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石丸元章 『危ない平成史』 #08 サイバースペースからの挑戦状、その後 ──あの「1995」から四半世紀を経て・ 後編|GUEST|松永英明

GONZO作家・石丸元章が異形の客人と共に平成の「危ない」歴史を語り合う。松永英明(旧名:河上イチロー)をゲストに迎えての「平成のサイバースペース」対談の後編は、1990年代になぜあんなにも多くの人たちが「教団」に魅せられてしまったのか、をめぐって。

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断片化する情報としょこたんの先駆性

石丸 2000年代以降、松永さんはペンネームを現在の“松永英明”に変更されてブログ『絵文録ことのは』を始められました。あれはいつ頃の開設でしたか?

松永 2003年ごろですね。ちょうどアフィリエイトが盛り上がり始めた頃です。当時は主婦でもブログで月に30万円稼げるみたいな話をよく耳にしましたし、私自身、ブログと一緒にアフィリエイトも始めて、2006年ごろまでにはサーバー代くらいは稼げるようになっていました。ずっと、ネットでお金を稼ぐということにはピンときてませんでしたが、個人的にアフィリエイトは嫌じゃなかったんです。特に私は本当に自分の好きなものしかおすすめしていなかったので、それを誰かが買ったらマージンが入るという仕組みであれば、シンプルにWIN-WINでしたから。

石丸 松永さんのブログは日記というより論考が多かった印象ですし、商売っ気はありませんでしたしね。当時は様々なジャンルから有名ブロガーが生まれていて、現在も活躍されている方で言えば、たとえばやまもといちろうさんなどがいます。

松永 そうですね。有名どころでは小飼弾さんなどもいました。当時はまだブログはなんらかの個人的な意見を述べる場所として使われていたイメージで、だからメディアとしても機能していた印象です。ただ、その後、アイドル系のブロガーとかが出てくるようになっていく中で、ブログというメディアの状況自体が普遍的なものに変わっていったんです。

石丸 しょこたん(中川翔子さん)とかですね。

松永 まさに。『はじめよう!  みんなのブログ』というムックシリーズを作っていた頃に検証したんですが、最初にブログの女王と呼ばれていた眞鍋かをりさんなどは文章の作り方やデザインの仕方が完璧にテキストサイト的で、要するに、まとまった文章を更新するという方法だったんです。一方、しょこたんは画像とちょっとしたコメント程度の記事を大量に投稿するというやり方で、今のツイッターに近い形でブログを使っていた。私たちはマイクロブログなんて呼んでいましたが、その後、ツイッターが流行すると、そちらの流れが一般化した。文章のミクロ化はその後も続き、ツイッターから画像がメインのインスタグラムへ、さらに15秒の映像のみのTikTokへと展開していったイメージです。

石丸 自分はしょこたんが一日に何度もブログを更新していると知った当時、それを見て、書くことを生業としてるライターとして「この子は狂ってるんじゃないか」と思いました。「今ここにいる」みたいな断片的な情報を、その都度書いて、書き流すことにどんな意味があるんだろう。いったい彼女は何を見て誰に向かって書いているのだろう、と。しかし、今わかる。あの子は天才だったんだ。軽々と時代を先んじて書き走った。ツイッター以降はむしろそれが当たり前なわけです。

松永 実際、しょこたんはツイッターが出てきたときになかなか始められなかったんです。「ブログとの使い分けが分からない」みたいに言っていた。当然です。すでにブログをツイッター的に使っていたんですから。

石丸 ツイッターの初期は使い方をみんな分かってなくて、手探りで、朝起きたら「おはよう」とつぶやく、みたいなそういう感じでした。その延長で「自分ファンクラブ」を運営している女性も多かった。ところが「おはよう」しか言うことがない。まさに総表現社会の苦闘の始まりです。よくわかってないけれど、とりあえず何かを述べて、それがシェアされていく。しかし、そういうなかに面白い人がいる。驚いたんだけど、誰もが物書きとして振る舞い始めると、そもそも何かを日常として表現する、書く、描くということは、それを職業としている職業上のプロだけの技能というわけでもなかったんだなとわかってくる。

松永 SNSに膨大に投稿されている文章のほとんどは文章力的にはどうっていうことはないんですが、それでも伝わりはするんです。おそらく、今は伝わればよくて、技巧的なことは問われてない。すると、プロではない一般人が書くブログやツイッターでも十分となるんですよね。

だから、いま出版界のプロの物書きがすべきことは裏付けを取って事実を検証していくということになるんじゃないですかね。噂をそのまま垂れ流すことならいまや誰でもできますから。ただ、実を言うと、本気で検証するにしても、ネットの方がやりやすいんですよね。プロのライターさんたちも、雑誌記事を書く上でネットを頼っているような時代ですから。

石丸 その点、松永さんはネットの人であり、ライターとしてのキャリアも長い。ある意味、ネット発のライターとしても先駆け的な存在なわけです。最初の本を出したのはいつ頃でしたか?

松永 河上イチロー名義では98年の『サイバースペースからの挑戦状』が最初ですね。内容はサイバースペースの自治や自由についての本なんですが、版元の雷韻出版は社長がゴリゴリの国家社会主義者で、思想的には真逆だった(笑)。多分、私のサイト名が「デア・アングリフ」だったので勘違いしてたんだと思います。

 

『サイバースペースからの挑戦状』河上イチロー著

 

『サイバースペースからの攻撃』河上イチロー著

 

石丸 デア・アングリフというのは、ナチのプロバガンダを広めたゲッベルスが創刊した新聞の名前ですもんね。

松永 はい(笑)。私は皮肉を込めて使っていたんですけどね。

石丸 しかし90年代当時は、サイト自体はお金にならなかったわけですよね。ライターとして本を出されるようになる以前はどのように収入を得られていたんです?

松永 実はそれ以前にも、新書のゴーストなどライティングの仕事をしていたんです。ネットでの河上イチローとしての活動費は、そこで得た利益の中から捻出していた感じです。

 

「河上イチロー=CIAのスパイ」説と「松永英明=きっこ」説の真相

石丸 少し話を戻しますが、最初に作った反・破防法サイト自体が教団的な視点から作られたものだったわけですよね。実は当事者も当事者だった。ただ、そうした背景はどうあれ、サイト自体は教団にとってのみならず重要な意味を持つものだったと思います。

松永 そうですね。当時の私の活動で非難されるべきことがあるとしたら、第三者のふりをしていたということだと思っています。ただ、当事者ですと言ってやっていたら、多分、あそこまでは広がっていかなかった。カルトのサイトとして敬遠されて終わりです。だから第三者の振りをしたわけですが、結局、それがバレて、その後に追い込まれることになった。自分を弁護するわけではありませんが、ああした自作自演は、今でもネット上に溢れているんですけどね。

石丸 ステルスは普通にあります。広告関係に関しては、つい先日もディズニーの『アナ雪』でツイッターを舞台としたステマがあってニュースになった。皆が非常に敏感になってきている。吉本案件でもステマが指摘されている。ツイッターなんてどこかの組織の差し金みたいなアカウントの巣窟ですよ。

ちなみに松永さんは革マルにも嫌われてました。“CIAのスパイ”認定されてましたよね。

松永 河上イチロー時代のあれね、めちゃくちゃな話でしたよ(笑)。おそらくですけど、革マルの中に陰謀論好きな人たちがいるんです。酒鬼薔薇事件についても「CIAによるものだ」みたいな陰謀論が革マル発で語られてましたから。

石丸 酒鬼薔薇聖斗がCIAの陰謀? ははは、革マルってスゴイわ。

松永 私がCIA認定された背景として、当時、革マルと仲の悪い中核派が破防法に反対する集会を開いていて、私もその辺の派閥関係をよくわからないまま早稲田のキリスト教会の主催と思い込んでそこに参加していたんですが、そのことも無関係じゃなかったと思います。実際のところ、私と中核派にはなんの関係もないんですが、革マル側の目線では「中核派の集会に怪しげなネットワーカーが参加しているぞ、こいつはなんだ、おそらくCIAに違いない」となったんじゃないでしょうか(笑)

石丸 うーむ。典型的な関係妄想ですねえ。先鋭化した集団というのは、集団内において病理を引き寄せるところがあるのかもしれません。

松永 ただ、そういう風に革マルから敵視されたことによって、こちらを応援してくれる人たちも逆に増えた側面があり、結果的には「反・破防法」側の結束は固まったんですけど(笑)

石丸 松永さんをめぐっては他にも様々な陰謀論が巻き起こっていましたね。なにか他人の妄想を刺激するところが松永さんにはあったのかもしれない。あるいは「初期のインターネットには」と言ってもいいかもしれませんが。

松永 2006年には、有名ブロガーのきっこ(※)の正体は松永だ、という告発のような記事が週刊誌に掲載されたこともありましたね。もちろん、全くのデタラメです。その記事を書いたのは元公安庁の野田敬生さんなんですが、おそらく背景には宮崎学さんへの憎悪があって、ああいう間違った推察をしたんじゃないかな、と思っています。宮崎さんは公安の二重スパイみたいなことをやっていたようなんですが、僕は宮崎さんと対談したりもしていたことから目をつけられたんじゃないかな、と。

※きっこ…ブロガー。http://kikko.cocolog-nifty.com/

あるいは野田さんは現役時代に革マル担当だったんで、革マルの陰謀論好きの人たちから僕のことを吹き込まれ、ミイラ取りがミイラになった可能性もある。そのことはAmazonのレビューで当の革マル派の人間と思われる人物が自白しています。当時、野田さんも僕も宝島社で記事を書いていたから、そこ経由で口座情報か何かの個人情報を不正に入手し、まず松永と河上イチローが同一人物だということを知って、それで色々とピーンと来たつもりになったんじゃないのかな。

石丸 なるほど、経験があります。妄想はいつも突然「ピーン!」とくるものです。わたくしの場合は革マルではなく覚醒剤の妄想でしたが。

 

『覚醒剤と妄想』(石丸元章)

 

松永 実はあの記事が出たすぐ後、僕は結核で都内の病院で療養することになったんです。さらにちょうど教団を完全に抜けた頃でもあり、根も葉もないことで叩かれて、かなり憔悴してしまったのを覚えています。

石丸 本当に松永さんは数奇な人生を歩まれてますね。そもそも“松永英明”にペンネームを変更されたのも、教団の人間だということが暴露されたのがきっかけだと認識していますが。

松永 1999年末に教団に戻った上祐さんの誘いで教団に戻っていたんですが、そのころ、上祐さんに「このサイトはなんなの? やってる意味がわからない」と言われてしまい、一度「デア・アングリフ」を閉じることになったんです。ただ、一気に閉じると逆に話題になってしまうので、徐々にフェードアウトしていったんですが、そのタイミングで教団ウォッチャーみたいな人に「逃げた」と勘違いされてリークされてしまって。

その後、しばらくは静かに過ごしていたんですが、今度は上祐さんから教団関連の個人サイトみたいなものを作らないかという話があがり、そっちのサイトを運営していました。ただ、結局、修行者の承認欲求を刺激してしまいかねない、という懸念もあって、そのサイトもまた閉鎖するよう命じられたんです。その後、2003年ごろになって教団の経済状況が悪くなってきたので再びライターとしての仕事をすることになり、新たにライターとしてのプレゼンテーション用のサイトを作ろうと思って、当時はまだ目新しかったブログでサイトを始めました。こうして、ペンネームを変えて個人的にブログを開始することになったんです。

 

もう一回あの時代に戻ったとしてもやっぱり「教団」に入る

石丸 少し教団の話をしましょう。自分は、あのテロ事件は教団が起こした事件であると同時に、まぎれもない「自分たちの事件」だと思っているんです。本当に、自分が井上嘉浩であってもおかしくはなかった。あえて呼ばせてもらうけれども、アーナンダのあのキャラクターは、知る限り自分にとても近いような感じがする。教団に入ってもいないのに、そんなことを言うというのはおこがましいんだけど、自分の人生を考えた時に、あの事件を、たとえ部外者であったとしても、きちんと向き合おうとする気持ちを失ってはいけないと感じる。偶然とか必然とか、なんらかの判断によって、自分はライターになったわけだけど、自分と、信者たちとの間の断絶は決して深くない。あの時代の世の中に対して、それぞれの視点からレジストしようとしていた若者同士です。

松永 実際に自分もまたテロを起こすという目的で集められていたわけじゃないですしね。純粋に世の中を良くしたいと思って集まっていましたから。下っ端の自分には裏でそこまで過激なことをやっているという実感もなかった。まあ、こんなことを書いてしまうと叩かれてしまうかもしれませんが、たまたま入っちゃったという感じではないんです。当時、教団は魅力的でした。今の記憶がなくて、もう一回、あの時代に戻ったとしても、やっぱり教団に入る可能性はあると思う。

石丸 自分は松永さんが事件に巻き込まれて死刑にならなくてよかったと思います。今こうして、話が聞けて、本当によかった。

松永 まあ本当に下っ端でしたから(笑)。僕は95年に上九一色村の第五サティアンにいたんです。まだ大学を出て2年くらいの頃でしたけど、当時、第五サティアンには巨大な新聞輪転機があって、教団の編集部があった。私はそこに配属されて、一般向けの出版物を作る仕事をしていました。

石丸 『ヴァジラヤーナ・サッチャ』とかですね。個人的に持ってます。

 

『ヴァジラヤーナ・サッチャ』NO.2

 

松永 そうそう。結構、いろんなものを作ってましたね。まあ私が編集部に関わっていたのは、だんだんと教団が過激になっていった時期ではあったんですが、ただ、ああいう一般向けの機関紙を作る信者はステージが低い信者なんです。重要な教義に関するようなことはステージの高い人間にしか触れることができなかった。

結局、その後、事件があり、一回は脱会届を提出して外れたんですが、ただ実際は教団と繋がっていました。破防法などもあり、本体が残るかどうか分からない時期だったので、意図的にバラけていたんです。やはり、当時はすぐに教団と縁を切るという選択肢は考えられませんでしたから。

石丸 教団員であること、元教団員であることは、恥ずべきことではないと思います。もちろん、ずっと何か言ってくる人はいるだろうと思いますし、テロ事件の遺族だったり遺族の関係者の方々の気持ちは、外野からの気持ちと大きく異なって当然だと思います。ただ、あの事件は、格別の出来事であり、あの教団はあの時代において格別の存在だった。そして、その渦中にいた人は、哀しくも格別な人たちなんです。時代の証言者として話し続けるべきだと思う。必ず意味がある。

松永 教団をめぐる言論で一番足りていないのは「一般の信者が信じていた教義」についての分析が何もないということなんです。そうした分析がないから、あれだけの事件を起こしたにもかかわらず、「実際には教義とか見るとちゃんとしているじゃないか」って、いまだに新しい信者が入っていってるんです。教義の分析となった時、まず「殺人を肯定する教義」を含むヴァジラヤーナに向かいがちなんですが、あれはあくまでも特殊な教義として扱われており、「正大師」「正悟師」といった上位信者ならともかく、一般信者の日々の実践課題とはまったくかけ離れていた。だから、一般の信者たちが、あの教団に何を感じ、何をどう信じていたのか、あの教団の信仰の体系は今までの仏教とどう違っていて、そのどこが魅力的だったのか。そういうことをきちんと分析していく必要があると思います。こんなこと、私が言うことではないかもしれませんが(笑)

石丸 実際、事件前は中沢新一さんや島田裕巳さんら宗教学者もまた教団を高く評価していたわけですよね。事件後、彼らはそれによって責められたわけだけど、中沢さんや島田さんに落ち度があったと自分は特に思わない。学者だって未来を見通すことはできないし、あの時代、あの教団には確かに魅力がありましたから。

松永 そうですね。あの教団はものすごく実践型で、それが日本の葬式仏教的なものに対するアンチテーゼとなっていた。本当の宗教とはどういうものなのか、そういう問いを持った存在だった。だからこそ、魅せられたところがあったし、葬式仏教では満たされない人たちに響いた。もちろん、その存在が正しかったのかどうかは別の観点になります。しかし、少なくとも既存の仏教に対するカウンターでは確実にあったわけで、そこは見落とすべきじゃないポイントだと思います。

 

慈愛を説く宗教がなぜ凶行に走ったのか

石丸 自分は事件後も教団関連の情報についてはウォッチし続けてきたんですが、たとえば印象深いものとして、森達也監督のドキュメンタリー『A2』がある。あの映画で、教団の荒木さんに対して森監督が根源的な質問をされていて、ようは「今も尊師を信じているか?」ということを聞くわけです。事件自体には被害者がいて、尊師のしたことというのは絶対に肯定などできないわけですが、とはいえ、信仰っていうものはそういう世俗の道徳を超えたものでもあるじゃないですか。聖書のヨブ記なんかもそうですけど、神が何を考えてそれをしたかなんてのは、こちらには分からないし、理解もできないわけで、そうであるにも関わらず、信じるというところに信仰の本質があったりする。実際、荒木も森監督にそこを問われて沈黙してしまう。あれは名シーンだった。差し支えなければ、松永さんの麻原彰晃への、今の思いを聞きたい。

 

『A2』森達也(監督)

 

松永 なんて言えばいいんでしょう。身も蓋もない言い方をするなら、信じたいところだけを信じているという感覚です。テロと関係のないところ、日々の修行の教えなどについては信じることができるという気持ちはある。少なくとも事件後、まだ教団にいた時の意識としては、そんな感じでした。

たとえば、教団の教義にもいろんなレベルがあるんです。重要な概念の一つには「四無量心」というものもあり、これは慈愛の重要性を説くものでした。自分に対して攻撃をしてくる相手にも憐れみをもって接するべきなのだ、と。これ自体は日本仏教でも説かれているものであって今も素晴らしい教えだと感じますが、そうした教えを大事にしていた教団がどうしてテロに至ったのか、一般の信者にとっては本当に分からなかったわけです。

ようは、教団には一般の信者は実践できるはずもない、知識としてしか知らない高次の教義があったんです。その教義においては、人を殺めたとしても、それが慈愛に基づくものである以上、身の汚れにはなっても心の汚れにはならないのだ、という風に解釈されていた。当然、その教義に従って「はい、じゃあ、私が殺しますね」となってしまった時点で絶対に間違ってます。心の中に潜んでいる人を殺す快楽、あるいは裁く側に立つ快楽というものを教えによって正当化しているところがゼロかと言ったら、絶対にそんなことはないわけですから。

事件後、教団に残った一般の信者たちは、そういう考え方もあったということを知った上で、私たちはその先にはいきませんとして、あくまでも一般の教義に基づいて教団に残り続けていたんです。

石丸 しかし、松永さんはやがて脱会されたわけですね。現在、特定の宗教に帰依されたりはしていないんですか? また、なぜ脱会することにしたんです?

松永 特定の宗教はないですが、今も個人的に御朱印を集めたりはしてますね。御朱印を集めてる時点で完全に、教団で言うところの「外道」の軍門に下ったということだと思いますけど(笑)。まあ、脱会したのは、自分でも色々と省察した結果、教団の教義の特異的なところが、真実かどうかを特定できないなと思ったからなんです。事件から10年ほどの時間を経て、あの人がグルである必要はないんじゃないかと、ようやく自分で思えるにいたった。

ようするに、教団が提示している修行プログラムを経ることで体験的な裏付けを得られるというのが、教団に入った大きな理由だったんです。ただ、その体験があまり得られなかった。さらに、自分が関心を持っている原始仏教的な教義との違いも感じるようになってきた。ピンとこなくなってきたんです。

石丸 あまり神秘体験はされない方だったんです?

松永 もともと私はあまりしない方でした。90年代当時は体の熱が強くなってきて、冬場でもTシャツ一枚で過ごせたりする、みたいな変化はあったんだけど、そこからさらにどんな変化をしていくんだろうと期待していたら、これといってあまり変化はありませんでした。その意味では、私はいい信者では最初からなかったのかもしれません(笑)

石丸 自分は過去に多くのドラッグをしてきたことから、異様な体験というのも多くしているんです。だから、特定の教義こそ持っていないし、表現はともかくとしても“神秘”を信じています。それはあるものだという感覚がある。というか、それを知っている。ただ、なんか特定の宗教に帰依するというのが自分の美意識とは異なっていて、だから量子力学や多次元宇宙論を持ち出すことで、折り合いをつけてるんですけどね。

松永 分かります。私は教団に入る以前からずっと唯識論者でしたから。この世界は自分の意識が作り出しているような感覚がずっとあった。それがあると認識してはいるけど、それが本当にあるのかはわからないという感覚です。

多分、ドラッグとかをされていると、そういう感覚に至りやすいんだと思うけど、私にはもともと目で見えているものが本当にあるのか疑問に思ったり、手で触れて「ある」と感じるものが本当に実在しているのかと疑うような感覚があったりして、そうすると、普段知覚している世界の実在性がよく分からなくなる。それが宗教に関心を持ったきっかけでした。そこは今もブレてないんです。ただ、その探究の上で、自分にとって教団がもはや必要ではなくなったということなんだと思います。

石丸 話せば話すほど、自分が教団の信者と同じ時代に、同じ感覚を持って生きていたんだな、と感じます。ちなみに、私は教団がテロ事件を起こしたまさにその時、完全な覚醒剤中毒でした。薬物の妄想の中で、シンクロしていました。

 

「生きろ、そして消費しろ」へのカウンター

石丸 ところで、先ほど90年代の日本においてはインターネットとサブカルチャーが並走していた、という話をしましたが、その上でもテロ事件があった1995年というのはシンボリックな年だったんです。雑誌『危ない一号』(※)が創刊し、ユリイカで『悪趣味大全』が組まれ、一方ではウィンドウズ95がリリースされていた。なにより自分が覚せい剤で逮捕されたのも95年です。

その後、酒鬼薔薇事件が起こるまでの2年間が、悪趣味・鬼畜系カルチャーのピークですが、松永さんが河上イチロー名義でネット上で活躍されていたのもその頃でしょう。おそらく、根底にあったのは同じマインドだった。しかし、2000年を手前に、それらは急速に大衆化し、また大衆化したことで変質していった。

 

※松永氏は『危ない1号』の休刊後にインターネットのアングラ系ライターを中心に編集された『危ない28号』に河上イチロー名義で寄稿している。

 

松永 たとえば教団であれば、根底にあったのは、物質至上主義的な世の中に対するアンチです。80年代に爛熟した消費社会の中で、同世代の若者たちの一部が、物質主義カルトにうんざりしていた。煩悩を満たすだけの生に辟易としていたんです。

石丸 まさに。だから我々90年代鬼畜カルチャーサイドは、ゴミ漁りだったし、死体だったし、ドラッグだった。「生きろ、そして消費しろ」という世の中に「そんなもん知らねぇ。てめえら全員死ね!」と中指を突き立てていた。もちろん、それはなんら展望のない浅はかな気分でもあったんだろうし、結果的にも徒花ではあったんですが、当時の自分には、若者には響いた。

松永 教団もそうですが、結局、そのカウンターは続きませんでした。当時、他にも新興宗教は生まれていて、それらは今も続いていますが、やはり教団とはちょっと毛色が違いましたから。生き延びた新興宗教においては、いかに今世で成功し、幸福を勝ち取るか、みたいな煩悩成就がテーマになっていたりする。全くもって、本質的に違うんです。

石丸 実際のところ、お金儲けを是とする宗教ってすごく安心感があるんですよね。だって、それって俗世間にいるみんなと基本的には変わらない普通の考えだもん。教祖を中心に教団でお金を儲けたいなんて、こんな安心な宗教はない。分かりやすい価値観をすでに共有しているわけで。一方、お金儲けじゃない宗教は、怖いですよ。もちろん、それはその宗教の外部からしたらということだけど、金銭的な見返りを求めない、強く結束した集団って底知れないんです。特に、全てが金銭の見返りありきの世の中においては。

松永 そうですね。お金ベースの方が受け入れられやすい。ただ、理系の人たちがどうして教団にあんなに集まったのかっていう話があるんですけど、やっぱり数や合理性の世界に生きてきた人ほど一方ではそれに倦んでもいたんですよ。よくある「理系のエリートがなぜ空中浮揚を信じたのか」という議論の立て方では何もわからないと思います。

石丸 思えばインターネットもそうしたマインドの元に生まれた新しい技術であり、思想だった。インターネットで人々はもっと繋がれて、一つになれるはずだったのに――しかし結局は、さまざまな形で破局を迎えてしまった。マネタイズ勢によって路地裏が開発されたのも一つ、あるいは秋葉原通り魔事件などもその一つでしょう。あの事件も金が目当てじゃない。だからこそ止められなかった。命を捨てて何かを訴えるような犯罪は、いつも心に刺さります。それをいかに狂者の凶行とレッテルしてみたとしても、被害者からしたら「ふざけるな」という話だとしても、迫ってくるものがあるんです。その反時代性に何かが映っている。

 

21世紀のホールアースカタログ

石丸 あらためて伺いたい。松永さんから見て、現在のインターネットってどうですか?

松永 まあインフラとしてすでに成立しているので、もはや批評の対象ですらない気がします。ただ、根本的にはプラットフォームが更新され続けてるだけで、大きな変化はないようにも思いますね。

石丸 自分は不思議なんです。なぜインターネットは新しい宗教を生み出さなかったのでしょうか。GAFAなどの巨大企業は生み出したのに、ネット時代特有の巨大宗教というのは生まれていない。ある思想、教条を伝播するには、一番いいメディアであるはずなのに……あ、でもISなんかが、それにあたるのかしら。

松永 ISはちょっと違うと思います。ネットによって増幅されたところはあるけど、ネット発の動きじゃない。やっぱりネットと宗教はそんなに相性が良くないんです。なぜかというと、ネットではある個人が意見を表明することがいくらでもできるけど、それを一点に集約させていく力というのはありませんから。その点、宗教というのは、様々ある意見が一点に集約されることで、その教義が初めて成立するものなんです。つまり、宗教を興す上では異論を排していく必要がある。フラットにいろんな意見が並び立つネット空間においては宗教的なものが成立しづらいんです。

ただ、一方で派閥はできやすいですね。ネット右翼とネット左翼みたいな。フィルターバブルという言葉もありますが、現在のSNSなどではタイムラインを偏った意見で埋め尽くすことがたやすくできてしまいますから。

石丸 なるほど、慧眼です。しかし、あれですね。グーグルが世界中の情報を網羅するとあれだけ息巻いていた割に、今現在のネットには大した情報がありませんよね。自分の青年時代のアングラカルチャーの情報などもまるでスクラップされていません。

松永 インターネットには何もありませんよ。情報らしい情報はほとんどない。たとえばウィキペディアにしたって、あくまで表層的な情報ですし、間違っているものも多い。実際、私について調べようとしたら、書籍に当たるしかない。自分自身がかつてネットに書いたはずの情報も手に入りませんし。インターネットアーカイヴに保存されてないものに関しては、基本的にアクセスができない。そういう意味で、書籍に比べても、網羅度は低いと思います。

まあ、とはいえ、ここ最近のことに関してはそれなりにログが残っていますけど、それにしても脆いなとは思いますね。時代を経た時、電子情報がなんらかのパルスで消えてしまったら、この時代の情報というのは、それまでのどの時代よりもはるかに、記録の少ない時代になるんじゃないかと思います。

個人的には逆にそれが楽しかったりもしますけどね。当時から、検索して出てこない情報を発見することが私は好きだったので。そういう穴を探して、そこを埋めるサイトを作ってきたタイプですから。

石丸 やはりライターとして高揚するのは、「これはまだ誰もやってないぞ!」ということを発見した瞬間ですからね。最近の自分は、ウェブ媒体で記事を書くことが増えてます。それが可能なのは、ネット上の情報が圧倒的に不足しているからであって、ネットに面白い記事がないからこそ、自分が書く隙間がある。ただ、それってある意味では、自分もまた世界中の情報を網羅するというグーグルの意志に期せずして協力しているとも言えるんだけれど。

松永 たしかに(笑)。ただ、こちら側の視点でいうと、そうした穴を見つけるたびに、インターネットには全てがあるんだという錯覚から解放される。サイバースペースはそんな大したものじゃない。

石丸 松永さんが言うと説得力を感じます、本当に。では、最後に聞きたい。松永さんはこれからのインターネットがどうなっていくと思いますか。あるいは希望でもいい。お聞かせください。

松永 90年代、インターネットの主役はホームページでした。たくさんのサイトが生まれ、まずはそれらの〈トップページ〉にアクセスしていくのが主流だった。その後、ブログが始まると、トップページを経由することなく、〈記事〉単位でアクセスしていく時代となった。さらに、SNSの時代が到来し、ツイッターなどが生まれると、もはや記事ですらない、140字という〈断片〉にアクセスする時代になった。つまり、この25年で、情報がどんどん細かくなっていったんです。もう全体なんてまるで見えない。おそらく、この断片化、細分化の流れは、もう少し続くんじゃないかなと思っています。

ただ、やがて必ず揺り戻しが起こる。全体を見通せるようなものが求められるようになるんじゃないかと思うんです。たとえばトゥギャッターは、断片をまとめとして出すものですよね。あれも所詮は断片の寄せ集めであって、あれ自体も断片に過ぎないわけだけど、それをもっと大規模な形で編集し、統合するような何かが生まれてくるんじゃないか。必要な情報にリンクしつつも、全体の動きが同時に見えるようなもの。ウィキペディアのように自分の好きなものを辿っていくだけではなく、全体がうまく見渡せる曼荼羅のようなもの。そういうものが求められていくんじゃないか。抽象的ですけど、そんな風に思っています。

石丸 それは現代版の『ホールアースカタログ』のようなもの、ということですか。さて、それを誰が編集するんでしょう。

松永 個人がやると偏差が生まれますからね。とはいえ、アクセス数ベースで自動編集されるというのでは、本当の全体が見えない。さらにいうと、ウィキペディアのような集合知もダメだと思う。ウィキペディアは個人の主観を拝するというルールがあるため、そこで排された主観が情報としてカバーできないんです。

あるいはNAVERまとめのようなキュレーションもこけましたよね。結局、あれは質の低い情報を個人がまとめてるだけですから。そうしたキュレーションの一個上にいかなきゃいけない。そこには信憑性の考慮なども含まれる必要がある。検証機能を踏まえつつ、しかし、嘘や噂もただ排除するのではなく嘘や噂としての低評価を加えつつ、全体を構築していく。そういうものこそが、本当の意味で「情報」と呼ぶに足ると思うんです。

石丸 ふむ……イメージするのが非常に難しいですね。つまり、このポストトゥルース時代に、なんらかのトゥルースを再び打ち立てる、ということなんでしょうか。

松永 そういうことです。そのトゥルースは、きっと今まで見たこともないようなトゥルースなんだとは思いますが。本当に説明が難しいし、私自身、ぼんやりしたイメージでしかない。その形が具体的に予見できるなら私自身が作ってますから(笑)

石丸 しかし、そういうものって実現しづらいんですよね。なんせ儲けるためには情報は偏っていなきゃいけない。本当の「情報」では誰も儲かりませんから。

松永 人間は悪い奴ですからね(笑)。ただ、本当のところでは誰しもが協働を望んでいるはずだと私は思っていますけど。

石丸 自分もそう思います。お話できて嬉しかった。今日は本当にありがとうございました。

 

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松永英明 まつなが・ひであき/京都大学文学部中退。1990年代後半、河上イチロー名義でネットワーカー、ライターとして活躍する。河上名義の著作として『サイバースペースからの挑戦状』、『サイバースペースからの攻撃』(共に雷韻出版)などがある。2003年に現在の松永名義でブログ『絵文録ことのは』を開設。2013年ごろよりライター業を休業、ブログも更新休止している。

絵文録ことのは http://www.kotono8.com/

 

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〈MULTIVERSE〉

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

 

PROFILE

石丸元章 いしまる・げんしょう/GONZO作家。80年代からライターとして活躍。96年、自身のドラッグ体験をもとに執筆した私小説的ノンフィクション『SPEED』を出版、ベストセラーに。その他の著書として、『アフター・スピード』、『平壌ハイ』、『DEEPS』、 『KAMIKAZE神風』、『fiction!フィクション』、『覚醒剤と妄想』など。訳書にハンターS.トンプソン著『ヘルズエンジェルズ』。