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ちょうど愛をテーマにして書くのによいタイミングだと思った。
私は愛について語りたいと思ってきたけれど、いまだに愛というモノが何であるかハッキリと断言することはできずにいる。そもそも私のような欠陥人間が愛を知りえていると断言したなら、それこそ虚言症なのではないかと思われても仕方がないだろう。
しかし、ここ数年で自分の内側で起こっている変化があまりに大きく、その変化を見て見ぬふりはできない。だから、自分のことを整理するがてら、ここで文章に残しておくことが今の私に必要であると思うのだ。
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愛とはなにか。
ある人は愛を縛りだと言った。ある人は愛を博愛だと言った。ある人は愛など存在しないと言った。ある人は愛は許しだと言った。
私はきっと日常的に愛に触れているのだと思う。食べるモノがなくなって困っている私に、母親が借金してまでお米を買ってきて私の住まいまで持ってきてくれることは、これはきっと大きな愛なのだと思う。だから私は母親の、生物の持つ大きな愛にいつも涙し、自分を恨んでいる。
私が1人で生きることに絶望しているときにモーコがアメリカから電話をかけてきてくれるのも、これも間違いなく愛だ。隣でモーコの気を引こうとモーコの子供が電話中ずっとモーコに話しかけていたりするのも愛だと思う。微笑ましくて、温かで、愛おしい気持ちになる。
私が泣き疲れて、お酒を飲んでコンビニまで行き、偶然たまたまDENPAさんとその家族に遭遇し、私の話を子供と一緒に聞いてくれることも愛であり、私はその愛にも救われている。
愛は日常に溢れていて、私は確かにそれに救われている。また、それによって生きることができ、涙し、自分の不甲斐なさを呪いたい気持ちになる。
しかし一方で、私の運命はそう簡単には、私に愛を認識させてはくれない。なぜなら、私というこの人間の器に入っている森花という存在は“半分”でしかないからだ。私が半分なのか、何かが大きく欠除しているだけなのか、私にはわからない。だけど、私は“半分”であるがゆえに、これまで自分の身体を自由に動かせたためしがない(もしくは私は生まれついて自意識過剰の精神病者だと決めつけるしかない)。
そんなわけで私は自分の身体が“半分がないように感じていて、今でも私は生まれた時から欠如したその身体半分の愛を求めている。外見には五体満足に見えるかもしれないが、確かに私は自分の身体の感覚が半分ない、あるいはとてつもなく大きな深い穴が空いていると感じている。
そして、その穴を埋めてくれるはずのものを、私はずっと探している。ずっと出会いたいと思っている。それは母親や家族、友達の愛とは違う何かで、これを本当に愛というべきなのかは私には果たしてわからない。私はその愛かも分からない何かを受け入れたいと思っているけど、そのためには自分はまだ未熟すぎるのだとも感じている。
いつも思う。この世界には私には理解できないことが山ほどある。それなのに真実というモノを追い求めていると人はバカになる。一寸先も見えない霧の世界。こんな世界で平気な顔して生活できることが狂気の沙汰だ。
つまりそいうことです。霧の世界で愛について語るなんて恐れ多いことなのです。愛とは私にとって理解しがたく確認できないモノなのです。しかし愛というモノは、この知性ある人間の器に入っている以上、必ずあるはずなのです。けれど、どれが愛だとかは今の私にはわからない。どれもが愛で、どれもが愛ではない。
だから私は自分のもう半分の身体を手に入れるためにもう少し修行せなばなりません。
偽善は愛なのか。愛の鞭というモノは愛なのか。全ての優しさが愛なのか。全ての怒りが愛なのか。愛と憎しみは何故紙一重なのか。嫉妬心。欲望。憎しみ。これは愛なのだろうか。
私は愛についてわからないけれど、直感で信じている愛はある。
『愛し、愛され、殺し、殺され、身を捧げ、身を捧げられる』
私はこれが愛だと信じている。愛している人のためなら人を殺すし、殺される。これは猫が子を敵から守ることと同じ気がするのだがこじ付けだろうか。
私は野生的な本能が生まれつき強いようで、人間の知性で考えたコトよりも何かよく分からない雰囲気みたいなモノを信じたりする。以前、友達に「子供の頃に見た蜘蛛と同じ目をしている」と言われたことがある。たしかに、今まで話したことを振り返ってみると、私はやたらと「感覚を信じろ」だとか「直感を大切にしろ」だとかなにやらそんなことばかり言っていて、それは蜘蛛とあまり違わないのかもしれないと思う。
今もずっと相応しい人間になれるように努力している。私が信じてきたモノが現実であったことをいつか確かめたい。そうでなかった時は思い切って死んでみようと思う。もし怖くて死ねなかったら生涯独り身を貫いて猫達とそこそこ満足のいく幸せを築きたいと考えている。私なりの答えを導き出す日は間近だと感じる。
人間に生まれて本当に良かったと思える時は決まって人間の美しさに触れた時だ。それが怒りでも、憎しみでも、優しさでも、悲しみでも。本当は毎日、私は愛に触れているのだろうけど、フとした瞬間にしかそれに気付くことができない愚かな生き物に生まれてきてしまった。だから一瞬一瞬、それに気づけた時にそれを大切にできるように少しでもなりたい。
愛と憎しみは紙一重と言う人もいるけれど、その先にも何かあるのだと私は今感じていて、そこに到達した時の心の中を私はぜひ見てみたい。
けれど私はカフカのような人間なのです。カフカが恐れたように私もきっとまた愛を恐れるにちがいない。それでも私の世界に存在する愛を私は信じれるようになりたい。私はカフカよりも自分の世界を信じることができる人間になりたい。
そんなことを思っている。
(All Photos by MORIKA)
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P.S. この文章を書いてから半月が経っていますが、その間に私は自分の中に存在する愛を見つけた気がします。私の人生は、運命は、大きな試練にまみれているように思えてなりませんが、その中で触れる、分かる感覚や感情を私は素晴らしいと感じ、いつかどこかの誰かと共有できるようになれたらよいなと思うのです。今はまだ無名であるからして、私への偏見や固定観念が絶えませんけれど、いつか私の作るモノ達に共鳴し感動してくれる人間が現れたら光栄で、その時、私は生まれて良かったと少し安堵するでしょう。
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