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神本秀爾 『History Hunters ラスタファーライの実践』 #08 宗派“スクール・オブ・ヴィジョン”と、その経済を支える弁当屋“ラスタラン”

文化人類学者・神本秀爾によるジャマイカ・レゲエの旅。ラスタにはいろんな宗派があり、ボボはその一つに過ぎない。たとえばコーヒーで有名なブルー・マウンテン山麓に視線を転じれば、そこには1990年代に登場した宗派、スクール・オブ・ヴィジョンのコミューンがある。

1990年代に立ち上げられた新宗派“スクール・オブ・ヴィジョン”

前回までは、主にボボヒルについて書いてきた。ボボはメインストリームではないし、ラスタにはいろんな宗派(グループ)があるので、今回を含めて2〜3回は通称スクール・オブ・ヴィジョン(Haile Selassie I School of Vision、以下SOV)と呼ばれる宗派について書きたい。この宗派には2008-2009年にかけて、短期滞在を繰り返していた。今回は信徒の概略とぼくが調査をしているときによく行った、彼らの経営する弁当屋についての話が中心だ。

SOVもボボと同じように街から少し外れたところのコミューンを拠点にしている。SOVの活動の拠点は、コーヒーで有名なブルー・マウンテン山麓、キングストンの東側パピン(Papine Square)から15キロ程行ったところにある。高度は1100〜1200mぐらい。たどり着くまでの道は、ずっと山道なのと、車を降りた後も30分程度の山登りが必要なので、何泊かするために大きなバックパックを背負っているときなどは、なかなか大変だった。

彼らの近況については詳しくないので、基本的にぼくがジャマイカで調査をしていた昔のことを中心に書くけれど、その頃は、たいてい毎週土曜日にパピンの公園で安息日の集会をやっていた。公園では、山から下りてくる人、どこかから集会のためにやってくる人が入り混じっていた。彼らの集会を初めて見たのは2005年だったけれど、コミューンに初めて行ったのは2008年だったので、それまではパピンで会って話す程度だった。13時頃に集会は始まる予定とは言われたものの、集まるまでは時間がかかるので、人が集まってくるまでは公園が見えて、エアコンが効いている、近くのtastee pattyの2階で時間をつぶすことが多かった。

 

2009年の集会のワンシーン

 

最初に、SOVの概略を説明しておきたい。SOVはジャマイカの北側、セント・アン教区で1954年に生まれたフェイガン(Dermot Fagan)によって始められた。幼い頃に母が兄弟を残してイギリスに移民したため、兄弟はばらばらに育ったという。高校へは行かず、1975年から1981年までのあいだは、ジャマイカ国防軍(Jamaica Defence Force)に勤務していた。1982年に退役した後、ともに軍隊に勤務していた友人らとともにアメリカに渡った。その冬、ともに移民した友人のひとりを介して、彼はラスタファーライに開眼した(注1)。アメリカでは、建設現場等を転々として働きながら生計を立て、1993年に帰国すると、キングストンのドウェイン・パークで建設請負業やホールセールの店の経営を始め、三大宗派のひとつ、ナイヤビンギ・オーダー(Nyabinghi Ancient Council)派の長老ビンギ・ロイ(Binghi Roy)にも師事し知識をたくわえ始めた。

(注1)その友人は何も言わずセラシエの写真を見せながら「これが誰だと思う?」と彼に聞き、彼にヨハネの黙示録の5章1-5節を読むように言った。フェイガンがその節を読んでいると、その友人は「彼(黙示録に書かれている救世主)はこの人なんだ」と言った。フェイガンは、その後も繰り返してその節を読み、友人の言うことを受け入れるようになったと語っていた。彼はセラシエが救世主だということを、「誰かから学んだというよりも、納得した」と表現していた。

1996年、フェイガンはSOV派の現在へと連なる教え(次回詳述)に目覚めると、店先で説教を始め、司祭(priest)を名乗るようになった。彼の教えを手短に述べておくと、来るべき終末に向けて、洗礼を受けて生まれ直すことをすすめるものであり、宗派の名称にvision(ヴィジョン、啓示的な夢)という言葉が使われていることが示すように、ヴィジョンを決断や判断に際して重視するものだった。1998年に少数の仲間と宗派の立ち上げがおこなわれ、彼らが中心となって、コミューンの建設を始め、7月にはパピンの公園で安息日集会をおこなうようになった。

 

SOVコミューンの暮らしと経済

ぼくがよく通っていた当時、コミューンはそれなりに生活空間として整備されていた。たとえば、コミューンに続く斜面は、信徒たちによって踏み固められた後にところどころ丸太や枝が埋められて、滑りにくいようになっていた。山道を上りきった先、コミューンの手前には、別の峰の水源からパイプで引いてきた水をためる貯水槽、洗濯や水浴びをするコンクリートづくりの建物があった(このパイプが2002年に出来上がるまでは、麓まで水を汲みに行っていたという)。さらに道を進むと、左手に柵に囲われた畑、ハイレ・セラシエが描かれた大きな岩、正面にコミューンの木製の門が見えてくる。畑には葉物野菜やニンジン、豆類等が植えられていた。バナナの木もところどころに植えられていた。左手の奥、より高い場所に点在する、ほとんどの壁がベニヤ板でできている掘建て小屋が信徒たちの住居で、そのほとんどは、雨風を受けて灰色がかっていた。

門を抜けた左手に、緑、黄、赤のラスタ・カラーで塗り分けられた、フェイガンの住居が見える。正面には1メートル程の高さにコンクリートを塗り固めてつくった礼拝スペースがある。縦横5メートル×15メートル程の広さの、礼拝スペースを中心としたこの場所と周辺の一部が、コミューンでは唯一の平地である。礼拝スペースの西側正面には部外者を泊めるためのゲストハウスがある。調査の時には、たいていそこに泊まっていた。その隣には若い夫婦の住居があり、一角は居住者向けの簡易的な商店になっていた。南側には入口のものとは別のもうひとつの貯水スペースがあり、そこから下に向かう斜面にも畑がある。眼下には山麓に広がる木々と、キングストンの風景が広がっている。コミューンへとつながる山道の途中に見えた信徒たちの掘建て小屋は、この平地から見て北側の斜面に立ち並んでいて、ぼくが調査した時には43棟あって、7棟が新しく建設中だった。

 

手前が礼拝スペース、奥に見えるのがフェイガンの住居。

 

信徒はどのような人びとなのだろうか。2009年4月時点の情報を元に簡単に説明してみよう。合計121人が暮らしていて、成人信徒は男性44名、女性23名だった。男女ともに30代がもっとも多くその次には20代が多かった。入信の時期については、2001年以前と答える成人が多かった。カップルは20組いたが、カップル間での入信の時期を見ていると男性が先に入信しているというパターンが多かった。このことは、コミューンを生活の拠点としている男性信徒の元に女性が訪れるようになって、その後入信する場合が多いということを示唆している。子どもは54名いて、10歳未満が50名もいた。子どもの多くは、若い信徒カップルがコミューンに居住をはじめてから生まれたということが分かる。単身で暮らす男性が21名いたのに対して、女性は1名だった。これらのことから、このコミューンは若い核家族世帯が中心で、性別では男性が中心的な位置を占める生活空間だと言うことができる。

男性が中心的な位置を占めるのにはもちろん理由がある。それは、SOVが準備している生計手段が男性の労働力に依存したものだからだ。SOVで暮らす男性にはコミューンのために労働することが期待されていて、その労働は農作業と建設作業の2つが主だった。ラスタは自給自足を志向するとか、農薬などが使われていないオーガニックな食材を志向するというのはよく知られた話だが、このコミューンは、生きるための核心に農業を据えて展開してきていて、自分たちは農民(farmer)だというアイデンティティが強調されていた。実は、ぼくが短期滞在を繰り返していた頃は、創設から10年が過ぎていて、初期の信徒たちと比べるとつながりの弱い信徒が増えていて、信徒そのものの多様化が進んでいたのだけど、それでも成人男性の10名は主に農業に従事していて、建設作業と兼業していた男性は2名、建設作業のみに従事していたのが1名だった。

コミューンで暮らす人たちと言っても、日用品を購入するため、子どもがいれば教育資金のためなど、当然のように現金は必要になってくる。収穫した野菜を売ったとしても、得られる金額はたかが知れているし、主食のコメなどは丘陵地で育てるのは困難なので、実は食費もかかる。気になって調べたところ、そもそもジャマイカでのコメの生産量は300トン未満と少ない。2010年の統計を見ると、仮にジャマイカの生産量を300トンとしても、CARICOM(カリブ共同体)でコメを積極的に生産しているガイアナの1/2000程度、旧英領ということで何かと関係があるトリニダード・トバゴの1/8程度に過ぎない(注2)。繰り返しになるが、現金は欠かせない。その、必要な現金を手に入れる手段のひとつとして、コミューンでは健康飲料のルーツ・ワインの製造をしていた。

(注2)昨年度の日本で最もコメの生産量が少なかった沖縄の1/7程度で、サイズが近いということでよく引き合いに出される秋田の1/1600程度に過ぎない。

2008年の1月にはキングストンの南側のスリーマイルに、コミューンの外で暮らす信徒の協力を得て、コンテナ・タイプのラスタラン(Rastaurant)という弁当屋をオープンし、たまに軒先で野菜も販売し始めていた。ラスタの場合、「女性は穢れた存在」とされることもあり、料理も男性が担当することが多い。そのため、ここで働くのも男性だった。ストランをもじっていることぐらいはすぐわかるので、ちゃんとこの名前の由来を聞かなかったのが、いまとなれば勿体無かったのだけど、ひょっとすると「ラスタが経営する(Rasta run)」とかもかかっていたのかもしれない。

 

ラスタランで販売される野菜。奥で弁当などが売買される。

 

ルーツワインにラベルを貼る信徒

 

“You’ll always have a place as a memory”

このような、コミューンが方針を決めておこなう経済活動に従事して、そこからいくらかの現金を得る信徒がいる一方で、個別に外部で雇用されることで現金を得ている信徒もいた。女性の場合、内部に職がないので、外部で雇用されて現金を得ている場合が多かった。ただ、移民した親族からの送金に頼ることのできる信徒もいるし、お金にまつわる質問には答えてくれない人も多いので、これはあくまでもざっくりとした傾向を示していると思っておいて欲しい。

いずれにしても、ぼくが通うようになった頃、SOVにとって、ラスタランはとても重要な場所だった。スリーマイルは繁華街ではないが、乗り合いタクシーの終点になっている交通の要所のひとつだったので、それなりに人が行き交っていた。また、調理場があったので、昔はコミューンで製造するだけだったルーツ・ワインも店の裏で加工してボトル詰めして、各地に販売に行くのも少し楽になった。近所に少し裕福な信徒が経営する床屋(ラスタなのに)があって、彼らに友好的な人もいたことも、山を拠点としているよそ者が商売を始めるときには有利に働いていたのかも知れない。その他には、ブルー・マウンテンまではのぼってこない信徒や潜在的信徒の集まる場所にもなっていた。現に、ラスタランの前のスペースで儀礼をおこなっていた時期もあった。

実はこのラスタランの隣にはカナダのScotia Bankがあった。奴隷制の時期以降、黒人は資本主義的な搾取の対象になってきたと主張するラスタたちの活動拠点の脇に、間接的にだが大英帝国につながるカナダの銀行の支店があるというのが、歴史の複雑さを示すシンボリカルな現象であるように感じた。食料をなるべく自分たちでまかなうというのは、ありていに言えば、資本主義へのカウンターにもつながるけれど、ラスタもやはり現金が必要だからラスタランをやっているという現実も、無邪気に彼らを理想化しないためには大切なことだと思わせてくれた。SOVの信徒たちは、ラスタランにも、その周りにもたくさんの宗教的な壁画を書いていて、 店舗やその脇の壁は緑・黄・赤のラスタ・カラーで塗り分けられた上にセラシエや妃であるメネン、セラシエを象徴するライオンの絵や数々のメッセージが書かれていた。そういったことを含め、隣にScotiaがあることを、ぼくは気に入っていた。

 

ラスタランの隅に描かれたラスタやライオンと背後に見えるScotiaの看板

 

2009年6月の時点のラスタランの商品の値段は以下の通りだった。弁当の値段はサイズに合わせて3サイズあって、値段は150~300ジャマイカドル(約170~330円)だった。フレッシュ・ジュースは120~150ジャマイカドル(約130~180円)で、主な材料はニンジンやビートルートであることが多かった。どのジュースもショウガが効いていた。外にいると暑くてたまらないので、よくコンテナの中に入ってメンバーと話をしたり、店先で客と話をしたりしていた。

ラスタランでは、素朴な会話がしやすかったり、コミューンでは気づかない人間関係に気づくことができたり、聞くことのできない裏話が聞けたりするのも良かった。なかでもよく話をしたのがケイマン諸島出身のAというぼくより10歳ほど年上の信徒で、落ち着きがあったのと、ラップに詳しかったので、彼が店番や、ルーツ・ワインのボトル詰めをして店にいる日に世間話をするのはとても楽しかった。余談だけれど、彼が教えてくれたGeto Boysの“6 feet deep”は今でもたまに聴いている。特にAのお気に入りの箇所があったのかどうかはわからないけれど、ぼくは“you’ll always have a place as a memory”という箇所を、「普通」の社会からは外れて生きるラスタたちも、多様な人間関係・社会関係の一員であり続ける、という意味を読み込める気がして気に入っている。

 

自分用の食事を準備するA

 

Aに限らず、いろんな人がいろんなきっかけでSOVの信徒になっているのだが、次回は、そもそも彼らがブルー・マウンテン山麓のコミューンで暮らすことは、どのように神学的に位置づけられていたのか、ということを中心に書いていきたい。

 

特報:「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー 歴史と今」展が、10月に那覇の沖縄県立博物館・美術館で開催。現在、クラウドファンディング募集中。

 

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PROFILE

神本秀爾 かみもと・しゅうじ/1980年生まれ、久留米大学文学部准教授。専門は文化人類学。著書に『レゲエという実践—ラスタファーライの文化人類学』(京都大学学術出版会)など。