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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #7 お金をめぐる冒険 ── 「必ず最後に液体は勝つ」編

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第七回は「お金」編その二。拾い集めた「ただの石」を携えて向かったマーケットフェスで“事変”は起こった。

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石売りの猫背男

 その日は、絵に描いたような晴天だった。

 雲一つないその秋晴れの下で、私は手製のカウンターを前に、石を売っていた。

 用意されているのは、盆のうえに並べた小石たちと、「石ひとつ百円」とプリントされたA4用紙だけ。ペライチのその看板は、爽やかな風を受けて、ピラピラと端を揺らしていた。

 近所の公園で開催されている『手づくり市』なるものに、私は出店者として参加していた。

 なんの変哲もない石を、大真面目に売りたい。なんの変哲もない石を大真面目に売ることで、「不真面目な労働」をこの世に提示したい。「不真面目な労働」であっても金銭が得られることをはっきりと証明したい。そして、「真っ当な労働をすることでしか手に入らないもの」と思われていたお金の実の正体を、暴いてやりたい。

 そんな謎の正義感に突き動かされて、私はこの『手づくり市』に参加していた。

 出店の申請をする際、主催者側はかなり困惑の表情を浮かべていた。それはそうだ。だってこれは『手づくり市』なのである。他の出店者は、手編みのマフラーであったり、DIYでつくった本棚であったり、自家焙煎のコーヒーを売ったりしているマーケットフェスなのである。そんな中で、「石を売りたいんですけど……」と言い出す猫背の男が現れたら、主催者側としてはそりゃ戸惑うだろう。

 「番外地の墓場からやってきた人語を操る怪物」を見るような目で、主催者側の男性は「基本的にこのマーケットは、手づくりのものを扱う方しか参加いただけないのですが……」と私に告げた。しかし、ここで引き下がっては、せっかくつくったカウンターが台無しである。そこで私は一気にまくし立てた。

 「たしかに、石は手づくりのものではないかもしれません。しかし、私が売ろうとしている石は、私自身の手によって拾われたものです。私自身が価値を見出して、見繕ったものなのです。これはもはや『手づくり』の領域にあると断言できるものではないでしょうか。海老だって、海にいるときはただの海老です。でも、誰かが衣を纏わせて揚げれば、それはもはや『手づくり』の天ぷらなのです。いいですか、私が売ろうとしている石は、すでに海老ではない、天ぷらなのです」

 その熱のこもったスピーチの勢いに気おされたのか、それとも後半の「天ぷら」パートに狂い要素を感じて恐怖を得ただけなのかはわからないが、主催者側の男性は「わ、わかりました。それでは『石の販売』ということで、ご参加いただきます……」とようやく出店許可を出してくれた。

 世界一しょうもない総会屋なのか、私は。

 

純然たるドヒマ

 まあまあな強硬手段によってこの『手づくり市』への出店が叶ったわけであるが、しかしカウンターを前にした私の気分は、暗澹たるものであった。

 石が、売れない。

 石が、全然、売れないのである。

 見事なまでに、お客さんたちは石をスルーしていく。たまに「石ひとつ百円」の看板を目にとめる人もいるが、そこで私が「石を売っていますよ~……」と病気の子羊のような声で呼びかけると、必ずサッと逃げるようしてその場から去ってしまう。

 

 

 午前十時から始まった『手づくり市』は、すでに正午を迎えていたが、石はひとつも売れていなかった。

 最初は、誰からも相手にされないことで孤独のアンニュイを味わっていたが、そのうちにどんどんと退屈気分は深みに入り込み、やがて苦痛へと変わっていった。

 石に人気がないことが辛いのではない。自分が邪険に扱われていることが辛いのではない。暇が、とても辛いのである。

 私は通常、不安に翻弄されながら、やれ労働したり、野草を食べてみたり、魚を突いてみたり、急に断食をしてみたり、その他諸々、落ち着きなく暮らしている人間だ。忙しなくしていないとより大きな不安に襲われそうで、だから「暇」とか「退屈」という状態からは、ここ数年、なるべく遠ざかるようにしていた。

 しかし、ここにきて、ドヒマ。

 純然たる、ドヒマ。

 石を前に、逃げも隠れもしない、ドヒマ。

 ああ、思い出した。「望んでいない暇」って、苦痛でしかないということを。

 その突然現れた空虚な時間の中で思い出したのは、自分の人生で最も「暇」だった、高校二年生時の思い出だ。

 

おばちゃんは見ていた

 十七歳の頃の私は、とあるファミレスでアルバイトをしていた。

 学校が終わると、自転車ですぐにバイト先へと駆けつけ、白いコック帽をかぶるなり、「おつかれさまです!」と大きな声で厨房に入り、ガス台に火をつけて、次々とオーダーを片付けていく。若者ならではの、生真面目な勤労態度で、日々のバイト生活に精を出していた。

 しかし、ある日のこと。私は通っていた高校で追試テストを受けることになってしまった。バイトにばかり熱中するあまり、学業の面がおろそかになっていたのである。その追試テストは筆記式で、解けた者から退席していいルールだったが、私は悪戦苦闘し、ついには教室に自分ひとりだけが残された状態になっていた。

 それでもなんとか無理やりに解答用紙を埋め、やっとそれを教卓に提出、ハッと時計を見ると、今日のバイトの始業時間をとっくに越えていた。

 心臓をバクバクさせながら、自転車をこぎ、バイト先へと全速力で向かう。

 途中でPHSの存在を思い出し、おそるおそる電源を入れる。バイト先からの鬼のような不在着信履歴が残されていると思われたその画面には、予想外なことになんの表示もされておらず、「あれ……?もしかして、遅刻していること、バレていない……?」と拍子抜けしたような気分になる。しかし、油断はできない。とにかくいまは、バイト先に急がなければ。

 ファミレスに到着した時、すでに私は出勤時間から九十分も遅刻していた。

 おそるおそる、店へと入る。ホールで接客をしている同い年のバイト仲間が、私の遅刻を咎める様子もなく「おつかれさま」とにこやかに声をかけてくる。おや、これはもしかして、マジで遅刻がバレていないのでは。見渡せば、店長の姿も、バイトリーダーの姿も見えない。どうやら今日は、奇跡的にこの店を司る者たちが全員休みの日のようだ。

 着替え室に向かう途中、厨房を見ると、そこには同僚であるバイトのおばちゃんがただひとり、退屈そうに皿を洗っている様子が確認できた。しめた。今日は客が少ない日で、しかもこのおばちゃんは特に他のバイト連中のシフトまで確認しているような神経質なタイプの人ではない。かつて、カルボナーラがオーダーで入っているのに、シーザーサラダを提供し、それを店長に注意されたら、「だってカタカナの料理って全部同じに見えるんだもん」と言い放った、特殊な雑さを持っているおばちゃんなのだ。

 イケる。ごまかせる。

 私は平然と「自分はこの時間からの出勤なのです」という顔を浮かべて、今日のバイトを臨むことに決めた。

 しかし、コック帽をかぶり、手を洗い、さあ毅然とした態度でごまかすぞ、と厨房に足を踏み入れようとしたその時、行く手を阻む思わぬ敵の存在に気がついた。

 タイムカード打刻機である。

 時給で働いているのだから、このファミレスでバイトしている者は、全員出勤時にこのタイムカード打刻機を使わなければならない。しまった、すっかりそれを忘れていた。これではどんなに遅刻を態度でごまかしたとしても、カードに印字された出勤時間でのちのち店長に遅刻がバレてしまうではないか。これでは、大目玉ではないか。

 私は瞬間的に、右脳と左脳をフル回転させた。そして、ひとつの妙案にたどり着いた。

 このタイムカード打刻機が壊れていた、ということにしてしまえばいいのではないか。

 そして私は、悪魔にそそのかされるようにして、手洗い場の蛇口をひねり、グラスに水を満たした。

 そして周囲の様子を伺ってから、静かに、ゆっくりと、打刻機の口に、そのグラスの水を注いだ。

「ピロ、ピロ、ピロピロピロ……

 タイムカード打刻機は、まるでR2‐D2のような鳴き声を上げたかと思うと、ゆっくりと液晶表示していた現在時間を消滅させ、最後は「プシュン」というわかりやすい断末魔を残して、見事に壊れた。

 そこに残ったのは、死に絶えた打刻機と、生まれて初めて器物損害に手を染めたソフトシリアルキラー(つまり私)だけだった。

 完全に悪魔に憑りつかれていたのだろう、私はなにかの達成感を得ながら、厨房に入り、実に爽やかな声で「おつかれさまです!」とおばちゃんに声をかけた。しめしめ。これで完全犯罪は成立した。

 しかし、そう簡単に問屋はおろさなかった。

「あなた、いま、タイムカード打刻機に、水を注いだでしょ」

 おばちゃんが、まっすぐ、私の目を見て問い詰めてきた。

 おばちゃんは、見ていたのである。

 おばちゃんは、カタカナには弱いが、それでもカルボナーラとタイムカードの違いくらいは、はっきりと認識できていたのである。

 私は慌てふためき、なんとかして取り繕おうとしたが、すでに時は遅かった。そしてようやく悪魔の思考から目が覚め、観念し、すべてを告白した。遅刻をごまかそうとして打刻機に水を注いだことを、正直に述べた。

「とにかく、これは店長に報告しておくから」

 次の日、早い時間にバイト先に呼び出された。当然、私は店長から大目玉を食らった。そしてその日をもってクビとすること、壊れたタイムカード打刻機の弁償代を今月のバイト代からそっくり引いておくこと、それによって過ちを赦すことを、最後に告げられた。私は深々と謝罪をし、半年間勤めたファミレスをあとにした。

 その後に待っていたのは、無限とも思われる「暇」な放課後の時間だった。

 帰宅部だった私は、バイト先をクビになったことで、放課後の時間を潰す術を失ってしまった。いまさら、このタイミングでなにかの部活動に入部することは気恥ずかしく、また「自分はタイムカード打刻機に水を注ぐような人間なのである」という労働者失格の烙印を自らに刻んでしまったため、新たなバイトを始めるような勇気もすぐには湧かなかった。こうして私は、高校での学業が終わると、毎日「なにもない」という時間と向き合わざるを得なくなってしまった。

 時間を持て余した帰宅部がやれることなど、たかが知れている。

 乗っている自転車の変な部分から水が漏れてきて薄く驚き、「ここにあった大きなユニクロ、ブックオフになったんだ……」と三十円のような感想をつぶやき、16時から20時まで寝てしまい、目覚めた瞬間に窓の外が真っ暗になっていることに気がつき、「もしかして朝まで寝ちゃった!? いまって、早朝!?」などという悲しみ溢れるプチパニックに襲われて。それ以外には、取り立てたトピックもなく、ただ空虚な目を浮かべて時間が経つのを待つだけ。

 はっきりと、それは地獄であった。

 その時、私は思った。店長が私に与えた本当の罰は、バイト先をクビにすることでも、打刻機を弁償させることでもなかったのだ。この「暇」を私にもたらすことこそが、本当の意味での刑罰であったのだ。

 罪を犯した犯罪者に与えられる刑罰は、おおよその場合、禁固刑である。アメリカなどでは、「禁固二百年」などといった、高価なウィスキーのごとき年数の禁固刑判決が出たりすると聞いている。あれには「外界との交流を断たせる」という目的の他に、「本人の望まない純然とした暇を与える」という意味合いが含まれているのだろう。

 「暇」とは、しっかりと苦痛になり得るのである。

 もう二度とタイムカード打刻機に水を注ぐような人間にはならない。それが青春時代に得た、私の最大の学びである。

 

自前の経済システム

 結局、この日の『手づくり市』で、私は石をひとつも売ることができなかった。

 負け戦が終わった落ち武者の心持ちで、背中に影を背負いながら、夕暮れ迫る公園の中、石とカウンターとを片付ける。

「私は、お金に負けている者だ」

 そんな意識を、ずっと持っている。

 私はタイムカード打刻機に水を注いでしまうような人間だ。すなわち、自分の時間を他人に売ることが極端に苦手な人間だ。雇われることが本来的に性質に合わず、だから何度も就業しては、何度も退職してきた。こんなことでは貯まるものも貯まらず、お金に負け続けながら、切れ切れに生きてきた。

 他人に雇われることが苦手な人間が、お金に「勝つ」ために必要なのは、自分自身を自分で雇うこと、すなわち自分だけの「経済システム」を獲得することだ、という言説をよく耳にする。なるほど、たしかに自営業やフリーランスで猛然と稼いでいるっぽい人たちは、やれ仮想通貨だ、やれアフィリエイトだ、と自前の「経済システム」を保有していることをチラ見せしてくる。

 このようにお金に負け続けてきた私にも、きっと自前の「経済システム」は必要なのだろうけど、しかし、それをどのように構築したらいいのか、それがちっとも見当つかない。どこにいけばあるんですか、その「自分だけの経済システム」ってやつは? コストコとかに売っているのですか? という塩梅である。

 あと、「システム」という響きが纏っている、脆弱なニュアンスも、多少引っかかる。「システム」って、なんだか変化に弱い印象があるのだ。

 たとえ「自分だけの経済システム」を獲得したとしても、もし、万が一、なにかのきっかけで私がついタイムカード打刻機に水を注ぐようなことをしたら、一気にそのシステムは「プシュン」と音を立てて消えてしまうんじゃないか。そんな印象から、どうにも「自分だけの経済システム」という言説には眉に唾をうっすらとつけながら聞いてしまう自分がいる。

 だから、私にできることは、こうして闇雲に石を売ることだけだった。資本主義という大きな「経済システム」の枠外で、需要と供給の大原則をおもいっきり無視して、誰も求めていない石を売る。もしかしたら、それがなんかの拍子に、世に名高い「自分だけの経済システム」に化けるかもしれないじゃないか。いや、「システム」を越える、もっと有機的な何かに、化けるかもしれないじゃないか。その瞬間、私はお金に「勝つ」ことができるかもしれないじゃないか。勘だけど。

 しかるに問題は、そもそも今日、石が売れなかったことである。結局、私は引き続きお金に負けながら、黙々と会場の公園で片付けに従事していた。

 その『手づくり市』は、二日連続開催のイベントだった。だから、私は明日もここで出店をする予定だ。

 ああ、このままでは、きっと明日も売れない。深いため息を、ひとつ吐く。

 よく考えたら、「石ひとつ百円」の紙が貼ってあるだけの不気味なカウンターに、誰が寄りつくというのか。

 私に足りていないのは、工夫なのだろう。だが、どのように工夫すれば石が売れるのか、それが皆目見当もつかなかった。

 

結局、最後は液体が勝つんです

「おつかれさまです、石は売れましたか?」

 片づけをしている私に、そう声をかけてくる人が現れた。私の石カウンターの隣で、自家製のシロップからつくったジュースやアルコールを販売していた女性である。彼女の屋台はお客さんの波が途切れず、常ににぎわっている印象だった。日中、暇を持て余していた私はそれをずっと羨ましく眺めていた。

「いや、全然売れませんでした……

「そうですか……。いや、石を売っているお店なんて初めて見たから、驚きましたよ」

 そういうと彼女は、売り物のジュースを一杯、「ねぎらいの代わりです」と私に恵んでくれた。ありがたくそれをいただき、喉を潤す。美味しい。

 お礼に、石をひとつ、私からプレゼントした。彼女は笑って、それを受け取ってくれた。

 飲み物をもらって、石でお礼を返す。私は初めて人間との触れ合いを持った子ダヌキなのか。

「そちらのお店は、とても繁盛していましたね」

「いえ、そんなことないですよ。まあ、今日の儲けはそこそこです。もう少し暑い日だったら、売り上げ三倍とかになるんですけど」

 聞けば彼女は、イベントでの屋台出店だけで生計を立てているそうで、土日や祝日は全国のこうしたマーケット会場を回っているのだという。色んな生き方があるものだ。

「ドリンクって、儲かるものなんですか?」

「あ、かなり儲かりますよ。飲食店なんかでも、食べものより飲み物の注文がたくさん入ったほうが助かるって言いますし。ドリンクって調理の手間もないし、原価で買ったものにそれなりの値段を付けて売ることもできるし。結局、最後は液体が勝つんですよ」

 ほう……

 「また明日」といって彼女と別れ、帰路を辿るその道すがら、私はずっと「最後は液体が勝つ」の響きを頭に巡らせていた。

 もう、いっそのこと、明日は石の販売をやめて、彼女と同じように、ドリンクを売ってみようか。そっちのほうが、確実に利益になりそうだし、暇を持て余すこともなさそうだ。

 いやいやいや。慌ててかぶりをふる。それって、本末転倒ではないか。

 石を売ることで「お金の呪縛」から解き放たれることが最初の目的だったはずなのに、利益の誘惑と暇の恐怖に負けて、普通にドリンクを売るなんて。それって、結局は「お金の呪縛」に囚われてしまった、ということになるではないか。

 ただ、「最後は液体が勝つ」というワードには、なにかしらのヒントが隠されている気がした。

 液体、石、ドリンク、石、アルコール、石………………

 あ、そうか。もしかして、これだったら。

 あるアイディアが、私の脳裏に閃いた。

 

旅立つ子ダヌキ

 次の日、私はまた同じ公園の会場で、石を並べてカウンターの前に立っていた。

 しかし昨日とはひとつ、違う点がある。看板だ。

 「石ひとつ百円」の他に、「お酒一杯五百円」とプリントされた紙を貼ってみたのである。ウィスキーと氷、そしてグラスをカウンターの下に忍ばせている。

 ウィスキーで利益を得ようとしているわけではない。これはあくまで、お客さんの意識を石に向かわせるためのアプローチなのである。いわば、石が本当の売り物であり、ウィスキーは呼子のポジションというわけだ。

「お、酒を売っているのか。……ん、石?」

 訝し気な表情を浮かべながらも、ひとりのおじさんがカウンターへとさっそく近づいてきた。「お酒」の看板、効果絶大である。

「お酒って、なにがあるの?」

「はい、ウィスキーだけご用意しております。こちらで飲んでいただければ」

「じゃあ、一杯ください……

 五百円玉がカウンターの上に置かれる。初めて、このカウンターで売り上げが発生した。しかし、勝負はまだまだこれからである。

 ウィスキーのロックをつくっている最中、おじさんは盆の上に並べられた石をなんとなく眺めている。

「これも売ってるの?」

「ええ、ひとつ百円です」

「これって、鉱石とか宝石の原石とか、そういうのじゃないよね……?」

「はい、私が拾ってきた、ただの石です」

「ふうん……

 そこにウィスキーのグラスを提供する。興味があるんだかないんだかはわからないが、そのおじさんは盆の上の石を触りだした。そしてチビチビと舐めるようにウィスキーを飲んでいるうち、次第に彼の目は、真剣なものへと変化していった。

「この石、どこで拾ったの」

「茨城県の海岸ですね」

「へえ、あそこら辺に、こんないい石があるんだ……

 おお、おじさん、話がわかる人ではないか。

 それから十五分ほど、おじさんはウィスキーを飲み、石と戯れていた。私は、自分が自分で価値を見出した石たちが、いまおじさんの興味を引いていることに、ぞわぞわとした快感のようなものを得ていた。

「ごちそうさま。じゃあ、この石、ひとつ買っていくわ」

 来た。

 ついに、時は、来た。

 石が、本格的に、売れた。

 おじさんは空いたグラスと百円玉を置いていくと、石をポケットに無造作に突っ込んで、その場から去っていった。

 残された私はひとり、そこで極度に達した快感に体を貫かれながら、直立不動の姿勢でおじさんを見送っていた。

 気持ちいい。

 満たされた。

 自分で選んだ石を、誰かが選んでくれることって、こんなにも心地の良いことなのか。

 いつのまにか石に込めていた自分の無意識的な価値観が、他人に承認されたのだ。

 生涯で感じたことがないほど、自己承認欲求が満たされている。インスタグラムに投稿した写真に「いいね」がつくことの、数万倍の、満たされ方をしている。拾った石が売れるのって、こんなにも最高なことなのか。

 それからも、「お酒」の看板につられて、途切れることなくお客さんたちはカウンターへとやってきた。石を夢中で眺めるだけ眺めて「ここには自分の欲しい石はなかったです……」と買わないで帰る人もいたし、なんと二千円も使って二十個もの石を爆買いしていく人もいた。気づけば私も一緒にお酒を飲みながら、一緒に石を鑑賞しつつ、「あー、その石、本当は買ってほしくないほど好きなんですよ~」などとやったりしていた。

 

 

 それはとても豊かな時間で、気づけばその日、石だけの売り上げで五千円近くの利益を稼いだのであった。

 片付けの時間、私は十分に満たされた気分を味わっていた。隣のドリンク屋台の女性が「よかったね!」と声をかけてくれたので、「はい!おかげさまで!」とダイヤモンドのような声を返し、また石をひとつ、プレゼントした。

 子ダヌキ物語のラストシーンなのか、これは。

 

暇と退屈の経済学

 調子づいた私は、その後も「石とウィスキー」のスタイルで、他のいくつかのイベントに出店を試みた。

 イベントの特色にも左右はされたが、「石とウィスキー」の店は、概ね好評だった。たくさんの人たちが、ウィスキーを嗜みながら、最後は石を買っていってくれる。なんの変哲もない、どこの市場に出しても価値のない、ただの石を。

 『手づくり市』初日に味わった、あの「地獄の暇」がぶり返すことはなかった。

 こうして無用の石を売っているうちに、ひとつ、思い至ったことがある。人はなぜ「買い物」をするのか、ということである。

 それはおそらく、「暇つぶし」に他ならないのだろう。

 石の手前にウィスキーを用意したことで、お客さんには「暇」が発生した。お酒が提供されるまでの時間、およびお酒を飲んでいる最中の時間が発生した。人間は余暇が生まれると、それを潰そうと躍起になる。それほどまでに、暇とは怖いものだからだ。だから、さっきまでは興味を抱いてもいなかった石に目を注ぎだす。そして、そこに価値を見出そうとしはじめる。こうして「暇つぶし」が行われ、「買い物」という行為が発生する。

 生活必需品、という言葉がある。買いそろえておかなければならないもの、買っておかなければ「生きてはいけない」とされているもの、それが生活必需品だ。だが、本質的に「買わなければ生きていけないもの」など、この世にひとつたりとも存在していないように思う。食べ物は、野草を食べれば最悪どうにかなるし、住む場所も、工夫次第でなんとでもなる。服なんて、買わなくてもこの世にはいくらでも溢れている。

 そんな極論に基づくならば、「買い物」とは暇をつぶすための娯楽でしかなく、そしてその娯楽によって、生命とはべつの部分の、私たちが人間としてキープオンするためのなにかが生かされているのだろう。

 そう考えると、お金って暇をつぶすための、ひとつの手段でしかない。だって、お金を使わなくても、暇はいくらでもつぶすことが可能なのだ。労働もまた、暇をつぶすための娯楽なのだろう。

 お金を持っている者が「勝者」なのではない。お金に拠らずとも暇を豊かにつぶせる者こそが、本当の「勝者」なのである。

 もちろん、それでもほんのちょっとだけお金があれば、それは有用な手段として「豊かみ」にエッセンスを与えてはくれるので、お金を持っているということは、決して悪いことではない。要は、お金を崇拝するのではなく、お金をパシリの後輩として使うという態度が大事なのだと思う。

 私は、まどろっこしい思考を得たチャーリー・チャップリンなのか。

 無用の石も、高級フォアグラも、暇を持て余した人間の前では、等しく価値を得るのである。

 

システムよりも生態系を

 石の販売は、もうひとつ、私に示唆を与えてくれた。

 「経済システム」がなくても、お金には勝てるかもしれない、という示唆である。

 様々な催し会場で石を売っていると、色んな人に声をかけられる。お客さんであったり、隣り合った出店者さんであったり、イベントの関係者の人だったり。

「石を売るって、最高だなあ」

「石が売れる世の中であってほしいですよね」

「石を買うっていう嗜みを忘れたくない……、それこそが文化……

 みんな、それぞれ、異口同音に、「なんの変哲もない石を売る」という行為を肯定してくれる。そして石をひとつ買ってくれたり、「次、こんなイベントを開催するので是非出店してください」とチラシを置いていってくれたりした。「こんど、一緒に石拾いに行こうよ」と声をかけてくれる人もいて、その人とは後日、友人になったりもした。

 その時に私は、なにかが少しずつ、「プチプチプチッ」と静かに音を立てながら、豊かに形成されるような景色をそこに見る。それは、決して「経済システム」などという、味気のない代物ではない。

 あえて言葉を探すなら、それは「生態系」と呼ばれる景色なのだろう。

 「無用の石を売る」という行為を通して、石のハッシュタグが植えつけられた者たちが、ゆるやかにつながっていく。そうしているうちに、そこに形のない「池」のようなものがいつの間にか現れる。そして「売買」という契りが結ばれる中で、その「池」は豊かに広がり、また深度を増していく。プランクトンが発生し、それを食べる稚魚が集まり、またそれを狙う鳥が現れて、こうして「生態系」は循環されていく。

 「システム」は脆い。ひとたび変化が起きれば、それに対して柔軟性を持って臨めない無機的なものだからだ。

 だが、「生態系」は変化に強い。そもそも「生態系」自体が、変化を繰り返しながら、有機的に持続を可能なものにしている存在だからだ。

 ひとつの「システム」に依存しながらお金を得ていると、エラーが起きた時に、大きく負ける。でもひとつの「生態系」に頼りながらお金を得ていれば、そこには幾重にも重なった複雑なレイヤーが存在しているのだから、ちょっとやそっとのエラーが発生したところで、大きく負けることはない。もちろん、「生態系」で太く稼ぐことは難しいかもしれないが、その分、負ける時は細い感じでしか負けないのである。

 「生態系」を形成することをやめなければ、お金なんて怖くないのだ。そんな示唆を、「無用の石を売る」という行為は、私に与えてくれた。まだ、しっかりとした確信を持つことはできないが。

 少なくとも、「経済システム」をつくることより、「生態系」づくりのほうが、ずっと私の性には合っている。

 

お金をめぐる冒険は続く

 空になった盆の上に、石から化けた千円札たちを置いてみる。

 石が、お金になった。海岸でただ拾ってきただけの石が、自分が「良き」と思って拾っただけの石が、お金に。

 もしかして、お金の正体って、石なのか? いや、そんなことはないわけだが、それにしても、ますますお金の正体が不明のものとなる。

 だいたい、いまこの目の前にある千円札たちも、その実体はただの紙である。これを私は「お金」だと思い込んでいるからこそ、この紙たちはお金として存在できているのである。うーん、なんなんだ、いったい何者なんだ、お金。

 私にはまだまだ、お金の正体がわからない。わからないのであれば、冒険を続けるしかない。

 こうなった以上、石を売る以外のアプローチを考えなくてはならない。石よりも、もっとしょうもないものを見つけ、それをお金に換えることで、お金のさらなる正体の尻尾を、つかんでみようではないか。(続)

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。