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ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎|バッドテイスト生存戦略会議・後編「お前がこの鼎談を読むとき、俺はもうこの世にいないだろう」

1990年代に一つのシーンを作り出した悪趣味・鬼畜系カルチャー。そもそも「悪趣味」をあえて称揚する文化的態度は、そのはるか以前から存在した。SNSとネット炎上が一般化し、気安く「悪趣味」を遊べなくなったかのように見える今、「バッドテイスト」の新地平を3人のクリエイターが探る。

バッドテイスト生存戦略会議・中編を読む

バッドテイストの倫理と欲望のメタモルフォーゼ

ヌケメ ところで少し倫理について話したいんだよね。これは今回バッドテイストをテーマにした理由でもあるんだけど、ようはバッドテイストなものを擁護しようという時に、一つは「自由」の文脈があるわけですよね。責任を伴った行動の自由として、バッドなことをする自由、愚かなことをする自由があるんじゃないのか、という。そして、もう一つは「倫理」の文脈がある。つまり、既存の倫理観に対するカウンター、別の倫理観の提示としてのバッドテイストという側面もあると思うんです。

たとえば僕の中では、ピエール瀧さんがコカインを使用していることよりも、ツイッターで見知らぬ誰かにクソリプを飛ばすほうがはるかに倫理に反してるわけです。法律的にはコカインは違法で、クソリプは合法かもしれないけど、他人を迫害しているという点で、はるかにクソリプの方が悪い。そういう、法規や一般道徳とは異なる倫理のアイロニカルな表明としてのバッドテイストというのも考えられるように思って。

さっきのQUEくんの身内から殴るっていう話もそうで、一見するとQUEくんは嫌なことを他人に対して言っているクソ野郎に見えるんだけど、そこには一方でQUEくんなりの倫理観が実はあるわけで。

QUE わかりやすい基準としては修復可能性なんだよね。修復できる範囲で人を殴る。言葉にすると最低なんだけどね(笑)

ヌケメ でも本当にそこは大事で、だって死んだらおしまいじゃないですか。そういうバッドテイストな行いをする上での倫理観やある種の線引きについて考えてみたいなと

QUE まあ、僕は今言ったように修復不可能なことをしない、というのがやっぱり大きいかな。人を殺しちゃいけない理由は修復できないからだと思っているし。だからもし蘇らせることができるなら殺してもいいと思う。ドラゴンボールとかはそういう空気でしょ。あとで生き返らせてやるからちょっと死んでこい、みたいな。

ヌケメ 暴言とかもそうですよね。修復不可能な暴言はまずいけど、多少の暴言ならいいっていうのがある。村山さん的にはどうです?

村山 いま考えてたんだけど、難しいよね。あとから反省することも多いし。それに、自分自身の倫理基準を侵すことに面白さを見出すこともある。たとえば、個人の中にある「クオリティの低い作品を作るべきではない」という倫理を、集団での表現ではあえて侵犯してみる。やっている最中から強烈な違和感があるし「こんなこと嫌だ」って思うんだけど(笑)、じゃぽにかではそれをあえてやる、みたいな。

少し話の角度を変えさせてもらうと、倫理という観点で言えば、俺はバッドテイストの「妄想にタブーなし」という部分にはあんまりピンとはきてないんだよね。さっき童貞の話をしたけど、童貞のままじゃダメって俺が考えてるのは、結局、あまりに現実から乖離して妄想ばかりが膨らみすぎてしまうと、これはやっぱり倫理から外れていくからでさ。だから、より重要なことは妄想そのものや、そのアウトプットの加減というよりも、その育てあげたバッドな妄想を現実のコミュニケーションの中でいかに再形成していくか、ということだと思ってるんだよね。

ヌケメ なるほど。でも、たとえばポルノ規制とか、性的欲望と表現の自由みたいな文脈での炎上を見てていつも僕が考えるのは佐川一政さんのようなカニバリズム嗜好がある人のことなんですよ。その欲望って他人を殺めずには一生実現しえないじゃないですか。まあ、これは極端だとしてもロリコンだったり、巨人女フェチだったり、あるいはレイプ願望だったり、と現実空間では実現がしえない、実現が許されない欲望っていうものがやっぱりある。僕は今のところそういう欲望はないけど、そんなのたまたまでしかないし、他人事には思えない。

そういう欲望をかりそめであっても凪いであげることができるのってフィクションくらいしかないんですよね。そのためにも、マニアックなポルノって必要だと思うんです。さっきの話につなぐと、「フィクションである」ということが、一つの妥当なさじ加減ではないか、と。でも、それが性差別であって、女性をモノとしてしか見てない野蛮な表現だから規制すべきだとして規制してしまったりすると、これはやっぱり危ない。バッドな欲望やバッドなテイストのフィクションさえも規制されかねない、という状況こそが僕はもっともバッドだなと思うんです。

QUE まあ、内心で抱かれる欲望やフィクショナルなものまで規制しようと主張している人は一部のラディカルな人でしかないと思うけど、これはゾーニングによって解決していくしかないです。ヌケメくんが言ったプライベートインコレクトネスじゃないけどさ、ここはそういう欲望を共有する空間ですという前提の中で人々が入っていく空間を作って、そこの中だけで完結させて公共には出さず、せいぜい出入り口だけ分かるようにしておくというある種の態度はやっぱり必要になると思う。

ただ、今はフィクションが力を失っていて、つまりフィクションとトゥルースの境界線が揺らいでいて、組み換え方次第ではフィクションであっても一つのオルタナティブファクトとして受容されてしまう。まさにディープフェイク(※)はそう受容されているし。それがポストトゥルースの時代といえばそれまでなんだけど、そういう時代においては、社会的に実現すべきではない欲望を持った人たちの逃げ場はたしかになくなりだしているという気はするね。

※ディープフェイク……人工知能や合成技術を用いて作成された本物と見分けがつかないフェイク動画。ポルノ女優の顔に別の人物の顔を合成したり、政治家に実際に行ってはいない発言を行わせたりといった悪用が問題視されている。

ヌケメ リアルの力が強まりぎて、フィクションを潰しだしてるという。僕はここに危機感を覚えているんですよね。

 

村山悟郎“環世界とプログラムのための肖像” 2015/水彩紙にアクリリック、ラムダプリント、iphone6/各215mm×190mm/https://aichitriennale.jp/artist/murayama-goro.html

 

 

村山 うーん、逃げ場を作るのはたしかに大事だと思うけど、俺はその欲望に固執する必要もないと思うんだよね。性的欲望のあり方ってそもそも固定して存在してるわけじゃないから。社会が変化していく中で欲望そのものだって変わっていくものでしょう? 昔はポルノだってなかったわけだし。だから、そういう特殊な嗜好を持った人の欲望は今後も微動だにせず、それで仕方ないんだって開き直ってしまうということには違和感があるんですよね。

つまりフィクションの規制云々とはまったく別の議論として、そのバッドな嗜好を持った本人がどういう意思を持って自分の欲望と向き合っていくのか、という問題があると思う。「昔はもっと多様なポルノがあった!」って言ってみても正直しょうがない。フェイズはどんどん変わってるんだから。意固地になって古い欲望に固執しなくても、まったく新しい変な欲望をどんどんクリエイトしていけばいいし、そもそも既存のポルノで提案されている欲望の形に自分を定着させていく必要なんてないわけで。

たとえばカニバリズム的な欲望を抱いた人を、ノーマルに矯正する必要は全くないとは思うけど、そうではない違う形へとメタモルフォーゼしていけるとは思ってるんだよね。それこそ”変態”だよ。規制されるとか、PC的にアウトだとかの次のステップ。新しいシーンや新しい欲望の文化を作っていくことにもっと面白みを見出していくことはできると思う。

ヌケメ なるほど。新しい欲望は開発可能だ、と。自分自身もまだ気づいていないような。

QUE それで言うと、最近スナップチャットっていうアプリで自分の顔を性転換させるフィルターが流行ったでしょう? あれで結構な数の人間が性転換した自分の姿にちょっと欲情を覚えているんですよね。たとえば、これを育てていけば立派なナルシスが出来上がると思う。最初は性転換フィルター越しの自分の姿でヌキだして、やがてはフィルターなしの自分の姿でヌキだすようなやつが絶対に増えてくる。

 

Houxo Que

 

ヌケメ ああ、それはあると思う。

 

Nukeme

 

QUE だから悟郎が言った通りで、自分の欲望が固定化されていないということはスナップチャットのフィルタ一つでさえも発見できてしまうわけだよね。欲望のあり方というのは実は絶え間なく揺れ動いてる。別に変態を社会化すべきだとかは思わないし、社会化不可能な欲望もあるとは思うけど、本人ができる範囲で揺さぶってみるというのはアリだと思うかな。ただ、こういう言説には微妙に危ないところもあって、欲望が可変的であることを強調することで、すでにある反社会的な欲望に罪を背負わせすぎてしまうと、結局、そうした欲望が地下に深く潜っていってしまうんですよ。

『ダークウェブ・アンダーグラウンド』にもダークウェブにおけるハードコア児童ポルノについて書かれていましたが、ああいうのを読むと、やっぱり僕は子供がいるというのもあってすごく胸が痛。だから児童を守るためにも、そういう欲望を抱えてしまった人たちを悪魔化せず、さらに実際の児童が犠牲にならない形で、なんらかの技術によって赦しがあるような場は必要だと感じるんです。

ただ、ここでまた重要なことは、社会的に許容しづらいような欲望をすという話と、実際に傷ついた被害者の話とを同じテーブルの上で話しては絶対にいけないということ。それぞれ違うテーブルで話さなきゃいけないとは思いますね。

ヌケメ 議論する上でもゾーニングが必要ってことよね。

 

Goro Murayama

 

欲望のブルーオーシャンを探して

村山 あと、先鋭化を避ける上ではやっぱり諦めないことだよね。欲望を共有できるパートナーと出会えるまで頑張るっていう。そういう意識があってもいいと思う。

ヌケメ そんな人、僕はいないと思っちゃうかなあ。

村山 どこかにいるかもしれないと考えることも出来るんじゃないかな。

QUE 僕はそういう性的欲望を実在の人間で実現したいとかまったく思ってないんで。極論すれば僕はイメージに欲情する。だから生身の人間とかはイメージじゃないからどうでもいいかな。

ヌケメ 一番自分勝手で自己完結的(笑)

QUE そうそう、だからそんなものを外に出す必要はまったくない。あるいは出すにしてもそれは作品として昇華したものを出す。僕は家にいる間のほとんどの時間をパソコンの前で過ごしてて、なんていうか、パソコンが大好きなんですね。この言葉、相当にキモいと思うけど(笑)。でも実際に好きで、結婚する前は誰かとコミュニケーションするのも、ゲームで遊ぶのも、セックスライフも、全てパソコンの前だった。あまりにもイメージと強く向き合いすぎていて、自分をここまで強く捉えているものは一体なんなんだろうって疑問を持つようになり、そこを考えていった結果、自分がずっと見つめているものは液晶ディスプレイだったことを知ったんです。僕はずっと光を見ていたんだ、と。その気づきが、今では自分の作品になってるわけですよ。

ヌケメ なるほどなぁ。僕は倫理に悖る欲望を持った人の悲壮感みたいなものばかりにずっと視点がいってたんだけど、二人の話を聞いてたら割と希望が見えてきたかもしれない。それで思い出したんだけど、この前、ちょうどヴァニラ画廊でやってた春川ナミオさんの展示を見にいったんですよ。春川さんは巨女に顔面騎乗されている男ばかりを描き続けている絵師さんで、とても面白かったので図録も買ったんですが、その図録に収録されていた評論に「フェティッシュとは究極の愛の対象をそれそのものではなく、一番近い何かで置き換えて、置き換えた対象を愛する行為なんだ」と書かれてた。つまり、代替物なんだ、と。すると、僕らは常に代替物に固執しているわけであって、そうであるなら、それをまた違う別の何かで代替することも可能だってことになるんですよね。

QUE 欲望を移築していくってことだよね。

ヌケメ そうそう、ようするに他者を冒涜せず、直接的に傷つけなくてもいいところまでスライドさせていくことが可能なんじゃないか。欲望のブルーオーシャンを探す、というか。

QUE すごいわかるよ。僕は22くらいまでグラフィティをやっていて、実際に逮捕されたりもしてるんだけど、グラフィティは法的にも違法だから、僕がグラフィティへの欲望を実現し続ける限り、自分は建造物とはいえ他者を侵害する犯罪者でしかあり続けられなかったわけですよ。じゃあどうすればいいかというと、その時の自分の衝動性、つまりスプレー缶をバックパックに詰めて、夜中にこっそりと渋谷の街へ繰り出し、手頃な壁を見つけたら絵を描く、という自分の欲望を抽象化しながら、別の形へと転じさせていくしかないんです。それはつまり、別の何かをストリートに見立てるということ。この「見立て」が僕は大事だと思うんですよ。

村山 QUEくんの場合、その「見立て」は具体的にどう転じていったの?

QUE 僕が外に出るようになったのは1999年くらいなんだけど、その後から徐々に社会問題化していってストリートの取り締まりが厳格化しだしていって、実際にストリートがロックダウンされるように警備が強くなっていったんだよね。同時に、街も変化しだしてて、裏原宿がものすごい商業化されだしたりして、具体的にいうとリアルな街に怪しい奴らがいなくなりだした。観光客はいてもたむろしてるはいなくなっちゃって、そういう環境の変化を感じていましたね。

で、みんなどこに行っちゃったんだろうって思って過ごしていたら、インターネットの中に人がたくさんたむろしてるのを発見した。なんだ、みんなこんなとこにいたのか、と。つまり、僕はいま、インターネットの中にストリートを見立てているんです。じゃあそこにおいてボムする壁はどこかと言えば、物質的には液晶ディスプレイということになる。僕が作品において液晶ディスプレイに直接絵を描いているというのは、その抽象化した衝動においてストリートの壁に絵を描いているのと気持ち的には一緒なんです。

ヌケメ すごく面白いけど、やっぱりこういう想像力が逞しいやつだけができるゲームなのかもしれない、とも思った。だって液晶ディスプレイはストリートじゃないじゃんって言っちゃったら、それで終わりなわけで。

QUE 重要なのは抽象化なんだけどね。

ヌケメ あとはアナロジーだよね。

QUE そうだね。だから、逆を言えば、そうしたプロセスを経ず、欲望を剥き出しにして出してしまったら、どうしようもないっていうか。正直いうと野暮だなって気もするし、ある意味では欲望を剥き出しにして晒すって恥ずかしいことなんじゃないかって思う。もっと言えばカッコよくないんですよ。カッコいい変態とカッコ悪い変態がいるとしたら、欲望をそのまま剥き出しにさらけ出すような奴はカッコ悪い変態なんです。カッコいい変態というのは、見立てやアナロジーがそこにあって、ウィットに富んでる。欲望を裸形のままには外に出さないんですよね。

ヌケメ おちんちんを一切出さずにおちんちんを露出したような興奮を得る、みたいなね。そういうのはカッコいいと思う。

QUE 以前、2ちゃんかなんかでロリコンの人たちが色々と話し合ってるスレを見たんですけど、幼女が川遊びをしているのを見かけたけど、当然、幼女には絶対に触れちゃいけないし、話しかけてもいけない。じゃあどうするかっていう話をしてて。そこの>>1の回答は、その川の水は幼女に触れている、だからその川の水を持ち帰ってローションに溶かして、自分の体に塗りつけよう、というものだったんです。僕はこういうズラし方がすごいスタイリッシュだと感じるんですよね。

ヌケメ たしかに欲望をそのまま実行してしまうというのはある種の敗北からね。抽象化やアナロジーの挫折でもあるわけで。その点、ダークウェブのエクストリームなコミュニティというのは、どこか逃避的な感じもする。

QUE たとえばドラッグとかに関しても、近いところは感じますけどね。たとえば大麻はいずれ違法ではなくなった方がいいとは思うけど、いま日本で大麻を吸いながら「日本で大麻が違法なのはおかしい」って言ってみても、ただ言ってるだけではそれは何にもならないわけで、そういうことはクダまいててもしょうがない。そこに何か制度のような積み上げられたものがあった時、そこをただ直接的に否定してみても、制度そのものは変容しないんですよ。制度そのものを超えて、新しい制度を築くためには、いまそこにある制度の中からアプローチするしかない。

あるいは法外にオルタナティブな空間を作ることも可能だけど、そこに社会がなければ自治ができないんです。それこそダークウェブにおいてもシルクロード(※)は自治精神に満ちたものだったのに、それが消えた瞬間に自治ができなくなって無秩序になってしまう、みたいなことが起こってしまったわけで。完全な法外空間というのは、すごくマッチョでタフな奴じゃないと生き残れない場所で、それを一般化して考えるのはやっぱり間違ってると思う。僕は自分自身が逮捕された時に、そういうアウトローであることの恐ろしさのようなものを強く感じたんですよね。

※シルクロード……ロス・ウルブリヒトによって運営されていたダークウェブ上のサイト。ドラッグや銃、海賊版コンテンツなど、様々な違法商品が扱われ、取引はビットコインによって行われていた。2013年時点で100万人近いユーザーがいたが、ウルブリヒトの逮捕によって閉鎖。

 

全てをインデックス化するサブカルチャーの泥沼

ヌケメ ここまで色々と話してきたけど、結局、新反動主義的なバッドさに共感する部分はあっても僕らはノレないわけだよね。じゃあ、そうしたものにノラず、なおかつ積極的に悪趣味をカルチャーとして評価するとしたら、どうなるんだろう。たとえば、表層と深層を繋ぐ空間を作ろうという話も大事だとは思うけど、それはあくまでも消極的評価ですよね。そうではなく、バッドテイストをこの現代に対するカウンターとして積極的に意味づけはできないものかな、と。

 

Nukeme “Awful Images” 2018/スタイロフォーム、銀メッキ、ウレタン塗料

 

QUE そこを考えていく上では、僕はなぜ日本ではそれがカウンターカルチャーにならないのかってことをまず考えるべきだと思うかな。そもそも、いまの日本ってあらゆる全てがサブカルチャーにインデックスされてしまう空間になっている気がしていて。何か政治的なカウンターを行おうとしても、たちまちそれが一つの趣味として回収されてしまう。国会前のデモとかもそう。参加者それぞれは切実な思いでシュプレヒコールをあげていたとしても、ネットにそれがアップされたときに「そういうことをしたい人たち」という風に見えてしまう。僕がそう思うとか云々以前に、そういうふうに見させるバイアスがある。

ようするに、今の日本で本気でカウンターカルチャーを実践してる人はいるんだけど、それらの受容され方はサブカルチャーなんですよね。たとえばグラフィティだって部分的だとしてもカウンターの要素はあるんです。でも日本だと完全にサブカル。このバイアスの正体はなんなのか、考えさせられるよね。

ヌケメ それは本当に感じるね。近代なり現代に対する一つの方向性を持った抵抗として文化を受容する、その受容の仕方そのものが存在しない、というか。たとえばパンクバンドをやっていると言ったとき、パンクという音楽ジャンルのバンドをやっている人と受け止められる。その時、パンクはただの趣味なんですよね。本人たちの思想や意図とは別として、趣味として処理されていく。「私はそういうの好きじゃないけど、そういうの好きな人がいてもいいよね」みたいなヌルい受け止め方を勝手にされてしまう

QUE それがつまり、カウンターカルチャーがサブカルチャーという大きなリスト内のサブカテゴリーになってるということなんですよ。サブカルの磁場が強くて、あらゆる全てを無限にインデックスしてしまう。ここから逃れるにはどうすればいいかと考えるけど、それがすごく難しい。

ヌケメ やっぱり学生運動の失敗とかトラウマとして残ってるのかな。カウンターなアクション、たとえば消費税増税反対とか辺野古基地反対とかの個別論に関しては賛同を得ることはできるけど、もっと今の社会のあり方を根底から疑うような姿勢というのは、すごく拒絶されよね。

QUE トラウマだったとしてもいい加減にそんなものに囚われなくてもいいし、実際、世代交代も進んでるわけだから、そこをダイレクトに経験してない世代も多いわけですよね。それなのに、相変わらずというのは、もっと違うところで躓いてる気もするんですよね。

ヌケメ でも、これって結構シリアスな問題よね。特に表現者として活動している人間にとっては、その作品がどう受容されるか、というところに直接関わってくる問題から。

QUE 実際にコンテンポラリーアートは日本以外ではハイカルチャーだけど、日本では確実にサブカルチャーになってますからね。というか、従来的なサブカルチャーがメインストリームになってるわけで、逆転構造すら生まれてる。ただ、それさえも実は量的なものを比較しているに過ぎず、実際は全てがフラットにサブカルチャーにインデックスされ続けてるだけなんだろうと思う。現代美術をやる人間としてはそこから逃れて歴史性との接続を図ったりしようとするわけだけど、結果、作品がイメージとなって流通した途端にインデックスに阻まれてしまう感じがあるし。

村山 宗教的なバッググラウンドがない、ということがやはり大きいとは思うな。キリスト教的な思想の中には、新しいライフスタイルの提示や、社会やシチュエーションの急進的に変化にたいして、あるべき倫理をベースに、その都度、生き方を新たに創り出してゆくという発想が根付いてるでしょう?

ヌケメ 進歩主義的な感覚みたいな?

村山 そうだね。これこれの社会問題がある——アドホックに対処する、ではなく、その問題を孕んでいる社会自体を根本から変えてしまうようなライフスタイルを提示しよう、という。それがカウンターカルチャーの本質だとは思うんだけど。

QUE だから日本では非モテ層が、インセル的な連帯をしたとしても、そこに明確な思想の共有がないのかもね。あれは「見捨てられる我々」という社会批判ではあるけど、そのアティチュードはやっぱり根本から生き方を変えようというカウンターではないんだよ。

村山 そこがやっぱり決定的に違うんだよね。日本では表現の構想が、ライフスタイルや日々の経済まで変革しようというモデルにはあまりならない。全てを変えてまで提示しなければならない、という背景が日本人には乏しくて、それが決定的にカウンター性を剥奪してる。結局、資本主義社会のリアリズムの中で選択肢を出しているだけでは、全てサブカルチャーに還元されてしまう。

QUE そう考えるとサブカルチャーという言葉自体も破綻しているんだよね。サブカルチャーは大文字のメインカルチャーがあってこそのサブカルチャーだけど、日本にはそんなものないんだから。実際のところは「ア・カルチャー」みたいなものがただ並列化されてる、という。

ヌケメ れはそれで仏教的というか、ある種のアニミズムっぽさも感じるけどね。

QUE 僕はそれを東洋的だとしてしまうことは、ちょっとリスキーに感じるかな。

村山 あるいは東洋的なものが、資本主義の下に隷属してしまっている感じに見えるよね。実際、俺も美術の世界にいて、ライフスタイルの変革までを含めたカウンターの表現に対して「それはやめてくれ」みたいな冷めた空気を感じることは日々あるわけで。既存のモデルを崩してしまうことにはかなり抵抗感があるんじゃないかな。あと、日本でカウンターが成立しない理由としては個人主義の問題が大きいと思う。

ヌケメ 日本って個人主義じゃなくないです

村山 いやいや、超個人主義だと思う。

QUE それは西洋的な個人主義というのともまた違うよね。日本の場合、個人がインディビデュアルではなくパーソナルなんだと思う。

村山 そうだね。個人が個人として自分のバックグラウンドや背負うべき歴史に向き合って、生き方をそれぞれで創出していく、という形ではなくて、ただただセパレートされた「個人」であるという。たとえばヨーロッパのアカデミズムも個人主義的にはなってるんだけど、それぞれが背負っているカルチャーがあって、引き継いでいく。もちろん、そうした作法に対してのカウンターはあるわけだけど、何に対してのカウンターであるかが明確なんだよね。

QUE つまり、当たり前のように物語があるということなんだよね。実際、多くの国では自分の住んでる街に普通に遺跡とかがあって、そういうのを見ながら暮らしているわけで。僕も海外に行っていた時は、こういう環境で育てば、自分が歴史の中で生きているっていう感覚になるよなって納得したことがある。その点、日本は災害も多く、建物についてもスクラップアンドビルドでしょう。壊れたら作ればいいって頭で、ていうか、壊しやすく作られていたりもする。僕は東京育ちだけど、子供の頃に見ていた景色が何一つ残ってないんだよね。だからノスタルジーすら生まれない。

村山 そうした環境において、今ある社会とか、今あるシステムに対して、自分たちがカウンターとして何かを提示しなければならないという切実さがどれくらいあるのかってことだよね。

QUE 宿命的なものが生じない。いや、生じないように見えてしまう。これはもう、どうしようもないんじゃないかな(笑)

 

2026年問題──ポストイオンの地下迷路

村山 ただ、最近は、やっぱりそれじゃ本当にヤバいぞって感覚を持つようになってきてる。俺は2015年から2年間ウィーンに行ってたんだけど、日本に帰ってきたら、たった2年しか経ってないのに風景が大きく変わってると強く感じたんだよね。たとえば俺の地元にはでかいイオンができてて、商店街は完全に壊滅してた。すごい速度で郊外化が進んでるのよ。

これは俺の地元だけじゃなく、どこの街もそうで、気づけば本当にチェーン店とでかいスーパーしかなく、どの街に行っても風景が変わらない。ファスト風土化って言葉ができた頃とは比にならないくらい均質化が進んでるんだよ。もう、こうなってしまうと都市生活の豊かさなんてほとんどないわけ。さらに俺たちの親世代はまだ地元で面白いことをしようみたいな意識があったけど、同世代にはその感覚さえも乏しい。これは本当に致命的な状態を招くことになるんじゃないのって結構まじめに考えるようになったよね。

 

村山悟郎「生成するウォールドローイング -日本家屋のために」瀬戸内国際芸術祭2019・男木島

 

QUE 郊外化の話で言えば、渋谷の街っていま再開発中だけど、ようするに巨大な郊外になろうとしてるんだよ。デベロッパーを入れて大規模開発を行うと必ず郊外化するような印象がある。なぜかというと、そこのベースには経済合理性があり、合理性に基づくと均質化が起こるから。だから都市開発を行なっているデべロッパーの手つきでは絶対に郊外的な街並みしか作れないんです。

実際のところ、彼らもそうしたいわけじゃないと思う。本音では渋谷の渋谷らしい文化を残したいと思いながらも、そうしてしまわざるをえない。そこには構造的な問題があるはずで、ただ、そこを超克しようにも我々自身の市民意識が低下していて、社会の中の存在じゃなく、社会におけるエージェントとしてしか自分のことを認識できていないという現状がある。どこかそう強いられてるような感じさえある。あるいは、そのシステムに抗おうとしてみても、すぐにシステムの内部にインデックス化されてしまうわけで。結構、無限地獄みたいな状態だなって僕は思ってます。

これは日本全体がバッドだよねって話ではあるんだけど、実は僕はもうそれさえも楽しんでいるところがあり。それはなぜかというと、このままいくと、いつかは絶対に割れるから。つまり、日本全国がイオンで埋め尽くされたら、確実に割れるんですよ。その時にいよいよポストイオンについて考えなければならなくなる。それはそれで結構面白い物語だな、と。

ヌケメ それは割と加速主義的な発想よね。

QUE 僕はやっぱり加速主義的な思考をしやすいんですよ。ただ、別に世界が崩壊すればいいとかは思っていなくて、一旦、底が割れるくらいまでは加速した方がいいと思ってる。日本がイオンだらけで本当に「クソつまらない」ってなってしまったとき、人は面白いことを欲望するはずだから。

ヌケメ イオンが全てを飲み込んで、イオンで生まれてイオンで死ぬ人生みたいに(笑)

QUE そうそう。でも実際にそうなってきてるよね。それを誰もが切実に考えられるようなところまできたら、新しい地平が出てくるはずだし、それはもう間もなくだとも思う。僕は2026年が一つのターニングポイントだと思ってて、それはオリンピックも万博も終わって、間違いなく経済的にも落ち込むことが分かってるから。実際に渋谷の再開発も22年に完成する。とてつもなく閉塞感の強い巨大なストラクチャーに囲まれた空間が渋谷に現れるわけですよ。

ヌケメ 半端じゃないビル風に苛まれるんだろうね。

QUE そのディストピア感に僕は無責任だけどワクワクしてしまう。本当に最悪なんだけど、そんな最悪な時代になにか創作行為ができるというのはヤバい。それに、地平の果てまでショッピングモールになると考えた時に、その想像力をサイバーパンク的に稼働させた方が面白いんじゃないか、とも思うんだよね。渋谷の地下に安藤忠雄が設計した地下迷路があるじゃないですか。正直、クソ使いづらいんだけど、もしあれが渋谷全域にわたって、百階層とかで展開することになったら、これはこれで面白いでしょう?

ヌケメ リアルにありそうよね。この前、保育園の列に車が突っ込んで園児が何人も亡くなってしまった事件があったじゃないですか。報道を見ながら妻と「車の事故って避けようがなさすぎるよね」って話してて、この際、地上は車だけが走るということにして、人間は地下を歩けばいいんじゃないか、とも思ったんです。安全性を高めていこうとした時に、地下街化というのはあながち極端な話でもない。

QUE そうそう、渋谷はまさに谷だから、そこを全て埋めちゃってディープダンジョンにしていく。今の渋谷駅前は路上飲酒禁止に条例でなっているけど、それは地上だけで、地下は飲酒OKみたいにゾーニングもできる。それこそ百階層の一番地下深いフロアとかには法や条例が届かなくてやばい奴しかいない、みたいなさ。

村山 法ってそんなWi-Fiみたいなものだったんだ(笑)

ヌケメ 変な話で、土地はどこまで掘っても表面の地層の所有者のものなんですよね。一方、上空は切り分けられていたりする。飛行機の飛ぶ高さくらいになると、ブロック別に売られてたりするんよね。これはマップで見ると面白いんだけど

QUE 東京都上空は米軍に制空権があるんだよね。だから成田とかが迂回路になってるわけで。話はそれるけど、これは普通に考えてやばい話だと思うけどね。首都の上空の制空権が他国のものになっているなんてさ。

ヌケメ 相当やばいよね。今、段階的にそこをどうにかしようとしてるのが安倍政権なんじゃないんですか。憲法9条を変えて、自衛隊を日本軍とすることで、段階的に米軍を弾いていこうという。

村山 ただ、その代わりのトレードがあるんだろうね。

QUE 知らされていないのはありそうだね関税緩和もシナリオだったりして

ヌケメ つまり、日本軍ができると同時に日本国内をアメ車が大量に走り出すみたいな話ですよね(笑)

QUE  そうそう、そう考えると本当にトレードなんてできるの?  とは思うけど。ただ、アメリカとの関係はもう一回見直さないとまずいのは誰の目から見ても明らかだね。

ヌケメ まあ、その交渉を進めている間にやアメリカから見た日本がどうでもいい存在にどんどんなっていくっていうのがリアルなところじゃないかな。これから少子化も進んで経済的にもますます落ち込んでいくわけで、単純に大した友好国でも大した敵国でもなくなっていく。

QUE 普通にしょぼい国になるんだろうなぁ(笑)

 

Post from RICOH THETA. – Spherical Image – RICOH THETA

荒渡厳|Houxo Que ディスプレイの光 (関内文庫にて2019/6/28・29・30開催)

 

悪趣味の遺伝子

ヌケメ じゃあ、そうした流れにどう抗おうかっていうときに、カウンターカルチャーがサブカル化されてしまう日本の状況のヤバさが際立ってくるわけですよね。日本ってとにかく資本主義的な経済合理性とポピュリズムに全てが蹂躙されつくした国だと僕は思うんです。その状況に市民全員がただなされるままレイプされ続けていて、自分たちでその状況を変えることができると確信を持ってるような人がほとんどいない。いたとしても経済合理性によって「大して経済合理性のないもの」としてカテゴライズされ、社会的には無力化されていく。

QUEくんは底が抜けるまで変わらないって考えだと思うけど、僕はもはや自分たちで状況を変えられると思えないほどに去勢されているということ自体がまずいんじゃないか、と思うんです。実際に変わるかどうかは別としてもね。つまり、とことん思想が都合に負ける場所なんだな、と。思想には短期的な意味での経済合理性がないから、「この仕事したら10000円もらえるよ」に簡単に負けてしまう。仕事の内容とか意味が無効化される。

たとえばベルリンとかだとジェントリフィケーションに対する抗議デモとかがまだちゃんと起こってる。経済合理性よりも地域性を守るために立ち上がってる市民がちゃんといて、実際にGoogleを撤退させているわけです。それは局地的な勝利に過ぎないけど、思想が都合に完全には屈していないんですよ。でも、同じことは日本だったらまず絶対に起こらないよなって感じてしまう。渋谷だろうが、高円寺だろうが、下北沢だろうが、巨大な資本が入ってきて「ここの街を変えちゃいますね」と言ったら、誰も抵抗できないんだろうな、という無力感しか湧かない。

QUE う~ん、でも全員死ねば変わるんじゃない?

ヌケメ ええ、僕たちが?

QUE そう。僕たちの世代で世界を根本から是正する必要なんてないんじゃないかな。せいぜい僕らは僕らの子供たちの世代がそれをできるような礎になれればいいんじゃないの?

村山 QUEくんが言いたいことは分かるんだけどさ、ただ、現在ここだけは残さなきゃダメだろってところはあるわけでしょ?  イオン化してはいけない場所がさ。

QUE まあ、そういうものだけ、本当に最後の砦だけは守っておく必要はあるだろうね。

村山 そうそう。だから、そういう場を拠り所にしていくというのは一つの手だよね。防衛戦だとしても最終ディフェンスラインは割らせない。たとえば次世代に託すにしたって、完全な砂漠になった後に「あとは任せた」っていうのも無責任でしょ。やっぱり拠点は残しておかないと。

ヌケメ なんか皇居だけ残ってあと全部再開発されかねないような気もするけど

QUE いや皇居なんていうのはどうでもよくてさ、それこそ僕は守るべきは個人的な空間だと思ってる。僕たちそれぞれがこれは守って伝えていかねばならないってものを、自分の仲間や家族だけが見るアルバムのような形で残しておいて、次世代に継承していく。もちろん、悪趣味的なものも含めてね。

僕は自分の世代で大きな変革を起こせるとか、そういうことに対してはほぼ完全に諦めてるんだよ。自分たちの生きているうちに市民意識を大幅に変えて、良い世界に変えていけるなんて、ちょっと思えない。あるいは、それをこの世代だけで達成しようなんて考えるからますます無力感に苛まれるんだと思う。

だったら、僕たちの後に生まれてくる人間たちのために何ができるのかを考えた方がいい。おそらく、大人が全員無力感に包まれてたら、子供は腹がたつわけですよ。その時に、子供たちが去勢されてしまわないように、手がかりになるものを残しておくっていうことの方が僕にとっては優先順位が高いかな。どうせあと数十年で死ぬんだし、だったら死んだ後のことを考えた方が楽しくない?

ヌケメ ミームの継承ってことか。

村山 たしかに、そこは一つの、我々の世代の課題だとは思う。俺たちの親の世代は、何かを継ぐということに拒否感を感じてる人が多かったじゃない? 今まで継承されてきたものから自由であることにカウンター性を見出している節があって、その結果、こうなった。俺たちはその下の世代として、やっぱり継ぐべきものは継いでいかないとダメなんだってことが分かったわけで。

QUE 実際、農村の過疎化や人の少なさは本当に深刻だからね。友達で地方出身のやつと話していると、跡取りとして生まれたのに、都市民として生きていこうとしていて、まあ、それはその人の人生だから自由なんだけど、そいつが抜けたことでその地方はさらに過疎化して貧しくなっていくんだなとも一方で思っちゃう。必ずしも個人の自由を塞きとめるべきではないと思うけど、なんていうのか、そういうものから切断され続けるというのはどういうことなのか、考えないといけないとは思うよね。人口が減る中でこのジレンマが立ち上がるのが怖い。本当は人はどう生きたって自由なはずなのに。

村山 多分、継ぐっていうフォーマットの保守性がみんな嫌なんですよね。でも、継ぐって単に反復するということではないから。継ぐという形の中にもクリエイティビティを埋め込むことができるし、そうした訓練も徐々にできつつあると俺は思ってるんだよね。

ヌケメ それこそ、この企画もその一環だと思う。芳賀書店の歴史を継いでる芳賀さんの媒体でこういう話をしているということがね。

QUE でもさ、どうせ継がせていくならさ、変なミームを継がせていきたいよね、バグみたいなの(笑)

村山 それを言う顔がもうバッドテイストだよ(笑)

QUE いや、バグを意図的に次の世代に混入させて送り出せば、ちょっと変なことが起きるはずじゃん。

ヌケメ 「お前がこのビデオを見るとき、俺はもうこの世にいないだろう」的な映像を残しておくみたいな話?(笑)

QUE そうそう、それって悪く言うと呪いだけど、良く言うと祈りなんだよね。だから、そういうことの方こそ重要で、社会を変えるためのアクションをするにしても、今生きてる人たちというのは僕の視野には入ってない。

村山 つまり、バッドテイストを介したカウンターカルチャーの現在的な方法論としては、自分の子供たちに変態性を継いでいくってことか。

QUE うん、新しい世代をバッドテイストに作る。それこそさっき悟郎がした、社会で承認されえない欲望を持った人たちがいかに新しい欲望をクリエイトできるかっていう話、言いたいことは分かるし、実際にそれは可能なんだと思うけど、大多数にとってはコンテンポラリーには難しいと思うんだよ。ちょっと密教的というかさ。だったら、これから生まれてくる子供たちの欲望にバグを注入していった方がいい。

ヌケメ まあ僕はまだ子供がいないからなんとも言えないけど、ミームを託そうというのは分かるかな。

村山 子供も別に血縁とかにこだわる必要はないよな。近所の子供たちが集まる変態道場みたいなものを作ればいいし。

ヌケメ おちんちんでレンガを持ち上げる特訓をする、みたいな?

QUE くだらねえ(笑)

村山 まあなんでもいいんだけどさ(笑)。あそこに近寄っちゃダメですよ、みたいなことを言われるヤバいオヤジになるっていう。

QUE それなりたい。僕ももし自分のアトリエに迷い込んでくるようなガキがいたとしたら、その時は立派な変態に育てて送り出さないとな、とは思ってる。まあそういう超世代的な感覚で、自分は地層の一部になるくらいに考えていかないと、それこそ前に進めないよね。

村山 でも継がせるってことを考えたら継ぐことができる変態性でなくちゃいけないから、意外と真面目に考えるようになるね。

QUE そうなんだよ。だから良識が必要。良識のない変態は誰も継承してくれないから。一部のフリーキーなやつが先鋭化して破滅するだけで。

村山 パーソナライズされた欲望だけじゃダメなんだよね。今後のバッドテイスト的な課題は継げる変態性を自らに確保していくことかな。

ヌケメ たしかに絶滅した動物の図鑑とかを眺めてると「これは絶滅するわ」って思う動物が多いからね。こんな変な奴が生き残れるわけないだろうって。鼻の穴が五つある豚とか(笑)

QUE そう、絶滅危惧種を保護しようという運動には不自然さがあるじゃないですか。人間が過度なバイアスをかけて滅ぼしてしまっている場合は別だけど。だから、変態にも生存戦略が必要なんだよ。

ヌケメ 魅力と強度の問題なんだなって思った。魅力的で強度があれば、自分の直の子供じゃなくても、QUEくんの子供が僕の変態性を継いでくれるかもしれないし。

QUE それはやだなぁ。でも、それが一番のカウンターだとは思う。全てが無限に横にインデックスされていくんだったら縦の線でカウンターを考えていくしかない。もしかしたらヌケメの子に僕の変態性がいくかもしれないわけだし。

ヌケメ スワッピングだね(笑)

村山 まあ俺は自分の作品にちゃんと変態の扉を設けて、淡々と誰かがやってくるのを待つとしますよ。

QUE その扉を開けたらそこには変態が待っている。

ヌケメ しかも童貞のでしょう?  やだなぁ(笑)

一同 (笑)

 

(Text by Yosuke Tsuji)

 

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ヌケメ ぬけめ/1986年、岡山県生まれ。デザイナー、アーティスト。ミシンの作動データにグリッチを発生させる『グリッチ刺繍』など洋服を支持体とした作品を主に制作する。https://nukeme.nu/

 

HOUXO QUE ほうこぉ・きゅー/1984年、東京生まれ。現代美術作家。10代でグラフィティと出会い、壁画中心の制作活動を始める。http://www.quehouxo.com/

 

村山悟郎 むらやま・ごろう/1983年、東京生まれ。アーティスト。博士(美術)。自己組織的なプロセスやパターンを、絵画やドローイングをとおして表現している。http://goromurayama.com/

 

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