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石丸元章 『危ない平成史』 #05「反・資本主義・リアリズム」── 左翼とリベラルとサブカルチャーの不愉快な三角関係・後編|GUEST|花咲政之輔 from 太陽肛門スパパーン

GONZO作家・石丸元章が異形の客人と共に平成の「危ない」歴史を語り合う。今回のテーマは平成の“イデオロギーとカルチャー”。ゲストは今年結成30年を迎えたバンド「太陽肛門スパパーン」のバンマスにして、ノンセクト左翼活動家である花咲政之輔。前後編の後編。

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マクロンかルペンか、困難な二者択一

石丸 カルチャーの世界ではいわゆる正統派本格左翼の流れはかなり後退してしまったという話でしたが、一方で、左翼活動家は平成になって以降も存在していましたよね。

花咲 まあ、中核派も革マルも、日本共産党の地方でがんばっている人々もまだ沢山いますからね。若い子もいますし。それこそ洞口朋子さんなんかは杉並区議選に当選しましたよね。

石丸 すごいよな、今も前進社(※)の中で生活している若い子たちがいるんだもんなぁ。

※前進社…東京都江戸川区にある中核派の出版社、活動拠点。

花咲 他が潰れちゃってるぶん、中核派とかに若い子が流れてくる。ただ、そこでカルチャー的な何かが起こるかというと、はっきり言って弱い。むしろ革マル派の方が本質的にはカルチャー界に影響力があるんじゃないかな。松岡正剛や、宝島社の社長の蓮見清一も元々は革マルですからね。あるいはニューエイジの世界のカリスマである辻信一なんかもバリバリだったし。

それは畢竟よくない影響力なわけなんだけど。梯-黒田的なオカルティックなところがニューエイジイッピーに支持されているだけであって。それって結局は資本主義に親和的なものでしかないでしょ。

石丸 でも革マル派の影響の元に、左翼的なミュージシャンの系譜がきちんとあるのかと言えば、そうでもないですよね。

花咲 そうなんですよ。最初にも話した通り、フォークこそ左翼的な強いメッセージを放っていたけど、それ以降は弱い。パンクも前衛的なことしている人たちはいたけど、ちょっとチャラい感じはありましたしね。ロックではっきりと左翼っぽさがあったのは頭脳警察くらいだし。まあ、パンタも実際のところどこまで左翼的かと言えばよく分からないところはあるんですが。

石丸 いずれにしても昭和ですしね。平成以降だと……ECDさんなんかはどうですか。基本的にヒップホップは右寄りな印象がありますけど、ECDさんなんかは左派的なイメージがあります、というか、モロ。

花咲 ECDはヒップホップにおける最左派じゃないんでしょうか。彼のことは色々な意味で尊敬しています。

 

『MUSIC MAGAZINE』(2018年4月号)

 

石丸 ECDさんらが参加していた2003~4年頃のサウンドデモなんかについてはどういう印象でしょう?

花咲 あのサウンドデモに関しては、はっきり言うと印象は悪いですよ。あの前段階にはレイブの流行がまずあるんですが、レイブというのは80年代末のセカンドサマーオブラブを源流としていて、そこから日本にも流れてきた、ということのようで。当時は左翼的な音楽の場ではあって、日本でも代々木公園をはじめ、いろんなところでレイブが開催されていたようです。

僕はレイブの現場にはいなかったんですが、ヨーロッパの左翼的な流れに影響を受けていたのか、日本でレイブをやっていた人たちが、イラン人の追い出し反対とか、当時の左派的メッセージを牽引してたところはたしかにあった。それは今までの流れとは違う形だったこともあり、僕なんかはその本当の可能性について吟味することなく通り過ぎてしまったんですが、ただ、本家のセカンドサマーオブラブはどうだったか分からないけど、やっぱり日本のレイブカルチャーには悪い意味での個の自由マンセーみたいな雰囲気を感じてたのも事実です。実際、レイブってディスコと違って踊りが自由というのがあり、ある種、「僕はウーロンハイ」的な人と親和性が高いところがあったのかもしれません。

エビアンホルダーを腰につけて、泥酔することもなく、悪い意味で「人に迷惑かけずお互いを尊重していこうよ」的な糞みたいなノリのやつも多かったですしね。そういう奴らには徹頭徹尾嫌がらせをして迷惑をかけまくることこそがアクチュアルな行為ですよね。

 

 

石丸 自分は、当時ドラッグにのめり込んでいたんですがレイブには、カルチャーとしての違和感があって距離を取ってしまうんですね。お前ら何を言っているんだ、と。MDMAはもちろんいいが、「とりあえず覚醒剤!」だろう、と。

花咲 それはよくわかりませんが(笑)。話を戻せば、2003~4年のイラク反戦のためのサウンドデモもその流れを汲むもので、運営していたのも業界人、だからか妙にスタイリッシュだったんです。イラク反戦は特に世界的なムーブメントだったから、なんかそういう意識が高い人たちの受け皿になってて、それはそれでいいとしても、結局、動員が最優先というか、今のしばき隊に繋がるようなよくない流れがそこにはすでにあったように思います。

最終的にサウンドデモが二つに分裂してしまったのは、端的にいうと政治派と芸術派の分裂だったんじゃないかな。利用主義的に加入してやろうというバリバリの左翼が、レイブレベゼンのデザイン事務所勤務みたいなスタイリッシュな奴らと一緒にやってくのは難しいんですよね。初期はうまくコラボしてたんだけど、やっぱりやっていくうちに、ね。僕もその内部にいたわけじゃないけど、何人か渦中にいた知人からは左翼を邪魔者と見るような雰囲気もあったというのは聞いています。

石丸 へえ。

花咲 これは結構いろんなところで起こってて、たとえばSEALDsの国会前デモの時も、しばき隊が中核派や革マルを見つけては追い出していたわけですよ。

石丸 ふーむ、理由はなんでなんですか。

花咲 ようするに、お前らがいると左翼臭が出るから、普通の人たちが集まってこれなくなるだろう、と。そもそも、左翼臭がしてなぜいけないのかって話だし、左翼的になると集まってこれない普通の人たちって一体誰なんだ、という話なんですが。

石丸 広い意味での内ゲバですね。自分は、基本的にデモとかには参加しないパーソナリティですが、原発再稼働反対のデモにはいろいろ行きました。原発問題は政治の問題じゃなく文明の問題ですから。

花咲 まあ、僕も行きましたよ。実は311以降、一番最初に原発反対デモを主催したのは素人の乱なんです。あれだけのことが起こったのに一ヶ月近くデモとかが起こる気配がなかった。そこで、彼らが主催して行ってみたら1万5千人集まったんです。本人たちもびっくりしてましたよ。

石丸 へえ。

花咲 さっきああ言っておいてなんですが、反原発で難しいところは、右翼も原発に反対している人が多いっていうことなんですよね。一水会系の人たちとかね。やっぱりそこで肩を組むのってなかなか難しいんです。一緒にデモをやるのはいいけど、日章旗とか振られちゃうと勘弁みたいなのは、あるじゃないですか(笑)

石丸 サブカルの自分は、政治なんてのは、組める部分で組める相手と組んじまえって考え方なんですよね。前の東京都知事選でも、宇都宮陣営と細川陣営が組んでたら勝てたかもしれないのに、結局、組めなかった。惜しかったなあ。まあ、そこもいろいろな考え方があるんでしょうけど。

花咲 どこまで組めるかっていうのはシビアな問題ですよ。たとえばフランスの大統領選って過半数行かないと決戦投票やるじゃないですか。で、この前の大統領選では最終的に残ったのがマクロンとルペンだった。マクロンは分かりやすいネオリベ的な人物でユダヤ財閥とかとつるんでるわけで、僕なんかからしたら彼が大統領になるなんて大反対なんです。でも、反ネオリベで共闘すべき対立候補がルペンかよ、と(笑)。果たしてルペンと組めるのか。

フランス人の友達とかと話していても同じ感覚で、マクロンは嫌なんだけど、ルペンも嫌だ、と。結局、悪さ比べみたいになって、フランスは最終的にマクロンを選んだ。アメリカはある意味ではその逆でトランプになってますよね。まあ、ヒラリーがとにかく最悪すぎるというのが大きい。

石丸 日本でトランプがいまいち理解されてないのは、彼はまず、経済人というよりもテレビスターなんです。レーガンは俳優だったけど、それとは違う。トランプは、大ヒットリアリティ番組の大テレビスターなんです。トランプを否定しているのは、それこそ映画界のスターたちや、セレブたちを中心とするリベラル層であって、トランプを支持しているのはプアな労働者階級。それこそ彼らは週末にテレビを見てるわけです。

花咲 まあ日本も他人事じゃないでしょう。はっぴぃえんど的なリベラリズムが実はネオリベと手を組んでいると感じている人もいるでしょうけど、じゃあ、そうじゃない立場を取ろうとしても、そこにあるのは湘南乃風なんですから。メジャーな意味ではその二択しかない。貧しい話です。

 

バイトテロの批評性

石丸 リベラルの「多様性最高!」「寛容最高!」みたいなノリは、断然いまの支持を受けてるけど、自分も違和感があるんですよね。たとえば移民の問題にしたって、あれ本当は、地方の問題ですよね。移民はもちろん都市にも入ってくるわけだけど、都市にはもともと外国人がいっぱいる。移民に戸惑い、問題としてとらえるのは地方の人々なんですよ。

そう考えた時──自分たちを左派だと認識してるリベラルな人たちがいう「多様性を大切に」とか「寛容が大事」とか、そんな生易しい話ではなくなってくると思うんですよね。生活って、彼らを受け入れる労働環境も含めて、きれい事でも理想事でもないんだから。

花咲 まあ、割とうまくいってるところもあれば、やばくなってるところもある。そこは色々ですよね。たとえば僕は大久保に住んでるんですけど、大久保の場合は年季が入ってるぶん、うまくいってる。町内会にも各国の顔役が入ってるから、決して排外的にはなってない。ただ、大久保の場合はネトウヨがホットクの掃除とか抜かして差別的デモンストレーションをやってるわけで、そういうのはものすごく不愉快なんですが。

石丸 自分ね、ドラッグしくじって仕事が無くなっちゃったとき、歌舞伎町のラブホテルの清掃のバイトをやってたことがあるんですよ。働いてみると職場はほぼ全員が外国人なの。日本人は1割で、お笑いやってる子や音楽やってる人だけ。歌舞伎町のラブホだけあって国籍も豊かで、ベトナム人、フィリピン人、ネパール人、スリランカ人と色々いる。

で、私の指導役についたのはネパール人の若者だったんだけど、年上の俺をまあこっぴどく叱ってくるわけ。「なんでアンタこんなことできないヨ!」「アンタ頭悪いんじゃないの、ホントに!」って。指導役だから当然っちゃ当然なんだけど、「ああ、こういうことが原因でネトウヨになってく人、いるんだろうな」って涙目で感じました。あれはきつかった。

ただ、これって国籍や民族の話じゃ本当はないんですよ。深夜にシーツが詰まったズタ袋を上の階から下の階にめがけてみんなで投げて降ろすという作業があるんだけど、その光景を上階から俯瞰して見てるとね、国籍も性別も関係なく、ネパール人もフィリピン人も日本人も、みんな同じく奴隷に見えるんです。外国人移民がそこに入ることで、日本人もまた奴隷であったといいうことに、多分、近い将来、多くの人が気づく。その時に何が起こるのかと考えると、そんな明るい気分にはなりませんよね。

多様性を認め合って、とかじゃないんだもん。向こうだって日本人のことなんて認めてないんだから。そもそも日本に来たかったわけでもない。ただ使役され、搾取されてる。彼ら、その気持ちだけ抱えてますよ。

花咲 なるほどなぁ。でも、それってある意味ですごくいい話じゃないですか。国籍とか関係なく共に搾取されている労働者という点では同じということを感じたわけですし。

石丸 最低賃金で夜中に働く最下層労働者です。そういう環境で働くと、バイトテロをする連中の気持ちがわかる。たとえば── ラブホテルの拭き掃除ってウエスピローという使い古された枕カバーを使うことが世界的な作法なんだけど、それでコップを拭いてみたり、そんな話も聞いた。それでみんなで笑いあってる。でも、それって最下層労働者のささやかな復讐なんだよ。実際に働いていてそれを感じた。自分は、回転寿司でバイトテロした若者を責める気にはなれないなあ。

花咲 たしかにバイトテロの炎上騒動とかを見てると、バイトテロをしている側に共感しますよね。あれを「よくない」と指弾するヒラリー的な人たちより、はるかにいい。バイトテロって、ある意味では文明批評ですから。

石丸 まさにそう。バイトテロは現代的なバッドテイストだと思うけど、バッドテイストは社会批評であり、文明批評です。そこは強く言いたい。

花咲 だから、僕としては国籍や民族の間の差異の問題よりも、より深刻な断絶は格差の方にある、と言いたいですかね。

石丸 同意ですね。レイシズムなんてものは、そっからの目くらましでしかないと思います。下層労働者という点で、ネパール人とフィリピン人と日本人の自分を分かつものはないんです。市場は差別しないんです。市場においては、自分もネパール人も同じ労働機械でしかない。ただ、所得によってクラスが分け隔てられてるだけ。最近の「包摂しよう」みたいな話も、結局、市場で包摂しようって話でしょ。資本主義は平等なんだから、お金さえあれば誰でも同じレストランに座れて、なんでも買えるんだから。

花咲 そう、平等こそが資本主義なんです。平等はダメだって言ってきたのが左翼ですから。自由と平等の欺瞞なんて、今の石丸さんの話だけでも明らかで、それは資本にとっての自由と平等でしかない。好きに起業できて、好きにビジネスできて、好きに金稼いで、その金で何を買うか、何を選ぶかの自由でしかない。結局、リベラルな人たち、ロハスでマクビオとか食って坂本龍一万歳みたいな人たちはそういう消費生活をしていて、その消費生活を守りたがってるんです。世田谷の反原発運動流れの人たちって、相当に鼻持ちならないわけじゃないですか。

石丸 お金を持ってれば自由がある。臓器だって買える。宇宙へだって行ける。それが資本主義。

花咲 でもリベラルはそういうことをきちんと言えないわけですよ。結局、消費の自由と金儲けの自由を「個の自由」として守ってるだけ。さっきのサウンドデモの話もそうだけど、彼らにとって大事なのは「左翼じゃない」ってことなんです。左翼の本質が資本主義批判であることを考えれば、イラク戦争には反対だけど、資本主義には歯向かいませんってことなんですよね。実際、主催者は公安警察と会議してたりするわけで、僕たちからしたら「え、まじ?」って話なんです。

なんで彼らがそんなに左翼を嫌うのか。たしかに、冷戦体制崩壊以降、旧ソ連、スターリン、北朝鮮、テロ、カルトみたいなイメージが過度に強調されてきた流れがあり、個の自由を抑圧するものとしての左翼というイメージがあった。でも、今それに囚われることにまるでアクチュアリティがない。語弊を恐れずに言えば、「個の自由を守ろう!」よりも「オウム真理教最高!」って言う方が全然アクチュアルなわけです。

石丸 凄いな。

花咲 実際、オウム事件のことを持ち出す人は多いんですよね。オウム事件がトラウマになってて、集団主義的なもの、個の自由を尊重しないもの、そうしたものは全てカルトだ、みたいなバイアスがかかっている。何かに所属したくない、俺は俺だ、誰がなんと言おうとウーロンハイだ、何かに帰属された瞬間に個が殺されてしまうのだ、みたいなね。

でも、そんなバカな話はないわけですよ。そもそも集団の中にしか個は存在しえない。人間、哺乳類、いや生きとし生けるもの全てがそうですから。

石丸 なるほど、古くは学生運動の内ゲバ、最近ではオウムのテロが、人にウーロンハイを頼ませてる、というわけか。

花咲 それこそ団塊ジュニア世代なんかはそう言いますよね。オウム真理教はコンセプトが稚拙なのと、戦略がまるでないのでお話にならないわけですが、そういう意味でいったら創価学会・幸福の科学とか宗教みんなそうですからね。僕は団塊ジュニア的な意味での批判は彼らに対して抱いてはいません。資本主義カルトとオウムとどっちがより悪いか、って問われたら資本主義カルトって即答せざるをえませんから。オウムなんてその仇花に過ぎないわけです。

石丸 自分はね、オウムはサブカルチャーの時代のテロ事件という印象です。60年代、70年代だったら左翼陣営が起こしていたような事件を、宗教が起こした。今日の話でいうと、吉本隆明以降、イデオロギーがあまり意味を持たなくなってくると、政治的に革命的なことをしようって言ってみても、その先のビジョンが生まれないんですよね。だって理想がないんだから。すると、破壊すること自体が目的になったようなテロしか起こせない。だから、ある意味では── オウムはサブカルの落とし子かもしれない。オウム犯では早川紀世秀が全共闘世代ですよね。左翼が弱体化した場合、宗教しかレジスタントを起こせない。まあ、ISだってそうでしょ。

花咲 オウムは「カルト」って言葉でボヤかされてるけど、明白に仏教ですからね。それも正統派仏教なんです。だって、オウムを最初に絶賛したのはダライ・ラマなんだから。

 

 

石丸 事件後、宗教学者を大量に動員して「あれは仏教じゃない」って言いまくることでカルト化した感じですよね。われわれの社会においては、「仏教が無差別殺人テロを起こした」ってことにしてしまうとヤバいわけです。あの事件を無害化するためには、異常なカルトの妄想だったってことにするしかない。まあ、でも来年でオウム事件から四半世紀、もういい加減、そのトラウマに引きずられなくてもいい気がします。なんというか── 死ぬまで集団主義が嫌いで、飲み会でウーロンハイって言い続ける人はいるとは思いますが、ただ、その子供たちはビール飲みますよ。世代ってうまい具合に受け継がれない部分がある。親父のことなんて大体の子が好きじゃないわけで。

花咲 そんなもんですかねぇ。まあ、そうなるとオルグしやすくていいですけどね(笑)

 

奥崎謙三とサブカルチャー

石丸 ところで、テロ繋がりでいうと、花咲さんから見て奥崎謙三ってどうですか。

花咲 『ゆきゆきて、神軍』はいい映画だと思っています。その点、問題なのは根本敬さんらが作った『神様の愛い奴』でしょう。あれこそ、ビールに対するウーロンハイのもっとも悪しきものだと思いますけどね。何でもかんでも権威を引きずり落とせばいいってもんじゃないだろう、と。

正直、僕は怒り心頭でしたよ。奥崎謙三をただアナル責めされて喜ぶおじさんとして描写することに、一体どんなアクチュアリティがあったのか。ナンセンス極まりない。当時ですらひどいもんだったわけで、今の感覚ではもっとありえないですよね。

メタメッセージとしては「右も左もダメ」ってことなんでしょうけど、それこそ陳腐なんです。価値相対主義というものが少し考えてみれば虚妄だということくらい分かるわけです。お前は宙ぶらりんで生きているのか、と。基本的には日本国家の資本主義社会の中で生きているわけで、すでにポジショニングはされている。消費しながら生きている。決して中立じゃない。

 

 

 

石丸 なるほど。

花咲 変な話、誰もがオウムみたいな組織にすでに入ってるんですよ。なぜ、そこの部分を捨象して、自分はどことも関わりがないみたいな顔ができるのか、まったくもって分からない。当時、根本さんの周辺というのは、本当にひどかったと思います。ただ、根本さん自身のハードコアなぶれない姿勢はリスペクトしていますが。

石丸 自分は、原一男監督とも付き合いがあり、そして、根本さんとも付き合いがある。で、『ゆきゆきて、神軍』、あの映画は本当に格好がいい。貴様~!と叫んで戦後の嘘を糾弾しようとする奥崎謙三は、人間の大きな存在意義に迫っているように思う。でもそれは、原一男史観における奥崎謙三であったとも思うんです。

一方、根本さんらの作った『神様は愛い奴』は正直にいうと── 最初に見た20年前は、奥崎謙三を貶めて面白がるなんて、なんなんだ、この悪しきバッドテイストは、最悪の風潮は、と思った。でも今見ると、あの時代の空気を、奥崎を中心に据えることで記録した、類まれなドキュメントになってると思います。

また、こうも思うんです。奥崎謙三という人物について、どちらの作品がより真に迫っているのかは分からない。必ずしも原一男が撮った奥崎謙三が真実で、『神様は愛い奴』がそれを貶めたとは限らないんじゃないか、と。一人の人物に迫ったドキュメンタリーとしては、決して『神様の愛い奴』を不毛とは言い切れない。

それに根本さんという人は、単に変な人を面白がって笑っているタイプの人じゃないですよね。根本さん自身が、大変な生き方をしてて、奥崎に対してどこか同胞感というのを抱いていたようにも思う。少なくとも対象に対しての本気さというのが常にあった。決して高みから悪趣味を気取ってたんじゃないんです。ただ、そのフォロワーは違った。そこは乖離があったように思いますね。

花咲 分かりますよ。たしかに根本さん本人というより、根本フォロワーに最悪な人間が多かった。根本敬その人というより、根本敬という現象がひどかった。とはいえ、だとしても、あの作品は僕的にはなしですけどね。

石丸 まあ、『神様は愛い奴』もオウム事件後に撮られてるんですよね。あの時代、偶像破壊が時代の気分だったのかもしれない。イデオロギーだなんだって言ってみたって、俺たち所詮は全員クズだろう、みたいな。そういう感じが批評性を獲得できた時代だったとも言える。

花咲 まあ……、奥崎謙三本人がどんな変態性を抱えていたとしてもいいわけですよ。ただ、左翼的な観点からすれば、奥崎があそこまで執拗に軍部時代の上官や天皇を追い続け、処罰を与えようとしている、ということにアクチュアリティがあった。そうした奥崎のアクチュアルな主張を、奥崎の個人的な部分を暴くことによって相対化する必要があるのか、ということなんです。

たしかに、そこにはロマン化や美化があったとは思うけど、ドキュメンタリーってそういうものでしょう。原一男の意図は作品からちゃんと伝わりました。でも、『神様は愛い奴』がやったのはおっしゃる通り単に破壊なんですよ。手法としてはパロディ。『ゆきゆきて、神軍』がなければ、あっちも作られていないわけですから。僕はパロディという手法自体は嫌いじゃない。脱権威化の手法として認めてます。でも、なぜその対象が奥崎謙三なのか、という。悪ふざけを装っていても、その選択には政治性がある。

石丸 根本さんにしてみれば「いい顔」のオヤジの系譜だったのかもしれない。あるいは、やっぱりオウム的なものに対するカウンターで、神格化されているカリスマテロリストとして、麻原と奥崎に重なるところがあったのかもしれない。ただ、今になってみれば、『神様の愛い奴』が、サブカルチャーの最悪な流れの中に位置付けられてしまうのは、もったいない。

自分、何年か前に『覚醒剤と妄想』という本を書いたんですが、その本に、現代とは他人のリアリティや妄想を全て自意識の問題に還元して嗤う時代である、と批判的に書きました。いまって政治思想も、高邁な理想も、個人的な動機付けや私的な領域に矮小化されて、ただちにそのカウンター性が剥奪されてしまうでしょ。「中二病」って言葉がその典型ですよね。だから自分は「他人の妄想を嗤うな」ということを、その本で言いたかった。

実際、それは自分自身に対する批評でもあって、私が90年代に関わった悪趣味系カルチャーって、そもそもはある種の社会批評であったはずなんだけど、それが全方位的に展開していくことで、あらゆる全てから仮面を剥ぎ取るみたいなことになっちゃった。でも、仮面を剥ぎ取っていった先には……な〜んにも残らないんですよ。

 

『覚醒剤と妄想』

 

花咲 そうそう、その仮面は剥がさなくていいでしょっていう。奥崎の仮面を剥がしてどうしたいのよ、と。

石丸 それはサブカルチャーの宿痾ですよ。さっき、原発再稼働反対デモに行った話しましたけど、デモに行くだけのことなのに、自分には本当に覚悟が必要だったんですね。これは政治行動なんじゃないのか、みたいな自問自答があって。いや、これは文明批評なんだってエクスキューズを自分の中でこしらえて、ようやく参加できた。それくらい政治的であってはいけないというオブセッションがある。イデオロギーを纏うことへの拒絶反応。奥崎をイデオロギーから引き剝がしたいという願望は、サブカルとしての本能的な感覚だったと思いますね。

だって、イデオロギーを纏うことでキャッチできなくなるもの、面白がれなくなるものがある。だからまあ、とことん自分はスタンスがサブカルチャーなんです。ただ、そこには矜持もあって、イデオロギーじゃ掬いきれないもの、そこから漏れ出てしまったものに手を伸ばせるのはサブカルしかないだろう、みたいな気持ちも一方にある。だからと言って政治的に中立かって言ったら、そんなわけはないんですけどね。

 

極右と極左の連立政権

石丸 ここまでお話してて感じたんですけど、花咲さんは割とロマン主義的ですよね。自分はロマン主義は右派的なものだとばかり思ってましたけど。

花咲 そこは難しいんですよ。日本浪漫派の問題なんかもありますし。ただ、ヘーゲル的な契機、疎外論的なロマン主義を否定したところで果たして人間がアクチュアルな運動を展開できるのか、というところを考えなければいけないと思います。構造主義的には人間は動かない。

ポスト構造主義の時代に、マルクスについても初期マルクス批判みたいなものが流行ったんです。ドイツイデオロギー以降のマルクスはいいけど、初期マルクスは疎外論だからダメだ、と。ようするに疎外論はロマン主義だからダメだ、というわけです。しかし、人間が動くためにはやっぱり物語が必要だと僕は思っています。大きな物語が。

石丸 すると花咲さんの中でアクチュアルな意味で左翼であることと、アクチュアルな意味で右翼であることの違いってなんなんでしょう? とりあえずビール派でロマン主義OK、個よりも集団、という今日の話を振り返ってみると、もはや右翼なのか左翼なのか区別がつかなくなってくる気がします。むしろ、ネオリベ VS 右翼と左翼、みたいにも見えたり。

花咲 昔から先鋭化していくと近似するところはあるんですよ。2.26事件とかもそうでしたよね。本当の違いが出てくるのはもっと先の話であって、現状では連立政権を組むみたいな話はありえると思いますよ。反資本主義的な右翼とは結構なレベルまで共闘できる。

じゃあ、その先でやがて露わになる差異はなんなのかと言えば、國體をめぐる部分だと思います。右翼的な論法では資本主義を乗り越えた先にある社会というものが国家社会主義的なものになる。これはある種のファシズムであって、左翼としてはノレません。あと、すごい低レベルな話としては「天皇」でしょうね。「天皇万歳」派の右翼と、「天皇いらない」派の左翼というように。

石丸 なるほどなぁ、右翼はナショナルなレイヤーに力点を置いてる点で左翼とは違うってことですね。

花咲 そうですね、ナショナルなのか、インターナショナルなのか、の差異でしょう。

石丸 ローカリズムはどうなんです。地方ベースの発想というか。

花咲 まあ、どんなイデオロギーであれ、人はローカルにしか生きられないんで、そこは右も左も関係ないですよね。問題は右翼の場合、そこで変な高次概念を持ち出してくるわけです。天皇とか、国家とか。天皇については大体熊襲の件とか南朝北朝の件もあるし、あるいは伊勢系と出雲系とかいうのもあるし、まぁ茶室くらいな感じで存続するならありかもだけど、あんなに税金を投入して養う意味はどこにもないと思いますね。

石丸 ふむ。正統派左翼×正統派右翼の連立政権が成立したら、ものすごく面白いですね。投票しちゃうかも。ただ、一方で現在の場合、違う話もありますよね。いわゆる2045年シンギュラリティ論。進化したAIが人間を統治するようになるって話。多分にSF的ではありますけど、AIにはナショナルなんて価値観はないわけで、もしかしたらそういうトランセンデンスもありえるかも。

花咲 でも、あと25年でそんなことになりますかねぇ。

石丸 まあ、わからない。でもいずれは多分なる。インターネットが出てきた当時、まさか世の中がこんなことになるなんて誰も思ってなかったわけですよね。それこそ出版業界、雑誌メディアはこぞって「ネットが世界を変える」みたいな本を出したり特集を組んでたけど、まさか自分たちが真っ先に淘汰されるとは思ってなかった(笑)。そういう意味でも未来は未知数ですから。

もう一つ── AIと並んで私が期待しているのは、北朝鮮なんです。北朝鮮は、世界がグローバル化で一色に塗りつぶされていってる中で、いまだに「ファック世界秩序!」って喚いているわけですよ。こんな世界、俺は気に食わねえんだ! って金正恩は中指立ててる。これって最高にパンクなんですよね。

花咲 たしかにある種の苛立ちを抱えた若者や、それこそパンクスなんかが北朝鮮に共鳴してもいいはずですよね。まあ、その時の彼らはヨーロッパのネオナチみたいなものなのかもしれないけど、まったく出てこないというのおかしい。

石丸 金正恩の髪型って、あれは朝鮮モヒカンヘアなんですよ。北朝鮮の現状は、金正日の時代より経済事情はずーっと良くなってるとも聞きます。アメリカとも対話ができている。

花咲 そうそう、諸説あるとはいえ、結構、向上してきてるらしいですね。

石丸 もちろん北朝鮮国内の格差はひどいだろうけれども、でも、日本やアメリカだって同じ感じにひどい格差になってきてるわけですよ。ちなみに主体思想ってやたらと批判されてるけど、「自分のことは自分で決める」というシンプルな思想です。政治のことは自分たちで決める。経済のことは自分たちで決める。軍事のことは自分たちで決める。ミサイルだって作るし核兵器も自分たちが作りたいから作る! 独裁で世襲でいい! と。

ただ、基本的には、自分たちのことを自分たちで決めるのは、当たり前のことですよね。主体思想が悪目立ちしてるのは、日本もヨーロッパも、自分たちのこと自分たちで決められなくなってるからであって。まあ、日本には極端な話、主権がないわけですよ。その点、北朝鮮はまさにモヒカン決めてミサイルぶっぱなしながら、反グローバリゼーションを唱導してる主権国家。かっこいいじゃない。これがサブカル史観としての北朝鮮です。

花咲 まあ……、なんにせよもうちょっと冷静な意見は欲しいとこですよね。みんな思考停止してるから。当然のように北朝鮮を悪し様に言ってるけど、じゃあ資本主義に覆い尽くされたこちら側がそんなにいいのか。そういうことを冷静に見ていく必要はある。実は資本主義しか道がない、と思い込まされているだけなんじゃないか、とね。

 

総括|とりあえずビールで

石丸 いろいろと話してきましたが、平成という時代は左翼的には不遇というか、そもそもイデオロギーが力を持てなくなった時代だったわけですよね。それはサブカルチャーの問題でも一方ではある。カルチャー的には左派と呼ばれる人たちが存在はしていたけど、それは「僕はウーロンハイ」的な、非常に矮小化された個人の自由を謳ってきただけだった、と。

そして、今、令和ですよ。これからそうした状況がどう変わっていくのか……て、そもそものところ、正統派本格左翼の話を伺おうというのに、時代を元号で区切るのもどうなのってところはあるんですけど。

花咲 それはずーっと思ってましたよ(笑)。対談のテーマを聞いた時にも受けるかどうか悩んだんです。平成っていうエンペラーカレンダーを軸に話すのってどうなんだ、と。

石丸 自分は極端な話、元号でも西暦でもどちらでもいい。ただ一つ思うのは、西暦ってグローバルなわけですよ。一方に極東の島国が昭和なり平成なり、ローカルな時間感覚をいまだに持ってるというのは、それはそれで面白いなと思うんですよね。平成30年、昭和60年なんて、よその国からしたら何の必然性もない、幻の時間軸であって、その時間区分で何かを語るってこと自体がありえない。でも、われわれは当たり前のように昭和っていう時代感覚とかがあるじゃないですか。「これって昭和的」みたいな言い方を、大した合意のないままにしていて、でもちゃんと通じちゃう。身体に刻まれてるんです。こういうのは、左翼的にはやっぱりダメなのかしら。

花咲 まあ、ローカルな時間はあった方がいいと思うんだけど、それが天皇という個人に紐づいているというのはどうなのっていうのがあるんですよ。それにローカルっていうけど、ローカルの中では割と括りがでかい。歴史的な問題も大きい。実際、さっきも言ったように、日本神道においては出雲系、伊勢系の対立にこだわる人だっているわけです。だから、もっと細分化できるだろうし、いまだ全体主義の名残を伝統だとか嘯いて、廃止することもできてないってのはダメダメだなって思いますよ。

石丸 それは分かります。天皇家を、現代の国家制度の中心に法的に置く必要なんてないわけですよ。天皇家は天皇家としてあったらいいし、尊いし、それは出雲大社の宮司家と変わらない。神社は氏子たちに支えられてる。天皇家も氏子に支えてもらえればいいわけ。あるいはそれが何千万人かいるかもしれない。自分もその一人です。

花咲 そうそう、氏子として支えたい人たちを止めようなんてしてないわけです、左翼は。あくまでも制度の問題であってね。じゃがたらが『でも・デモ・DEMO』という曲で「日本人って暗いね」と歌ってましたけど、本当にそういうとこ暗いなあって思いますよ。

 

 

石丸 「日本人って暗いね」で思い出したんですが「日本死ね」って言葉も流行りましたよね。

花咲 流行りましたね。でも、あれって結局「日本生きろ」「日本なんとかしてくれ」って話でしょう? 国家をひっくり返したいとか、そういう感じじゃない。単に少し甘えている感じ。もっと単刀直入に「日帝打倒」とか言ってくれればノレたんですけどね(笑)。「死ね」っていう情緒的なタームにしちゃってるところが平成っぽい。

石丸 日帝打倒! おおお、もう響きからして太くて強い言葉です。「とりあえずビール」ですよ。本格派左翼の感覚ですね。

花咲 紋切り型って実は大事なんですよ。ちょっと変わったこと言いたいみたいなSNSやネットのノリって総じて「僕はウーロンハイ」になってしまうんです。みんなでビール飲むべきところでウーロンハイやレモンサワーを飲んでみても、それは多様性なんてものじゃなくて、市場に翻弄される寄る辺なき個人でしかないわけですから。それは結局、ネオリベ万歳に繋がっていく。一方で、湘南乃風を車で聴いてる「とりあえずビール」の連中がいるわけで、僕としてはその層をしっかりとオルグしていきたいんですよね。

石丸 「とりあえずビール」が最高だなんて言ってたら、若い子たちに「オヤジ死ね」って言われそうだけど(笑)

花咲 とりあえずビールをみんなで頼むことには、歴史的な必然性もあるわけです。これ本当は生ビールじゃダメなんですよ。もともとは瓶ビールだったわけで、それはなぜかっていえば、相互にお酌しやすいわけです。まあ、最初くらいは互いにお酌しあおうっていう儀式的な意味合いが、「とりあえずビール」にはあったりするんです。

石丸 きっと、君が代や日の丸に反対することが、いつのまにか「とりあえずビール」への反抗に短絡しちゃったんだろうなぁ。でも、「とりあえずビール」は、自民党なんかからすると「とりあえず日の丸」なのかもしれませんよ。

花咲 人間集団である限り、普遍的に「とりあえずビール」はあるんです。ただ、それと日の丸君が代はまったく別物。その転倒ってなんだろうって本当に不思議ですけど、まあ吉本隆明とかオウムとか、今日話してきたことが一因になってるんでしょうね。

あと、世代論的なところでは、ヤンキーの権威が失われたっていうのもありますよね。僕らの高校の頃ってヤンキーがまだ多かった。中学校を統治しているのは誰だったかって言えば、これはヤンキーたちだったわけですよ。僕はヤンキーじゃなかったけど、統治されているという意識はあったし、そこにアンチもなかった。だって、教師に統治されてるよりヤンキーに統治されてる方がいいんだから。

石丸 ははは!

花咲 言っちゃえば、それは自治であって、国家権力に対するカウンターだったんですよ。そこで、「俺は俺だからウーロンハイ」とはならないんです。でも、やっぱり団塊ジュニア世代くらいから、ヤンキーの統治が揺らぎだしたんですよね。むしろヤンキーが小馬鹿にされてるみたいな感じになっていった。そうなってくると、仕切る奴がいないんですよ。変に仕切ろうとすると薄くディスられるみたいなムードになる。実際「仕切るのいや」って言う人、多いでしょう。でも、そうすると集団が成り立たないじゃんってなる。そして実際に成り立ってない。

 

集団

 

石丸 面白い。自分がサブカルで、花咲さんが左翼活動家だった由来が少し見えた気がしました。自分、巣鴨高校だったじゃないですか。その前は国立大付属の小中に通ってた。ずっとお受験組。つまり、自分は同じ世代なのにヤンキーの統治を受けたことがないんですよ。じゃあ何があったかと言えば、早い段階で受験勉強に参加してる。常に偏差値で相対的に自己確認をしながら成長してきた。言ってみれば、小学校時代からネオリベ的に生きてたんですよ。実際、長じてサブカルの層にいく人たちってその辺の学校層が多いです。ヤンキーから統治されてない、集団生活もしていない。当然ながらサブカルチャーとも相性がいい。

花咲 なるほどなぁ。サブカルのウーロンハイ的な性質はそこからきてたのかもしれないですね。でも、僕にも反省点はあって、90年代にそういうウーロンハイ的サブカルがいっぱい出てきたんだけど、左翼はそこに媚びてきたんですよ。動員のためにもサブカル的なものに接近しなくちゃっていうのがあって、それが結局うまくいかなかった。僕自身、左翼イベントに灰野敬二さんや三上寛さん、それこそ根本敬さんなんかを呼んだことがある。でも、彼らが左翼かって言えば左翼じゃない。その問題をどう考えるか。

なぜ僕らがそれをしていたかっていうと、60年代後半にはサブカルチャーとカウンターカルチャーとの接点がまだあったから。ウッドストックとかね。ただ、90年代になるとサブカルのファンは消費者でしかなくて、左派性なんてほぼなかったわけ。同じやり方じゃダメだったんですよ。

石丸 自分は、それについてロフトプラスワンの功罪が大きいと考えているんですよ。90年代にロフトプラスワンができたわけですが、当時はよくステージに右翼と左翼を出して議論させるみたいなトークイベントを組んでいた。実際、それは画期的だった。緊張感もあった。最初の頃はガチで対決してたんだけど、だんだんとただの見世物になっていった。ようするにイデオロギーをサブカルとして、エンターテイメントとして消費するという流れを、ロフトが作ったんです。

花咲 ああ、ロフトはそういう場でしたね。だから僕は結構批判的に眺めていました。

石丸 ロフトプラスワンの会長の平野さんも、社長の梅園さんも左翼の人なんだけど、実はお金儲けの人でもある。だっていまやロフト系列のイベントスペースってすごい数ある。完全に成功した資本家ですよ。エクスキューズとしては「うちは言論の場を提供し、言論の活発化を応援してる」ってとこなんだろうけど、結局は見世物を興行していて──ようするにイデオロギーじゃない。サブカルなんです。自分はそこが好きなんですが。

この前もロフト9でフェミのイベントが開催直前で中止になるっていうトラブルがありました。原因は当初出演予定だった人間たちの他に、ロフト側が、より集客できそうなゲストを勝手にブッキングしたわけ。そしたら、元々の出演者が怒ったりとなんだかんだあって、中止。

フェミの人たちは、ロフトで真剣にフェミ論をやるつもりだったんですよね。で、会場を貸してくれたロフトは自分達へ賛同してくれてるって思った。それなのに── 組まれたのは、不均衡なギャラが発生している見世物興行。で、中止になったわけだけど、自分からすると、ロフトに何を期待してるのよって話。大勢が、やじうま気分でわーわー盛り上がれる闘鶏場としてのステージを提供するのがロフトなんだから。まあ、その中止イベントの翌日に、自分はロフト9で脳卒中イベントやってたんですが(笑)

花咲 まさにスペクタクル社会。罪深いなあ。

石丸 まあ、こんな具合にあれこれと話は尽きないんですが──そろそろ締めましょうか。

今日は瓶ビールを酌み交わしながら対話したわけですが、外食産業で酒は飲みたくないという花咲さんの発案で、新宿のどんじゃかです。自分も元来はそういう意見でしたが、最近は状況に敗れて鳥貴族のぼっち席でタッチパネルを押してる方が、癒される。堕落したサブカルです。最後に花咲さんが今後、アクチュアルな正統派本格左翼として、またミュージシャンとして、どんなことを課題としているのか、お聞かせ願えますか。

花咲 まあ、文脈は色々とありますが……、中野蔵原論争なんてのもあるように、左翼の芸術家はみな共通の悩みを抱えてきたわけです。芸術と政治はどのような関係であるべきか、と。たとえばゴダールは色々と考えた末に、いっときは芸術はプロバガンダでしかありえない、と結論づけてる。あの頃のゴダールを僕は支持します。作品をつくる上では、それが誰のための作品で、なんのためのプロバガンダにするかという問題が常にあるし、なければならない。

しかし、最近の下北沢とか三鷹〜吉祥寺あたりの文学系ロックみたいな奴らの中にはそれを嫌う流れが存在している。たとえば文学者の志賀直哉はプロレタリア文学を「主人持ちの文学だ」と言って批判したわけです。文学にも音楽にも主人がいるべきではない、と。これは平成のウーロンハイ的なサブカルチャー、あるいははっぴぃえんど的なものに連なる流れで、ようするに芸術は自立すべきだというネオリベ芸術論です。フジロックに政治を持ち込むな、みたいなくだらないノリです。

そこで左翼として僕がすべきことといえば、やはり全人類解放のための、革命のためのプロバガンダ音楽をつくる、ということでしょう。そして、そういう音楽を推進していきたい、音楽によってオルグしていきたいですね。そして今日本では来年の東京オリンピックに向けて、音楽家・芸術家の右翼的再編が急ピッチで進んでしまっています。まずはこれに最大限反対していくことが急務だろうと思います。

じゃがたらの話がさっき出ましたが、じゃがたらホーンズだった村田陽一さんが椎名林檎の音楽監督、つまりオリンピックの実質的な音楽監督をやっているという悲しい現実を塗り替えていかなければならない。もっともじゃがたらメンバーの中で村田氏だけが突出して御用音楽家に成り下がってしまっているわけであり、OTOさんは強力に東京オリンピックに反対していらっしゃいますし、篠田昌巳さんの流れを汲む中尾勘二さんは我々のメンバーですので、アケミさんの反権力ソウルは今に息づいているというのが基調ではありますが。

実はその上で重要なライブが9月1日に下北沢ガーデンであります。これはこの連載の第一回目のゲストであるsinner-yangさんのバンドO.L.Hとの対バンになるんですが、まさにO.L.Hというのは僕にとって90年代的サブカルチャーの筆頭のようなバンドであるわけですよ。その着眼点やリリックのセンスは昔から非常に好きで、尊敬していたので非常に光栄に思っています。

ライブタイトルは「東京オリンピック閉会式≒太陽肛門スパパーン30周年記念ライブ(特別ゲストO.L.H. aka面影ラッキーホール)」。このライブをフジロックフェスティバル・アトミックカフェなどをやっているスマッシュさんの主催/制作で行うことの画期的意義を皆さんぜひ考えていただきたい。ここに皆さんの一人一人が結集していくことが、ほんとうに重要なことなんです。今すぐコンビニにいって、チケット購入よろしくお願いします!!

……みたいな感じでどうでしょうか(笑)

石丸 決起集会ですね、素晴らしい。今日は正統派本格左翼と対話できてすごく刺激的で面白かった。令和の革命、期待しています……あ、元号でごめんなさい。どうもありがとうございました。

 

 

〈INFOMATION〉

東京オリンピック閉会式≒太陽肛門スパパーン30周年記念ライブ(特別ゲストOLH〈aka面影ラッキーホール)

2019年9月1日(日)open17:00 start18:00 @下北沢ガーデ【世田谷区北沢2-4-5;下北沢駅下車徒歩5分】前売り4000円

https://smash-jpn.com/live/?id=314

 

フジロックフェスティバル2019 オレンジカフェ【翔んで関越】太陽肛門スパパーンfeaturing 中尾勘二・しじみ・藤井信雄

2019年7月27日(土)午後4時~@新潟県苗場スキー場

https://www.fujirockfestival.com/artist/detail/5429

https://www.fujirockfestival.com/artist/timetable/27

 

 

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花咲政之輔 はなさき・まさのすけ/1967年埼玉県出身。音楽集団「太陽肛門スパパーン」主宰。兄弟バンド「ザ・ヒメジョオン」としても活躍。左翼。

 

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(Text by Yosuke Tsuji)

 

 

〈MULTIVERSE〉

「Floating away」精神科医・遠迫憲英と現代魔術実践家のBangi vanz Abdulのに西海岸紀行

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

「バッドテイスト生存戦略会議」ヌケメ×HOUXO QUE×村山悟郎

 

PROFILE

石丸元章 いしまる・げんしょう/GONZO作家。80年代からライターとして活躍。96年、自身のドラッグ体験をもとに執筆した私小説的ノンフィクション『SPEED』を出版、ベストセラーに。その他の著書として、『アフター・スピード』、『平壌ハイ』、『DEEPS』、 『KAMIKAZE神風』、『fiction!フィクション』、『覚醒剤と妄想』など。訳書にハンターS.トンプソン著『ヘルズエンジェルズ』。