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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #04 ジェンダートラブルと麝香のインテンス

タトゥー、身体改造、ボディビル、異性装……絶えざる変容の動態に生きるオイルペインター亜鶴の、数奇なるスキンヒストリー。第四回は、奔放な性生活を送っていた若き日に、大阪の裏通りで出会ったある女性について。

セックスという日常

 絵画の専門学校に通っていた20歳前後の頃は、それなりに異性にモテたと思う。

 というよりも、その時の僕の容姿は金銭的な困窮や多忙も相まって、身長174cmにして体重は50kgあるかないかというくらいに痩せ細っていた。黒髪長髪、刺青、ピアス、髭、過剰なほどのガリガリ。こうした要素は良くも悪くもある特定の層に刺さりやすい。言ってしまえば、一部の人たちにとって、僕の容姿はフェチズムを刺激するものだった。

 では、一方の僕にフェチや性癖のようなものはあるのだろうか。今回はその話をしてみようと思うのだが、その前に昔の話として告悔がてら記しておくと、20歳前後だった当時、僕は、「休みのたびに違う女を抱く」と大々的に周囲に宣言し、ネットやクラブなどで知り合った相手を取っ替え引っ替えして遊びまくっていた。その中にはワンナイトかぎりの子もいたし、しばらく常連さんとなる子もいた。

 その時期に遊んだ相手は数人なんていう話ではなかった。遊んでいた子の中にはその後に結婚した子もいれば、僕の知人と付き合いだした子もいる。基本的に僕は、関わった相手のほとんどもれなく全員といまだに良好な関係を続けていて、連絡を取ろうと思えば取ることのできる距離にいる。今になってわざわざ連絡を取ることはないとはいえ、これは人付き合いに対する感覚において、ほんの少しだけ自分でも誇れると思える点だ。

 僕にとって性行為は、あくまでも普段の人間関係を滑らかに延長させていったところにあるものでしかない。だからこそ、その行為を経たとしてもベースとなる関係性に支障を来すことがないのだが、そう考えてみると、僕の「休みのたびに違う女を抱く」宣言も、小学生が考える「友達100人できるかな」と大差がなかったのかもしれない。僕にとってセックスはそれくらい日常的な行為だった。

 ところで、こんな話をすると、抱けるなら相手は誰でも良いのか、なんて思われるかもしれないし、実際にそう聞かれることもある。答えとしては限りなく「YES」だ。僕が性行為において相手に求める唯一のファクターは清潔感、ただその一点のみである。だから正直、身の回りの仲間たちが「あの女は抱ける」だの「あの女は抱けない」だの、風俗での当たり外れだの、ひたすらに下卑た話題で盛り上がっているのを横で聞きながら、「基本全員イケるやろ。イカれへんとか逆にあるのか?」なんてことを常に思ってきた。

 そして、たとえば風俗へは射精を最大の目的として出向いているはずなのだから、射精という望みが叶うのなら別に当たり外れなどないだろう、とも思ってしまう。とはいえ、射精という欲求を満たすために店に出向き、そこに時間やコストを割くということは、僕にとっては「そこまでして」と思えてしまうので、いまだ一度もそういったお店に足を踏み入れた事はない。だから、風俗については想像でしかなく、実際のところはよく分からなかったりする。

 もし仮に、死ぬほどに性行為を行いたいという願望が高まってしまったとしたら、お店を利用するのではなくナンパをし、声を掛けた瞬間からどう関係性を構築していくか、という形を取った方が楽しそうだと感じる。先の読めない展開、乱数が多く存在していることにテンションがあがる気質なのだ。それは身体改造の趣向にしても性に対しても同じだった。

 

美学校時代の亜鶴

 

 ただ、書いたように清潔感だけはどうしても気になる。そして、ここでいう清潔感とは「衛生的である」ということとは違う。たとえば目の前で一緒にシャワーを浴びたとしても清潔感を感じられない相手というのはきっといるだろう。だから、これは物理的な清潔感の話ではない。ではなんなのかと言えば、それを表現するのがとても難しいのだが、おそらく僕の考える清潔さという感覚は、同じ共同体の中にいることが認められるかどうか、という点に関わっているのかもしれない。僕にとって、同じ共同体のメンバーとしてどうしても認められない相手というのがいる。それは国籍だの民族だの人種だの身分だのとはまるで関係がない。もっと生理的な何かなのだ。

 生理に基づく排除が正しくないことは重々承知の上で、しかし、こればかりはどうしようもない。逆に言えば、同じ共同体のメンバーとして認めることさえ出来れば、僕は性行為にハードルを一切感じない。正直、だれでもいらっしゃい状態だ。

 もちろん、その時々の大切な相手と交わることには特別な重みを感じるし、喜びも感じる。しかし、全ての性行為にそれと同等の重みを感じろ、だとか、そもそも性行為に対してもっと深く考えて取り組むべきだ、とかを言われても、ピンとこない。今後も無理な話だと思う。

 

売り専のバイト

 こうして僕は様々な人と褥をともにしていたわけだが、当時、一方では画学生として美術への傾倒も強めていた。絵を描くためには大量の画材を買わねばならず、1本何千円とするチューブの絵の具を大量に購入しては、それを瞬く間に湯水のように使いきるという暮らしをしていた。

 金銭面的には相当に厳しかったが、親が投資し、敷いてくれたレールを脱線し、自身の道を行く事を決めた以上、どんなに苦しくとも金銭面での無心をするだなんて僕には理解のしえないことだったし、あってはならないことだった。当然、生活自体はどんどん困窮していき、月に1度、どうしても甘い物が食べたいと我慢の限界が到来したときに100円で買って貪るチョコチップクッキーの甘さに、魂が抜けるような思いをしていた。

 

いまだ画材が散乱するアトリエ

 

 そんなある日、あまりの困窮具合を見兼ねた知人が、僕にあるバイトを紹介してきた。それは、男性相手に自身の身体を110万円で売らないかという誘いで、いわゆる売り専と呼ばれるものだった。たった1回のデートで10万円。それは当時の僕からすればとんでもなく魅力的な誘いに感じられた。

 ただしデート内容は相手となる人によるらしく、僕のようなニッチな風貌を求める男性は変わった性的趣向を持つ方が多いだろうとのことだった。だからこそ、110万円を確約する、と。

 それまで僕はヘテロとしての性行為しか体験したことがなかったし、なんとなく自分はヘテロであると思って生きてきた。しかし、売り専で働く話を貰ったとき、それを理由に「無理!」と即答することはなかった。お金が必要というのもあったが、なんなら同性との性行為そのものに好奇心もくすぐられていた。

 だから、男性相手に体を売る、というだけであれば、大したハードルだとも感じなかった。唯一、尻込みした理由は、僕とのデートに110万円を支払う価値を感じる変わった性的趣向とは一体なんなんだ……という不安だった。もしかして漫画『殺し屋1』の垣原のような男にバキバキと骨でも折られるんじゃないのか、なんていうイメージばかりが膨らむ。そこまでいってしまったら、読めない展開、乱数どころの話ではない。

 結局、話を貰ってから10日間ほど回答までの期間が設けられたのだが、悩んでいる間に別の新たなバイト先が決まったこともあり、売り専で働くという話はたち消えとなった。それが、良かったのか悪かったのかは今でもよく分からない。それに、新しく決まったバイト先にしたって、あまりまともなものではなかった。それは出会い系サイトの運営会社で、以降、僕は過剰なまでの節制をしつつ、日中は学校に通い、夜はバイトで出会い系の管理をする日々を送ることになる。稼いだお金は生活費を除きほとんどを画材代、そして自身へのタトゥー施術費に注ぎ込んでいた。相変わらず生活は貧しかったが、徐々にタトゥーで埋められていく身体を眺め、精神的には満たされ始めていた。

 

 

 

ジェンダートラブル

 そんな暮らしをしていたある日の夜勤帰りの道中で、夜のお仕事をしているであろう綺麗なお姉さんを介抱した事がある。見た目には外国の方だった。

 大阪市内の繁華街、僕はその真ん中に住んでいたため、明け方の路上で吐瀉物に塗れ、昏倒している人を発見することは日常茶飯事だった。そのお姉さんがいたのは裏道で、車道の中心にカバンの中身を散乱させ、突っ伏していた。そこは抜け道をするタクシーが飛ばす道でもあり、あまりに危険なので声を掛け、肩を貸して路肩へと運び、近くの自販機で買った水を飲ませた。

 

現在も亜鶴は大阪を拠点に活動している

 

 10分程度で会話が成り立つようになると、感謝の念を述べられた。どうも僕のことを妙に気に入った様子で「お礼をさせて欲しい」と言ってくる。別段、その程度の介抱をすることは頻繁にあり、僕としてはイイヨイイヨーという話だったが、倒れていた道の角にあるお姉さんのマンションの前まで肩を貸しつつ辿りついても、「どうしてもお礼をしたい」と言って聞かない。せめて水を買ってくれたお礼にお茶だけでも出させてくれと言うので、とりあえずお姉さんの部屋があるフロアまで送ったら帰るから、ということで納得してもらった。

 エレベーターに乗り込むと同時にキスをされた。少し驚いたが、とはいえ拒絶することもなかった。据え膳食わぬは男の恥、というわけでもないが、元来セッティングされた物事に対して無礼を働くことが出来ない。それに先ほども書いたように、セックスにおいて相手を選別することも基本的にはなかった。主体性がない、と言えばそれまでなのかもしれないが、そういう性格なのだ。仕方がない。

 流れとしては、中学生の初体験のあの日、先生にホテルへ連れ込まれたときと同じだった。こちらとしては、そんなつもりは一切なかったのだが、玄関へと連れ込まれ、相手がその気配を出してきたからには、むげに断って恥ずかしい思いをさせるなんてことは許せなかった。

 中高一貫男子校というホモソーシャル上がりにしては、多少なりと場数は踏んでいた。あの日と違って、僕なりに背中に手を回してみたりもした。まず第一に思ったのが、やはり海外の美人さんは整形をしているのだな、ということ。そのことになぜだか分からないが、とても感心した。わかりやすいパリッとした豊胸手術を経ていることが一目で分かり、生理食塩水のバッグなのかシリコンなのか、初めての弾力に感嘆した。

 突然、お姉さんが「伝えたいことがある」と言い出した。そして、「言うよりも見てもらった方が早い」とも言い、おもむろに下着をおろした。下半身一糸まとわぬ姿になった彼女の下腹部に目をやると、そこにあったのは勃起し、怒張したペニスだった。

「私はニューハーフだけどそれでもいいの?」

 相手の牙城に引きずり込まれた上でのカミングアウトに、まったく動揺しなかったと言えば嘘になる。国籍こそ最後まで分からなかったが、おそらくはヒスパニック系だろう。日本男児として失礼を働くわけにはいかない、なんてこともぼんやり思いつつ、抱いた動揺を一切見せぬように、なんなら「知ってたけど逆にそんな事をいまさら言いだしてどうした?」くらいの毅然とした態度をとった。

「咥えて欲しい」

 お姉さんはそう希望していた。そして僕は生まれて初めて勃起したペニスを頬張った。

 射精らしき現象は起こるが、女性ホルモンを大量に打っているため、その精液には精子は含まれていないよ、なんてことをフェラチオの最中に聞いた。それは彼女なりの気遣いだったのかもしれないが、精液に精子が含まれているかどうかよりも、数十分前に出会ったばかりの女性のペニスを口に含んでいる僕がいまここに存在している、ということの方が大きな問題だった。

 やがて彼女が僕の後頭部を手で抑え込み、ペニスが強く押し込まれた。そして、彼女は僕の口の中で震え、たしかに射精と思しき現象を起こした。

 その時、何かが先端から発された、という感覚はなかった。あるいは、発射はされたのかもしれないが、相手の言う通り、ホルモンバランスの関係で精子の量や味を感じることが出来なかっただけなのかもしれない。

 不思議な気持ちだった。自分がフェラチオをしたことに、というより、彼女は見た目こそ女性に変態していて、それは彼女自身の「女性になりたい」という願望でもあったわけだが、性における興奮や、機能の面においては、彼女の中に残る男性性が手がかりになっているという事実に混乱させられた。

 直接生い立ちを聞いたわけではないけど、彼は生まれたときに所持していた男性としての身体に違和感を感じ、だからこそ、これまでその身体を彼女へと書き換えてきたのだと思う。そして、唯一、最後に残ってしまっていた男性性の象徴であるペニスを、行きずりの男の口に含まれることで興奮を覚えていたのである。

 事を終え、朝日が登り始めた頃、僕は家路についた。お姉さんが放っていた麝香のような強烈なインセンスは、喉の奥から噎せ返すような残り香をしばらく僕に与え続けた。

 僕にとって性行為もまた身体改造と同じで擬態なのだと思う。行為の最中は世界には相手しかいない。そして、僕は相手の欲望に擬態する。おそらくは相手も僕の欲望に擬態する。その意味においては相手のジェンダーは関係ない。ヘテロにおける性行為において、男性は受動か能動かで問われると、身体の機能や形状の面からしても能動であることが多いように思う。しかし、フェラチオを施している最中、僕は圧倒的なまでに受動的な存在になっていた。女性の形状をした元男性に、男性である僕が器として扱われ、実際、僕は器に擬態していた。その結果は勝ち負けではない。どうあれ、お互いが満足することができればよい、という意味では、セックスとは自分と相手というミニマムな共同体における正しい絆の創り方だとも思う。

 僕にとって、セックスとは日常で、同時に僕はこのセックスという行為に、強く憧れを抱いているのかもしれない。

 

 

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas