大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #14 ハイダの文様を受け継ぎしものたち──ビル・リードとナハーン
タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第十四回はいまやカナダ人以外で知る人はほとんどいないハイダデザインの豊穣をめぐって。
<< #13 「現代日本人の魂はひょっとしたらタトゥーで救済できるのかもしれないと僕は思っている」を読む
片方からは血を、もう片方からは眼を
現代ハイダデザインの礎を築いたのはビル・リードという作家だ。ハイダ族とヨーロッパ系とのハーフで、バンクーバーを活動拠点としていた彫金師だ。ほとんど白人に見える風貌で、当時の典型的な白人としての教育を受け、前職は全国キー放送局でアナウンサーをしていたというインテリらしい。また、母方の叔父や祖父はハイダ族を代表する彫刻家チャールズ・イーデンショーの弟子であり、それぞれの世代のハイダ工芸を代表するような職人だったようなのでクラフトマンとしては正統的なサラブレッドでもある。
民族、部族の文化復興のキーパーソンにはこのようなパターンが結構ある。親の片方からは血を、もう片方からは眼を受け継いだ者による文化の再構成の成功例は、枚挙に暇がないほどだ。
もっと大きな枠組みで眺めてみると、廃れゆく先住民の文化の中に潜む面白さに気づいているのはいつもヨソ者たちであり、それが商品となって売れる先もまたヨソ者たちの大きな市場なのだ。そういう潜在的なニーズが作り上げたステージは混血のスターの誕生をあらかじめ待ち構えているようにも見える。
トライバルタトゥーのリバイバルという、ごく限られた狭いジャンルでもっと具体的に説明すると、かつて存在していたが諸々の理由で滅びてしまった真性の部族の習俗のトライバルタトゥーというものがまず第一段階としてあり、第二段階はそれを復興させる部族のリバイバルメーカーが位置付けられ、第三段階の現代タトゥーとしてのネオトライバルがそれをコンテンポラリーにアレンジして世界に拡散していく、という見立てが一般的な順番としてイメージされていると思う。
ところが実際は、まず最初にポップアートの現代タトゥーありきで、それがかつてのトライバルタトゥーを発掘してネオトライバルタトゥーというジャンルを形成するという流れがあり、それに触発されて部族の側からリバイバルメーカーが登場するという順序が真実なのだ。
僕の仲間内のリバイバルメーカーたちを見渡してみると、みなそれぞれの部族の伝統的な衣装を着て古来の手法を披露するなど、いかにも今、森から出て来ましたみたいな感じに見えるのだが、頭の中は西洋式の教育を、それもかなりの高いレベルで修めている人ばかりだ。そうでないと見えない物事の価値や、取り回しの困難な現実があるということなのかもしれない。
ハーフであるというのは、その構造が姿に顕在化している象徴的な例ということでもある。
ビル・リードとナハーン
友人のトリンギット族のナハーンは、上記のように現代タトゥーに影響を受けて自身の部族のタトゥーのリバイバルに取り組み始めたという若手の1人だ。コンベンション会場では民族衣装を着てトリンギット族の歌や楽器もやっていてタトゥーのみに止まらない文化大使をやっているが、オフはダボダボのパーカーを着てトリッキーなヒップホップダンスで遊んでいる。
彼のユニークなところは、ビル・リードやそれ以降のコンテンポラリーデザインと連動していた90年代の北米西海岸地域のタトゥーのデザインは採用せずに、さらに時代を遡っている点だ。それは、彼らのトライバルタトゥーが滅びた1850年頃までのデザインなのだ。
当時の古い写真や学者たちが残した精密なスケッチを資料として施される彼の作品は非常にシンプルだ。逆にその頃は木彫りもペインティングもそれぐらいのシンプルさで連動していたのだと考えると、このわずか170年やそこらの間のデザインの進化の著しさには本当に驚かされるが、とにかく本物のリバイバルタトゥーをやるには、現代までの木彫りやイラストなどのデザインの変遷は一度脇に置いて、タトゥーが滅びたその地点から繋げないと意味がないと彼は考えているのだ。
だから僕と知り合った頃こそまだマシーンを使っていたが、ナハーンは今では古来の手法に則ってハンドポーク(手彫り)やスティッチをやっている。スティッチというのは縫い針にインクに浸した縫い糸を付けて、布を縫うのと同じ要領で皮膚の浅い層を縫い通す変わったタトゥー技法で、主に北極圏の部族たちの間で行われていたものだ。これは服の縫製とタトゥーとの関わりを示すダイレクトな例としてとても興味深い。ナハーンによればハンドポークとスティッチは同時期に同地域に共存していた技術でもあるらしく、効率に優れたハンドポークは様々なモチーフのタトゥーを彫る一般的な表現手段で、スティッチはより儀礼的なものだったのではないかとのことだ。
僕も北海道のアイヌタトゥーのリバイバルをやる際には服飾や木彫などに見られる現代のデザインではなく、明治政府によってタトゥーが禁じられる以前の資料にまで立ち返っている。一度断絶しているものを蘇らせる場合、儀礼的な意味でも、連続性の面でも、とりあえずその地点から再スタートするのが分かりやすいと思う。特にアイヌの場合は流れるように柔らかな曲線の独特な美しさで世界に広く知られている服飾デザインと、それに比べるとあまり知られてはいない直線の集合体であるタトゥーデザインとのパターンの違いが大きく、アイヌタトゥーとして服飾デザインを彫ってしまうという誤解のようなことが現代のマーケットでは普通に起きているので、いったん専門家が仕切りなおす必要があると思っている。そのあとで、もし当事者たちがそれを望むのであれば現代のデザインや手法に時計を早回しするようにして追いついて行けばいいのだ。
実際にはトライバルタトゥーの習俗が途切れることなく現代まで続いているならば、そのジャンルの多くのタトゥーイストは現代の最新式の設備を当たり前のこととして使っている。ハンドタップやハンドポークもどこかの一点に留まることなく歴史上ずっとより優れた素材や仕組みを求めて常に改良を重ねてきていたわけで、その延長線上にコイルマシーン、ロータリーマシーンを採用するのは無理のない普通の流れなのだ。だからサモアンやサクヤンは伝統手法で彫っても、マシーンで彫っても、サモアンでありサクヤンであることに根本的な変わりはない。それが何という料理なのかを判別する上で最も重要なのは調理器具よりも料理そのものの見た目や味なのだと例えれば分かりやすいだろうか。その上で、手間をかけた調理法だとか、店構え、料理人の出自、コスパ、とか様々な演出の工夫もお客さんたちの満足度にさらに関わっているということなのだ。だから味が美味いのがプロとして最重要条件で、それが同格だった場合に勝負を分けるのが演出、というこの順番を取り違える料理人は成功しない。手法的演出を下手くその言い訳にしてはいけないということだ。
そこらへんのさじ加減も含めて何をどうしたらいいのかを知っていた男、ビル・リードによってハイダ美術は現代のマーケットとコンテンポラリーアートに接続した。その作風の特徴は洗練を極めたライン取りにある。それまでの伝統工芸の流れをすっきりと統合した描法で精緻なカーブを引いた作品は、トライバルアートの粗さやゴタつきは消え失せ、ひたすらに上品な仕上がりだ。これは彼の、彫金、宝飾、アクセサリーという小さな画面で余分な物を丁寧に削ぎ落としてきたキャリアの成果なのかもしれない。そしてそのセンスを大きなアート作品にも反映し、大成功を収めたのだ。バンクーバー水族館のシャチや、ブリティッシュコロンビア大の博物館のワタリガラスといった大きな立体作品は本当に素晴らしいので実際に現地で見てほしい。圧倒されるから。これがクラシックの完成形でありコンテンポラリーの幕開けとも言える。
僕がガスタウンでぶらぶらしてたこの98年はその巨匠がこの世を去った年でもあった。本屋には彼の功績を称えるように、関連書籍が山のように平積みされていた。ここまでは世界中どこでも普通に手に入る資料だった。
守りぬかれたハイダデザインの意匠
ガスタウンの公園を出てダウンタウンまで歩き、目抜き通りの観光土産屋のひとつに入った。
はたして店内の棚では、ビル・リードの後の世代のロバート・デービッドソンなどを始めとするコンテンポラリーなハイダアートが、オーソドックスから離れてさまざまなバリエーションで展開していた。タトゥーデザインに関してもそれは同様で、北米のタトゥーイストたちの、定石をあえて少し外れて打つような奔放な手の数々の根拠となっている感覚がズラーッと惜しげも無くそこに陳列されていたのだ。
僕が見たかったのはまさにこれだった。現代のデザイナーの間で共有されている前提事項のパズルのピースで、謎だった部分をようやく全て嵌めることが出来たのだ。
当時の僕には本をストックしておけるような拠点はなかったので、短い時間で立ち読みするしかなかったが実際とても勉強になった。そして、これを他の国で詳しく知ることが難しかった理由も同時に分かった。
彼らはその文化遺産を知的所有権、意匠権などの現代のシールドで守っていたからだ。それはいかにも当時の先進国の先住民らしいアクションだったと言っていい。それぞれのデザイン本にも、絵ハガキにも、それらが陳列されている棚自体にも、著作権に関する但し書きが目立つように大きく記されていたことで事情が分かったのだ。
たしかに世の中に大々的に発表してしまえばあっという間にコピーが出回る。彼らはそれを嫌い、ごく限られた彼らの地域でのみ流通させる道を選んだのだ。それは、自分たちの宝を白人に搾取されるのはもうこりごりだという考えだったように思う。特に当時はタトゥーのジャンルでブームが来ていて、そのコピーに関する無法地帯ぶりを目の当たりにして警戒感を強めていたことだろう。
ちょっと切ないような気分で絵ハガキを5枚選んだ。これだけあれば僕は十分だ。完全コピーなどという野暮な意味ではなく、もう何でも出来る。ありがとう。
その戦略が効いたのか、あるいは気まぐれなブームが過ぎ去っただけなのか、ともかく結果から見ると彼らは守りきったと思う。今、カナダ人以外でハイダデザインの豊饒を知る人はほとんどいないのだから。
さて、これで仕事は終わりだ。ここでゲストワークをやっているヒマなどはない。僕はとても忙しいのだ。レジの学生風の女の子に聞いた旅行代理店に急ごう。腕の良いガイドが早急に必要なのだ。
バンクーバーにいればいくらでも好きなだけゲットできるもの。
そんなの鮭に決まっている。
あのキャンベルリバーがすぐ目の前にある。
あの「釣りキチ三平、サーモンダービー編」の。
90年代のトライバルタトゥーのブームはこうして目まぐるしいほどに変遷してきた。業界的にいろいろと模索し続けていた時期だったのかもしれないと思う。このあと00年代に入って活発化してきた潮流が、現在まで続く最大ジャンルであるポリネシアンだ。かれこれ20年近くも続いているこの状況は、もはやこれまでたどってきたブームのような一過性のものではなく、それがトライバルタトゥーの本質を表すものとして揺るぎないポジションを固めたということなのかもしれない。
次回からはいよいよキングオブトライバルタトゥーの世界に入ってみよう。
〈MULTIVERSE〉
「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー
「そこに悪意はあるのか?」いまアートに求められる戦略と狡知|小鷹拓郎インタビュー
「暮らしに浸り、暮らしから制作する」嗅覚アートが引き起こす境界革命|オルファクトリーアーティスト・MAKI UEDAインタビュー
「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行
「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性
「NYOTAIMORI TOKYOはオーディエンスを生命のスープへと誘う」泥人形、あるいはクリーチャーとしての女体考|ヌケメ×Myu
「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”
「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー
「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る
「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎
「世界ではなぜいま伝統的タトゥーが復興しようとしているのか」台湾、琉球、アイヌの文身をめぐって|大島托×山本芳美