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吉山森花 『だけど私はカフカのような人間です』 第七回《平等と不平等》について

沖縄県恩納村に生きるアーティスト・吉山森花のフォト・エッセイ。第七回は《平等と不平等》について。鬱ぎ込んでいた日、1ミリの光に向かって伸びていく植物を想って。

 

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 ここ一ヶ月、朝昼晩関係なくウィスキーをストレートで飲んでいないと正気を保てない毎日を送っていた。完全に自信喪失していたし、孤独感が数年前の波とは比べものにならないほど強く、私は孤独というビッグウェーブに乗ってこのまま死ぬのではないかとさえ思った。

 私は私生活では人間と関わらないように生きている。関わると私は一人でいる時よりも孤独を感じるからだ。そんな私がなぜ孤独のビッグウェーブに乗ってしまったのか。それは、私が人間のことを、これまで私が思っていたよりも“関わってよい”生き物なのではないかと思い始めてしまったことに端を発する。

 数年前はほぼ毎日一人で部屋にこもり、家族とさえ食事する時間をずらし、とにかく人間という生き物とは最小限の接触に抑える努力をしていたし、人間には何も期待しない求めないということを徹底していた。私は人間を嫌いだとこそ思っていないが、期待できるほどの生き物ではないと思っていた。期待する方がバカであり、そんなこと無意味なことなのだ、そう思っていた。

 ただ、幸喜さんや石川真生さんやラスカさんと出会って、私は人間を心から受け入れ、許し、愛すということが何かを知った。それでもしかしたら、あの人もこの人もそうなんじゃないかという気持ちで人間に歩み寄ろうという努力を始めてしまったのだ。人間に対して勝手に諦めてきたけど、本当は私の方から相手を信じることが大切なんじゃないか、と。それが今回裏目に出すぎた。私がただのバカで、頭が悪い、心の狭い人間だったと思い知らされることが重なりすぎてしまったのだ。

 だから、ここ一ヶ月の間は、ウィスキーを瓶からそのまま飲むというアル中みたいなことをしながら、猫と植物をずっと眺めて、その姿に感動しては、さらにしこたま酒を飲んで、気絶したら朝に、または夜になっているという毎日を過ごしていた。

 

 

 そんなある日のことである。私はその日も瓶一本空けかねない勢いで酒を飲んでいた。自分が植えた植物を眺めて、この人たちは本当に強くて美しいなぁと考えていた。その時によくよく見てみたら同じ場所にある植物でも育ちに差があり、それでもなお一番太陽の光が当たる場所に向かって体をくねらせて、目一杯光に向かって育っていっていることに気づいたのだ。

「なんと!この不平等な環境の差も植物はものともしないのか!」

 その瞬間、とてつもない感動に襲われた。

 自然界では木陰に生えた植物と日向に生えた植物とではきっと成長に差が出てくるだろう。もしかしたら、木陰の植物は動物や人間に踏まれて死んでしまうかもしれない。だけど、そんなこと気にも止まらないかのように、その植物は目一杯、ただ光に向かって育っていってる。その光景に唖然とした。

 そして、考えた。それはきっと野生に生きる動物にも言えることなのではないか。生まれた場所、生まれた身体、彼ら自身によって決めることができない様々な環境によって、彼らが生き残れるか死んでしまうかということ自体が大きく左右されてしまう。

 しかし、彼らは人間みたいに平等であることを押し付けたり訴えたりするだろうか? 少なくとも私にはそのような訴えは聞こえてこない。私の目にうつる彼らはただ黙々と与えられた環境を生きているだけだ。その姿に、私は「この世界は不平等であることが当たり前なのか」と思い、深く感動したのだった。同時に、私が今まで腹が立ったり悲しんでいたことは、私が「世界は平等であるべきだ」と勘違いしていたことによって生まれたエゴの押し付け、欲望の先走りだったのだとも感じたのだった。

 よくモーコが私に「植物見てたらさ、ドーンッてよくされるんだよね」と言っていた。その時はいまいち意味が分からなかったけど、その意味がようやく理解できた気がした。多分、私がこの時に経験したのも、モーコのいう「ドーンッ」だ。

 

 

 不平等であることが平等に起こるこの世には平等も不平等もない。ただ一つの事実しかない。それを二つに分断しようとするから、人間の知性がその「不平等である」と言われる状態のことを受け入れることができなくなる。もともと一つのモノを二つに分ければ、苦しみが生まれても当然だ。

 酒浸りになっていた期間もまんざら無駄ではなかった。死ぬほど苦しくて殺してほしいと何度も思ったが、私は結局死ねないのだ。死ねないというよりも、1ミリの光が見えてしまうと私は必ずその光に希望を持ち、ここから抜け出せるだろうと思ってしまうのだ。もしかしたら、私は1ミリの希望にすがる意気地なしなのかもしれないが、植物はたとえ光がどんなに小さくても、その小さな光に向かって育っていくだろう。だったら、私もまた生命力のたくましい植物のような人間なのかもしれない。

 よく地獄には畜生道というものがあると聞くけれど、畜生道は地獄ではなくてこの人間という生物に生まれてくることそのものであり、この人生というものは魂の試練なのではないかとスピリチュアルな考えに陥ってしまうほどに、最近は自分が人間離れしすぎてきているように感じる。

 もちろん、人間に生まれてきて良かったこともある。それは多くの感情を抱き、感動し、モノの美しさに圧倒されることができることだ。ただ、人間に生まれてきて本当に最悪だと感じることは、多くの感情を抱き、感動し、圧倒され、苦しんだ挙句、我を失ってしまう時があることだ。この世の不平等を嘆いているのではなく、この世の真実を容易に受け入れることができない自分が苦しい。

 

 

 次生まれてくる時は人間ほど感情が豊かすぎない生物がいいなと思う。最近は人間が何も考えないバカな人間に憧れを抱くという変な風潮も理解できる気がしている。私はパーティーピーポーなるものには絶対になれないし、なりたくもないけれど、そんな人間が世界に溢れるエゴや欲望を一瞬でも紛らしてくれるのなら、憧れを抱いて当然だろう。そんな連中のために私は頭を悩ましてしまう時があるけれど、それはきっと少数派なのだ。

 それに、ドラッグや酒やなんやと、たとえ一時であっても現実の世界から上手く逃げることができるのなら、それは良いことじゃないか。弱さと向き合った時にその弱さを受け入れることには途轍もない苦しみが伴う。それならば何も感じないふりをして、見ないふりをして、受け入れてるふりをして、ただ物質のために生きるというのも賢い知恵かもしれないじゃないか。

 最近主治医と話していたら、「ユングといっても昔の人だし、森花さんは薬を飲みたくないと言いますけど、薬を飲みたいと自ら望む人もいるんですよ」と言われて、皆が皆、現代社会や現代医療に疑問を抱いているわけではないんだと知った。もしこの世に「社会不適合者」というカテゴリーがなければ、私の方がマトモな生物だと胸を張って言えるけれど、そのマトモさを求めている人間は、この世界にはきっとあんまりいない。

 こういう風に色々と考えすぎると本当に嫌になってしまうけれど、私は猫や植物を毎日観察してたくさんの感動をもらっているので、きっとなんとなく、この先も生きていける気がする。これからも苦しい苦しいと言いながら、時々酒を浴びるように飲んで、猫と植物に感動して、それをモーコやラスカさんら、数少ない理解ある友達たちに報告して、一人で生きていることに一喜一憂していくんではないだろうか。

 たとえ、それがうまくいかなくても、世界を不平等だと恨んだりはもうしないと思う。不平等であることが平等に起こるこの世には、平等も不平等もないのだから。

 

 

(Photo by Morika)

 

特報:「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」展が、10月に那覇の沖縄県立博物館・美術館で開催。現在、クラウドファンディング募集中。

 

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PROFILE

吉山森花 よしやま・もりか/沖縄県出身、沖縄県在住。Instagram @morikarma。