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「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

PlasticBoysのメンバーの一人であるDJ Marboが2001年、スペイン・イビサ島でDJ HARVEYらとともに「REVOLUCION」なるパーティーをオーガナイズした当時の『Spectator』(2001 winter issue)による取材記事を再録。

現在、HAGAZINEにてSTORY『夢には従わなければならない それは正夢だからだ』を連載中のPlasticBoys。そのメンバーの一人であるDJ Marboは、1980年代に渡英し、英国で初の日本人DJとなった人物である。その後、94年にはイギリスのマルコム・マクラーレンを文脈とするダンスミュージック&ストリートカルチャーシーンを紹介するショップ「PERV」を裏原宿にオープン、さらに自らがCEOとなりファッションブランド「LOWRIDER」を立ち上げると、2001年にはスペイン・イビサ島にて、5週間にわたり、DJ HARVEYらとともに「REVOLUCION」なるパーティーをオーガナイズしている。当時、紛れもなく世界のトップシーンで活躍していたDJ Marboが、その活動の先に見据えていたものとはなにか。あるいは、イギリス・ロンドンに端を発し、DJ Marboに強いインパクトを与えたという世界的なムーヴメント“セカンド・サマー・オブ・ラブ”とはなんだったのか。 2001年、イビザ帰国直後のDJ Marboを取材した『Spectator』(2001 6号 winter issue)の記事をここに再録する。

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《Spectator 2001 winter issue》

最近やや停滞気味のNYや東京のクラブシーンとは対照的に、年を重ねるごとに次第にその勢いを増している感のあるスペイン・イビサ島のパーティー・シーン。 夏になれば大勢の若者がダンスを求めて押し寄せる。この地中海に浮かぶ小さな島で、今年の夏「REVOLUCION (スペイン語で革命、1959年のキューバ革命のニュースペーパーから引用)」というパーティーをオーガナイズした日本人がいる。ロンドンと東京を拠点にDJとして活動を続けるその一方で、音楽に対する深い造詣を反映させたブランド<LOWRIDER>のCEOとしての顔も伏せ持つDJ MARBOがその人である。

88年のイギリスで生まれた巨大なダンス・ムーブメント”セカンド・サマー・ オブ・ラブ”をオンタイムで体験したことのある、数少ない日本人の一人でもある彼は、その幅広いDJネットワークを活かして、今年の8月イビサのクラブ<スペース>で水曜日に5週間にわたって開催されたパーティーを見事に仕切ってみせた。

世界中から集まった筋金入りのクラブ・オーガナイザーやDJが凌ぎを削り、日夜クラブ・ ワールドカップが繰り広げられているこの小さな島でMARBO氏は、いかにしてこの”革命”を成し遂げることに成功したのか?

イギリスで起きたダンスとエクスタシーによる意識「革命」運動と、イビサで行われた「REVOLUCION 革命」という名のパーティー。二つの「革命」にまつわるMARBO氏の体験談に耳を傾けてみれば、互いに響き合う二つのシーンの関係性とともに、その謎の答えが浮かび上がってくるはずだ。

《イビサ編》

イビサへは二年前に初めて行きました。イビサの評判はいろんな人から聞いていたし、雑誌でもよく紹介されていたから、もうすっかり行った気になっていたんだけど、そういうのは良くないと思って、実際に自分の目で見に行くことにした。イビサっていう島は、ヨーロッパの人たちの間では昔から、バカンスを楽しみに行く場所として割と良く知られているところ。とりわけ夏の短いイギリスに暮らす若者にとっては「ひと夏の思い出作り」をする場所としておなじみの場所なんです。 アフリカにも近いし、ちょっと神秘的な匂いがするから、ジミー・ヘンドリクスや、 ストーンズ、ビートルズといったミュージシャンもよく遊びに行ってました。初めて訪れてみて思ったのは、環境がメチャクチャ良いということ。青い海、綺麗な空気、それでいて夜遊びできる場所も充実しているわけだから、音楽好きにとっては夢の島です。イビサといえばパーティー・シーンが有名だけど、それ以前に、滞在しているだけで、「風がこんなに気持ちが良いのか」とか、「夕陽がこんなに綺麗だったのか」とか、都会に長くいることで不感症になっている感覚を活性化してくれる、 美しい自然に溢れた環境の良い島。イビサに対する僕の最初の印象はそんな感じでした。

ヨーロッパでは「航空券と滞在費込みで、36000円!」なんて格安のパッケージ・ツアーも売り出されているけど、でも、そういうツアーに便乗して、みんなと同じホテルに滞在して、バスで移動して、夜遊びに出かけていたら、きっと「イビサってイマイチなところ」という感想を抱くのもわかる気もする。友達とお金を出し合ってでもいいから、ホテルの代わりにヴィラとか家を借りて、レンタカーを借りて、自分のペースで過ごすことができれば、この島の良さをより実感できるでしょう。これは音楽にしても言えることだけど、多数派の意見を鵜呑みにするよりも、 自分のフィルターを通して本当に自分に合ったものを探そうとするインディペンデントな姿勢が大事。イビサではそんなことを考えさせられる場面が何度かありました。

一般的にイビサと言えば、まず誰もが思いうかべるのが数千人を収容する巨大なディスコでしょう。6000人収容の<アムネシア>、<プリヴィレッジ>は12000人とか、とにかくイビサの大箱ディスコの規模はハンパじゃない。そういう大きなディスコから普通のクラブ、海の家みたいなところまで、いろんな種類と規模の音を提供する店が、島のあちこちにあって、どこも明け方か場所によっては翌日の昼ごろまで大勢の人で賑わっている。ファッショナブルな人や大人の遊び人の間ではバーに行くのが流行っているみたいだけど、結局は自然にはかなわないというのが、 一通り色んなイビサを体験してみて改めて得た実感です。だって、海に沈む夕焼けを目の前に、波の音があって、風があって…そういう自然を味方につけたベストな環境で、良い音楽が聞こえてきたら、もうクラブなんてわざわざ行かなくてもいいやって気になりますから。これは何もイビサに限ったことじゃないと思うんですけどね。

《パーティについて》

今回僕がイビサでパーティをやることになったのは、ロンドンに住むイタリアのDJブッキングエージェンシーの友人にマイアミの<ミュージック・セミナー>で、 ナポリを中心に活動するパーティ・オーガナイザーを紹介されて、その人から話を持ちかけられたんです。(世界中のDJとネットワークを持っている)僕を巻き込むことで、他の有名なDJも呼べると考えたんじゃないですか。日本人がイビサのパーティーをオーガナイズするという企画は斬新で面白かったけど、いざやってみたら予想以上に大変でした。何せ集まったのはイギリス人、イタリア人、アメリカ人、 日本人と、国籍もバラバラで、しかもみんなしっかり自分の世界観を持っているDJばかり。おまけに会場となった<スペース>というクラブはスペイン人が経営しているわけだから、それぞれの言い分をまとめるだけでも大変でした。

パーティーは告知から始まるわけですけど、その方法はポスターか街頭パレードのみに限られている。イビサでは今年2001年から街を美化するための条例というのが施行されて、フライヤーを撒くことが禁止されてしまったんですね。だからみんな鼓笛隊を引き連れて、街の中心やビーチでパレードをするんです。パーティーの日付を記したプラカードを持って「タン!タン!タン!明日XXXで、パーティーやりますよ!」というようにね。クラブの入場料は大きなディスコで大体8000ペセタくらいですから日本円にしたら約5500円。でも物価は日本の倍だから一晩11000円相当。お金に余裕がないと出せない金額ですよ。ちなみに僕らがやった 「REVOLUCION」ってパーティは3500ペセタ。結局、収支は赤字でしたけどね (笑)。

もっとも、最初から赤字になるプロジェクトだとは理解していたんです。それでもパーティーをやろうと決めたのは、新しく挑戦してみることで生まれる「何か」もあるんじゃないかって期待感と、一度やってみないとわからないと思ったから。 そんな単純な理由です。89年に始めて、今も続いている不定期のパーティー「ハードコア・パーティー」もそうだけど、パーティーはとにかく利益に結びつかないどころか赤字しか生まない。でもあえて、そこで一歩踏み出してみることが大切だというのが僕の考え。何かを失うことを恐れて踏み出さないで全てを失うよりは、とにかくまず進むことが大事だと。そういう考え方で僕はこれまでやってこれたので。

パーティー名とアートワークの「REVOLUCION」は1959年のキューバ革命のときに発行されていた新聞の名前からとりました。歴史上のキーワードを引用することで、何かを変えることができるんじゃないかという思いも込めてネーミングしました。といっても僕は特にキューバ革命に傾倒しているわけでも、反体制というのでもない。ただ、みんながみんな同じ方向に向かうのは危険じゃないの? という疑問が常にあって、その疑問を世の中の人に投げかけるのが自分の役割かなと考えているんです。今やっているDJにしても、服の仕事にしても、そういうことが伝えられたらいいんじゃないかと思ってやってます。

《イギリス編》

はじめてのイギリスは86年。大学の長期の休みを利用して、1年の半分近くをロンドンで、残りの半分を日本で過ごすというような生活を、それから二年に渡って送っていました。当時のロンドンには第一次ハウスミュージック・ブームというのが訪れていて、クラブでも「ジャック・ザ・グルーヴ」とか「アイ・キャント・ ターン・アラウンド」といった初期ハウスが繰り返しかかっていたのを覚えています。当時はゲイ・クラブが人気で、単調な展開の続く初期ハウスで我慢大会。その合間にポップな曲がかかると客は大盛り上がり、というような、まあ、どこもそんな調子でした。なかでも人気だったクラブはゲイクラブの<タブー>とか<アセンション>とか。マルコム・マクラーレン、ジョン・ムーアー、ジョン・ガリアーノ、ジュディ・ブレイム、ビビアン・ウェストウッド、シャーデー、ボーイ・ジョージ、ネリー・フーパーなどと、今となっては超巨匠クラスのクリエーター達が、とびきりドレスアップ(着飾ること)してクラブに遊びに来ていた。そんな時代でした。

《セカンド・サマー・オブ・ラブ》

3度目のロンドンは88年の夏。大学を卒業して、今度は1年間の期限付きという条件でロンドンに住み始めたんですけど、ビックリしましたよ。だって去年まで、 ドレスアップ、ドレスアップ、って言ってた連中も、胸にスマイル・マークとか蛍光プリントの「E」とかプリントされたオーバーサイズのTシャツとオーバーオールという、すっかりラフな格好に着替えて「ドレスダウン」していたんだから。この変化っぷりこそが、いわゆる「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」と言われるムーヴメントのおよぼした影響だったんですね。

「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」はイギリスに何をもたらしたのか? これには、いろんな説があるけれど、レイヴ・パーティと同時期に大流行していたエクスタシーのおかげで、人種階級、性別をこえた音楽とダンスのコミュニケーションがうまれ、街に平和が訪れた。というのが、もっぱらロンドンの若者たちの間でまことしやかに囁かれていた噂だった。でも、それもあながちデタラメな話でもないと僕は思っているんです。というのも、それまで街のあちこちで頻繁に起きていた喧騒が88年を境に、めっきり減ったんだから。それまでは道路を歩いていた黒人が理由もなくいきなり白人を殴りつけられたなんて話をよく聞いていたんだけど。

そして、もうひとつ。当時パーティをオーガナイズしていた連中がレストランを経営し始めたり、デザイン事務所を始めたり、その後のイギリスのカルチャーをひっぱっていくような存在になっていった。不景気な時代にパーティをやって、それ自体は決して経済を活性化させたわけじゃなかったけど、実は新しい未来を生むための「何か」を生み出していたんですね。その中の何人かが政府のブレインとなり「クール・ブリテン」が生まれた。それと同じような動きが日本にも起きつつあるんじゃないかと僕はひそかに期待しているんですけど、どうでしょう?

音楽的には87年頃から新しい動きが始まったんじゃないかと言われています。 一説によれば87年にイビサを訪れたポール・オークンフォールドやダニー・ダンプリングといったDJ達が、イビサ伝説のDJアルフレッドのプレイを、エクスタシーを採りながら目の当たりしてえらく衝撃を受け、それをイギリスに持ち帰ったのがすべての始まりだとも言われている。

そんな調子で、80年代後半頃から91、92年頃まで、ロンドンの週末はかなりの盛り上がりを見せていた気がします。でも、91年の9月に<ミニストリー・オブ・ サウンド>ができてからは次第にクラブの商業化が進んでいったんですね。今ではすっかり観光客向けのハコになっちゃって当時の面影すらないけど、オープン当初の<ミニストリー・オブ・サウンド>の「サウンド」は本当に凄かった。なんせ店のサウンドデザインを手掛けたのがラリー・レヴァンなんですから。ラリーは音に合わせてダンスフロアのルームアコースティックをデザインさせたんです。言っている意味わかりますか?普通はハコの構造に合わせて音響システムを作るでしょう。 でも<ミニストリー>の場合は逆で、いかにしたら良い音が出せるかということ (ルームアコースティック)を基準にして店を設計している。それで音が悪いわけがない。僕も<ミニストリー>では何度かDJさせてもらったことがあるけれど、今は無き2階のDJブースからフロアを見下ろした時に、まるで龍がとぐろを巻くように、音が回っているのが見えた。10年位前に東京にあった<エンドマックス>というハコもラリーが音響をデザインしていて、同じような効果が起こるようになってた時期があったって。冗談みたいだけど、これ本当の話です。

1988年の頃はウェアハウス・パーティもやたらと頻繁に開催されていました。 僕も友人に誘われてよく通ってはいたけれど、良いと思ったことは一度もなかった。 で、初めて良いと思えたのが、そろそろ日本へ帰国しようかと思っていた89年。ロンドン南西部の馬小屋で開催された小さなウェアハウス・パーティでのDJ HARVEYのプレイ。「オイオイ、もう一人の俺がいるよ」って驚かされて。その年の秋には HARVEYを日本へ呼んで「ハードコア・パーティ」っていう文字通り、音や音が聴こえてくる環境に対してハードコアなこだわりを反映させたパーティを始めていました。当時HARVEYがメインでプレイしていた曲は、今と変わらない「良質なハウス」ってやつ。そこに「ファンキー・ナッソー」とかラテンハウス、バラリックビーツ、レア・グルーヴの曲を混ぜてかけていました。その頃はハウスといっても、まだいろいろなジャンルの曲が一緒にかかっていることが普通だった時代。

DJ HARVEY(2001)

そのHARVEYが、91年の5月からコベントガーデンの<ガーデニング・クラブ >で「MOIST」というパーティーを始めるんです。そこは500人も入れば満員になってしまうような小さなハコだったんだけど、その日だけは特別に自分たちでサウンドシステムを追加して入れたりして、とにかくできる限り音にはこだわっていた。 ゲストDJも、パル・ジョイ、ビクター・ロサド、フランソワ・K、ラリー・レヴァンなど、<ミニストリー・オブ・サウンド>が土曜日にブッキングしている錚々たる面子を招いていました。僕も月一のペースでDJさせてもらいました。

長年イギリス人とつきあってみて感じることは、彼らってもともと未来志向というか、新しいものを作らなきゃ生きていけないという感覚を持っている国民だってこと。過去を懐かしむんじゃなくて、あくまでも未来に向かっていこうという姿勢をみんなが持っている。そういう部分に僕はとても共感するんです。

それに比べて、今の日本の状況を見ると、古いシステムが機能しなくなって、 いろんな局面で歪みが出はじめているのに、既得権のある人たちは相変わらず前と同じことを繰り返している。これはやはりちょっとおかしいですよね。若い連中も仕事を放棄したり、いろんなことを無視したり、それは消極的な反抗だけど、社会に対して明らかにNOってサインを出しているんだから、思い切って新しいシステムに切り替えなきゃいけない時期に来ているんじゃないかと思うんです。

だから僕は、昔はよかったとはあまり言いたくない。最近はDJするときですら昔の曲やディスコ・クラシックすらかけないようにしているし。過去を懐かしむよりは未来のことを考えたほうが楽しい。今やっているDJにしても服の仕事にしても、大勢の人が興味を持ってくれたら、そこでスパッと頭を切り替えて次のことをやったほうが良いんじゃないかと。社会と一定の距離を保ちながら、次へ、次へ、 という感じで新しいことをいろいろとやっていきたいんです。

COMPILED BY DJ MARBO

2001 REVOLUCION

SPECTATOR 2001 WINTER ISSUE

 

 

〈MULTIVERSE〉

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