ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #03 磯のベーシックインカム(後編)
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。第三回は磯のベーシックインカム後編。カレーの香りがする自動車を宿とする一週間の磯暮らし、その顛末。
走る魔窟に乗って
とはいえ、自分の力でキャンプを行ったことなど、ない。
いくら自然観察が趣味とはいえ、私は基本的にはインドアタイプの人間で、いつもはクーラーの効いた部屋で「平成の未解決事件」に関するサイトをスマホで閲覧するなどしながら怠惰な時間を過ごしている人間なのである。
こうなってくると、砂浜でテントを張ることは難しい。そもそも、これはあくまで「磯はベーシックインカムに成りうるのか」という実験であり、なにもサバイバル生活を試みようという話ではないのだ。肝の部分は「魚突きだけで一週間の食事をしのぐ」ということであり、寝泊まりに関してはワイルドな要素を必要としていないのである。
というわけで、寝床はマイカーにすることにした。車中泊というやつだ。
誤解のないように申し添えておけば、私の車は取材仕事などの関係で必要となり数年前に格安で購入した中古である。乗っている最中にシートにカレーをこぼしたことがあり、車内は「カルカッタか」みたいな臭いで充満している。知人の間からは「走る魔窟」と呼ばれている、まあそういった、たいそうプアーな代物である。
そのマイカーに水着やフィン、水中眼鏡、それにクーラーボックスや最低限の調味料と調理器具などを積み込み、私は家から再び、海へと出発した。
途中、コンビニに寄り、ATMで生活費の入っている口座から幾ばくかのお金を引き出した。これはどうしても魚が獲れなかった時の保険で、空腹に耐えられなくなった際には海の近くのスーパーでおにぎりなどを買う心積もりである。しつこく念押ししておくが、これはサバイバルではないのだ。株式市場調査というか、経済開拓事業というか、とにかくウォール街方向の洗練された活動なのである。片手に持っているのはスタバのタンブラーではなく、四又のヤスではあるが。
ATMに表示された残高をなるべく薄目で眺めながら、ため息を吐く。なんとも不安な数字が、そこには並んでいる。
ああ、大丈夫なのかな。この先、真っ当に生きていけるのかな。どこかで干からびて、苔むしたりしないかな。
「呪いの歌」が、うっすらと響いてくる。それは痛みにも似た不安で、とらえどころのない頭の重さを感じたりした。
竜宮城における禁止事項
駐車場から緩やかな岩の斜面を抜けた先に、どこまでも青々とした海が広がっていた。
深呼吸を、ひとつする。さあ、今日から七日間、自力で魚を突き、生き抜いてみよう。興奮と緊張を入り混じらせながら、水着に着替え、準備体操を行う。磯はいい感じに、満潮を迎えていた。
着水する前に、浜辺の隅に置かれている看板を確認した。自治体による「禁漁」に関する事項がそこには表示されている。
それぞれの地域で異なりはするのだが、海産物のなかには、許可がなければ獲ってはいけない生き物が存在する。
たとえば、サザエだ。
サザエは環境が豊かな海であれば、どこにでも生息している。ヤスなど使わなくても簡単に手で捕らえることができて、しかも特に調理などを必要とせず焼くだけで立派な食事となるサザエではあるが、漁師ではない者が獲るのはイリーガルな行為と見なされ、場合によっては逮捕されることもあるらしい。つまりサザエはハイリスクで、「磯のベーシックインカム」におけるFX証券みたいなものである。絶対に手を出してはならない。
魚突きを行う際に気を付けたいこととしては、その他に「地元の人とのトラブル」がある。魚突きをルール上で認められている地域は多いわけだが、マナーの観点からしばしば他の遊泳客と魚突き者との諍いが起きたりすることもあるらしい。たしかに、シュノーケリングや釣りを楽しんでいるそのすぐ脇で、尖ったヤスを「ビュンッ」と唸らされたら、たまったものではないだろう。
サザエの他にもタコやイカ、アワビなどの無許可漁がこの海では禁止されていることを頭に叩き込み、また周囲の人影がまばらなことも確認してから、私はドボンと海に飛び込んだ。
目の前に、竜宮城が広がった。
海底のオヤジ狩り
さて、魚突き生活の初日から最終日までの経過を、記していこう。
正直、一日目の漁獲量は、実に乏しかった。
完全に「魚突きビギナー」である私は、どうにもヤスを上手く使いこなすことができないのだ。魚の姿を認めても、モタモタとしているうちに逃してしまう。
魚という生き物は基本的にはとても周囲の状況変化に敏感で、私の姿が現れた瞬間に「あ、ヤバいのが来た!」「来ないで触らないで喋りかけないで!」「あとは法廷で会おう!」みたいな感じで、一斉に姿を消してしまうのである。
稀に愚鈍な魚もいるのだが、悔しいことにそれはほとんどが有毒のクサフグで、手を出したくても出せない。クサフグは余裕の顔つきで海藻の中へと消えていく。
三時間ほど磯の周りを潜って、収穫は結局、一匹だけだった。手ごたえのないままに突いた、手のひらサイズの小さなコチである。
夕陽が水平線へと落ちていく。
そのささやかな獲物を塩焼きにでもしようかと思ったが、それではなんだか味気ない。そこで浜辺に焚火をし、お湯を沸かして、味噌汁にした。
ズズ、ズズズ。
湿気の曇る夏の浜辺で、小魚の味噌汁をすすり、腹を満たそうとしている男。つげ義春の世界観を曲解したような景色が、そこには満ちていた。
うーん、汁物だけでは全然、腹にたまらない。弁当でも買ってこようか、と一瞬思ったが、すぐにかぶりを振る。ダメだダメだ、まだ初日じゃないか。空腹に音を上げるには早すぎる。こんな序盤で実験を失敗させてしまってはいけない。
こうして私は味噌汁だけの夕餉を終えると、車のシートへ横になり、カレーの臭いに包まれながら眠りについた。胃袋はいつまでもぐるぐると鳴いていた。
二日目の朝、起きてみると意外なことに、空腹感は収まっていた。胃も鳴き続けることに疲れてしまったのだろうか。
午前中の海に、勇んで飛び込む。
今日こそは、大物を仕留めたい。そう念じながらヤスを片手に試行錯誤を繰り返しているうちに、あることに気がついた。どの魚も俊敏性に富んでいるとはいえ、必ず死角や隙を持っているのである。たとえばカワハギなどは正面から向かっていってもすぐに逃げられてしまうが、岩の陰からゆっくりと近づいていけば、けっこうな接近を果たすことができる。
また、魚の中には、常に遊泳を続けている者たちとは別に、岩場や砂底でじっとしているタイプの者がいることも発見した。カサゴやカレイなどである。そういったタイプの魚の死角に入りながら、静かに接近すればあるいは……。
そんなことを考えながらだいぶ浜辺を離れたところまで泳ぐと、いた。大物の、カサゴだ。30センチはあるだろうか。海底の岩の上で、中年男性のような顔を浮かべながら、「……あー、早く帰って、第三のビールでも飲みたいなー」といった感じで、ぼんやりとしている。
そのカサゴに気づかれないような角度からゆっくりと近づき、距離を十分に詰めたところで、ゴムを弾き、ヤスを突いた。
「ズクッ」という、独特の感覚が腕に伝わる。やった、ついに大物を仕留めることができた。
カサゴはヤスの先で小さく暴れるが、やがて失神する。私は喜びに胸を浸しながら、浜へと泳ぎ帰り、すぐさま火を熾すと、それを塩焼きにした。
はやる気持ちを抑えることができず、まだ生焼けの状態ではあったが、夢中で食らいついた。
素直に、美味しい。海の味だ。これ以上ない、地産地消の味だ。
「呪いの歌」が聞こえない
こうして三日目、四日目と経ていく中で、私は魚突きの腕をみるみる上げていった。
クーラーボックスの中が、魚で満たされていく。
午前中に獲った魚を昼に焼いて食べ、少し浜辺の岩陰で昼寝などをしてから、また数時間ほど潜って、夕食を探す。私はすっかり、社会生活の枠外の人となっていた。
こうして魚突きが板に付いてきて思ったのは、「磯の経済はコスパがよすぎる」ということである。
まず、魚突きにはほとんど元手がかからない。ヤスと水着、そして水中眼鏡さえあれば、簡単に海の中に「口座」を開くことができる。そこは潤沢な「資本」に溢れていて、ちょっとしたコツをつかんでしまえば、私のような者でも好きな時に「残高」を引き落とすことができる。
また、魚だけではなく、ミネラルを豊富に含んだ海藻も捨てるほどに生えている。浜辺に漂着している海藻を、私は何度も醤油漬けにし、腹の足しにした。波が勝手に運んでくれる食事。海藻は野生のウーバーイーツである。
五日目ともなると、浜では調理しきれない量の魚を獲るほどまでになっていた。そこで私は一時帰宅をし、それらを昆布締めの刺身にするなどして、冷蔵庫で保存することにした。
帰り着くなり、久々のシャワーを浴びる。それからまな板に魚を並べ、それをうっとりと眺める。いける、いけるじゃないか、磯生活。私は満ち足りた想いを感じていた。
そうだ、しばらくメールをチェックしていなかった。そう気がつき、数日ぶりにPCを開く。ついでにネットバンキングで、生活費の入っている口座の残高を改めて確認する。先日ATMで表示されていたのと寸分変わらぬ額が、そこには現れる。
あれ?不安が、薄い。頭が、重くならない。
「呪いの歌」が、聴こえない。
なんというか、生活の中で常に纏わりついていた「圧」のようなものが、明らかに薄くなっていた。
この日は自宅で魚を調理し、それを食べ、ベッドで眠ることにした。しばらく味わったことがないほどの、それは穏やかで安らかな眠りだった。
なにはともあれ生きていた
六日目、海へと戻り、私は磯生活を続けた。
魚を求めて泳いでいると、目の前に珍しい存在が現れた。小さな、イカだ。
種類がわからないので、これが子どもなのか、それとも成体なのかは判別が付かなかったが、そのイカは発光し、点滅をしていた。幻想的なその姿におもわず見とれていると、こっちの姿に気がついたのか、さっと逃げられてしまった。海中世界はどこまでも、未知が広がっている。
こうして様々な生き物たちと戯れ、そして「残高」を引き落とし、私はついに七日目の朝を迎えることができた。これにて磯生活、ゴールである。
実験が終了し、まず思ったことは、「なにはともあれ生きていた」ということだ。
トータルで考えると、普段の生活に比べて、この一週間の食事量は明らかに少なかった。初日はほとんどなにも口にしていなかったし、その後も「お腹いっぱい食べた!」という感覚を得られた日はなかった。
しかし空腹感や飢餓感のようなものは、まったく抱いていない自分がいま、浜辺に立っている。
なんなら、普段よりも爽快感みたいなものすら感じられるほどだ。もしかして、一日三食をきっちり食べるよりも、「食べたい」と思ったときにだけ食べたほうが、健康的な状態を保てるのではないだろうか。だいたい、ずっと遊泳という名の運動をしていたわけで、そう考えると磯生活ってかなり身体には良好と思われる。しっかり疲れて、しっかり眠ることができるのだ。
実験はひとまず成功ということで、よいのではないだろうか。
「正体不明」であることの心地良さ
この磯生活の実験には、おもわぬ副収入があった。
その後の日常生活の中で、ちょっとした意識の変容が、自身に発見されたのである。
頼りない残高を眺めていても、やることがなくてゴロゴロとしている時間を味わっていても、以前よりも焦りや不安を抱くことが、薄くなったのだ。
これはいったい、どういうことなのだろうか。
もしかしたら、それは私が、海中で「正体不明」の状態に身を置いていたことが関係しているのではないかと思った。
海に潜っていると、はっきりわかることがある。それは、「海には海の知覚がある」ということだ。海の中に生きる魚や無脊椎の者たちは、私たちとは異なる知覚でもって、「水中」というメディアを構築している。つまり海とは、明白に異界である。
そこに現れた私は、海にとっての完全な異邦人。突然に登場した、正体不明の者である。
そう、「正体不明」。
私は地上にいる時、「生活者」や「労働者」として、その正体を明らかにしている。様々な構図の中で、様々な正体を使い分けている。きっと私だけではなく、人間であれば大勢が地上にいる時にそのような状態であるだろう。
正体は、疲れる。明らかにすることは、ぐったりする。自身を正体不明にする時間がなければ、地上での正気は保てない。
イソギンチャクもヒラメもエイも、海では正体を明かしている。その中で私だけが、水中では未明の存在だ。磯生活は、「生活」と名乗ってはいるが、実際的には無意味な遊びに近かった。
この無意味こそが重要なファクターで、それを通過したことで、私は岸辺で新たに息を吹き返すことができたのではないか。軽やかな意識を持つことができたのではないか。
存在とは「点滅」である
「存在性」についても考えた。
私はいままで「存在し続けること」とは、「出力し続けること」だと理解していた。
どんどん仕事の成果を出力しなければならない。次々とアピールを出力しなければならない。そうしていかなければ、自分の存在など消えてしまう。そんなふうに考え、それを実行しているうちに、体調を崩してしまい、床に臥せってしまった。
でも、本当の「存在性」とは、出力ではなく、点滅にあるのではないか。
たとえば、あの時に見たイカ。彼らはおそらく、「自分はここにいるよ」ということを仲間へ示すために、発光をしている。であれば、本来はずっと発光していればよいわけだが、なぜだか彼らは点滅を繰り返している。ホタルなんかもそうだ。
太陽が二十四時間、頭上の上で輝いていたら、たぶん私たちは太陽のことを意識しなくなる。「存在性」が弱まるのだ。そして、太陽が最も「存在性」を高める瞬間は、雲の陰から現れる時である。
点と滅を繰り返すことが「存在性」の本質で、だから私は海に滅することで、地上で再び、点くことができるようになったのではないか。生きている心地を新たに味わえることができるようになったのではないか。
滅入るときは、きちんと滅入ったほうがいい。そんな気づきが得られたことも、磯生活における副収入であった。
どこまでもコスパがよすぎるぞ、磯。サイゼリヤなのか。
こうして私は磯生活を通じて、新たにして大いなる「貯蓄口座」を手に入れた思いを抱いた。
この船が沈んだとしても、沈んだ先には磯がある。私にとって磯は「2000万円」を越すほどの価値がある。
大きな声で、断言したい。磯は、ベーシックインカムに成りうる。
それからも私は夏の間、たびたび海へと足を運び、魚突きをしては、「正体不明」を味わった。
海はいつでも、どこまでも、無意味な青色を光らせていた。
許すよ、許す。不安とかいう怪物がこっちに与えてきた痛みは、すべて許すよ。そんな気分だった。
そうしているうちにやがて秋が来て、水温は低くなり、魚突きシーズンは終了した。
私は少しだけ、また不安になった。
『磯のベーシックインカム』編、了
(illustration by Michihiro Hori)
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