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ロンドン帰りのその男は顔の半分がタトゥーで覆われていた──「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー『歴史と今』」展を訪ねて(一日目)

2019年10月から11月の約一ヶ月間に渡り、沖縄県立博物館・美術館にて開催された企画展「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー『歴史と今』」を取材しに、HAGAZINE編集人の辻陽介が那覇へと向かった。

竜一くんとミツグさん

「もう本当いい加減にしてほしい。ずーっとこの問題。もういや。何も考えたくない。賛成派の気持ちも反対派の気持ちも分かる。だから余計につらい。答えなんて出ない」

 うんざりしたような表情でミツグさんはそう言うと、ガラムの香りのする細いタバコの煙を深く吸い込んだ。なんで辺野古基地の話になったのかはよく覚えていない。つい直前までは取り立てて当たり障りのない世間話をしていたはずだった。

 日本中を巻き込み、喧々諤々の論争が繰り返され、出口を見失いつつあるこの問題で最も疲弊しているのは、言うまでもなく沖縄県民たちだ。基地が新たにできることはもちろん嫌だけど、それ以上に、その問題をめぐって県民が二分してしまうことの方がもっと嫌だ──そうミツグさんは語る。口調は訥々としていて、どこか歯切れも悪い。僕はミツグさんの話を聞きながら、ちょうど一年前に沖縄北部やんばる地域を取材した時のことを思い出していた。

 その取材はあるアートフェスに関連して行われたものだった。北部地域の魅力を聞き取る目的で行われた住民の人々へのインタビューは、しかし自ずとインバウンドを狙った北部の開発の是非へと及ぶことになった。印象的だったことは、観光客の誘致に対して明確に反意を示している人たちの多くは内地から沖縄へ移住した人たちで、むしろ代々その地で暮らしている地元の人たちは割合に開発を好意的に捉えていた、少なくともそこに対してアンビバレントなまなざしを有していた──ということ。

 沖縄北部の過疎化は深刻だ。一方で開発による自然環境の変化は、たとえば数年前は古宇利島で普通に見ることができた希少種の鳥が、ここ数年の開発でめっきり人前に姿を現すことがなくなったと語るバードウォッチャーの嘆息にも表れている。さまざまなリアリティ、さまざまな力学が交錯する様子に、にわかには語るべき言葉が見当たらなかったことを記憶している。

「那覇も10年で変わりましたよね。他の都市と全然変わらないでしょ。コンビニもたくさんある。前は一軒もなかったのに。でも誰を責めることもできない。 僕だってコンビニがあればコンビニを使うし。便利さに抗うことは難しいでしょ」

 そう言ってミツグさんはくたびれた顔に作り笑いを浮かべた。その夜、ミツグさんはいつもの仕事が休みだった。普段は夜の10時から朝の5時まで、老人介護施設の朝食作りの仕事をしている。深夜勤務だが時給は800円。7時間の職場滞在中、時給が発生するのは5時間だから、1日の稼ぎは4000円。月の稼ぎはせいぜい10万円程度である。

「せめて7時間分は欲しいでよね。でも、文句言ったところで5時間でできる仕事だって言われるだけ。どう生活すればいいのって思うよ」

 今回の沖縄取材の目的──それは辺野古基地建設にまつわるものでも、沖縄諸島の過度な観光地化に関わるものでも、また沖縄県における劣悪な労働環境をめぐるものでもなかった。沖縄県立博物館・美術館で開催中だった企画展「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー『歴史と今』」を取材すること、それが今回の旅の目的である。中でも主目的となっていたのは、その開催に合わせて沖縄訪問を決めていたパイワン族タトゥーアーティストのキュジー・パッドレスのインタビューを取ることだった。だから、ミツグさんの話と、ミツグさんの存在は、この記事の本筋からは外れている。あるいは、ミツグさんのエピソードは、この記事が「読むに値する複層的なテーマをもった記事である」と、ハジチに関心のない読者にそれとなく示すための、意味深な「枕」だとも言えるかもしれない。でも、おそらく、“それ”と“これ”とは繋がっている。少なくとも、僕はそのような気がしている。

 僕がミツグさんと知り合うことになったのはちょっとした偶然だった。今回の沖縄取材を決めた際、かねてより親交のあった沖縄在住の写真家である石川竜一くんに「今度、沖縄行くから酒でも飲みましょう」と連絡したところ、竜一くん本人はその時期、宮城県に取材撮影に向かっているとのことで会うことは難しいという話だったのだが、「まだ宿泊先が決まってないなら、泊めてくれる面白い友人を紹介しますよ」と、宿泊先の宿主としてミツグさんを紹介してくれたのである。

 会ってみてまず驚いたのはそのビジュアルだった。ミツグさんの顔の半分はタトゥーで覆われていた。特に顎先から口の端までは隙間なく真っ黒に塗りつぶされていて、その他、Tシャツから露出した首や両腕にもタトゥーがびっしり入っている。決してコンセプチュアルに入れてきたものではないだろうことは、夥しいタトゥーの統一感のなさからも歴然だった。トライバル、和彫り、オールドスクール、ニュースクール、ブラックワーク、レタリングなどなど、あらゆるジャンルのタトゥーがそれぞれ存在感をもって一つの身体に同居している。そのマルチアイデンティティとでも呼ぶべき特異な風貌は、さしずめ多民族国家マレーシアのようでもある。

 

ミツグさん

 

「すごいタトゥーですね」

 おそらくは何遍も言われてきたであろうその言葉に対して、ミツグさんは「僕のタトゥーはてんでデタラメだから。意味なんてないんですよ」と言って、恥ずかしそうに頭を掻いた。オールバックに纏められた髪はジェルで湿っていて、すでに少し薄くなっている。タトゥーに関わらず、アートや、美しいものが、昔から大好きなのだそうだ。実は、かくいう僕の身体も真っ黒い縄文タトゥーで覆われていて、だから、話が合うだろうと竜一くんは僕たちを引き合わせたのかもしれない。あるいは変な人間を二人引き合わせたらどんなケミストリーが起こるかという、ちょっとした悪戯心もそこにはあったのかもしれないが。

 

プンガポンガの宴

 僕が竜一くんと初めて仕事を一緒にしたのは2年前のことだ。その時は、那覇でタトゥーアーティストの大島托さんによるハジチのデモンストレーションが行われることになっていて、その現場の取材写真を竜一くんにお願いしたのである。俳優のガエル・ガルシア・ベルナルによく似た男前なのに、浮ついた感じのしないまっすぐな男で、「僕、一ヶ月に20万以上、稼いだことないっすからね」と、笑って話していたことをよく覚えている。石川竜一が木村伊兵衛賞を受賞したのは、そのさらに数年前、2014年のことである。

 

「タタゥが記憶するもの」(文:辻陽介/写真:石川竜一/モデル:吉山森花/『STUDIO VOICE』vol.412所収)

 

 ミツグさんと竜一くんが知り合ったのも、まだ2、3年前のことだそうだ。その後、ミツグさんは竜一くんの写真作品のモデルも務め、実際にその写真作品は沖縄のギャラリーPIN-UPで行われた写真展「Bon Voyage」に展示された。

 沖縄生まれのミツグさんは、青春時代のほとんどの時間をロンドンで過ごしている。20歳の時に「語学留学」という名目で渡英し、当時、セカンドサマーオブラブの熱気に沸いていたロンドンのクラブシーンに「楽園」を見出したのだ。アーティストで骨董商をしていた男性と恋に落ち同性婚、その後、およそ20年近くをロンドンで暮らしたが、結婚生活が破綻したことと、体調を崩していた両親からの介護の求めもあり、12年前に沖縄へと戻って来た。

 僕とミツグさんが辺野古基地の話をしていたのは那覇市内にあるブラジル料理屋プンガポンガの店前の喫煙所だった。その夜、プンガポンガでは来日したキュジー・パッドレスを囲む交流会が開催されていた。夕方の6時ごろに那覇空港に到着した僕は、その足でまず安里駅から歩いて20分ほどのミツグさんの家に向かうと、遠慮するミツグさんを強引に誘い出してプンガポンガを訪れたのだった。

 

那覇市内にあるブラジル料理店「プンガポンガ」

 

 僕たちがプンガポンガに着いた頃には、すでに店内は多くの人で賑わっていて、ちょうど店先の喫煙所でタバコを吸っていた川崎美穂さんが僕たちの存在に気づき、声を掛けてくれた。川崎さんは雑誌『TATTOO BURST』の元編集長で、現在はwebサイト「Tattoo Friendly」を運営している。おそらくは現在の日本でもっともタトゥーに詳しい編集者であり、僕にとっては版元時代の大先輩でもある。

「おぉ、ようやく来た。早く入って。もうみんな自己紹介は終わっちゃってるから、とりあえずみんなに自己紹介して」

 全身に縄文タトゥーを入れ始めてからというもの、自己紹介で上裸になることには慣れていた。多分、ここでもそれを期待されるだろうと思っていたら、案の定、脱がされることになった。

 こんばんわ、はじめまして、こういうものです。

 その「こういうもの」を背中のタトゥーが証明してくれる。それによって一体何が証明されているのかはよく分からないが、こういう場ではそれで十分、話が通じるのだ。名刺も文字もまだ存在しなかった頃のプリミティブな挨拶。いきなり視線を浴びたせいか脇腹のケロイドが疼いた。

 店内には知っている顔もちらほら。入口のすぐ近くに、今回の展示を企画した人類学者の山本芳美さんがいた。奥の席には身体改造ジャーナリストのケロッピー前田さんやネイリストでアーティストの宮川ひかるさんの姿も見えた。しかし、まずはこの席の主賓であるキュジーに挨拶したかった。僕の体を彫ってくれている大島托さんの友人でもあるため、キュジーの話は以前から色々と耳にしていたし、雑誌『STUDIO VOICE』の最新号で僕が編集を担当した大島さんによる台南紀行のページでは、パイワン族の伝統的な手法で刺青を彫っているキュジーの姿を撮影した写真も貸してもらっていた。

 

キュジー・パッドレス(中央)

 

「タクの作品を生で観れたのは初めてだ。素晴らしいね」

 僕のブラックアームに触れながら、キュジーは豪快な笑顔を見せる。明るい人だ。衣服から露出した腕と額には百歩蛇と呼ばれる蛇をモチーフとするパイワン族のタトゥーが刻まれている。その黒の濃さから、額のタトゥーの方はまだ入れてからそれほど期間が経っていないものであることが分かった。

 キュジーは英語も日本語も喋れないため、隣には中国語通訳のリンさんがいた。あと、今回アシスタントとして同行したというタイヤル族の若い女性もいた。キュジーという名前の発音は正確には「チュジィ」というらしい。「僕は辻(ツジ)だから、ほとんど同じですね」と伝えると、「じゃあ兄弟だね」と言って再び豪快に笑う。キュジーの取材は翌朝にあらためて行うことになっていたから、ここではとりあえず馬鹿話でもいいだろう。キュジーに合わせて僕もオリオンビールを注文する。ミツグさんは烏龍茶を注文していた。

 飲み物が集まり、「ガンベイ」を済ましたところで、タイヤル族の女性から日本のサブカルチャーについて質問された。彼女は台湾のアングラ系のイベントで緊縛の体験をしたことがあるらしく、日本では緊縛がサブカルチャーの中でどういう文脈に位置付けられているのかを知りたがっていた。難しい質問だ。

「日本において緊縛はSMの文脈から切り離すことができない。80年代以降、SMはサブカルチャーとしても親しまれてはきているけど、あくまでもSM的な意味における『責め』のバリエーションの一つではあって、セクシュアルなニュアンスを抜きに語ることは難しいんだ。ただ、最近はそれもちょっと変わってきている。アイドルや俳優が縛られたりもしてるからね」

 そんな感じで返事をしたような気がする。村上龍や秋田昌美に触れつつ説明してもよかったが、通訳のリンさんの負担を考えると気が引けた。彼女は理解したというように頷くと、「私はサスペンションの体験もしたんだけど、サスペンションのフックはどこか私の肉体と無関係な感じがした。でも、緊縛の縄にはなにか自分との関係性のようなものを感じれたの」と、その時の感想を語っていた。

 

米軍基地はフィリピン人が造った

 その晩の宴には様々な人が来ていたが、僕は基本的に人見知りで、こういう場ではあまり積極的に他人に話しかけていく方ではない。編集者としては致命的な欠陥だろう。キュジーの席を離れ、とりあえず十年来の知己であるケロッピーさんの席へと逃げ込んだ。常に何らかの仕事を一緒にさせてもらってはいるが、ここ最近は対面してゆっくり話すタイミングをなかなか得られずにいた。

 しばし互いの近況や最近の関心について語り合っていると、アイヌ民族の写真をライフワークとして撮影し続けているというカメラマンの方も話に参戦してきた。話題はヨーロッパで発見された現生人類の化石の話に始まり、世界最古のミイラ・アイスマンの話を経て、やがてタトゥーの起源についてへ。スカリフィケーションがいつタトゥーに変わったのか。フランクフルトの展示で見たアフリカのスカリフィケーションの話、アイヌの刺青の手法であるインクラビングの話、アイヌ民謡が世界で最も孤絶したポリフォニー歌唱であるという話──。

 宴も11時を過ぎた頃になると、だいぶ人がまばらになっていた。そろそろお開きの時間だろうか。大方、精算も完了し、お店のスタッフが片付けを始めたあたりで、居残り組によるちょっと深い話が始まるというのは、こういう場の常である。中央のテーブルで、誰かが日本統治時代の台湾の話をしている。日本軍として戦争に参加した台湾人の名が最近になってようやく慰霊碑に加えられたらしい。

 米国統治時代の沖縄についての話になったところで、プンガポンガのオーナーで、かつてJAGATARAにも参加していたパーカッショニストである翁長巳酉さんが、占領当時、内地に行く際に必要だったという登録証をみんなに見せてくれた。翁長さんの少女時代はまだレッドパージが盛んで、反政府活動などに参加していると、この登録証をもらうことができなかったという。つい半世紀前の話である。

 居残り組の中に石原イカリさんという男性がいた。かつて沖縄でピアッシングスタジオを経営していたというイカリさんは、現在、国際交流事業や人材育成事業を手掛けていて、その右腕は手首の際までびっしりと見事な和彫りで彩られている

「戦後の沖縄で最初にタトゥーショップをやっていたのは誰だと思います? フィリピン人なんですよ。米軍基地を作るとき、戦後の沖縄は戦争で男が減ってましたから、働き手が足りなかった。だから、米国は同じ米国統治下にあったフィリピンから大量に労働者を雇い入れたんです。つまり、米軍基地を作ったのはフィリピン人なんです。ただ、基地ができてしまえばお役御免なわけで、職にあぶれたフィリピン人たちは米軍相手に商売するしかなかった。その商売の一つがタトゥーショップだったというわけです」

 知らない歴史が多い、と思った。そして、つくづく沖縄はアジアなのだとも思った。もちろん、地理的には日本全体もアジアとして括られているわけだが、歴史を振り返った時、20世紀のとば口で簒奪者側にまわった島国「日本」は少し状況が異なる。アジアとは地理的区政である以前に、西洋列強によって、簒奪され、占領され、翻弄された、ある地域の呼称でもあるのだ。その主体性を根こそぎ奪われたというリアリティの有無がアジアを決定づける。琉球王府時代より、中国からは朝貢を義務付けられ、一方で薩摩からはプレッシャーを感じ、明治に入ると日本に統合され、同化政策の末に戦争に駆り出され、戦後には米国に統治され、やがて日本に返還され、今尚、その残響に揺れている沖縄は、その意味において、けだしアジアなのである。

 ミツグさんに誘われる形で、那覇のアート関係者が多く集まるというバーへ向かうことになった。川崎さんとイカリさん、あと那覇のデザイン会社でデザイナーをしているという比嘉さんという女性も一緒だった。15分ほどの道を歩きながら、イカリさんとフィリピンの話をした。ちょうど二ヶ月前の8月、僕はフィリピンに向かい、マニラのアートシーンを取材してきたばかりだったのだ。その取材旅において、マニラのキュレーターであるテッサ・マリア・グソンが語っていた「Whether weather lang(いずれにせよ天気次第)」という慣用句が印象的だったという話をした。マニラでは天気も政治状況も日本の秋空のように移ろいやすい。その中でアーティストたちがしたたかに戦略を持って表現をしていたということ、あるいは体制迎合的に見えたとしても、与えられた状況の中で「死なずに生きる」ということを大事にしていたということ──。

「そう、フィリピン人は沖縄人とよく似てる。スペインに統治され、日本に統治され、その後、米国に統治されてきた国ですから。そんな受難の歴史を歩んできたにもかかわらず、フィリピン人って明るいでしょう? 沖縄人も同じ。“ナンクルナイサ~”の精神がある」

 戦後、米国の核の傘の下、その核の傘を意識させられることなく、やがてガラパゴスと称される世界の離れ小島に生きてきた内地に対し、沖縄には米軍という「他者」が、常に、否応なく、身近に存在していた。それは苦しみでもあったに違いないが、あるいは、今日においてはある種のアドバンテージになりえるのかもしれない。思ったままにそう伝えると、イカリさんはにんまりと笑顔を浮かべた。その笑顔は、どこか挑発的でもあった。

「そうなんです。僕らは若い頃から米軍と生きてきた。よく昔は若い米兵さんたちと議論したものです。彼らもまた国に派遣されてイヤイヤ来てるわけだから。僕なんかがアメリカや内地を批判すると、『だったらお前らも独自の軍を持て、そして戦うべきだ』なんて返されてね。そりゃそうだ、と思ったものです」

 週末の深夜ということもあり、バーには若い人たちが多く集まっていた。みな床に車座で座って、酒を煽っている。どうやら、彼らはギャラリストとアーティストの集団のようで、ちょうど展示中止騒動に揺れていたあいちトリエンナーレをめぐって激論を交わしているようだった。その中の一人が僕らと同席していたデザイナーの比嘉さんに声をかけてきた。どうやら比嘉さんの美大時代の後輩らしい。那覇市生まれの比嘉さんは現在30代前半で、僕とほぼ同世代である。

「沖縄でも同世代の人たちはそもそもハジチのことを知らない人が多いんです」

 若い世代にとってのハジチの印象を尋ねると、比嘉さんは残念そうにそう語った。「だったら比嘉さんが入れればもっと広まるかも」と返すと、「そうなんですよねぇ、入れたいんですけどねぇ」と苦笑する。比嘉さんくらいの世代にとって、ハジチを入れる上で一番のネックとなるのは親の存在なのだという。

 かつて「本土並み」が掛け声の時代が沖縄にはあった。うちなーぐちを学校で使用すると怒られるようなこともあったらしい。そうした価値観を内面化した世代にとって、ハジチは「未開」のシンボル、あるいは忘れられた負の遺産に過ぎないのかもしれない。そして、そう感じてしまったとして、そのことを責めることもまた難しいだろう。沖縄には現代的なモダンタトゥーを入れている若者こそ本土より多いものの、その中でハジチを入れているという人はいまだ数える程度だ。

「私たちの子供くらいの世代になったらまた変わるのかもしれないですね」

 比嘉さんは綺麗な標準語でそう語っていた。ミツグさんはアイスコーヒーを飲みながら静かに話を聞いている。イカリさんと川崎さんは、人権と自治の矛盾をめぐって、なにやら難しい話をしていた。

 

血に赤く染まった壁

 もう少し残るというミツグさんとイカリさんを残して、僕と川崎さんと比嘉さんの三人で沖縄そばを食べに行くことになった。思えば朝からなにも食べておらず、またプンガポンガでは人との話に夢中になっていて、食事に手をつけていなかった。すでに時刻は深夜の2時を過ぎていた。比嘉さんの勧めで、安里駅前のりうぼう駐車場にある、屋台のそば屋にタクシーで向かうことになった。

 二人は沖縄そばを、僕はソーキそばを注文する。夜風に吹かれながら、島とうがらしをたっぷりとまぶしたスープを啜れば、ようやく沖縄に来たのだという実感が湧く。川崎さんは明朝7時のバスで県北の海洋文化館の展示を見に行くという。僕は朝9時にキュジーとキュジーの宿泊しているホテル前で落ち合う予定だった。

 そばを食べ終え、二人と別れると、ミツグさんの家まで歩いた。途中、路上で死んだように倒れている男性を何人か見かけた。酔いつぶれているらしい。衣服から吐瀉物の酸味がかった匂いがする。こういう時、地元の人は声をかけるものなのだろうか。作法がわからず戸惑いを感じながらも、一応「おじさん大丈夫?」と声をかけてみた。はっきりとは聞き取れなかったが、ムニャムニャと何か返事はしている。気持ち良さそうだから、放置しておいても大丈夫だろう。

 ミツグさんの家がある暗い路地に入ると、闇の中から不意に声をかけられギョッとした。ミツグさんだった。そうだ、僕が鍵を預かっていたのだ。

「ヨースケさんいないし、鍵が掛かってるからビックリしましたよ~」

 沖縄の人はファーストネームで互いを呼び合うことが多いのだろうか。普段、「辻さん」という呼称に慣れているため、微妙に照れ臭い。

「すいません、歩いて帰ってきたら思いの外、時間がかかっちゃって」

 一人暮らしにしては広めのミツグさんの家は、元々は両親が暮らしていた部屋のようで、2年前にミツグさんの母が他界してからは、ここで一人で暮らしているという。内側からは繋がっていない二階にはかつてミツグさんのお兄さんが暮らしていたようだが、現在は出ていってしまい、空いたままなのだそうだ。

 

ミツグさんの部屋

 

壁にはミツグさんが描いた絵が飾られている

 

「ここももうすぐ取り壊されるんです。なんかマンション建てるとかで。だから早めにアパートを探さないと」

 部屋の隅には本や雑誌が無造作に積まれていた。その一番上に石川竜一の『adrenamix』がある。ロンドンから沖縄に帰ってきて、ミツグさんは介護疲れもあいまってひどい鬱病とアルコール依存に苦しんでいた時期があったという。顔の半分を埋め尽くすタトゥーは、その苦しみを紛らわそうとして入れたものでもあったそうだ。そんな中、偶然に見かけた石川竜一の写真にミツグさんは衝撃を受けた。

 

部屋の隅、本の山

 

「こんなカッコいい写真を撮る人が沖縄にいるなんて知らなかったから驚きましたよ。ずっとロンドンに戻りたいって思ってたけど、沖縄も捨てたもんじゃないなって思えてきて、生きる希望が湧いたんです。竜一の写真と出会わなかったら本当に僕は死んでたかもしれない。アートは人の命も救うんですよ」

 ミツグさんはそう言って、僕に台所脇の赤く染まった壁を見せてくれた。その赤はミツグさんの血だという。自暴自棄になって、頭をカミソリで切りつけ、溢れだした血を無造作に壁に塗りたくったのだ。「完全に狂ってた」とミツグさんは言う。沖縄に戻ってきて、地元のゲイバーなどにも行ってはみたものの話の合う人はなかなかいなかった。孤独。それはミツグさんが沖縄を出た理由でもあった。

「12歳の時にゲイだって自覚したんですよ。当時はまだゲイなんて『病気』くらいに思われてた時代でした。服装とかも、僕はキラキラしたものが好きで、小学校にも周りと違う格好で通ってたからいじめられましたね。まだ「いじめ」という概念もない時代でしたけど」

 中学生になるとYMOにハマった。近所の理容室でテクノカットにしてもらい、学校から帰ってくるなり制服を脱ぎ捨てるとヨウジヤマモト風の黒いスカートに履き替えて、自室で好きな音楽を聞き漁っていたという。すでに当時から、ミツグさんの居場所は沖縄にはなかったのだ。

 ミツグさんと話をしていたら、もう朝の6時になろうとしていた。カーテンの隙間から白い朝日が差し込んでいる。沖縄出発の前の晩、僕はある対談原稿の構成に追われていたため、睡眠を取ることができていなかった。格安フライトの機内は狭く、飛行機でも眠ることができなかったので、都合40時間以上は起きていることになる。不思議とあまり眠くはなかったが、3時間後にはキュジーの取材を控えていた。少し寝なければいけない。

 2時間後にスマホのアラームをセットし、ミツグさんが準備してくれていた布団に横になった。ふと目に入った壁の木目が人の顔に見える。うとうとする意識の中で“それ”と“これ”とのつながりを考えていた。その関係図の中で僕は一体どこに立っているのだろうか。そもそも僕はこの沖縄の島々とどう繋がっていて、どう繋がっていないのだろうか。脇腹のケロイドがやけに疼く。沖縄1日目の夜が終わった。(続)

 

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辻陽介 つじ・ようすけ/1983年、東京生まれ。編集者。大学在学中よりコアマガジンに勤務し、『ニャン2倶楽部Z』などのアダルト投稿誌やコア新書シリーズの編集に携わる。2011年に性と文化の総合研究ウェブマガジン『VOBO』を開設。2017年からはフリーの編集者、ライターとして活動。現在、HAGAZINEの編集人を務める。

 

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