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神本秀爾 『History Hunters ラスタファーライの実践』 #10 自律と連帯のはざまで ── お前たちはなぜターバンを取らないのか

文化人類学者・神本秀爾によるジャマイカ・レゲエの旅。ラスタファーライの歴史と実践を追う。なぜ彼らはスクール・オブ・ヴィジョンに辿り着き、またなぜそこから離れていくのか。排他性と包摂性、集合と離散をめぐって。

それぞれのヴィジョン

8回目の連載のおわりの方で、いろんな信徒がいろんな経緯でSOVにたどり着いているということを書いた。9回目の連載では、SOVは洗礼という他にはないものを追加することで、特定の宗派やグループに強いコミットメントをもたないラスタを包摂している可能性について触れた。ここで考えて欲しいのは、ぼくたちは、しばしば誰かがいまいるポジションやステイタスを最終的なもの、そうでなくても重要なアイデンティティと考える癖があるけれど、本当にそうなのか、ということだ。言い換えると、SOVが信徒にとって最終的な場所ではない可能性、SOVというアイデンティティが決定的に重要なものではなくなる可能性についても考えておくべきだろう、ということだ。そこで、今回はSOVにたどり着く(長期的に見ると、寄り道をしているかもしれないが)までの語りと、SOVとしての凝集性が揺らぐ側面について触れてみたい。

前回までと同様に、2009年4月にコミューン居住者を対象におこなった調査のなかから「かつての所属宗教」に関するデータを紹介する。成人信徒(男性44名、女性23名)のうち、無回答だったものの数は男性36名、女性14名で、男性の場合では8割にものぼる。前にも書いたけれど、クリスチャンの家族に生まれたことや、キリスト教会に通っていたという過去と決別するような形でラスタの世界に彼らは入ってくるので、かつての所属宗教について積極的に語られることはほとんどない。

キリスト教に所属していたと答えたのは、男性では5名、女性では6名だけだった。男性の方がこのことを隠す理由は、調査者が男性だったからかもしれないし、ラスタファーライは男性を通じて女性に伝えられることが望ましいとされているので、女性よりもそのことを認めにくいだとか、その他にもいろんな要素が絡んでいるんだと思う。別のラスタ宗派だったと答えたのは、男性では3名、女性では1名だった。信徒たちにコミューンで居住することになった経緯を聞くと、そのきっかけとしての入信の語りが披露されることが多かった。

 

洗礼を終えてコミューンに戻る女性信徒(中央)とその手伝いをした男性信徒(手前と奥)

 

最初に、SOV創設前の1997年にフェイガンと出会った男性信徒Bの例を紹介する。彼は、男女ひとりずつの子どもと3人で暮らしていた。以前はジャマイカ国防軍(陸軍)でボディ・ガードとカトリックの司祭として勤務していたのだが、仲間のひとりがラスタで、セラシエのことを軍の内部で説いていた。ある時、彼に誘われて、フェイガンの元を共に訪れ、彼の解釈を聞くうちにラスタファーライにも関心を持つようになった。

それから間もないある夜、カーキのスーツを着たハイレ・セラシエが7匹のライオンを連れており、その一団にライフル(M16)を持った自分が付き添っているというヴィジョンを見た。このヴィジョンが、自分がセラシエと共に生きていく運命であることを示唆していると考えた彼は、1998年の2月末に軍隊を辞め、3月になるとすぐに洗礼を受けブルー・マウンテンで暮らし始めた。彼は古株の信徒であることと、司祭としての経験もあるためだろう、多くの信徒の洗礼に関わっている。

次に、単身で暮らしていた女性信徒Cの例を紹介する。彼女はセント・トーマス教区で生まれ、その後転々としてきた。ブルー・マウンテンに来る前は、ダウンタウンで家政婦として掃除や洗濯をして生計を立てていた。彼女は、自分は「昔からよくヴィジョンをみるタイプで」と断ったうえで、入信前のヴィジョンの話をしてくれた(※)。

ある日の夢のなかで、彼女がどこか分からないところを歩いていたところ、「良いものを見せてやろう」という声が聞こえた。その声のする方を探すと男が立っていて、彼が自分についてくるようにといった。翌朝、友だちにこういう夢を見たといったら、友だちは「それはあなたがクリスチャンだからそのような夢を見たのよ」と言った。でも彼女はそうは思わなかった。彼女に言わせると、「そのとき私は自分が何者かを知っていた」かららしい。というのも、当時の彼女は霊的(spiritual)に落ち着けることなどないように感じていたのだが、北の方に見えるブルー・マウンテンにいくべき場所があるような気がしていたからだ。

そして、その頃に見たヴィジョンのなかに、山の中でいろんな教区から来た人たちが住んでいる場所のイメージがあった。そのうち、ブルー・マウンテンに住んでいる人たちがパピンで安息日の集会をやっていると、近所に住んでいた若いラスタが教えてくれた。フェイガンたちが安息日の集会をやっているのを見ているときに今まで見たヴィジョンが全部つながって、彼女はその後フェイガンに話をしにいった。彼は、洗礼を済ませるのであれば住む場所を選んでもよいといってくれたので、しばらく悩んでから、別の信徒の1歳の女の子と一緒に2004年に洗礼を受けた。コミューンでは2008年から暮らし始めていた。

※女性信徒Cの語りのなかでは夢とヴィジョンが混在しているのだが、それは寝ているときに見る普通の夢に対して、啓示的な夢=ヴィジョンというような使い分けがなされているのが分かる。この用法はSOV特有というわけではなく、ラスタ一般のもの。

 

建設資材は少しずつ運ぶ①

 

建設資材は少しずつ運ぶ②

 

上の説明からも、この2人は元クリスチャンだということが分かる。また、知人を介してSOVを知ったこと、その後、自分でフェイガンとの関係を深めるためにコンタクトを取ったという流れも共通している。

 

SOVとナイヤビンギ派

次に、宗派として、あるいは集団としての凝集性について考えてみたい。そのために、新しい数字を出してみる。細かい数字は省略するが、2009年のデータと2010年1月時点でのデータと比較すると、世帯数は46から32に、居住者数は121から82に、そのうちの成人信徒の数で言うと、男性は44から28、女性は23から14へと約3割以上減少している。女性信徒Cの語りにあったように、居住のためには洗礼が必要なのだが、洗礼という行為自体には、宗派へのコミットメントを継続させる力はあまりそなわっていなかった可能性がある。2009年以前のデータも、2010年以降のデータもないので正確なことは言えないが、当時の聞き取りや観察の結果を総合すると、コミューン運営のための資金がうまく回らなくなっていたというのが、居住者数が減少した最大の理由だったように思う。

資金不足との関係で言うなら、古株の信徒から聞く限りでは、当初は頻繁にあったコメや洗剤などの配給の回数も量も減ってきていたようだ。その原因は、コミューン全体に対しての労働力が不足していったことにある。というのも、第一に、コミューン建設開始時は、フェイガンに共感した若い男性信徒が積極的に関わることができたが、徐々に女性信徒や子どもといった扶養家族が増えたことがあげられる。第二に、コミューン建設開始時の記憶を共有せずに、すでにある程度できあがっている居住空間としてSOVを訪れるものが増えていったこと(そのなかにはフリーライダーもいただろう)もあげられる。そういった、多様化する信徒を守り、養い続けることが困難になるなかで、ラスタランの経営という策も出てきたと言える。

ここまでで確認したのは、SOVの信徒の減少は生活環境の劣化と関わっているという可能性だったが、それ以外に、SOVの教えや主張の独自性の弱さも関わっていたように思える。具体的なエピソードを紹介したい。

まず、SOVと他宗派の関係を整理しておきたい。西暦2007(エチオピア暦2000)年のミレニアムを目前に、ラス・ジュニア・マニング(Ras Junior Manning)を議長として、ラスタファーライの統率を図るために13の宗派の代表が集まって、Ethio-Africa Diaspora Union Millennium Council (EADUMC)という組織がつくられていた。その中にはラスタで最大のグループを形成しているナイヤビンギ・オーダー派(以下ナイヤビンギ派)も入っていた。そして、ミレニアムが過ぎた2008年、EADUMCに名を連ねた宗派のなかで、ナイヤビンギ派を中心として、安息日集会を共同でおこなったり情報交換の機会を増やしたりすることで、安息日に関わる連帯(sabbatical alliance)を結成し強化することが試みられるようになった。その一環として、SOVはナイヤビンギ派とのあいだで定期的に、後者の集合拠点であるスコッチ・パスと、SOVが拠点としてきたパピンで、合同で安息日集会をおこなうようになった。両者の関係について、フェイガンは次のように語っていた。

 

ナイヤビンギ派は(ハイレ・セラシエの即位した)1930年にはじまった。その意味であらゆるラスタファリの宗派にとっての親のようなものである。だが、自分はSOVの創設者であり、ナイヤビンギ派から派遣された人間などではない。自分はアメリカにいる時にラスタファリを受け入れたのであって、特定の師がいるわけでもない。SOVは自分が始めたものである。だから、ナイヤビンギ派にもSOVのやり方を認めてもらう必要がある。SOVはSOVのやり方で、ナイヤビンギ・オーダー派はナイヤビンギ・オーダー派のやり方でセラシエを崇拝している。やり方こそ違ったとしても目指すところは一緒なのだ。

 

彼の主張は、SOVが全体と協調していくために、SOVの自律性を尊重してもらう必要があるというものだったが、それは容易ではなかった。たとえば、EADUMC結成に向けた話し合いの過程では、フェイガンが司祭を自称していたことについて、ごく限られた長老しか司祭を名乗ることができない、ナイヤビンギ派からは批判があったという。このことが端的に示す、ナイヤビンギ・オーダー派との認識上のずれは、両派が同じ場所に居合わせる安息日集会の場面であらわになった。

 

なぜそのターバンを取らないのか

ぼくは2009年6月13日、第2回目となるパピンでの合同の安息日集会に参加した。ナイヤビンギ派の信徒たちが、スコッチ・パスに戻るのにかかる時間を考慮して、通常より1時間早い12時に開始されることになった。そのため、コミューン外に居住し、安息日にのみ参加している信徒のなかには、そのことを知らずいつも通りに来たものもいた。開始して1時半程、個々人がセラシエへの祈りを詠唱する儀礼があり、そこから1時間程、儀礼音楽(これもナイヤビンギと呼ぶが、ややこしいので儀礼音楽にしておく)が鳴らされた。2時半から3時半頃までの休憩時間をはさんだ後、リーズニング(説教や話し合い)を1時間程おこない、4時半から1時間程、もう一度儀礼音楽を鳴らし、全員で祈りを唱えて終わった。参加者は最も多い時間で100人を優にこえていた。

この集会では、SOVとナイヤビンギ・オーダー派のあいだでの儀礼的な手続きやその執行方法の差異が目立った。たとえば、SOVでは、フェイガンがつくった聖句に節と振りをつけて唱えるのだが、ナイヤビンギ派にはそのような手順はなじみがないものであるため、多くはそれを無視し、SOV信徒が祈るのを遠巻きに眺めるだけだった。はじめSOV主導でおこなわれた儀礼音楽の演奏に際しては、ナイヤビンギ派から物言いがついた。ナイヤビンギ派信徒たちは、演奏が始まると頭にかぶっていた毛糸や革の帽子を取り、頭上に巻いたり束ねたりしていたドレッド・ロックスをあらわにした。そして、近くにいたSOV信徒たちにも帽子やターバンを取るようにうながし、彼らから注意を受けたSOV信徒たちの多くは素直に従った。フェイガンはその様子を黙ってみていたものの、最後までターバンを取らなかった。また、演奏の最中に太鼓の叩き方について注文をつけられていた信徒もいた。

 

通常通りのやり方で祈るSOV信徒(手前)とナイヤビンギ派信徒(奥)

 

その後のリーズニングでは、フェイガンがナイヤビンギ派をこの場所に迎え入れられたことに感謝を述べたうえで、いつものように説教をおこなった。中盤では、ナイヤビンギ派の長老が「安息日に関わる連帯」に関するスピーチをおこなった。そして、長老は、儀礼音楽演奏中に気になった点として、ドレッド・ロックスの取り扱い方について若干の苦言を呈した。彼は聖書を手にして、『コリント人への手紙』の11章4節から7節の、男性がかぶり物をするべきではないと書かれている箇所を引きながら、普段は社会の中で生きるためにドレッド・ロックスを隠すことはやむを得ないとしても、皇帝に感謝を捧げる儀礼音楽演奏のあいだには、ドレッドをさらすことが、霊的な力を高めるためには重要だと述べた。そのことに対して、フェイガンは、SOVではドレッド・ロックスの取り扱いについて規定を定めておらず、多様性を容認することも重要であると反論した。

集会終了後に、フェイガンや古くからSOVと関わっている信徒と話をしたところ、彼らは、宗派としての自律性は尊重されるべきだと語っていた。一方で、一般の信徒のなかには違う見解のものも多かった。帽子を取らされた信徒や太鼓の叩き方について注文をつけられていた信徒は、ナイヤビンギ派の長老から教えられたやり方の方が伝統的なものであるようであり、子は親を敬うべきなので、受け入れたいと語っていた。このことから、一般の信徒のなかには、SOVはラスタファーライへの入り口に過ぎず、より深いラスタファーライに関する知識や技能を手に入れることを志向するものもいることが分かった。

この日の事例が意味しているのは、フェイガンは宗派単位での自律の重要性を主張するものの、彼のつくりあげた教義や組織のあり方では、信徒にSOVへの排他的なコミットメントを約束させる力はなかったということである。若干繰り返しになるが、上の集会の例が示しているのは、信徒たちはSOVを介して、その背後に流れているラスタファーライの太い水脈や、そこから枝分かれしたさまざまな支流と出会うきっかけも得てしまっていた。ナイヤビンギ派との合同での安息日集会のときにフェイガンが口にした言葉を引き合いに出すなら、ラスタファーライはつまるところ、「めざすところが同じ」だという論理を、個々の信徒もまた、それぞれの立場から実感しながら、所属する宗派やグループを取捨選択していることが示唆されている。結成から約10年で、宗派横断的組織を結成するときに声がかかる程度に有名になったSOVの事例は、このような集合と離散の緊張関係が、ラスタファーライを活性化し続ける原動力でもあることを示している。

 

*SOVに関する連載のデータは、神本秀爾2015「エチオピア暦ミレニアムを契機としたラスタファーライの再編――スクール・オブ・ヴィジョン派を中心に」『黒人研究』84:66-74に多くを拠っている。

 

特報:「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」展が、10月に那覇の沖縄県立博物館・美術館で開催。現在、クラウドファンディング募集中。

 

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PROFILE

神本秀爾 かみもと・しゅうじ/1980年生まれ、久留米大学文学部准教授。専門は文化人類学。著書に『レゲエという実践—ラスタファーライの文化人類学』(京都大学学術出版会)など。