が鎮座するその土地にて、私たちは「お金をお金たらしめない」という、ささやかにしてよくわからない経済圏を生み出していた。これは資本主義の先を行っているのか、それとも逆行しているのか。

 いまでもニューヨークのことを思い出すと、くしゃくしゃになった1ドル紙幣の姿が浮かぶ。

 

石よりもバカバカしいものを求めて

 「いまでもニューヨークのことを思い出すと、くしゃくしゃになった1ドル紙幣の姿が浮かぶ」などといった一文でパートを結ぶとまるで自分が村上春樹かなにかになった気分になるわけだが、これは『羊をめぐる冒険』ではなく、『お金をめぐる冒険』である。

 そう、お金。私は、お金の正体を突き止めてみたい。

 だから、石を売ってみた。どこにでも落ちている石は、「価値のない」ものとされているからだ。「価値のない」ものがお金に化けるのであれば、「価値がある」とされているお金の存在値はブレる。そのブレの中に、うっすらと浮かぶものこそが、お金の本当の正体なのではないか。

 そして、石は実際にお金へと姿を変えた。だが、私はそのブレの中に現れた「お金の正体」らしきものの影を、きちんと目視することができなかった。

 もっと、お金をブレさせなければならない。

 もっと、価値のないもの、しょうもないものを、売らなければならない。

 しかし、石よりもしょうもないものって、一体なんだろう。

 逡巡を重ねてみたが答えは出ず、ならば他の意見を募ろうと、周りの人たちにも尋ねてみた。

「ウシガエルを売ってみたら?」

 そんなアイディアを挙げる人がいた。

 曰く、田んぼなどに生息しているウシガエルは大学や研究施設などの実験材料として重宝されており、個人で捕獲した個体を販売することも可能だという。しかも、けっこう良い値段になるという。

 うーん、ウシガエルか。

 たしかにカエルを捕獲し、それを売っている自分を想像すると、なかなかにバカバカしい気分になる。だが、どこかでその行為は切実さをも伴っている感じがして、それがどうにも引っかかる。だって、ウシガエルは実験用として役立てられるのだ。そこには、商品としての価値がある。社会的な意味がある。私はもっと、意味のないものが売りたいのだ。

「タマムシを売るっていうのはどう?」

 そんな提案をしてくる人もいた。タマムシといえば、真夏日に現れる、蠱惑的なグリーンを羽色に纏った、美しい虫である。

 たしかに、虫を売るというのは、なかなかに無意味である感じがする。私は昆虫採集を趣味としており、昨年の夏にいくつかタマムシの死骸を草むらの陰で拾い持ち帰っていたりもしていたので、それを試しにフリマアプリで出品してみた。

 すると、タマムシはすぐに数百円で買い取りが決まった。ああ、売れるんだな、虫って。

 だが、石が売れた時のような快感は、そこには全く流れてはいなかった。だって、タマムシはそもそも、「美しい」という価値を有しているのだ。それに、虫が好きな者たちはこの世に多く存在している。一定数のマニアがいるということは、市場がすでに開かれている、ということだ。需要がはびこっているということだ。

 ダメだ、タマムシもダメである。

 もっと無意味なものはないのか。売る価値がなく、買う価値がなく、マニアも存在せず、市場も開かれておらず、需要のないものはどこかにないのか。

 私は外を散歩しながら、なにか浮かぶものはないかと頭をひねり続けた。

 下を見れば、いくつもの石が転がっている。

 やはり、石に勝るものはないのか……。

 ふと、石の先の景色に目がいった。

 そこには、土がある。言っていてバカみたいだが、石の先には、たいてい、土があるのである。

 土、か……。

 土が売れたら、かなりくだらないかもしれないな……。

 そんなことを考えながら、なんとなく、土を手にすくってみる。それは、ただただ、土である。プレーンに、土である。

 ギュッとその土を握ってみる。すると、無骨な泥団子が手の中に現れる。

 泥団子。

 泥団子……。

 泥団子……!

 そうだ、石よりもバカバカしいもの、それは泥団子だ!

 

キング・オブ・無用の長物

 さっそく私は、泥団子づくりにいそしみはじめた。

 きちんと向き合えば向き合うほど、泥団子というのは実にしょうもない代物だった。

 バケツの中に入れた土、そこに適量の水を注ぐ。そしてそれをアバウトな気分で練ったのち、感覚だけの力加減で握っていけば、もうそこには泥団子が完成している。こんなにも左脳を経由しない創作活動、あっていいのだろうか。

 出来上がった泥団子を眺めれば眺めるほど、「だからなんなんだ」という感想しか浮かばない。そこが、実によい。泥団子の存在は、端的に無意味なのである。

 少し乾燥させたのち、細かい砂で表面をこすると、泥団子はうっすらと光沢を帯びる。ネットで調べるとガラスのように光る泥団子の作り方が動画で紹介されていたりもしていたわけだが、たとえそこにどんな美しい泥団子が現れたとしても「それでどうした」という感想しか走らないところが、またいい。だって、泥団子が輝きを放っていたとしても、こっちとしては持て余すしかないのだ。そのプリズムは異常なまでに、需要がない。

 泥団子の世界は、どこまでも奥深くないのである。最高じゃないか、泥団子。

 マニアの存在が香らないところも、泥団子の魅力だった。他人がつくった泥団子を買い求め集めている人間など、きっとこの世にごくわずかしかいないだろう。泥団子の市場など、あるはずがない。自分で美しい泥団子をつくることにハマっている人々は一定数存在するかもしれないが。

 私は、自分が納得する泥団子をつくり、それをフリマアプリで出品することにした。もし、この「無用の長物」の最たる存在である泥団子が売れたら、さぞかし痛快なことであろう。そして、きっとその時、お金の存在値は大きくブレるはずだ。

 こだわったのは、その造形だ。

 無造作過ぎず、かといって、美し過ぎず。

 あえて雑につくれば作為がにじんでしまい興ざめだし、かといって大理石のような透明感のある泥団子が完成してしまうと変な価値が生まれてしまう。「作品」や「商品」めいたものを売りたいわけではないのだ。虚無的なものを売りたいのだ。

 だから、中途半端に鈍い輝きを放つ、極端に「なんでもない」泥団子をつくることを目指した。そして試行錯誤のうえ、ようやく納得のいく泥団子が完成した。

 

 

 いい。

 とても、いい。

 重さもサイズも丸みも、ジャスト、シンプル。

 表面の光沢は、見る者の心に特別な感動を湧き起こさせない、絶妙に中途半端な輝きでおさまっている。

「泥団子ができたぞ」

 完成の喜びを、ひとり、口にしてみる。

 それはベスト級に、ダメなニュアンスの漂うセリフだった。

 頭の中に、いま思いつくかぎりの、その他の「ダメなセリフ」候補を巡らせてみる。

「新聞なんて読んだことないぞ」

「トンボを採ろうとして指を回していたら自分の目が回っちゃったぞ」

「カールだけでお腹いっぱいにしちゃったぞ」

「歯医者を五回連続で当日キャンセルしたぞ」

「花火をちゃんと処理しなかったから母屋が燃えちゃったぞ」

 その数々の「ダメなセリフ」たちも、「泥団子ができたぞ」にはさすがに太刀打ちできない。震えるほどにどこまでもダメな響きだ、「泥団子ができたぞ」は。

 そう、泥団子が、できたぞ。

 私は、さっそくこの泥団子をフリマアプリに出品してみた。

 問題は、価格をいくらに設定するかということだ。

 安すぎては、面白くない。かといって、度を越した高値もいただけない。絶妙に中途半端な泥団子を、絶妙に手の出しにくい値段で売るのが、この場合の態度としては正しいと思えた。しかしその値段がいくらなのか、判別がつかない。

 そういえば、と気になって、他に泥団子を出品している人たちはいないか検索してみた。

 すると、思っているよりも多くの泥団子の出品があることが判明した。しかし、そのどれもが、ネットの動画でみたような、宝石のごとき輝きを纏わせている「泥団子の進化系」的なものばかりであった。私が出品しようとしている泥団子とは、ジャンルが違う。

 その宝石泥団子たちの値段は、平均して一個五千円といった感じである。もちろんだが、売れている気配は、ない。

 そりゃそうだ。いくらキレイな泥団子とはいえ、五千円も出してそれを買い求めたい人など、この世に何人もいるはずがないのである。しかし、苦労して泥団子を磨き上げた出品者としては、五千円くらいは取らないと、諸々が報われないのだろう。泥団子とはそれほどまでに需要と供給のバランスをおかしくさせる、虚無的な存在なのだ。

 よし、宝石泥団子が平均五千円なのであれば、私の「なんでもない」泥団子は、六千円で売ろう。あえて千円上乗せし、さらに需要と共有のバランスを揺らす試みである。

 泥団子、一個、六千円。

 うん、絶妙な値段設定だ。三千円とかだったらノリや悪ふざけで買う人も現れるかもしれないが、六千円であれば途端に手が出しづらくなる。

 

ワクサカソウヘイ@泥団子販売中

 泥団子を出品物としてアップしてから、数日が経った。

 売れたらメールで通知が来るはずだが、まったくもって音沙汰はない。

 しかし、焦れるような思いを抱くことはなかった。むしろ私の胸中は妙に穏やかで、いままでに味わったことのない種類の不思議な安心感に満ちていた。

 自分の手でつくった泥団子がいま、六千円という値段でもって、お金と対峙している様子が、実に頼もしいのである。

 切実になりがちな「お金」と、切実になりようもない「泥団子」。その両者が真っ向からぶつかり合うことで、おのずと「お金」の地位が、「泥団子」の地位まで引き下げられたような、そんな感覚。

 「お金」の世界って、常に緊張している。そこに「泥団子」という弛緩しまくった転校生が現れたことで、急に和やかなムードが広がったのだ。

 売れてもいいし、売れなくてもいい。泥団子がマーケットにそこそこの値段で並んでいるという状態こそが、私に奇妙な安らぎをおぼえさせていた。

 毎朝、メールボックスを開く。今日も、案の定、泥団子は売れていない。

 特にやることもない私は、メールボックスから、次にツイッターへと目を移らせる。

 ツイッターを眺めていて最近思うことは、アカウント名を「名前」+「@」+「スローガン」の形式にする人がやけに増えたなあ、ということである。

 それはたとえば、

「美穂@世界一周で自由に稼ぐ」

「イケウチリョウタ@会社を辞めて年収三千万円」

「辻正人@目指せYouTube登録一万人」

 といった形式のアカウント名のことである。

 そういった人々のツイートから垣間見えるのは、極端なまでの意識の高さだ。次いで透けて見えるのは、あわよくばポジションを獲得して集金を行いたいというスケベ心である。

 お金って、おそろしい。お金の呪いに縛られてしまっている私たちは、熱に浮かされたようにして、アカウント名の後半に@と意識の高いスローガンを展開してしまうのである。

 この形式に倣うならば、現在の私のアカウント名の後半部分は「@泥団子販売中」だろうか。

 それはとても、意識の低いアカウント名のように思えた。サロンとか、開けそうにもない。

 

お金もまた「土」のようなものだ

 その時は、突然に訪れた。

 泥団子を出品してから一週間ほどたったある日のこと。メールボックスを開くと、そこに一件の通知が表示されていた。

「あなたの取引が成立しました」

 最初はなにが起こったのか分からず、ただただ呆然とその通知を眺めていた。

 それから、あの泥団子が売れたのだということを理解し、すみやかに動揺した。

 おいおい。

 マジかよ。

 泥団子、売れちゃったよ。

 六千円で、泥団子、売れちゃったよ。

 その動揺は波のように広がり、なんだかわからないが私は一度台所に立って洗い物をしたり、外に出てタバコを吸ったりした。それから再びPCの前に座り、その通知が夢ではないことを確認した。それでも動揺はおさまらなかった。

 その動揺は、やがて私の中にある「お金の存在値」を大きく震わせていく。

 泥団子の買い取り手は、私の自宅からはるか遠方、青森に住んでいる人だった。

 その人が、どうして私の泥団子を求めたのか、その理由はたぶん永久にわからない。とにかくいまの自分にできるのは、この泥団子を青森まで郵送することだけである。

 ビニールとタオルで何重にも泥団子を梱包し、それからそれを段ボールの中へと入れて、郵便局まで持っていく。

 困ったのは、窓口の人に「郵送物はなんですか?」と聞かれたことだ。

 「泥団子です」と答えるのは、なんだか憚られた。「え?どういうことですか?」と聞き返された時、それ以上の答えを持っていないからだ。私は真っ昼間の郵便局の窓口で口をモゴモゴさせながら「……だから、泥団子なんです」という返答ができるほど、強いハートを持った人間ではない。

 だから、「土です」と答えることにした。いや、「土です」という返答もなかなかにトリッキーなものかもしれないが、でもシンプルな分、「泥団子です」よりかは申告しやすい。

 窓口の人は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、「……はい、大丈夫です」と言って、その段ボールを受け取ってくれた。

 そうだよな、土なんだよな、泥団子って。

 郵便局からの帰り道、私は不思議な感慨に浸っていた。

 土が、売れたんだよな。六千円で。

 土がお金に化けたのだ。腐葉土とかではなく、普通の、土が。商品価値がないはずのものが、お金に化けたのである。

 まだまだ、動揺は続いていた。

 「お金の存在値」は、ブレにブレていく。音を立てて、ブレていく。

 やがてそこに、お金の正体らしきものの姿が、ようやく現われていく。私は必死で、それを目視しようとする。

 もしかしてお金って、究極的には土に似たものなのではないか。

 実はお金というものは、本当は土のように、誰しもが所有可能で、それゆえに誰の所有物にもなりえない存在なのではないだろうか。

 揺れるお金の正体の影は、そんなヒントを私に与えてきた。

 だって、硬貨や紙幣はこの世のあらゆるところを循環している。ぐるぐるぐるぐる、『ちびくろサンボ』のトラのように、お金は天下の回り物として、回転を続けている。ある瞬間には誰かの手元にあったものが、次の瞬間には別の誰かの手に渡っている。それって、マクロな目線で見れば、ペースト状の存在だ。ほとんど、土だ。

 じゃあ、その土を「泥団子」たらしめているものは、なんなのか。

 誰の所有物でもなく、誰しもの所有物でもあるペースト状のお金を「マネー」たらしめているものは、なんなのか。

 それは、「意識」なのではないだろうか。

 「意識」こそが、お金の正体なのではないだろうか。

 土を握り、丸くなったそれを、無意識のまま放っておいても、そこにはなにも出現はしない。「これは泥団子である」と個が意識した瞬間に、ようやくそれは泥団子としての存在を露わにする。

 お金も同じだ。無意識のままであれば、硬貨は石の加工品でしかなく、紙幣は木を薄くしたものでしかなく、残高や株価のデータはすべて電力が作り出した数列でしかない。しかしそこに意識が払われると、途端にそれは価値を獲得し、お金たらしめられる。

 そうだ、お金の正体とは「意識」だったのだ。

 私は今回、泥団子の販売に成功したことで、土という土に対して「これはすべてお金に換わる」という意識を持つことにも成功した。ということは、私は莫大な貯金残高を保有したことになる。地平線の向こうまで溢れている土を、すべて「お金」だと意識することができるようになったのだから。

 つまり、だ。

 この世に流通しているお金たちが土のようなものだとしたのなら、「これは私のものだ」という意識だけをそこに注ぎさえすれば、それはすぐに自分のマネーへと変わる。アップル社の保有現金も、ビル・ゲイツの総資産も、J・K・ローリングの印税も、実は誰のものでもなく、そして全員共有の土のようなもので、あとは手でぎゅっと握って「これは自分の泥団子だ」と意識するだけでいいのだ。

 その時に必要なのは、決して高度な意識ではない。むしろ、低次元の意識である。高い場所に意識を払っても、そこにはなにもない。だって土は、低い地面の先に広がっているのだ。アカウント名の後半に「@」と「スローガン」を展開して、意識を高める必要など、どこにもないのである。

 

たとえインチキだとしても

 そんなことを考えているうちに私は、この世のすべてのお金がまるで自分のもののように思えてきた。

 なんだ、私は、財布の中身こそ乏しいが、実は大金持ちだったのである。

「オマエのものは、オレのもの。でも、オレのものは、オマエのもの」

 スネ夫から始まった、この「お金をめぐる冒険」は、やがて禅的なジャイアンの境地へと到達する。

 こうして私は、石を売り、そして泥団子を売ったことで、お金にまつわる不安から完全に解放されたような心地を獲得することができた。

 もう、なにも怖くない。

 もしこれから先、ATMの残高が十円とかになったとしても、ちっとも不安ではない。

 地面に意識を注ぎさえすれば、そこには私の豊かな貯金が広がっているのだから。時間さえかければ、それは硬貨や紙幣に姿を変えるのだから。

 そんな折、実家の母親から電話があった。

「あんた宛のAmazonからの商品が間違って実家のほうに届いていて、代引きだったから立て替えておいたよ。二万円ね。こっちに寄る時に支払いよろしく」という旨の連絡だった。

 私は母に、こう伝えた。

「お母さん、お金っていうのは、土なんだ。だから、誰かが所有しているものでもなく、そして誰しもが所有しているものでもあるんだ。つまり、お母さんが立て替えてくれた二万円は、実はお母さんのものではなく、もしかしたら僕のものかもしれないんだよ。わかるかい?」

 すると母親は、しばらく黙ったのち、電話口でこう返してきた。

「インチキな宗教家みたいなことを言ってるんじゃない。いいから早く、二万円を用意しなさい」

 電話を切った後の私は、いつも通りの、お金の不安に駆られている私であった。

 

(お金を巡る冒険編、了)

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。