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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #09 アナーキー・イン・ザ・バルセロナ──異教徒と海賊たちのタトゥー「ケルティック」・前編

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第九回の舞台はスペイン・バルセロナのスクワット。ヨーロッパの“トライバルタトゥー”として知られる「ケルティック」をめぐって。

デリーからバルセロナへ

 僕の料理はいつも大好評だ。

 同じメニューでも僕が作ると全然違うと評判で、今日もみんな公園の池のニシキゴイのようにキッチンのテーブルに群がって勢いよく食ってる。なんのことはない、ベーコンがほんのちょびっと入っただけの炒めパスタだ。隠し味に日本の顆粒タイプのかつおダシを使っているのだが、みんなの反応が面白いからそれはまだ黙っている。

 具のオプションは他には缶詰イワシがあるぐらいで、それをパスタ、炊き込み飯、バゲットの組み合わせで計6メニューのレパートリーを回している。野菜はない。まったくない。このままいけば大航海時代の船乗りたちが患ったという壊血病になるのも夢じゃないだろう。

 まだおかわりをして食べ続けている少年たちを残し、僕はさっさと自分の皿を洗ってアパートを出る。ガウディがデザインしたことでよく知られる住居ビルを横目に、春の花の香りをかき分けて、街で一番広い目抜き通りに早足で向かう。今日はハーレー乗り御用達のタトゥーショップでバイトだ。髭面サングラスのボスに稼ぎの7割も納めなきゃならないのは正直言って大変厳しいのだが、この際ぶつくさ言ってるヒマは僕にはない。

 

カサ・バトリョ

 

 直前のインドのデリーで盗難にあっていた。45度の猛暑の日の夜中、部屋の壁ですら熱すぎて寄りかかれないような状況で窓を全開にして寝ていたら泥棒に入られたのだ。身体に巻きつけていた外貨以外の、インドルピーの札束ぎっしりのカバンを持っていかれた。それはデリーの闇両替で外貨に変えるはずだった金で、その直前のミスだった。ちょうどゴアのシーズンが終わって、どこか外に出る必要があるタイミングだった。軽く休暇みたいなノリでラオスの山岳地帯あたりに行こうかとか思っていたが、もうそれどころじゃない。しっかり稼げる場所に行かないとどん詰まりだ。

 パハルガンジの屋上レストランで、しけた顔して途方に暮れていると仲間のスペイン人が、バルセロナの自分の仲間のところに行けばいいと勧めてきた。みんなタトゥー入れたがってるし、宿代は浮くから儲かるぞ、と。ヨーロッパのギャラで稼げて、宿代タダ。渡りに船を得た、ような気がした。

 空港の荷物検査ゲートでインド帰りのヒッピー風情としてひと通りいじめられてから、仲間に渡された、レストランのガサガサのナプキンに走り書きされている住所をたずねた。そこは中心街の一等地の、洒落た石造りの建物のアパートで、8人の住人たちは一様にカラフルに染めたモヒカンのパンクだった。5人はまだ10代半ばあたりの少年だ。大人はプロ建築デザイナーとプロミュージシャン、少年たちはみな何らかのアーティスト志望で部屋は工房にもなっていて、少年たちはみんな最低限のシノギとしては売春やドラッグのプッシャーをやりながら暮らしていた。どうやら全員がゲイだった。

 そして、そのアパートは不法占拠物件だった。

 

スクワットとアナキズム

 こうした不法占拠を僕らはスクワットと呼んでいた。これは70年代のパンクの隆盛以降、ヨーロッパ各地に広がった文化だ。空き地に勝手に簡単な家を建てたり、誰も使ってない建物に勝手に住み着いたりするのだ。

 不法占拠、とは言ったが、勝手に住み着いた側は居住権とか生存権を盾にして居座るので、これはある種のグレーゾーンでもあった。バルセロナの他にもヨーロッパではアムステルダムやベルリンなどがスクワットが盛んな都市としてよく知られていた。それらの地域の有名なスクワットは国や自治体の使われなくなった施設の場合が多い。公団住宅とか軍関係の宿舎とか病院とかだ。取り壊すのにもその予算がなくて放置されているような大きな建物をいつのまにか無断で寄ってたかって占拠してしまうのだ。キャパシティが大きいので住人の数も多く、自治会みたいなものを組織して会報も出したりして、人数と思想的な戦略で警察の圧力に対抗するのだ。

 

今もわずかに残るバルセロナのスクワット

 

 政治的にはアナキズムに基づくところが多く、そういったスローガンがバンバン貼り出されているのも普通の光景だ。個人的見解としてざっくり言えば、アナキズム思想をアートや生活のスタイルにしたものがパンク文化だ。さらについでに言えば性のパンク文化としてレザーゲイファッションがあったのだと思う。音楽だけでなくあらゆる表現活動にその枝は広がっている。スクワットの多くが単なるホームレスの生活空間にとどまらず、多種多様なアーティストが互いに刺激しあいながら育つ場として当時(1996年頃)は機能していた。

 そりゃそうだ。創作活動を行っている者にとって家賃の分のバイトをの時間を減らせることや、思い切りやりたい放題の創作活動が利くスペースはかけがえのないものなのだ。後にアートに関しては手厚いフランス政府が、優秀なアーティストたちに対してスクワットを合法化したのだが、言わせてもらうなら、残念ながら重要なところを取り違えていると思う。こういうことはローリスクならローリターンなのだ。

 個人所有の土地や空き家にもスクワットはあった。所有者不明だったり、長く忘れ去られた廃墟のような物件はもちろんのこと、もともと賃貸契約だったのを期限が切れてもそのまま家賃を払わずに仲間たちまで連れ込んで居座っているパターンなどもあった。そんなバカなことがまかり通るのかと思われるかもしれないが、そこに住んではいない所有者の権利と、そこに勝手に住み着いている何処ぞの馬の骨の生きる権利とは実は意外と拮抗しているのだ。いや、していたのだ、かつては。警察が注意に来ても、金ならないぞと開き直り、非暴力不服従で粘り通すだけだ。ぶち込まれるのはある程度覚悟して。

 そこではみんながタトゥーを入れたがっていた。

 

バルセロナの夜遊びスポット

 

 それははたして正しかった。少年たちとオイルサーディンみたいに並んで寝てはいたがとにかく宿代タダもウソじゃなかった。が、いかんせんみんなお金はなかった。売春のお客さんに売る算段で卸のディーラーから預かっているネタを自分たちでやってしまって、その返済に売春の稼ぎを持っていかれる、なんてことを延々リピートしてる愉快な少年たちから金を取るなんてのは絶対に不可能だ。身体で払ってもらう趣味も残念ながら僕にはない。いや、試していないので正確には、ないと思う、だが。

 したがって、着いた翌週には観光客で賑わう大通りにゴザを敷いてデザインを並べた。左隣はアダモちゃん(古すぎるか)みたいな腰蓑一丁の格好で街路樹にぴたっと抱きついているアフリカ人、右隣は米粒に極小の絵を描いているベトナム人だった。一週間座ってみても何も起こらず、日焼けで疲労して余計に腹が減っただけだった。結局取れたアポは両隣のベトナム人とアフリカ人だけだった。ベトナム人とは米粒アートとタトゥーの技術の交換として彫った。カメラに向かってあんなに良い笑顔を作るのは、教えてもらっても僕には出来そうもないので、アフリカ人にはタダで彫った。実は、写真は撮るのも撮られるのも心底苦手なタチなのだ。

 これで別の観光地に移って大通りで米粒アートをやるという選択肢も手にしたのだが、とりあえず次の日からはこの街でゲストに入れるタトゥーショップを探すことにした。

 あと何日でどれだけ稼がなければならないのかを確認しようとして、スクワット仲間たちにEU域外からの外国人旅行者の滞在可能日数を尋ねてみたが誰も知らなかった。入国審査のスタンプに出てるだろうと建築デザイナーが言うのでパスポートを開いてみたのだが、はたしてそのスタンプ自体が見当たらない。いやいや、そんなことが、とか言いながらみんなでしつこく確認したが、やっぱり無いのだ。

「いつまででも居て大丈夫ってことなんだよ、きっと」

 一番若い少年が言うと、みんなうなずいた。タクってホントにラッキーなやつだなぁ。それでこの話題は完全に終わった。バンコクまでのチケット代が貯まったらすぐに出るのに越したことはないだろう。

 

異教徒と海賊たちのタトゥー「ケルティック」

 ところで、というかホントはこれが今回の本題なのだが、ケルティックというタトゥーデザインがあった。日本人の僕ら世代の理解としては、ヴァイキングのビッケ(もっと古すぎるか)の船に彫刻されている、編み込み模様と動物が融合したようなあれだ。厳密にはケルト系とヴァイキング系とは少し違う様式のデザインなのだが、タトゥーのジャンルとしてはまとめてケルティックと呼ばれていた。80年代、あるいはひょっとしたら70年代からこのタトゥーはヨーロッパに拡がっていた。拡げていたのは、そう、これもまたパンクやレザーゲイだったのだ。

 もし、御上の支配の向こうを張る気概を持ってレジスタンスヒーローである水滸伝の豪傑の絵柄を背負った、江戸の命知らずの火消しや博徒たちを日本のパンクだったと仮定するならば、現代タトゥーのほぼ全てのジャンルの起点としてパンクカルチャーは存在すると言ってもいいぐらいなのだが、クレイジートライバルやケルティックなどの部族色のあるものは特にヨーロッパのパンクの趣味にかなっていたようだった。彼らの髪型として知られるモヒカンだって、実は北米先住民のモヒカン族の習俗なのだし。

 ケルティックデザインのタトゥーに関しては、それがかつて本当にタトゥーとして彫られていたかどうかは不明なのだが、デザインの性質からもジャンルとしてはヨーロッパのトライバルタトゥーの一種と言って差し支えないはずだ。西暦にも現れているように、キリスト教の前と後で物事をきっちり分けて考えるヨーロッパ人たちにとってケルト民族やヴァイキングなどの異教徒集団は古代の暮らしを象徴する存在で、ケルティックデザインには現代社会の価値観以前の、のびのびした自由のイメージを持っていたのだと思う。個人的な見解としてはヨーロッパのトライバルタトゥーはもうちょっと時代を遡らなければ出て来ないんじゃないかなとは思っているのだが、現代ヨーロッパの多くの人たちにとっては異教徒時代まで遡れば感覚としては十分にプレヒストリーということでもあるのだろう。

 

ケルティックの名手Tor Ola Svennevigによる古典的作品

 

 現実には他の部族社会がそうであるように、それはなんて事もない漁や畑仕事がメインの普通の暮らしだったのだとは思う。女、子供、老人が楽しく暮らす集落の、ほのぼのした平和な生活だ。が、映画などで描かれるヴァイキングはだいたい角の生えたイカつい兜をかぶってブンブン斧を振り回す、戦闘と略奪に明け暮れる海の荒々しい髭モジャ男たちのイメージだ。その蛮勇に満ちた破壊者のイメージは、必ずしも史実には沿っていないステレオタイプであるらしいが、兎にも角にもそのイメージこそが教会に代表される既存の価値観に戦いを挑む現代のパンクに特に支持された理由なのだろう。また、僕らタトゥーイストもそういうイメージを商売に使うことにかけては映画産業にも引けは取らないのだし。

 そして90年代はそのケルティックタトゥーの爛熟期だった。どのタトゥーマガジンを開いてもケルティック専門のページが必ずあったものだ。ロンドンにはそれだけに特化した有名なスタジオもあった。マシン製作者としてとして圧倒的な知名度を誇った、かのミッキー・シャープスや、キュビズムタトゥーで一世を風靡した大御所のバグスなどは、そもそもケルティックタトゥーをタトゥーコンベンションの場で発表し、世に送り出した最初のタトゥーイストたちでもあったのだ。

 日本ではルーツ的にヴァイキングは縁遠いので、全くと言っていいほど入って来なかったケルティックタトゥーではあったが、僕はインドやタイで主に欧米のツーリストたちを相手に商売をしていたので、キャリアのしょっぱなから頻繁にこれを手がけることになった。ヴァイキングやケルト民族の何たるかなんて全然知らなかったから、デリーの洋書店でDoverのケルトデザイン集を買って急いで勉強した思い出がある。Doverとは世界中のさまざまなデザインを特集した膨大なシリーズを出しているイギリスの出版社で、デザイナーの世界では定番の資料ソースだった。

 ケルティックデザインの特徴はとにかくモチーフが複雑に絡みまくっているところだ。一見して思い出すのは糸やロープの結び方の図解だ。船乗りは用途によってとにかくいろいろなロープの結び方を考案するものだし、もともとは本当にそういう実用性のある図解がオリジンだったのかもしれない。そこから組み紐のような法則性と美しさとを発展させて独特のアートスタイルにまで昇華したという流れなんかはいかにもありそうな話だ。

 

大島托が手掛けたケルティックの作品

 

 実はこの時期にケルティックタトゥーに関わった経験を通して、大げさに言えば僕は重大な啓示を受け、その後の未来を予見する力を手にすることになる。次回はそれを披露したい。

 

特報:「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」展が、10月に那覇の沖縄県立博物館・美術館で開催。現在、クラウドファンディング募集中。

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html