いずれ滅びゆく世界だからこそ「宇宙の宴」を──生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー・後編
人類が数百万年もの期間をそれによって過ごしてきたとされる生活スタイル「フォリジャー(forager)」とは? 人類が農耕を始める遥か以前に農耕文明を築いていたある生物とは? 逃れられぬ「絶滅」に対して生命はいかに向き合うべきなのか? 生命と肉食の起源をたどるインタビュー後編。
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人類は数百万年もの期間をフォリジャーとして生きていた
HZ さて、あらためて「肉食」に話を戻していきたいと思います。今まで見てきたように肉食はその起源において「屍肉漁り」であったとされているわけですが、その後、人類はスカベンジャーから狩猟者へと変容していったということなんでしょうか。
辻村 先ほども言いましたが、現在発見されている一番古い石器はケニアで見つかった約330万年前の石器なんです。ただ、この石器はほとんど丸い岩に近いもので、また持ち運ぶには大きいし重たすぎるというわけで、使い道がわからないと言われています。
ただ、ジョルダーニアの仮説を踏まえれば、この謎も氷解します。要は屍肉漁りのための威嚇においては接近戦になるので、ライオンが威嚇にもひるまずに襲いかかって来た時に、こうした岩をライオンの頭目がけて投げつけるというのが、身を守る手段の一つだったのではないか、というわけです。頭に投げつけるためのものであれば、小さく軽いものよりも大きく重いものが役立ちます。またこの用途であれば、加工もさして必要ではありません。
人間がいっぱしのハンターになったとわかるのは約180万年前です。この頃には切り傷が刻まれたガゼルなどの骨が残っているからです。その骨を見る限り、ガゼルなどの動物を自分たちで狩り、また解体していたことがはっきり分かる。その時の石器は、動物の死体を解体するために使われていました。
HZ こうして、ついに人類は肉を得るためにライオンなどの肉食獣を経由する必要がなくなったんですね。
辻村 はい。ただし、その移行は徐々にだと思います。初期は自力で仕留めれる率は低かったはずで、だから、かなりの長い期間にわたって、人類は屍肉漁りと狩猟を同時進行的に行なっていたのだろうと想像します。
石器でいうと、発見されている尖った石を先端に括りつけた木の槍というものが約50万年前のものです。それ以前には鋭利な武器としての石器はなかったので、尖った木の枝のようなもので狩りをしていたのかもしれません。
さらに、肉食を始めていたとはいえ、人類は同時に果物とか木の実とかも食べていたんですよね。おそらく栄養源としては、そちらのシェアの方が大きかった。だから、太古の人類を大雑把に「狩猟採集民」と呼んでしまうことには、少し違和感もあるんです。
まず採集のほうが栄養源としては重要で、狩猟はそれを補うものだったとするならば、狩猟採集という順番はおかしいですよね。「採集狩猟」のほうが自然です。
歴史家のユヴァル・ノア・ハラリもビッグヒストリアンのデイヴィッド・クリスチャンも、英語で読んでみると、実は狩猟採集民よりも「フォリジャー(forager)」と書いてある部分のほうが多いんですよね。
「フォリジング(foraging)」というのは、食べ物を探し求めて歩き回るという意味です。そうやって暮らしているのが「フォリジャー」です。これは狩猟採集民みたいに短い日本語にするのが難しいんですが、フォリジングは「採食」と訳されることもあるので、ここでは「採食民」と呼びましょう。
僕は人類の最初の生活スタイルを表す言葉としては狩猟採集よりも採食のほうがふさわしいと思っているんです。なぜなら、人類は初め森で採集をしていたわけですけど、その後サバンナへ出て屍肉漁りを始める。採集と屍肉漁りをしていた期間のほうが、採集と狩猟をしていた期間より長いんですね。それに採食という言葉は、採集、屍肉漁り、狩猟のすべてを含んでいますから。
HZ 確かにそうですね。すると、人類は何百万年という、非常に長い採食民時代を生きてきたことになります。そして、その後、それが大きく変わる転換点として、農耕と畜産の開始があったのだと思います。辻村さんは、採食から農耕、畜産への移行については、どのように捉えられていますか?
辻村 捉え方はさまざまあると思います。先ほど名前を出したデイヴィッド・クリスチャンは、この農耕と畜産の開始について、それまで人類がダイレクトに取り入れることができなかった太陽エネルギーというものを、間接的に利用できるようになったのだ、という言い方をしています。
たとえば牛が食んでいる草というものは人間には消化ができません。その草というのは太陽から地球に入ってきた太陽光のエネルギーを吸収して、栄養を作っているわけですが、畜産とは、それを牛に食べさせることで育て、その牛を人間が食べるわけですよね。
もちろん、狩猟や屍肉漁りにおいても、こうしたエネルギーの循環を人類は生きてきたわけですが、畜産や農耕においては、それを一回きりではなく、継続的、選択的、集中的に行なっていくようになった。好ましい動物と植物を選んだ上で、親密な共生関係を築き、それによって太陽のエネルギーを継続的に利用するということが可能になったんです。
ハキリアリが1200万年前に築いた農耕文明
HZ そして、人間もまたやがて土に還り、今度は牛が食べるための草の養分となる、と。人類は起源においてより、こうした循環のうちに絡め取られたアクターだったわけですが、農耕や牧畜の開始においては、ある種、そうした循環に対するメタ的な視点を獲得した、とも言えそうです。
辻村 果たして、当時、どこまでそこを意識していたかは分かりませんけどね。それに、これにしたって人類に特有の文化ではありません。たとえば、農耕ということで言えば、人類がそれを開始するはるか前からアリによって行われてきたことでもあるんです。
HZ それは一体どういう農耕なんですか?
辻村 たとえばハキリアリというアリがいます。ハキリアリは1200万年ほど前に農耕を始めました。先ほど人間は牛が食んでる草を消化できないという話をしましたが、ハキリアリも葉っぱを直接食べて消化するということができないんです。
ハキリアリは、その名前の通り葉を切り取って巣へ持ち帰るアリです。それからさらにそれを細かく噛み切って、それらを押し固めて粒状にしてから、そこに糞を落とす。この粒をアリタケというキノコ(菌)を栽培しているキノコ農園の土台に付け足す。これが堆肥となってアリタケが育つわけです。そうやって育てたキノコやその根っこを食べて生きていたんです。
HZ それはもう完全に農耕ですね(笑)
辻村 ええ。人類が農耕を始めたのはおよそ1万年前、さらに農耕文明が生まれたのは5000年ほど前ですが、ハキリアリは1200万年前にすでに農耕を開始し、さらにいうと、文明と呼んでもいい巨大な都市も建造していました。なんせ、大きい都市では800万匹以上がそこに暮らしていたんですから。人間が人口800万を超える都市を作れるようになったのは20世紀に入ってからです。
HZ そう考えると人類はだいぶ出遅れていますね(笑)。ところで、農耕の開始について、ユヴァル・ノア・ハラリなどは「人類は稲の罠にはまった」というような表現で説明しています。つまり、それは人類にとって望ましいことではなかったのではないか、と。
辻村 基本的に、最初はやむなく農耕へと移行していったという側面が大きいのではないでしょうか。ハラリも書いている通り、定住をせずに、移動しながら食べ物を採集していく暮らしにおいては、年中、季節ごとに食べられるものがあるわけで、食に困らないわけです。一方、農業というものはそれを始めてしまうと不作ということがある。それに、自分たちが依拠している作物の数は限られているので、栄養バランスも偏ってしまう。実際、平均的な栄養レベルというのは、農耕を初めたばかりの頃は下がったそうなんです。
ではなぜ農耕を始めたのかと言えば、一つは最終氷期が終わり、1万年ほど前から温暖でより農耕がしやすい気候になったことがあります。もう一つは農耕でもしない限り食べていけない環境に置かれてしまった人たちが出てきたことが考えられます。
人口が増えて自分たちの生活圏でだけではまかないきれなくってきた。しかし移住しようにも、隣り合う地域は他の採食民たちの生活圏である。そこへ行っても十分な食料は得られない。そこで同じ土地からより多くの食料を得る必要が出てくるわけです。
そうしなかった人たち、つまり、農耕などをせず、採食民的な暮らしを継続した人たちは、食べ物に恵まれている地域でした。あるいは採食のままでも人口に見合うだけの食料が得られた地域に住んでいた人たちだったんですね。
HZ あるいは、それは700万年前にも起こった分岐なのかもしれませんね。豊かなジャングルで暮らしていた猿たちは、木から降りて、サバンナへ出ていく必要がそもそもなかった。
辻村 ある意味ではたまたま人類の方が必要に迫られてしまった、とは言えるかもしれませんね。そして、その必要に迫られたことによって、人類はものすごい数まで増殖した。逆に、いまだに森で暮らしているゴリラやチンパンジーは、限られた場所に限られた個体数しか生息していないという状況になっている。
農耕を始めた人たちも初めは苦労していたけれど、それを始めていなかったら、現在のような都市や巨大な建造物を立ち上げることはできなかったはずですし、あるいは余剰による特権階級といった存在も生まれてこなかったはずです。そうした視点からすると、環境に恵まれなかったということは、その時点では大変なことなんですが、ある意味ではそれによって新しい創造が促進されてきた、とも言える。不遇だったからこそなしえたことというのもあるんです。
肉食文化が抱えている複数の課題
HZ さて、屍肉漁り、狩猟、そして畜産という幾つかの段階を経て、肉食文化は世界中へと広がっていき、特に20世紀以降は肉を常食とする人口が格段に増えました。しかし、一方ではそれによって、大量の食肉生産をしなければならないという状況もあり、冒頭でも触れたように、現在、そうした「肉食」の継続可能性が危ぶまれているわけです。
辻村 そうですね。まず、現在において指摘されている肉食に関する問題というのは大まかにいうと二つの面があると思います。
一つは環境面です。2050年に世界人口は約93億人まで増えるということが予想されています。そうなった時に人類の全員がアメリカ風の肉中心の食生活をした場合、2014年に生産された肉の約4.5倍が必要になると言われているんです。もともと肉食というのは効率が悪く、たった1kgの牛肉を育てるためにも、牛に与える食物は13kg、水は14000ℓが必要とされます。さらに、牛が出すメタンガスをはじめ、畜産によって発生する温暖化ガスは、人間社会全体が出す温暖化ガスのうち14.5%を占めており、これは車や飛行機など人間が使用している交通機関が排出している温暖化ガスを足し合わせたものと同じくらいだとされています。そういう意味で、まず「肉食」は環境負荷が非常に高いんです。
そして、もう一つは倫理面です。これは人間が他の生き物をどういう風に見るかというところに関わっていると思います。家畜を虐待的な環境においたままで果たして良いのだろうか。運動もできず、ただ太らせるために餌を詰め込まれ、寿命よりもはるかに早い段階で、肉となるために命を奪われる。その過程で甚大な苦痛が与えられている。他の動物にも苦痛や喜びを感じる能力があるにも関わらず、人間は不必要にそうした苦しみを生み出している。それは止めるべきことなのではないか、という問題です。
HZ いずれも無視することのできない問題です。特に倫理面に関しては、自分自身、肉食者として反論のしようがありません。ちょうど10月に発売された『現代思想』誌の特集「倫理学の論点」号でも、久保田さゆりさんが、動物をめぐる倫理的なジレンマについて書かれていました。
ヴィーガニズムなどについて、ネット上には多くの批判や罵倒が存在しますが、そうとはいえ、現代において、「動物が感覚能力を持つ存在」であることは周知の事実であり、また「正当な理由なく動物に危害を加えてはいけない」という倫理は、すでに広く浸透した倫理でもあります。それにも関わらず、もう一方では非倫理的な消費を続けているという状態がある。つまり、現在の畜産と肉食はなんらかの倫理や哲学に基づいて行われているのではなく、共有されている倫理に明らかに背馳するにも関わらず、ある種の正当化や詭弁を弄することによって継続されているに過ぎないというわけです。
辻村 私も今の肉食のあり方に反対しているヴィーガンやベジタリアンの人たちの主張は真っ当だなと思います。だから、そこに反対する気にはならないし、ことさら言い返す気にもなりません。ただ一方で、その道しかないのかなとも考えています。
昨年の12月のマルチスピーシーズ人類学のシンポジウムで、『メタ倫理学入門』を書かれている佐藤岳詩さんから動物福祉と動物権利の違いについて学びました。動物福祉というのは、畜産などを行う中で、動物の苦痛を出来るかぎり減らしていこう、より人道的で、虐待的ではない方法を選んでいこうことです。そういう意味では放し飼いが一番いい形なのかもしれません。一方、動物権利となると、動物に対して人間と同じ権利を認めていくという話になる。すると、食べるために殺すなんて当然とんでもない、となる。
おそらく、動物権利までいくとラディカルすぎると感じる人でも、動物福祉であれば受け入れやすいんではないでしょうか。あるいは『つち式』を発行されている東千茅さんを見ていると、肉食を行いながらも、これまでとは違う動物との付き合い方、関わり方、倫理のあり方がありうるんじゃないかと感じるんですね。こうしたオルタナティブがもっと探られてもいいように思うんです。
HZ 実際、狩猟社会が非倫理的な社会かといえば、当然、そんなことはないわけです。ハンターにはハンターの倫理があり、そこには動物との関係性や対称性が確かにあるように感じます。
辻村 それに、ものすごい寒い地域というのは、本当に肉を食べなければ生きていけないというところもあったと思います。農耕に適さない極寒地では植物性のものだけ食べて生きていくのはきつい。だから必然的に動物性の栄養が大事になってくる。何を自分の栄養源にするかを選択できるということ自体が、そもそも食べ物に恵まれた地域の話であることも忘れてはならないように思いますね。
HZ そうですね。非常に難しい問題だなと感じます。結局は「肉食」の是非というよりも、それが一方的な搾取になってしまっているということが問題であるように思います。
たとえば労働問題をめぐって家畜をもじった「社畜」という言葉がありますよね。僕はそこのアナロジーが単に言葉遊びだとは思えないんです。ありていに言えば、陰惨な状況下における家畜が可能な世界では、陰惨な状況下における社畜も可能なんだろうな、と。そこは切って分けることの難しい問題だなと感じています。
動物と人間では種が違う、という指摘もあるかもしれませんが、他者をめぐる問題、他者との関わりをめぐる問題としては、どこか繋がっているようにも思いますから。
辻村 繋がっていると思いますね。社会を成り立たせるために、何を是とし、また何を黙認するか、ということにおいて相同関係にある。社畜もそうですし、社畜以上に悲惨な境遇で働かされている人は、実際に多く存在しているわけで。
HZ 人間は人間、動物は動物、という線引きは、結局、無色人種は無色人種、有色人種は有色人種、という線引きと大差がない。だから、搾取的ではない「喰う、喰われる」の関係というのを模索したいというのがある。なにより、対象がなんであれ、搾取と虐待が是とされてしまう、しょうがないとされてしまう状況そのものにヤバさを感じます。これは自分自身の行動を顧みてでもありますが。
辻村 それはそうですね。そういう風な状況を減らしていかなければいけない。そうすることは倫理的にも正しいと思います。ブラックな働き方が当たり前になっている状況というのは、どう考えても問題ですからね。
「食」の創造と「食」から生まれる関係性
HZ さて、こうした数多の課題を踏まえ、今後、「肉食」がどう変化していくのか、どう変化していくべきなのか。論文ではいくつかの可能性について言及されてましたね。
辻村 はい。まずは肉食の代替です。これはもう始まっていますよね。野菜から作る模造肉とか、肉の細胞を培養するとか、最近でもロケットに牛の食肉を培養する装置を積んで、それを宇宙空間に放ち、国際宇宙センターの中で、培養した肉を3Dプリンターで成形して食肉にするということが行われたりしています。あるいは昆虫など、他の食べ物と肉とを混ぜて、代替するということが行われていますね。
HZ インポッシブルフーズやビヨンドミートなどの代替肉は大きく話題になっていますね。聞いた話だと、味もとても美味しく、また言われなければ代替肉だと気づかないくらい精巧にできているのだとか。
辻村 そうですね。だから、この未来にはかなりリアリティがあります。倫理的に肉食をやめるということではなく、肉そのものを乗り換えていく。しかも、それが意識的な選択によって行われるとは限らなくて、巷に流通している食べ物の中に、そうした代替成分が入っていて、知らず知らずにそちらに慣れ親しんでいく人が増えていく、ということになるのではないでしょうか。
HZ そうなったとき、「肉」そのものの概念が変わっていく可能性がありますよね。きっと、その未来ではその代替肉を「肉」と呼ぶようになるわけですから。
辻村 そうかもしれません。でも、僕は是非とも食べてみたいと思っています。やっぱり倫理や環境の面から肉食を止めようと思った時に、なかなか難しい理由の一つが、あの食感とあの味が忘れられないというのがあると思うんです。ただ、その部分を違うもので再現できるとなった時に、いわゆる本物の「肉」じゃないと嫌だという人がどれくらいいるのかとなると、そんなには多くない気がします。
HZ かつて、王の葬儀に際して生き埋めにされていた生贄が、やがて埴輪によって代替されたような話とも似ている気がします。
辻村 あとはカニカマとかもそうですよね。あれこそ、カニでもなんでもないわけで(笑)。ただ、食感と風味は調理次第でごまかせる場合もありますよね。
HZ スーパーで売られているようなイミテーションキャビアなどもその類かもしれません(笑)。ところで、論文では他の可能性についてもいくつか書かれていますね。僕が面白かったのはロシアのコスミズムです。
辻村 コスミズムは発想としてはSFに近いんです。なんせ、人間が食事をしなくても生きられるようにする、植物のように光合成をする独立栄養生物に作り変えるという話ですから。コスミズムでは、たとえば人間が生身のままで宇宙空間で生きられないのも、人間が不完全だからという風に考えられていて、だったら生身のままで生きられる生命体に改造しようとなる。かなり振り切った考えですけど(笑)
HZ ただ、実際にそれが技術的に可能になったとして、果たして、その時にその道を人は選択するのだろうか、という疑問もありますよね。ある手術を受ければ食事をしなくても光合成だけで生きれるようになりますよ、となった時、食の喜びを知った人間が果たしてその手術を受けるのだろうか、と。
辻村 ええ。食というものは単に栄養を得るためだけの行為ではないですからね。やはり、そこに伴う喜びという側面がある。それは食べることに限らず、料理をすることそれ自体にも喜びがあったりする。昨年末、坂口恭平さんが『cook』という本を出されましたよね。坂口さんがTwitterにアップしている料理の写真だったり、『cook』を読んで料理を始めたという人たちのツイートを見ていたら、本を読んでないのに感化されて、今年、長らく遠ざかっていた料理を再開したんです(笑)
実際、料理をしてみると、すごくいいんですよね。気分転換にもなるし、リラックス効果もある。自分が生きていくためのものを自分で作れるんだという創造の喜びのようなものも一部取り戻せた気もします。そうした喜びの部分というのは、栄養であったりとはまた別のレイヤーとして存在するように思いますね。
HZ 食べること自体がコミュニケーションになるという点もありますよね。肉を食べるということも、相手を栄養源として消費するというだけではなく、他者に住まわれ、自らが変容していく、あるいは他者と交わっていくという側面もあると思うんです。それは性などにおいてもそうで、セックスは端的な子作りという目標に向かってのみ行われるものではなく、感情や意識、あるいは細菌やウイルスなども含む、なんらかの情報を交換し、またそれによって自らが変容を迫られる行為でもある。それは創造の喜びと同様に、なかなか捨てがたいものです。
辻村 食事という行為自体が、そもそも分かち合われるものですからね。それこそ肉食の起源においては、肉というものは集団でなければ手に入れられないものだったわけです。手に入れたあとは、参加したもの同士で、それを分け合って食べていた。食はそういう風に人間を結びつけるものでもあるんです。
私たちは常に死者たちとともに歩いている──「宇宙の宴」と「絶滅の哲学」
HZ ここまで起源から未来へと「肉食」のビッグヒストリーを一望してきたわけですが、「肉食」という行為ひとつを辿ってみても、いかに人類が、自分たちが置かれた環境の中で、他生と絡まり合いながら文化を形成し、また変容してきたのか、ということを痛感させられました。
辻村 そうですね。特に「肉食」は生物の生と死に関わる行為ですから、考えさせられることが非常に多くあります。実は最近、「死のビッグヒストリー」という構想を練っているんです。それこそ、真核細胞が誕生し、ある細胞が別の細胞を取り込むようになったことで生命の共生が始まったわけですが、「喰う、喰われる」という関係にとどまらず、生物の進化というのは、他者の死の上に成り立っているものです。これまでに地球上では様々な種が絶滅してきたわけですが、それらの絶滅、つまり死があったからこそ、生物は爆発的に多様化してきたとも言える。
たとえば、私たちがその上に暮らしている「土」、この「土」ですらも他の生き物の死骸からできているんです。これは藤井一至さんという土壌学者の方(藤井一至『大地の五億年』)から学んだことなんですが、もともと地球には土はなかったんですね。あったのは岩肌の陸地だった。そこに今から5億年前に最初の植物として苔が上陸してくる。苔は太陽からの光をキャッチして、光合成で有機酸を作る。それで岩を溶かし、岩に含まれている栄養分を食べていた。その溶かしたものの食べ残しと苔の死骸とが混ざり合ってできたのが原初の土だそうです。その後、シダなど他の植物も上陸し、そうした植物の死骸も混ざっていき、4億年くらい前に本格的な土が現れました。
東千茅さんが「里山とは人間と自然の合作である」ということを以前におっしゃっていましたが、それを成り立たせる土自体が生命と地球の合作なんですよね。こうして作られた土壌に、やがて木が生え始める。自立できる堅い植物です。植物はおよそ3億年前にリグニンという新たな木質成分を生み出すことによってこの堅さを獲得する。
でも、植物の死骸を分解する微生物にも好き嫌いがあるみたいで、微生物たちにとって、この新たな物質はまずかったみたいなんですね。食べ残しも多くなる。しかし、およそ2億5000万年前に、そのまずいリグニンを食べる(分解する)キノコが現れました。
ということは、それまでの約5000万年間、倒れた木々はほとんど分解されずに埋もれていったということになる。実は私たちが燃料として使用してきた石炭は、こういう風に分解されずに埋もれた植物の死骸が化石化したものなんです。石油や天然ガスも、元をたどれば、動植物の死骸であり、何億年前から用意されていたものです。つまり、私たちの現在は無数の死と共にあるんです。
HZ 僕は昔から冬虫夏草を眺めるのが好きなんですが、それはなぜかというと、まさに冬虫夏草は分かりやすい形で死骸の上に成り立っていて、生と死の循環を連想させてくれるものだからなんです。
辻村 農耕なども本質的には同じです。土を豊かにしているのは無数の死骸であり、また土そのものが死骸でもあるわけですから。あるいは、それは物質的なレベルにとどまるものでもないと思います。人類が世界との付き合い方をさまざまに工夫できるというのも、これまでに生きてきた膨大な知識というものを何世代にも渡って共有しているからなんです。デイヴィッド・クリスチャンはそうした知のあり方を「集合的学習」と呼んでいます。私たちはついこの世界を生者のものと捉えてしまいがちですけど、実際は死者たちとともに歩いているんです。
HZ いわば「情報の土」ですね。過去の数多の情報によって形成された地層の上を僕たちは歩いている。
辻村 それは素晴らしいフレーズですね! たとえば日本語という言葉ひとつとってもそうですから。僕は日本語を母語として育ったので、ものを考えるときはやっぱり日本語で考えるんですけど、日本語で何かを考えたとき、すでに自分だけが考えているんじゃなくて、これまでに日本語を使用し、それを創り上げてきた膨大な死者たちとともに考えているという感覚があるんです。日本語には日本語の感性というものがあり、自分自身で考えているというよりも、自分が発したその言葉によって、自分の思考が導かれていくという面も実際にあると思います。
HZ 非常によく分かります。僕はサピア=ウォーフの仮説には一定の信憑があるように思っていて、自分が使用している言語に自分の思考が規定されているという感覚が強くあります。それはある意味では、僕の思考が死者たちによって繋縛されているということでもありますが、一方では僕もまたやがて死にゆくものとして、その言語になんらかの変容を加えることもできるとも言えます。
辻村 そうですね。今ネット上には人を貶めるための汚い日本語が溢れていますが、日本語というのはもっとみずみずしいものだったはずです。そうした日本語によってしか生まれない思考みたいなものもあると思う。だから、そうした日本語で表現できることの可能性みたいなものを探求していくことで、未来へと続く新しい知の可能性が開けるのではないかと思っています。
肉食ということについても同じです。単純な是非論だけで語ってしまうのは非常にもったいない。そもそも、この宇宙の中で肉食が成立するということ自体が、奇跡的なことなんです。これまで見てきたように、肉食が成立するためには、まず生命が存在しなくてはなりません。しかも、単細胞だけでなく多細胞生物が現れなくてはならない。さらに動くための筋肉が、喰らうための口が、噛み砕くための顎が必要です。こうしたものを生み出す条件をすべて揃えるというのはとても難しい。
さらにいうと、地球は45億年ほど前にできて、あと50億年ほどで太陽に飲み込まれてしまうと言われています。その中で生命が存在できる時間はあと10億年くらいだとされている。肉とか口を持ちうる真核細胞に関しては、あと数億年というところでしょう。つまり、放っておいても肉食には終わりが来るんです。
もちろん、じゃあ好き勝手にやればいいか、という話ではありません。どうせ終わりが来るなら社会問題なんてどうでもいいやといった快楽主義に走るというのも違う。いずれ終わってしまうものだからこそ、充実した生を、絡み合いとしての生を謳歌したい。僕はそれを「宇宙の宴」と呼んでいます。時間が限られているからこそ、誰かを貶めたり、搾取したり、戦争したりしている暇はないんだ、と。喰らい、喰らわれることを含めて、もっと楽しい「宴」をやろうじゃないか、と。
HZ それこそ、ビッグヒストリー的な視点からではないと、なかなか言えないことですよね。
辻村 「たぐい」の論文の終わりの方に「人間が他の生物種や自らの環境との関係性を見直し、編み直す限り、そこでは世界が再び神話化される。存在と存在の編み目を編むこと、自分と世界とを関係づけ、語ること、表現することは、そのまま神話という行為の再演だからである」と書きました。これが自分にとってビッグヒストリーに取り組む本質的な意味なんです。要は世界をどういう風に見て、世界とどういう風に付き合っていくか。それが他者との関係や自分との関係を編んでいくことになるんです。だから、もっと違う編み方があるんじゃないか、もっと創造的な編み方があるんじゃないか、と、模索しながら、世界を楽しみたいという気持ちがあるんです。
そのように編み直していくことで、一般的には「悪いこと」とされている死や絶滅にも違う意味をもたらすことができるかもしれない。たとえば、オスのカマキリは交尾の後にメスに食べられてしまうじゃないですか。昔はあれを知ってすごく残酷なことのように感じましたが、あの食べられている瞬間、実はオスのカマキリはものすごい恍惚の中にいるんじゃないかとも最近では思うんです。
HZ ジョルジュ・バタイユはエロティシズムを「死へと至る生の称揚」と定義しましたが、これは生をどこまでも謳歌していったその先の極点には死がある、ということですよね。死するからこそ個体を超えて連続性の中に入っていける。ようやく孤独な個体から逃れられるという意味では、死は生命の悲願とも言い得るわけです。だから、辻村さんの「宴」という表現は非常にしっくりきました。
辻村 そう、老化というものにしても、ある意味では自分が少しずつ食べられていっていると言うこともできますよね。一個の人生において満ち足りた心情で死んでいくということはあり得る。人の一生には終わりがある。だからかけがえのないこの人生を大切に生きようとする。それと同じように、種としての人間にも終わりはいつか来る。だからこそ、それまでを大切にするということができないか。人間はクソだから絶滅してしまえ、とかそういう厭世的なものではない形の「絶滅の哲学」というものを打ち立てることはできないか、と考えています。
もちろん今すぐに環境問題や核戦争とかで滅びたらシャレにならないわけで、近い未来に絶滅していいというわけではまったくありません。ただ、最終的に絶滅するのだとしたら、それまでの過ごし方をどうするのか、それまでの生をどう言祝ぐことができるのか、ということを、もう少し考えてもいいんではないか、と感じます。
HZ 種としての実存主義ですね。
辻村 そうですね(笑)。あるいは生物が種を超えた絡まり合いの中で生きていることを踏まえるなら、それは複数種の実存主義と呼んでもいいかもしれません。個体としての人間、個体種としての人類としてだけではなく、もっと複雑な絡まり合いの中で、どういう実存を立ち上げていくのか、という試み。まさに宴です。そして、それはきっと、人間だけの宴ではなく、人ならざるものたち、死者たちをも交えた宴になるはずです。
HZ その宴においても僕たちは相も変わらず、歌い、踊り、叫び、纏い、喰らい、喰らわれているのだと思います。いやはや、とても面白いお話でした。今日はどうもありがとうございました。
(Interview by Yosuke Tsuji)
〈INFORMATION〉
2019.11.24 @ ジュンク堂書店・池袋本店
デイヴィッド・クリスチャン『オリジン・ストーリー』刊行記念トークイベント「ビッグヒストリー:新たな起源の物語」開催
〈内容〉
世界はどのように始まったのか、私たちはどこからやって来たのか――
創世記や古事記など、私たちの祖先はそうしたことを伝えるオリジン・ストーリー(起源の物語)を語り継いできました。
それらのいとなみを受け継ぎ、現代の科学にもとづきもう一度オリジン・ストーリーを作り直してみようという試みがビッグヒストリーです。
今回、その主唱者であるデイヴィッド・クリスチャン氏が最新刊『オリジン・ストーリー』の刊行に合わせ、初めて来日されます。
このトークショーではクリスチャン氏とともに、同書の中国語版の翻訳者・孫岳(スン・ユエ)氏、日本語版の解説者・辻村伸雄氏をお迎えし、ビッグヒストリーや本書の醍醐味、宇宙において人間はどういう存在なのかについて、お三方に語り合っていただきます。
会場にはサイン本をご用意しております。(逐次通訳あり)
〈講師〉
デイヴィッド・クリスチャン(マッコーリー大学 卓越教授)
孫岳(首都師範大学 教授)
辻村伸雄(アジア・ビッグヒストリー学会 会長)
〈SCHEDULE〉
2019年11月24日 18:00開場/19:00開演
■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。
ジュンク堂書店池袋本店
TEL 03-5956-6111
東京都豊島区南池袋2-15-5
https://honto.jp/store/news/detail_041000039445.html?shgcd=HB300
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辻村伸雄 つじむら・のぶお/1982年、長崎生まれ。アジア・ビッグヒストリー学会 会長。国際ビッグヒストリー学会 理事。2016年より桜美林ビッグヒストリー・ムーブメント 相談役・ウェブマスター。2019年に桜美林大学・
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〈MULTIVERSE〉
「かつて祖先は、歌い、踊り、叫び、纏い、そして屍肉を食らった」生命と肉食の起源をたどるビッグヒストリー|辻村伸雄インタビュー
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