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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #06 パクりパクられが当たり前? タトゥー業界におけるオリジナルとコピーの曖昧な関係

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第六回はタトゥー業界におけるオリジナルとコピーの関係をめぐって。

「オリジナルが偉くてコピーはけしからん」という価値観

 当時、バンコクでも観光地でも、自分の営業自体はひっそりと静かにやっていたが、通りのタトゥーショップにはよく出かけた。まるで上から次々に覆いかぶさってくるような押し出しの強い商店が立ち並ぶエリアだと、タトゥーショップにも呼び込みがいたりして驚かされるが、どこでもとにかく端から端まで全部入って行って挨拶がてら情報交換の世間話をしたり、デザインカタログを見たりしたものだった。

 外国人旅行者が多い場所にはタトゥーショップも集中していた。コンビニ、タトゥーショップ、バー、の3つの繰り返しが延々と続くのが観光地の目抜き通りの典型的な風景だった。料金は時間で行ったら30USドルぐらいで、たまに知らない人にはその倍ぐらいは吹っかけたりもしているようだったが、それでも欧米や日本に比べたら全然リーズナブルなのでどこも旅行者で繁盛していた。ちなみにタイ人客を相手にする場合は時間せいぜい15USドルぐらいのところが多かったと思う。そういう裏表のあることをやっていると旅行ガイドブックなんかに投稿されたりして、最終的には損するよと教えてあげていたのだが、みんなどこか遠くの国の童話でも聞いているような顔だった。

 僕はその店の良いオリジナルのデザイン集があると自分のコレクションのどれかと交換でコピー製本しあったりしていた。僕のオリジナルシリーズで一番人気だったのはシンメトリーなワンポイントのトライバル集だった。各地域で一店だけと交換しても翌年にはほとんどのショップにそれが行き渡っていた。だからあの頃はタイ中で僕のデザインのコピー製本が出回っていた。ヘナタトゥーの店でも見かけたりしたものだった。デザインカタログを豊富にストックしているかどうかというのが90年代のタトゥーショップにとってはそれほどに重要な生命線だったということだ。あれから20年以上も経っているが、いまだに全く予期せぬ場所や状況であの頃の自分のデザインやそれを元にわずかに手を加えたものを彫った作品と再会(?)したりすると、お互いにいろいろあったよなぁ、みたいな感慨に耽る。

 オリジナル、そしてコピーというワードが出てきたので触れてみるが、当時のタイのタトゥーショップは外から見えるように壁に様々な作品の画像を張り出しているところが多かった。だいたいは欧米のタトゥーマガジンや写真集の画像を引き伸ばしたものだった。日本の和彫りの大御所達による総身彫り作品の画像もあった。タトゥーをちょっとでも知っている旅行者にとってはそれらがそのスタジオの作品でないことぐらいは一目瞭然だからよく物笑いの種にもなっていた。せめてもうちょっとリアリティが感じられるぐらいの渋いラインナップにしとけばいいのに、どれもド派手に素晴らしすぎるからだ。

 店内の作品写真のアルバムまでそういうどこからか引っ張ってきた画像をご丁寧に写真プリントで印刷しているのもよくあって、そうなるともう一見の客の立場からすれば詐欺だったが、客からそういう指摘を受けても、うちではそれと同じように彫れるから問題ないよと涼しい顔でうそぶくだけだ。結果的に同じように彫れなかったとしても、いつかはそういう風に彫りたいから、と。そういうことをやっている店が利益を上げているから他もやらざるをえないという構造だったのだと思うが、根本にはやはりメンタリティーの次元の違いがある。

 オリジナルが偉くてコピーはけしからんという考えは今でこそ西側世界ではメインストリームかもしれないが、ちょっと前の昭和の時代なら日本の理髪店などでもどう見てもその店の客とは考え難いさまざまな髪型の欧米人の写真を外に向けて張り出していたわけだし、我々にとってはそんなに遠いセンスの話ではない。何だったらどこかから見つけてきたタトゥー画像を持ってきて正確にこのまま彫ってくれという日本のビギナーのお客さんは、今でも結構いるのだし。

 そもそも近代のタトゥー文化を見渡しても、欧米の水夫タトゥーは薔薇とナイフなどのいくつかの決まり物デザインを使い回していたし、和彫りは歌川国芳の浮世絵の意匠を丸パクリしてきた。ここタイのサクヤンもそうだ。そこではオリジナルとコピーの真贋や優劣など問題にされること自体が皆無だったわけだ。タトゥーイストとクライアントの「個」がテーブルの上に出てきたのはごく最近のことである。

 

タトゥー業界における「模倣」のガイドライン

 僕は世界各地のトライバルタトゥーを資料に基づきながら正確にコピーすることも、ネオトライバルとしてそれらに独自のアレンジを加えることも、また何かにインスパイアされたものではない完全オリジナルの現代ブラックワークを彫ることもある。その横断的な立場からの観察で僕が感じ取っている2019年最新版の世界のコピー可能ガイドライン内として認知されているのは、数字や文字、記号などの決まりモノ、前述したような水夫や浮世絵などの古典的なモチーフ、資料に残る部族のトライバルタトゥー、ただの線とかただの塗り潰しなどの普遍的で単純なパターン、テキスタイルデザインや幾何学的なパターン、有名人のポートレートやアニメキャラクターなどのアイコン、技術的手法、表現のスタイル、などなどが挙げれれると思う。

 他の誰かの現代のオリジナル作品も何かしらのアレンジが施されていればOKだ。つまり逆にガイドライン外とされるのは誰かのオリジナルのデザインの画像をトレースしてそっくりそのまま彫ることや、誰かの作品画像を自分のものとして発表することぐらいということだ。なおタトゥーということだけではなく勝手に使用すること自体を問題視するディズニーなどの会社の著作権絡みのモチーフはちょっとまた別の話だ。

 これが例えば10~15年前だとガイドラインはけっこう違っていた。ほとんど同じデザインだが僅かに変化させたようなタトゥーの作者がネット上でよく公開張り付け処刑にされていたものだ。独特のデザインスタイルや新しい技術的手法で人気のアーティストがその追随者達を泥棒猫呼ばわりもしていた。よく見られたのは欧米のトップアーティストがアジアやロシアや南米の職人相手にブチ切れている構図だったが、先住民が欧米人のプロに抗議というのもトライバルとネオトライバルの狭間では頻発した。これらはネットとソーシャルメディアの黎明期における混乱だったとも言える。そこで得るものと失うものとがまだ理解されきっていなかったわけだ。卵を割らなきゃオムレツは作れない。

 それに、処刑執行人たるオリジナルの作者が烈火の如く相手を罵倒し尽くしているその根拠であるところの「オリジナルが正しくてコピーは悪である」という思想は、それほど絶対的なものなのか、という疑問も、模倣の繰り返しによってその文明の進歩を遂げてきた人類ならば、当然揺り戻しで考えるものだ。言ってることは正しいかもしれないが、度量が小さく、友達にはしたくない人間。今、あんまりしつこくそこに関して喚き立てると専門家の間ではそういうジャッジが下されるような空気があるように思う。自分がコピーする時は敬意を持って慎重にガイドラインを見極め、コピーされた時にはマイペンライ(気にしない)。これも現代タトゥーの、普遍性への回帰の動きの一つなのかもしれない。

 

タトゥー好き? それともタトゥーマシンが好き?

 これらのタトゥーショップには様々なタイ製マシンも売っていた。日本や欧米ではタトゥースタジオでマシンを売っているのはほとんど見かけないが、タイではそれが当たり前だった。それだけタトゥーが大流行していたということだ。中にはその店オリジナルのコピーのマシンなどもあった。いったいどっちなんだよみたいな話ではあるが、要するに欧米の有名どころのブランドマシンなどを個人的にコピーしたものだ。タイの物価の感覚で言えば当時の欧米のタトゥーマシン100~500USドルは庶民には手が出ないような額だ。

 

 

 さらに僕の記憶の範囲で言えばおそらくは国際郵便為替で海外の商品をカタログ購入できる仕組みそのものが当時のタイにはなかったはずだ。たしか郵便局で断られた思い出がある。それに対してタトゥーマシンを構成する各パーツは町の電機屋や工具店などでそれぞれごく普通の値段で手に入るものばかりだ。直接手に入らないものはそれぞれのパーツを統合する基体であるフレームと動力源となるマグネットコイルの二つなのだが、フレームは型を作って町工場の鋳鉄で作ったり旋盤で削り出してもいいし、二つの金属片を溶接したりネジで接合してももちろん出来る。コイルは小学校の電気磁石の実習の時みたいに核となる金属柱に手で銅線を巻いていけばいいのだ。

 だからタイでは自分たちでそれを作っていたわけだ。そしてこれは僕のようなマシン好きにはたまらない豊饒の海だったのだ。面白そうなマシンがあると片っ端から電源に繋げさせてもらって自分流にチューニングしていった。それを手の空いてる店のスタッフに渡して、どうよこの感じ? みたいにやり取りして打ち解けたら、さらに自分の工具やパーツも持ってきてマシン分解、パーツ交換などの改造をみんなでワイワイ楽しんだ。

 どうせみんなマシンフェチなのだ。なんだったらタトゥーよりもマシンそのものの方が実は断然好きなんだよね、みたいな奴だらけのこの業界だ。小さな男の子たちがロボットのオモチャで遊ぶのに国や人種なんて関係ないように、僕らは言葉の壁を軽々と飛び越え、夜通しギンギンに没頭していた。当時は使う針数が小さかったから高速で安定するチューニングを皆が求めていたような気がする。電圧をかけすぎてキャパシターという部品が爆発し、深夜の部屋中にチリが降ったことは何度もあった。無茶な改造で遊ぶ時は感電防止のゴム手袋と、各種爆発に備えたゴーグルは必須だと思う。じっさい誰もやってないんだけれど。

 僕はそんな感じでしょっちゅう遊びに行ってたカオサンロードの、とあるスタジオのオリジナルコピーマシンが気に入って、とうとうしまいにはそのマシンのフレームを真似して自作した型をバンコクの鋳造工場に持って行ってフレームを作ったり、コイルを手巻きで作ったりするところまでいってしまった。当然の流れだったと思っている。これは言ってみればオリジナルコピーのそのまたオリジナルコピーだ。これだけこのフレーズを繰り返していると、もうこの際、オリジナルとかコピーとかホントどうでもよくなってくるものだ。やりたいようにやればいいのだ。オリジナルにとことんこだわるのもいい。コピーを極めるのもやりがいがあるだろう。その中間帯の場当たり的でどっちつかずのもっさりした僕らの人生ですらもまたテキトーに楽しいのだから。

 ちなみにこの自作マシンはイマイチだった。どうもチューニング自慢のアーティストとそれを一から創り出す製作者との間には大きな差があるようだった。

 かつて欧米からは猿まねなどと言われながらも、気づいたら技術大国にまでなっていた日本。もしも今、マキタとかシマノみたいな会社がタトゥーマシンを作ったらきっと業界をひっくり返すような画期的なモノが出来上がるはずなのだ。が、タトゥーに関してネガティヴな日本の社会でそれが実現することはないだろう。タイや中国から今後それが現れるのをもうちょい待つとしようか。

 

 

✳︎✳︎✳︎

 

 さて、ここまでインド、タイと書いてきた。これらの国々が僕がホームグラウンドとして長くタトゥーを彫りながら旅してきた地域だった。こういう文章を書いていると、僕のことを、いろいろな興味深い場所や物事をキビキビと回ってテキパキと調査してきたトラベルライターのように捉える向きもあるかもしれないが、実際のところはまったくそういうわけではない。そういうのが好きな方にはアメリカの人類学者、ラース•クルタクや、ドイツのジャーナリスト、トラベリング•ミックといった僕の素晴らしい友人達の、広く深く、ちゃんとした著作の数々をぜひお勧めしたい。

 僕の旅にはさしたる理由や目的があったわけではなかった。ただ旅を終わらせたくなかっただけの、ただあてもなくのんびりと放浪していただけの、1人の沈没旅行者が書いている「地球のほっつき歩きかた~タトゥーイスト編~」てなところが妥当な姿だと思ってほしい。

 しかしまあ、そんな場当たり的な僕の旅の様子を時系列で順繰りにずらずらと並べてみても退屈なだけだろうし、ここからは一つトライバルタトゥーをめぐる現在までの世界的な潮流を辿るような構図で僕なりにスッキリと整えていこうと思う。

 まずは、やはりこれまでさんざん出てきたボルネオトライバルタトゥーの起源であるマレーシアのボルネオ島からがいいだろうか。

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html