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ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #7 お金をめぐる冒険 ── 「必ず最後に液体は勝つ」編

衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第七回は「お金」編その二。拾い集めた「ただの石」を携えて向かったマーケットフェスで“事変”は起こった。

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石売りの猫背男

 その日は、絵に描いたような晴天だった。

 雲一つないその秋晴れの下で、私は手製のカウンターを前に、石を売っていた。

 用意されているのは、盆のうえに並べた小石たちと、「石ひとつ百円」とプリントされたA4用紙だけ。ペライチのその看板は、爽やかな風を受けて、ピラピラと端を揺らしていた。

 近所の公園で開催されている『手づくり市』なるものに、私は出店者として参加していた。

 なんの変哲もない石を、大真面目に売りたい。なんの変哲もない石を大真面目に売ることで、「不真面目な労働」をこの世に提示したい。「不真面目な労働」であっても金銭が得られることをはっきりと証明したい。そして、「真っ当な労働をすることでしか手に入らないもの」と思われていたお金の実の正体を、暴いてやりたい。

 そんな謎の正義感に突き動かされて、私はこの『手づくり市』に参加していた。

 出店の申請をする際、主催者側はかなり困惑の表情を浮かべていた。それはそうだ。だってこれは『手づくり市』なのである。他の出店者は、手編みのマフラーであったり、DIYでつくった本棚であったり、自家焙煎のコーヒーを売ったりしているマーケットフェスなのである。そんな中で、「石を売りたいんですけど……」と言い出す猫背の男が現れたら、主催者側としてはそりゃ戸惑うだろう。

 「番外地の墓場からやってきた人語を操る怪物」を見るような目で、主催者側の男性は「基本的にこのマーケットは、手づくりのものを扱う方しか参加いただけないのですが……」と私に告げた。しかし、ここで引き下がっては、せっかくつくったカウンターが台無しである。そこで私は一気にまくし立てた。

 「たしかに、石は手づくりのものではないかもしれません。しかし、私が売ろうとしている石は、私自身の手によって拾われたものです。私自身が価値を見出して、見繕ったものなのです。これはもはや『手づくり』の領域にあると断言できるものではないでしょうか。海老だって、海にいるときはただの海老です。でも、誰かが衣を纏わせて揚げれば、それはもはや『手づくり』の天ぷらなのです。いいですか、私が売ろうとしている石は、すでに海老ではない、天ぷらなのです」

 その熱のこもったスピーチの勢いに気おされたのか、それとも後半の「天ぷら」パートに狂い要素を感じて恐怖を得ただけなのかはわからないが、主催者側の男性は「わ、わかりました。それでは『石の販売』ということで、ご参加いただきます……」とようやく出店許可を出してくれた。

 世界一しょうもない総会屋なのか、私は。

 

純然たるドヒマ

 まあまあな強硬手段によってこの『手づくり市』への出店が叶ったわけであるが、しかしカウンターを前にした私の気分は、暗澹たるものであった。

 石が、売れない。

 石が、全然、売れないのである。

 見事なまでに、お客さんたちは石をスルーしていく。たまに「石ひとつ百円」の看板を目にとめる人もいるが、そこで私が「石を売っていますよ~……」と病気の子羊のような声で呼びかけると、必ずサッと逃げるようしてその場から去ってしまう。

 

 

 午前十時から始まった『手づくり市』は、すでに正午を迎えていたが、石はひとつも売れていなかった。

 最初は、誰からも相手にされないことで孤独のアンニュイを味わっていたが、そのうちにどんどんと退屈気分は深みに入り込み、やがて苦痛へと変わっていった。

 石に人気がないことが辛いのではない。自分が邪険に扱われていることが辛いのではない。暇が、とても辛いのである。

 私は通常、不安に翻弄されながら、やれ労働したり、野草を食べてみたり、魚を突いてみたり、急に断食をしてみたり、その他諸々、落ち着きなく暮らしている人間だ。忙しなくしていないとより大きな不安に襲われそうで、だから「暇」とか「退屈」という状態からは、ここ数年、なるべく遠ざかるようにしていた。

 しかし、ここにきて、ドヒマ。

 純然たる、ドヒマ。

 石を前に、逃げも隠れもしない、ドヒマ。

 ああ、思い出した。「望んでいない暇」って、苦痛でしかないということを。

 その突然現れた空虚な時間の中で思い出したのは、自分の人生で最も「暇」だった、高校二年生時の思い出だ。

 

おばちゃんは見ていた

 十七歳の頃の私は、とあるファミレスでアルバイトをしていた。

 学校が終わると、自転車ですぐにバイト先へと駆けつけ、白いコック帽をかぶるなり、「おつかれさまです!」と大きな声で厨房に入り、ガス台に火をつけて、次々とオーダーを片付けていく。若者ならではの、生真面目な勤労態度で、日々のバイト生活に精を出していた。

 しかし、ある日のこと。私は通っていた高校で追試テストを受けることになってしまった。バイトにばかり熱中するあまり、学業の面がおろそかになっていたのである。その追試テストは筆記式で、解けた者から退席していいルールだったが、私は悪戦苦闘し、ついには教室に自分ひとりだけが残された状態になっていた。

 それでもなんとか無理やりに解答用紙を埋め、やっとそれを教卓に提出、ハッと時計を見ると、今日のバイトの始業時間をとっくに越えていた。

 心臓をバクバクさせながら、自転車をこぎ、バイト先へと全速力で向かう。

 途中でPHSの存在を思い出し、おそるおそる電源を入れる。バイト先からの鬼のような不在着信履歴が残されていると思われたその画面には、予想外なことになんの表示もされておらず、「あれ……?もしかして、遅刻していること、バレていない……?」と拍子抜けしたような気分になる。しかし、油断はできない。とにかくいまは、バイト先に急がなければ。

 ファミレスに到着した時、すでに私は出勤時間から九十分も遅刻していた。

 おそるおそる、店へと入る。ホールで接客をしている同い年のバイト仲間が、私の遅刻を咎める様子もなく「おつかれさま」とにこやかに声をかけてくる。おや、これはもしかして、マジで遅刻がバレていないのでは。見渡せば、店長の姿も、バイトリーダーの姿も見えない。どうやら今日は、奇跡的にこの店を司る者たちが全員休みの日のようだ。

 着替え室に向かう途中、厨房を見ると、そこには同僚であるバイトのおばちゃんがただひとり、退屈そうに皿を洗っている様子が確認できた。しめた。今日は客が少ない日で、しかもこのおばちゃんは特に他のバイト連中のシフトまで確認しているような神経質なタイプの人ではない。かつて、カルボナーラがオーダーで入っているのに、シーザーサラダを提供し、それを店長に注意されたら、「だってカタカナの料理って全部同じに見えるんだもん」と言い放った、特殊な雑さを持っているおばちゃんなのだ。

 イケる。ごまかせる。

 私は平然と「自分はこの時間からの出勤なのです」という顔を浮かべて、今日のバイトを臨むことに決めた。

 しかし、コック帽をかぶり、手を洗い、さあ毅然とした態度でごまかすぞ、と厨房に足を踏み入れようとしたその時、行く手を阻む思わぬ敵の存在に気がついた。

 タイムカード打刻機である。

 時給で働いているのだから、このファミレスでバイトしている者は、全員出勤時にこのタイムカード打刻機を使わなければならない。しまった、すっかりそれを忘れていた。これではどんなに遅刻を態度でごまかしたとしても、カードに印字された出勤時間でのちのち店長に遅刻がバレてしまうではないか。これでは、大目玉ではないか。

 私は瞬間的に、右脳と左脳をフル回転させた。そして、ひとつの妙案にたどり着いた。

 このタイムカード打刻機が壊れていた、ということにしてしまえばいいのではないか。

 そして私は、悪魔にそそのかされるようにして、手洗い場の蛇口をひねり、グラスに水を満たした。

 そして周囲の様子を伺ってから、静かに、ゆっくりと、打刻機の口に、そのグラスの水を注いだ。

「ピロ、ピロ、ピロピロピロ……

 タイムカード打刻機は、まるでR2‐D2のような鳴き声を上げたかと思うと、ゆっくりと液晶表示していた現在時間を消滅させ、最後は「プシュン」というわかりやすい断末魔を残して、見事に壊れた。

 そこに残ったのは、死に絶えた打刻機と、生まれて初めて器物損害に手を染めたソフトシリアルキラー(つまり私)だけだった。

 完全に悪魔に憑りつかれていたのだろう、私はなにかの達成感を得ながら、厨房に入り、実に爽やかな声で「おつかれさまです!」とおばちゃんに声をかけた。しめしめ。これで完全犯罪は成立した。

 しかし、そう簡単に問屋はおろさなかった。

「あなた、いま、タイムカード打刻機に、水を注いだでしょ」

 おばちゃんが、まっすぐ、私の目を見て問い詰めてきた。

 おばちゃんは、見ていたのである。

 おばちゃんは、カタカナには弱いが、それでもカルボナーラとタイムカードの違いくらいは、はっきりと認識できていたのである。

 私は慌てふためき、なんとかして取り繕おうとしたが、すでに時は遅かった。そしてようやく悪魔の思考から目が覚め、観念し、すべてを告白した。遅刻をごまかそうとして打刻機に水を注いだことを、正直に述べた。

「とにかく、これは店長に報告しておくから」

 次の日、早い時間にバイト先に呼び出された。当然、私は店長から大目玉を食らった。そしてその日をもってクビとすること、壊れたタイムカード打刻機の弁償代を今月のバイト代からそっくり引いておくこと、それによって過ちを赦すことを、最後に告げられた。私は深々と謝罪をし、半年間勤めたファミレスをあとにした。

 その後に待っていたのは、無限とも思われる「暇」な放課後の時間だった。

 帰宅部だった私は、バイト先をクビになったことで、放課後の時間を潰す術を失ってしまった。いまさら、このタイミングでなにかの部活動に入部することは気恥ずかしく、また「自分はタイムカード打刻機に水を注ぐような人間なのである」という労働者失格の烙印を自らに刻んでしまったため、新たなバイトを始めるような勇気もすぐには湧かなかった。こうして私は、高校での学業が終わると、毎日「なにもない」という時間と向き合わざるを得なくなってしまった。

 時間を持て余した帰宅部がやれることなど、たかが知れている。

 乗っている自転車の変な部分から水が漏れてきて薄く驚き、「ここにあった大きなユニクロ、ブックオフになったんだ……」と三十円のような感想をつぶやき、16時から20時まで寝てしまい、目覚めた瞬間に窓の外が真っ暗になっていることに気がつき、「もしかして朝まで寝ちゃった!? いまって、早朝!?」などという悲しみ溢れるプチパニックに襲われて。それ以外には、取り立てたトピックもなく、ただ空虚な目を浮かべて時間が経つのを待つだけ。

 はっきりと、それは地獄であった。

 その時、私は思った。店長が私に与えた本当の罰は、バイト先をクビにすることでも、打刻機を弁償させることでもなかったのだ。この「暇」を私にもたらすことこそが、本当の意味での刑罰であったのだ。

 罪を犯した犯罪者に与えられる刑罰は、おおよその場合、禁固刑である。アメリカなどでは、「禁固二百年」などといった、高価なウィスキーのごとき年数の禁固刑判決が出たりすると聞いている。あれには「外界との交流を断たせる」という目的の他に、「本人の望まない純然とした暇を与える」という意味合いが含まれているのだろう。

 「暇」とは、しっかりと苦痛になり得るのである。

 もう二度とタイムカード打刻機に水を注ぐような人間にはならない。それが青春時代に得た、私の最大の学びである。

 

自前の経済システム

 結局、この日の『手づくり市』で、私は石をひとつも売ることができなかった。

 負け戦が終わった落ち武者の心持ちで、背中に影を背負いながら、夕暮れ迫る公園の中、石とカウンターとを片付ける。

「私は、お金に負けている者だ」

 そんな意識を、ずっと持っている。

 私はタイムカード打刻機に水を注いでしまうような人間だ。すなわち、自分の時間を他人に売ることが極端に苦手な人間だ。雇われることが本来的に性質に合わず、だから何度も就業しては、何度も退職してきた。こんなことでは貯まるものも貯まらず、お金に負け続けながら、切れ切れに生きてきた。

 他人に雇われることが苦手な人間が、お金に「勝つ」ために必要なのは、自分自身を自分で雇うこと、すなわち自分だけの「経済システム」を獲得することだ、という言説をよく耳にする。なるほど、たしかに自営業やフリーランスで猛然と稼いでいるっぽい人たちは、やれ仮想通貨だ、やれアフィリエイトだ、と自前の「経済システム」を保有していることをチラ見せしてくる。

 このようにお金に負け続けてきた私にも、きっと自前の「経済システム」は必要なのだろうけど、しかし、それをどのように構築したらいいのか、それがちっとも見当つかない。どこにいけばあるんですか、その「自分だけの経済システム」ってやつは? コストコとかに売っているのですか? という塩梅である。

 あと、「システム」という響きが纏っている、脆弱なニュアンスも、多少引っかかる。「システム」って、なんだか変化に弱い印象があるのだ。

 たとえ「自分だけの経済システム」を獲得したとしても、もし、万が一、なにかのきっかけで私がついタイムカード打刻機に水を注ぐようなことをしたら、一気にそのシステムは「プシュン」と音を立てて消えてしまうんじゃないか。そんな印象から、どうにも「自分だけの経済システム」という言説には眉に唾をうっすらとつけながら聞いてしまう自分がいる。

 だから、私にできることは、こうして闇雲に石を売ることだけだった。資本主義という大きな「経済システム」の枠外で、需要と供給の大原則をおもいっきり無視して、誰も求めていない石を売る。もしかしたら、それがなんかの拍子に、世に名高い「自分だけの経済システム」に化けるかもしれないじゃないか。いや、「システム」を越える、もっと有機的な何かに、化けるかもしれないじゃないか。その瞬間、私はお金に「勝つ」ことができるかもしれないじゃないか。勘だけど。

 しかるに問題は、そもそも今日、石が売れなかったことである。結局、私は引き続きお金に負けながら、黙々と会場の公園で片付けに従事していた。

 その『手づくり市』は、二日連続開催のイベントだった。だから、私は明日もここで出店をする予定だ。

 ああ、このままでは、きっと明日も売れない。深いため息を、ひとつ吐く。

 よく考えたら、「石ひとつ百円」の紙が貼ってあるだけの不気味なカウンターに、誰が寄りつくというのか。

 私に足りていないのは、工夫なのだろう。だが、どのように工夫すれば石が売れるのか、それが皆目見当もつかなかった。

 

結局、最後は液体が勝つんです

「おつかれさまです、石は売れましたか?」

 片づけをしている私に、そう声をかけてくる人が現れた。私の石カウンターの隣で、自家製のシロップからつくったジュースやアルコールを販売していた女性である。彼女の屋台はお客さんの波が途切れず、常ににぎわっている印象だった。日中、暇を持て余していた私はそれをずっと羨ましく眺めていた。

「いや、全然売れませんでした……

「そうですか……。いや、石を売っているお店なんて初めて見たから、驚きましたよ」

 そういうと彼女は、売り物のジュースを一杯、「ねぎらいの代わりです」と私に恵んでくれた。ありがたくそれをいただき、喉を潤す。美味しい。

 お礼に、石をひとつ、私からプレゼントした。彼女は笑って、それを受け取ってくれた。

 飲み物をもらって、石でお礼を返す。私は初めて人間との触れ合いを持った子ダヌキなのか。

「そちらのお店は、とても繁盛していましたね」

「いえ、そんなことないですよ。まあ、今日の儲けはそこそこです。もう少し暑い日だったら、売り上げ三倍とかになるんですけど」

 聞けば彼女は、イベントでの屋台出店だけで生計を立てているそうで、土日や祝日は全国のこうしたマーケット会場を回っているのだという。色んな生き方があるものだ。

「ドリンクって、儲かるものなんですか?」

「あ、かなり儲かりますよ。飲食店なんかでも、食べものより飲み物の注文がたくさん入ったほうが助かるって言いますし。ドリンクって調理の手間もないし、原価で買ったものにそれなりの値段を付けて売ることもできるし。結局、最後は液体が勝つんですよ」

 ほう……

 「また明日」といって彼女と別れ、帰路を辿るその道すがら、私はずっと「最後は液体が勝つ」の響きを頭に巡らせていた。

 もう、いっそのこと、明日は石の販売をやめて、彼女と同じように、ドリンクを売ってみようか。そっちのほうが、確実に利益になりそうだし、暇を持て余すこともなさそうだ。

 いやいやいや。慌ててかぶりをふる。それって、本末転倒ではないか。

 石を売ることで「お金の呪縛」から解き放たれることが最初の目的だったはずなのに、利益の誘惑と暇の恐怖に負けて、普通にドリンクを売るなんて。それって、結局は「お金の呪縛」に囚われてしまった、ということになるではないか。

 ただ、「最後は液体が勝つ」というワードには、なにかしらのヒントが隠されている気がした。

 液体、石、ドリンク、石、アルコール、石………………

 あ、そうか。もしかして、これだったら。

 あるアイディアが、私の脳裏に閃いた。

 

〈この続きは2022年10月26日発売の単行本『出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行』でお楽しみください〉

 

 


 

当連載が『出セイカツ記:衣食住という不安からの逃避行』として河出書房新社より単行本化されました(2022年10月26日発売)

 

 

著者:ワクサカソウヘイ

河出書房新社

2022年10月26日発売

 


 

 

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PROFILE

ワクサカソウヘイ /文筆業。1983年生まれ。主な著書に『ふざける力』(コア新書)、『今日もひとり、ディズニーランドで』(幻冬舎文庫/イースト・プレス)、『男だけど、』(幻冬舎)、『夜の墓場で反省会』(東京ニュース通信社)、『中学生はコーヒ―牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)などがある。