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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #13 現代日本人の魂はひょっとしたらタトゥーで救済できるのかもしれないと僕は思っている

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第13回はバンクーバー編の幕間。大島がかつて日本を旅立ち、彼の地でタトゥーを生業にした理由について。

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あてなき放浪のための商売道具

 あらためて、僕はなぜ旅立ったのか。そして、なぜタトゥーだったのか。

 まずそもそもの動機として、10代半ば以降、つまり15、16、17と、僕の人生はずっと暗かった。何もかもが面白くなかったのだ。おまけに気持ちは落ち込んでいるにも関わらず精力には満ち溢れている時期だったから、その状況のチグハグ具合が非常に辛かった。穴があったら「入りたい」と「入れたい」は良く似ているように見えるが全然別物なのだ。病院に行って医者から診断を受けたわけでもなかったが、たぶんあれは藤圭子の歌、もとい鬱と言ってもいいのだろう。

 暗いから面白くなくなるのか、あるいは面白くないから暗くなっていくのかがとても曖昧で、それをじっくりと考えるモラトリアムな時間が欲しかったから大学に行って本を読み漁ったりしたのだが果たして判然とせず、もっと時間が欲しかったから就職もせずに旅に出たようなものだ。

 外国を彷徨うなんて本当はとてつもなく億劫だったのだが無理矢理自分から自分を引き剥がすようにして外に出てみたのだ。あれこれ考えても結局分からなかったのだから、もういろいろ試してみるしか方法は残されてないように思われた。

 実際外に出てみてもそのモヤモヤイライラとした曖昧な病みが綺麗さっぱりと晴れるなんてことはなかったが、本国よりももう少しテキトーでいられる「異邦人」という風通しの良い身分にいる自分を感じた。これはたとえば、その社会のさまざまな制約の、ちょっとだけ外側にいるということだ。そういう状況が心地良かったのは、物事をきっちり整理して考えるのが好きだったはずの当時の自分としてはわりと意外だったのだが、とにかく今までほとんど自覚もないままだったにせよ、ルールに縛られていたことがストレスになっていたということならば、この「みそっかす」みたいな方向にしばらくは進めばいいんじゃないかと思って、ぶらぶらとあてもなく放浪を続けた。

 その中でもインドは他のどことも大きく違う独特な文化の国なので、ローカルとツーリストとのギャップは特に鮮やかだった。

 

インドのあるパーティーで

 

 ふと周りを見渡せば、いつの間にかいろんな国から来た、似たり寄ったりの者たちと知り合いになっていた。この愛すべき社会不適応者たちは互いに共振し、自由へのリミッターを解除するような遊びにのめり込んでいった。僕らには、もう国には帰らない、という共通の目標があった。

 パスポートを焼き捨てて具体的にどこの国の人でもなくなった者もいたし、死んでしまってその願いを手っ取り早く成就出来た者もいたけれど、ほとんどは旅をしながら生活費を稼ぐ道に進んでいった。

 僕の場合はそれがタトゥーだった。日本では、なんでタトゥーなんか、と訝しがられることも多いのだが、世界の旅行者の間でそれはごく気軽で、しかもクールな娯楽だった。そういう空気の中で大した考えなどもなくただのノリで始めていた。

 それに小さめのスーツケースに仕事の機材がすっぽり収まるという身軽なところも良かった。同じぐらいの装備の規模としてはDJという選択肢もあって、これをやっている旅仲間もとても多かった。ただし、当時はDATやレコードを持ち歩いていた彼らも、今ではUSB一個とかになっていてだいぶ水を開けられている感がある。

 なお、次元が違うなぁと思って羨ましかった職業にはライターがあった。装備はセンスとスキルのみ。重さ0グラムなのだ。速いペースで縦横無尽に飛び回る忍者のような彼らを眩しいような気持ちで眺めていた。ひょんなことからその頃の夢を体験させてくれているこの連載企画には感謝している。

 

ニンジャブーツの行商人

 国でちゃんと働いて貯めた金を休暇の旅で切符良くパーっと使って遊び、終わったらスパッと綺麗に立ち去る通常の旅行者から見たら、僕らはさぞかし往生際の悪いネガティブな連中だったに違いない。まるで夏休みが終わったらグズってそのまま登校拒否になる子供のように。

 が、このままどこにも所属せずに自力で「異邦人」をやり続ける算段を立てようと、あの手この手で工夫していた僕ら自身の頭の中はきわめて前向きだった。夏休みの期間を決めるのは自分自身なのだ。というか、オンとオフなんてもともと分ける必要もない。

 専業のタトゥーイストになりきるまでは、もちろん同時進行でいろいろなバイトや小遣い稼ぎをやっていた。ビザの関係でしょっちゅう国境を越えざるを得ない状況だったので、行き先の国では高いがこちらでは安い、そういったものを移動の度にがっさりと携行するとか、まあ主にそういったことだ。

 あたりさわりのないところで例えば、日本で数百円の卸値で手に入れた作業用の足袋は、ニンジャブーツとしてインドやヨーロッパのフェスやフリーマーケットでは数万円で売れた。今でこそ定番化した感もあるグッズなのだが、僕はごく初期にそれをやっていたということもあり、当時は競争もなく独占的にどんどん飛ぶように売れた。学生時代の東京の靴屋のバイト仲間から送られてくる、大量の足袋がぎっしり詰め込まれた梱包の受け取り先を大使館や領事館にしていて担当の人から何度も注意されたりしていたものだ。これをもっと本格的にやろうと思えばインドネシアやカンボジアの安い工場を押さえて生産してしまえばもっと生産コストを低くすることや独自のアレンジも簡単にできただろう。

 こういうのはもちろん足袋に限ったことではなく、貿易業の基本であり、僕の周りにはこの構図を活かしていろいろな変わった商売をしてる当時からの仲間がまだたくさんいる。本業の都合であちこち出歩いている僕は今でも彼らの求めに応じてちょとしたしたバイトをすることもあるのだが、それらを説明し始めたらきりがないのでここまでにしておこう。

 仕事の掛け持ち自体は学生の頃からずっとやってきていることで、全く苦にはならなかったのだが、せっかく専業プロが当たり前のタトゥーという職種に手を付けているのだからそのレベルをまずはちゃんとクリアしてみようとも思って、上手くなっていくに従ってその他の小遣い稼ぎの割合は徐々に減らしていった。

 実際にいくつか彫られてみてタトゥーの持つ不思議な精神作用に気づいて俄然楽しくなってきていたし、タトゥーイストという商売が、単なる上手いこと儲けていていつも美人の彼女を連れている不良の先輩というだけにとどまらない、何かこう、ちょっとしたシャーマンみたいなカッコいい輝きを持って僕の目には映り始めていたというのもある。

 

インドにて

 

 悩みに関しては結局なんのことはなかった。僕がこれまで暗く不機嫌な人生を送ってきたのは、ただシンプルに面白いことをやってこなかったからだったのだ。本当に何の制約もなく生きるならば、つまり事の結果として死までを受け入れるのであれば、人は好きなことだけしかやらなくていいのだ。メメントモリは決して頭で識れるようなものではなく、自分の身体を使って覚えるしかないのだ。

 つまらない物事でも楽しめる自分になれるよう、ヒマラヤ山中にこもって瞑想するべきなのかとか考えてインドまで来てみたが、実はそんなたいそうなカードを切るようなことでもなかった。

 

8000USドルをいつも持っていればOK

 副業を減らしていく一方で徐々に作画のレパートリーは増やしていった。1人でも多くの目の前のクライアントをすくい取れるように、何でも彫れるオールラウンダーを目指したのだ。仕事が早くて料金が割安というのにもこだわった。まあ、学生街の定食屋みたいなノリだったなと思う。事実、学生気分もまだ抜けきってはいなかったし、それに勝るものなしと当時は信じていたような気がする。

 それが果たして戦略的に正しかったかどうかは知らないが、とにかく2年ぐらいで専業のプロになっていた。僕の世代の世界中のタトゥーイスト仲間に聞いてもだいたいそれぐらいの人が多いようだ。彫り始めてから初めて報酬を得るまでではなくて、専業になるまでの期間だ。その後2030年以上生き残るような人はそれぐらいで最初の軌道に乗っているということなのだろうか。もしくは90年代半ばなんてそれぐらいチョロかったということなのか。いずれにせよ今のうちの弟子たちのそれと比べるとずいぶんと早かった。

 やがてゴアのタトゥーイストの中でもかなりの売れっ子になってきた頃にネオトライバリズムというムーブメントに出会って感化され、僕は急激にそっちの方向に作風を寄せていった。

 

大島托によるネオトライバルタトゥーの総身作品。

 

 クレイジー、ボルネオ、ケルティックあたりのトライバルデザインは当時のゴアのタトゥーイストなら誰でも手がけていたものだったが、ハイダにも手を出したのはたしか僕だけだったと思う。

 現在、さまざまなジャンルのトライバルタトゥーが世界のマーケットには存在していて、それこそ百花繚乱の苑にも見えるのだが、実はその全てのトップに君臨しているのはそれぞれの現地のスペシャリストではなく、もれなく欧米を中心としたネオトライバルタトゥーイスト達なのだ。トライバル系オールラウンダー=ネオトライバルのタトゥーイストを分かりやすく見分けるインジケーター、それがこのハイダをモノにしてるかどうかだったと言っていい。

 ハイダデザインはそれまでのトライバルタトゥーと違って、モノにするには分析と再構成の能力を必要とした。それが無いとただのデタラメしか描けないのだ。これは絵の上手さとはまたちょっと違うセンスなのだが、持ち前の整理分類癖を発揮したのか、僕はそこを普通に潜り抜けていったのだ。

 

大島托によるハイダタトゥー作品

 

 旅を始めた時も、足袋を辞めた時も、あるいはオールラウンダーに見切りつけてトライバルに特化した時もそうなのだが、一見すると僕の行動はわざわざ儲からない方向に舵を切り続ける救いがたいマゾヒストか天邪鬼のようにも思える。実際そうなのかもしれないが、いちおうの自覚としては、僕にとっては一定の生活レベルを維持する以上の金は興味の対象ではなかっただけなのだ。収入が増えたらそれに応じて何か贅沢な買い物をして満ち足りる人間ではないし、ただ貯まっていく金をゲームのスコアのようにもてあそぶセンスもなかった。あまり関係ないかもしれないが、生い立ちから考えても僕は、手当たり次第に際限なくハングリーになれるほど貧しくはなかったし、本当に価値あるものに精通出来るほどに裕福でもなかったのだ。

 若干恥ずかしい話ではあるが、先程から金のことばかり書いているのでリアリティを包み隠さずお見せするならば、当時の僕は8000USドルをいつも持っていればOKとしていた。これはタトゥーに必要な機材一式と、それを国際郵便為替でオーダーできる最寄りの国までのチケット、そしてそれが手元に届くまでの時間を安めの宿でしのげるだけの金額だ。それ以上は邪魔に感じていた。貴重品袋で四六時中、身につけているのが、だ。カードなんて大して通用しない時代と地域を旅していた。

 それぞれの岐路に立った時、より面白いと感じられる行き先こそが重要で、もしそこに正直になれなくなってしまえば僕は再び旅より以前の空虚な感覚世界に放り出されるだけなのだ。生きる意味はないと断じて無理矢理置き去ってきたあの暗い停滞に。

 

ボルネオにて仲間たちと

 

 トライバル系ブラックワークというマニアックなジャンルの専門家としてキャリアも積んできて、それに高い理解を示してくれる地域もあるにもかかわらず、あえてトライバルタトゥーなんてほとんど誰も知らないようなこの小さく閉塞した日本のマーケットに拠点を置いているのも、何年も離れていたおかげでこの国の人跡未踏の原野のような面白さを再発見したからに他ならない。

 

書を捨てよ、タトゥーを彫ろう

 今までいろいろなクライアントと接してきた中で経験的に思うことがある。

 タトゥーの持つ不思議な精神作用を最もダイナミックに体感できる幸運に恵まれた人、実はそれは世の中の制約という名目の自主規制で己をギュウギュウに縛り上げてストレスを溜め込んでいる人なのではないだろうか、と。

 もっとも、通常そういうタイプはあまり自分から進んでタトゥーを入れようなんて思わない。そればかりか酷い場合になると、ルールに縛られずに自由を楽しんでいるように見える他人のタトゥーを目くじら立てて非難したりする人まで現れる始末なのだ。

 直接の関係もない他人のつまらないことを、重箱のすみでもつつくようにほじくって、寄ってたかって非難炎上させて暗く笑う。きっと古の風習の名残りで、何かの祭壇に献げる生贄を求めているのだろうが、己の身を隠して安全を確保した上での人身御供祭りなどでは所詮は大した対価は得られない。さらにエスカレートして、さらに欲求不満になることの繰り返しだ。

 ここは一念発起して自分を捧げる勇気を持つしかない。自分自身でリスクを冒すことでしか自分自身のストレスの解消はないのだから。イライラして他人に八つ当たりしている場合ではないのだ。

 何かの拍子にそのことに気づき、パラドックスを乗り越えてタトゥーを入れてみたこの種の人達の感動は、実際にものすごく深いのだ。セッションを重ねるごとにみるみる顔つきが変わってくる。何かから解き放たれたように、ホッとひと安心した様子になっていくのだ。

 そう、かつての僕自身がまたそうだったように。

 現代日本人の魂はひょっとしたらタトゥーで救済できるのかもしれないと僕は思っている。そういう面白さがここにはあるのだ。

 

大島托のボルネオトライバル作品

 

 さて、その後の流れを俯瞰してみるとネオトライバル業界のキーポイントにすらもなっていた、ハイダをはじめとするノーザンフォームラインコンシスツのデザイン。次回はまた話をバンクーバーに戻して、最新のリバイバル事情やコンテンポラリーアートとしてのそれを見ていきたい。

 

 

〈INFORMATION〉

 

縄文タトゥー復興プロジェクト 展覧会

大島托 × ケロッピー前田「縄文族 JOMON TRIBE 2」2019年11月15日 – 12月1日 @阿佐ヶ谷 TAV GALLERY

 

 

〈MULTIVERSE〉

「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー

「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー

「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

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「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美

 

PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html