logoimage
HAGAZINE

神本秀爾 『History Hunters ラスタファーライの実践』 #04 プリンス・エマニュエルとその信徒──Good man is a God man

文化人類学者・神本秀爾によるジャマイカ・レゲエの旅。ラスタファーライの歴史と実践を追う。ボボにおいて「入信する」とはどういうことなのか。そして、彼らをコミューンへと導いたプリンス・エマニュエルの思想とはどういうものなのか。

ボボコミューンの日常

そもそも、ボボを始めたエマニュエルとはどういう人物だったのだろうか。彼は1909年か1911年にジャマイカ島南西部のセント・エリザベス教区のブラック・リバーで民俗宗教、プクミナ教徒の家に生まれて、1994年に亡くなった。

彼の青年期に関する資料はほとんど存在していない。信徒のひとり、ニューランドによると、幼少期のエマニュエルは両親の飼っていた牛のミルクの行商で家計を支えていたという[Newland 1994:3]。1933年にキングストンに移住し、ダウンタウンの南側のスラムの一角で生活を始めた。キングストンでは、塗装工やパン屋の配達をしたり[van Dijk 1993:17]、数名の仲間と共にカキ氷を売ったりして生計を立てていたようで、1941年頃にはジャマイカ国防軍付きの大工として働いていたらしい「Newland 1994:3]。

彼がラスタファーライに出会った経緯も分からない。ただ、1930年のハイレ・セラシエのエチオピア皇帝への戴冠から間もない時期に、ラスタファーライが出来上がる最前線だったキングストンのダウンタウンにいたことは事実である。彼がラスタの歴史に登場するのは、1958年3月1日にアフリカ帰還集会を開催し、3000人とも言われるラスタを集めてからである。その後、1966年にスラムが破壊され、1970年代初頭から拠点を現在の場所に移し始めた。

ボボのコミューンとはどのようなところなのだろうか。段階的に不法占拠地を広げながら発展してきたところなので、外部との境界も曖昧で、正確な広さを知ることは困難だが、Chevannesはその広さを2ヘクタール(20,000㎡)以上と書いている[Chevannes 1994:173]。そのうち、平地はごくわずかである。ゲート・ハウス、ロイヤル・キッチン、ロイヤル・レストランはかろうじて平地にあり、それらに囲まれるように、屋外の礼拝用の空間がある。あと、この礼拝用の空間の東側にエルサレム・スクールと名付けられた礼拝場と、オフィスがある。2000年代の半ば、オフィスには唯一のパソコンがあり、それはSizzlaから寄付されたものだと聞いた。これらの建物のあるあたりは、公共の空間であり、次に説明するプライベートな空間とは区別される。この、公共の空間の真ん中には7本の旗が立てられていて、そのひとつは国連の旗である。その理由は、ジャマイカ政府の管理が及ばない治外法権のエリアだということを示すためだと言う。そして、国連はエマニュエルが作った機関だとも言われている。

このような公共の空間を取り囲むように、信徒が暮らす小屋がその奥の丘陵地にぽつぽつと建っている。僕はオフィスの脇にある一時滞在者用の2部屋からなる建物の1部屋を使わせてもらっていた。建物は全て木造で、窓はなくて、その代わりに光と風を取り込むためのウッドシャッターが2カ所にあった。室内や外廊下の床は赤のペンキで塗られていたが、塗料が良くないのか、歩くと足に色が付いた。部屋には裸電球がぶら下がっていて、その電気はゲート・ハウスにある発電機から来ていた。携帯電話の充電もゲート・ハウスでやっていることが多かったような記憶がある。

滞在していた部屋は風通しのいいところにあったので、陽射しさえ避けることができれば、日中でもそれなりに暑さをしのぐことができた。部屋のベッドは古くてそこで寝る気にはならなかった。最初の方は室内の床で転がって寝ようとしていたのだが、部屋に入り込んでくる蚊に何カ所も刺され続けて痒くて眠れないので、外廊下に出て、体の近くで蚊取り線香を焚いてそこで寝るようにした。別の部屋の話し声や小さなトカゲが鳴く声を聞きながら寝るのは悪くなかった。あと、星がよく見えたので、夜中目覚めたときなど、たまに建物の外にあるベンチに出て眺めたりしていた。麓でやっているレゲエのダンス・イベントの音が聴こえてくるのも、自分がいま別の世界にいることを実感できて良かった。

 

ある朝の朝礼風景

 

朝方になると、礼拝用の空間での儀礼を始める手を叩く音が暗闇の奥から聞こえてくる。この空間では、午前6時、正午、午後6時に礼拝がおこなわれるのだが、朝のものは2時間程度とかなり長かった。

ボボでは男性は修行段階によって、2種類の司祭(リーディング・プリーストとアクティング・プリースト)、2種類の預言者(リーディング・プロフェットとプロフェット)に分けられ、女性は主に年齢によってエンプレスとプリンセスに分けられている。朝の礼拝は大抵、アクティング・プリーストかリーディング・プロフェットが仕切るのだが、朝の礼拝は、新入りのプロフェットはなるべく参加するようにとされていた。なお、彼らは、ボボ男性の正装であるローブとターバンを着用する権利を得ておらず普段着なので、一目で判別できる。

始まる頃は涼しいものの、朝靄の時間帯が過ぎると、あとは強い陽射しに晒されることになる。そのため、礼拝が終わる頃にはしっかりと汗をかくので、僕は参加するのは好きではなかった。朝の礼拝の参加者数はまちまちだったが、それぞれの部屋やオフィスにいる信徒たちの耳にも届いていて、礼拝の終了時にはさまざまな場所から拍手の音が聞こえてきていた。この時間帯が過ぎると、外で売るためのホウキを作り始める人や、農地に向かっていく人、コミューンの外に仕事があるために出かけていく人などの気配で、コミューン全体が動き始める。

プリンス・エマニュエルとその信徒

次に、コミューンで暮らす人々の話をしたい。修士課程の2年目、本格的に調査を始めた2006年8月時点でのデータを紹介する。当時、オフィスには174名の信徒の名前が登録されていたが、ボボを称する人が必ずしもこの台帳に登録されているわけではなく(むしろ、登録されている方が少ないと考えられる)、この174名のなかには、長期間コミューンを離れている信徒も含まれている。実際のところ、このときに日常的に顔を合わせていたのは、男性54名、女性14名の計68名だった。男性の場合半数の27名が21~40歳で、女性の場合も半数をこえる8名が21~40歳だった。

ここで、ボボにおいて「信徒になる」(入信する)とはどういうことか考えてみたい。ラスタでは一般的に彼らを抑圧するような社会体制をバビロンと呼び忌み嫌う。ボボでも、入信したことについて、「バビロンを去った」と表現する信徒もいた。これは、実際に自分が暮らしていた場所を離れるという物理的な面と合わせて、精神的な面での主流社会からの離脱がラスタの世界では重視されていることを示している。そうでありながら、彼らは自分たちがラスタに「なった」とは滅多に言わない。ほとんどの信徒は第一世代のラスタであるにもかかわらず、である。その代わりに、自分たちがもともとラスタとして生きるように生れ落ちていたことに「気づいた」という言い回しを使うことで、意思ではなく、運命によってラスタと生きることになったことを強調することが多い。

第一世代ということは、ほとんどの信徒の出身家庭はボボではない、ということである。僕が調査をしたとき、成人の信徒男女合わせて58名のなかで、キリスト教各派の家庭出身と答えたのは28名だった。ラスタの家庭出身者は3名。実は無回答だったものが25名いて、この多くはキリスト教各派の家庭出身者だと考えられる。その理由は簡単で、ローマ教皇の祝福を得た多くの船が植民地支配や奴隷貿易に加担してきたと言う事実と関わっていて、ラスタの文脈では、現在もキリスト教は現在のバビロンによる支配を下支えしているとされているからだ。

 

ふもとには「プリンス・エマニュエルは常に生きている」と書かれたトタンがあった。

 

信徒について考えるときに大切な出来事がひとつある。それは、1994年5月のエマニュエルの死去だ。男性54名のうち、彼の生前に信徒になり、対面経験があったのは20名、32名は彼の死後の入信であり、2名は信徒として出生していた。女性14名のうち、生前に信徒になったのは3名、11名は死後に入信していた。ほとんどの信徒が第一世代だと気づいた時に、僕が最初に気になったのは、彼らはどのようにしてボボにたどりついたのか、ということだった。最初に、調査時60代だった男性信徒のエピソードを紹介したい。

 

キング(エマニュエル)は、1968年のある水曜日に出会った。おれはベックフォード・ストリートでラスタ向けのズボンやベルト、シャツを売っていた。自分はセント・メアリー教区出身なんだけど、キリスト(セラシエかエマニュエル)の持つ磁力に引かれてキングストンにやってきたような気がしている。ともかく、水曜日の明るい時間帯に、おれは仲間と話をしていた。ベックフォードからブルックリンに折れる角のところにおれはもたれかかっていて、仲間は歩道に腰を掛けていたとき、長くて先の折れた鉄製の杖を持って、赤いローブをまとった背の高い人物が、ちょうど角を曲がるときに、こっちを向いて、「愛こそ神で、愛は赤い色をしている」といった。それが彼との最初の出会いだった。それは、起こるべくして起こったことなんだ。彼に会ったときに、どう感じたかというと、心がおどるようだった。生きているということを感じたんだ。

 

この信徒はラスタ関連のアイテムを販売していたというほど、ラスタには身近な生活をしていたのだが、彼のエピソードは、エマニュエルとの出会いのインパクトが彼をグループに引き寄せたということが非常に分かりやすい。上に書いたように、信徒のほとんどがエマニュエルの死後に訪れているので、このようなエピソードを語れる人物は、決して多くはない。次に、エマニュエルの死後まもないときにボボになった、若手の当時30代の男性信徒の話を紹介したい。

 

あまり宗教には興味はなかったけど、(教会の)日曜学校には、ダンスホールに行くように、女の子と仲良くなるために行っていたときもあった。ただ、高校生のとき、それにも飽きて自分自身のことを見つめるようになった結果、コミューン近くの山で自分なりに瞑想をやってみた時期なんかがあった。そしてそのとき、山を抜けていく数人のボボに出会い、ここでの生活や教えのことなどを教えてもらった。その後しばらくしてここに来てみた結果、会議派の教えこそが真のキリスト教だと気づいたんだ。

 

彼にとって、教会は「神と出会う」場ではなく、ナンパの場でしかなかった(いま思うとShaggyのChurch Heathenのような世界だったのだろうか)。ガール・フレンドとの共同生活が可能になる場所という要素が彼を惹きつけた可能性も大いにあるだろう。彼もまた、偶然の出会いからコミューンを訪れていたが、エマニュエルについて行こうと思った最大のきっかけは、夢のなかでエマニュエルと自分が親子のように仲良く語り合っている姿を見たことだったという。彼も入れて、エマニュエルと対面したことのない信徒で多かったのは、知人や友人のボボにこの場所を紹介されて訪れた、というものだった。

入信を考える時に重要なことがもうひとつある。それは外国人信徒の存在である。現在は世界各地にラスタがいて、コミューンのような集合体は少ないものの、集会場などは無数に存在していて、この状況が外国からの訪問を容易にしている。ボボで出会った外国人の多くは短期滞在だが、2006年の8月には男性では、アメリカ人とトリニダード・トバゴ人(どちらも黒人)がふたりずつ、ガイアナ、セントルシア、(英領)モンセラットからひとりずつ(いずれも黒人)、アルゼンチン、プエルトリコ、コスタリカからひとりずつ(白人、白人、先住民系)だった。そういえば、2005年に予備調査で行った時にもアルゼンチン人の信徒はいて、まさか白人でボボの正装をして積極的に儀礼に関わっている人間がいると考えていなかった僕は、彼は僕よりも先に調査を始めた人類学者なのかも、とまったく見当はずれのことを考えて、彼と話をするまで時間がかかったということがある。話を戻すと、女性では、チリ(白人)とバルバドス(黒人)からひとりずつが訪れていた。外国人滞在者を数えるときにはいなくなっていた、2005年に話を聞いたバルバドス出身の男性の語りを引用してみる。

 

ボボはバルバドスにもたくさんいるし、ボボのラスタが歌うレゲエもいろんなところでかかっている。だからここのことを知るのは簡単。おれはラスタになって日が浅いけど、ここの教えに興味を持って学校が休暇の間に来てみたんだ。

 

カリブ海地域ではディアスポラに関する会議も頻繁に開かれていて、そのようなアカデミックな場を通じてラスタに惹かれるものもいる。プエルトリコから訪れていたランドルフは大学でカリブ地域ディアスポラに関する会議に参加したことでボボに興味を持つようになって訪れたという。次に、アフリカ系アメリカ人信徒の語りを紹介したい。

 

自分のルーツに関心があり、アフリカを旅している最中にエチオピアのシャシャマネでラスタと出会いボボ・シャンティの存在を知った。

 

彼はルーツ探しの一環として出会ったというが、アメリカではこのような試みはよくおこなわれていて、ラスタと同じようにルーツを追求するなかで、実際にアフリカと相互に影響を与え合いながら形を変えていく実践も多く存在する(cf.小池郁子のオリシャ崇拝運動研究など)。コスタリカ出身の信徒の場合も同様に、自分のルーツへの強い関心があったことを説明してくれた。また、外国人信徒の場合はレゲエというメディアを通じてラスタ、ボボの存在を知ったと説明する傾向が高かった。ただ、ボボではレゲエの位置付けは低く、積極的にレゲエの影響について語るのはのぞましくない雰囲気だった(レゲエとの関係はまた別の回で書きたい)。

半数以上の信徒がエマニュエルと対面した経験がないということを知ったとき、エマニュエルがいた時代といなくなった時代では、ボボのあり方もかなり変化しただろうと思い、その変化を見ることができなかったことがとても残念だった。現に、調査を進めていくうちに、過去との変化に言及する信徒が多く、エマニュエルがいなくなったことは、集団の意思決定やその他の運営に大きな影響を与えたことが分かった。ボボの正式名称にはcongressという単語が入っていて、合議制だということが強調されていたけれど、中心がなくなったことで、信徒たちで決めて動かさなければならないことばかりになっていったのである。

神は人を通してのみ見ることができる

僕が学部生でボボのことを知ったときには、彼が亡くなって7年が過ぎていたし、調査を始めたのは11年後のことだった。ただ、それではエマニュエルがいた当時の様子や雰囲気をまったく想像できないかと言われるとそうでもない。ネットにも出回っている写真や映像は古くて、あまり想像力をかき立てなかったのだけど、ある信徒は、僕の滞在していた部屋の外廊下を彼がどのように歩いていたかを描写してくれたし、彼のことを喜びに満ちた表情で語る信徒の顔を見て、確実に集団の中心で注目を集めていたエマニュエルという人がその空間にいたことを、少しは想像することができた。

 

中央がBlack Supremacy Book

 

エマニュエルの思想にもとづく、個々の信徒の立ち居振舞いに関わる言葉で、とても気に入っている考え方がある。それは「神は人を通してのみ見ることができる」というものだ。この考え方はボボで学習用に使われているテキスト(通称Black Supremacy Book)で何度も言及されているのだけれど、「正しい人間は神の受肉した存在で、誤った人間は悪魔の受肉した存在」[E.A.B.I.C. n.d. :52]という表現で、標語のように語られたり、もっとシンプルに「良い人間は神=人(Good man is a God man)」と言われたりする。

神と悪魔の対立関係は、ラスタとキリスト教、黒人と白人、ザイオンとバビロンのような二項対立とかかわっていて、論理はシンプルでわかりやすい。ただ、人間を悪魔的ということについては、実は感覚的にはあまりついていけていない。実際には、ボボと話をしているときに、後半部のようなネガティブなことを聞く機会は少なくて、むしろ、「神を体現するためにちゃんとした立居振舞をするんだ」というような心構えを語っているように聞こえた。僕は、いろんな姿かたちの人間が、それぞれの肉体を通じて神を体現する、というアイデアがとても気に入っている。

ローブやターバンをまとうこと、コミューンのなかではシャツはズボンに入れること、大声を出したり走ったりしないこと、すれ違うときに挨拶をすること、そういった決まりの根底に人を神に格上げする論理があると思うと、よれたTシャツや破れかけたサンダルで歩いている人まで神々しく見えるから不思議だ。そして、この考え方を自分にまで延長して、何よりも、そのような立居振舞の根拠になっている自分の体は、良いものを食べ、清潔に保ち、丁寧に扱わないといけない、と思う時もあった。

ボボの朝の話をしたところからここまで話を膨らませてしまったけれど、この人間観(というかある意味で神観)を受け入れた人々が、朝の礼拝のあと、コミューン内外で働いたり、遊んだり、話をしたりしているので、ここで説明をしておいてよかったかもしれない。この話を踏まえて、次回からは彼らの現実的な生と切っても切り離せない経済や、正しさをめぐる葛藤について話をしていきたい。

 

引用、または言及した文献(50音順)

E.A.B.I.C. u.d. Black Supremacy in Righteousness of Salvation. E.A.B.I.C.

神本秀爾 2017『レゲエという実践-ラスタファーライの文化人類学』京都大学学術出版会。

小池郁子 2008「コミューンから聖地へ-アフリカ系アメリカ人のオリシャ崇拝運動における拠点の変容」『人文学報』97:1-74.

Chevannes, Barry 1994 Rastafari:Roots and Ideology. Syracuse University Press.

Newland, Arthur 1994 The Life and Works of King Emmanuel Charles Edwards. Unpublished.

van Dijk, F.V. 1993 Jahmaica: Rastafari and Jamaican Society. One Drop Books.

 

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

logoimage

PROFILE

神本秀爾 かみもと・しゅうじ/1980年生まれ、久米大学文学部准教授。専門は文化人類学。著書に『レゲエという実践—ラスタファーライの文化人類学』(京都大学学術出版会)など。