logoimage

吉山森花 『だけど私はカフカのような人間です』 第四回《ファッション》について

沖縄県恩納村に生きるアーティスト・吉山森花のフォト・エッセイ。第四回は《ファッション》について。美しくあること、「無知」であること。

 

 私は東京に2年ほど住んでいたことがある。東京に着いたとき、私の財布の中には二千円しか入っていなかった。持ってきた服もボロボロで、汚い着古した服ばかりだった。

 

 東京の街は煌びやかで、歩いている人間達は色々な服装を身にまとっていたけど、どこか小綺麗で都会っぽく、とても心細い気持ちになったことを今でも覚えている。素敵な洋服や、お洒落な人間を眺めることは、以前から好きだった。気づくと私には、原宿でアパレルの仕事をする彼氏ができていて、同じく原宿で働くお洒落な友達も数人できていた。

 

 初めて原宿で友達になった同じ沖縄出身の女の子とは、今でもずっと仲良しである。私はとても恵まれていた。その友達もファッションに詳しい人で、彼女と遊ぶうちに、私も少しずつではあったが、ファッションについて学ぶことができた。

 

 ファッションの世界では、次々に新しいものを生産し、次々に新しいものを消費することが重要だとされている。少なくとも私にはそう思える。だから、本当にこだわりを持っていて、なおかつ不器用な人には、生きづらい世界だとも感じる。

 

 それでも本物の人間は、その世界でずっと生き続けることができるのだろうけど、私はといえば、ファッション業界に入りたいとは思わない。見た目がとても大切な世界だ。自分の容姿に自信のない私みたいな根暗な人間はきっと向いていないと思うし、可愛いやカッコイイを買う側は求めているわけだから、売る側は常にそれを意識しなくてはならず、服を売っている自分に本当に誇りを持てなければキツイ仕事だとも思う。

 

 それに自分のファッションとは別に、世の中の流行についても知っておかなければいけない。流行を作り出すハイブランドの情報に、いつも目を配ってなくてはいけない。怠け者にはとてもできることではないと思う。

 

 私が友達になった人達は本当に洋服が大好きな人たちだった。ファッションの歴史や、現在の流行について、色んなことを知っている人達で、本当に勉強になった。あんなみすぼらしい格好をしていた私となんで仲良くしてくれていたのだろう。いつも思うが、私はとてつもなく運が良い。

 

(Photo by Morika)

 

 東京に暮らしていた頃、私はほぼ毎日、原宿に遊びに行っていた。他に居場所もないし、目の保養にもなるし、大好きな友達に会えることが、とても嬉しかったからだ。

 

 だけど、毎日通っているうちに、私はやがて原宿という街に違和感を感じるようになった。道を歩いていると、歩道の手すりに腰掛けている個性的な格好をした若者をたくさん見かけ、最初は何も思わなかったのだが、だんだん「なんでこんな所に、しかもたくさんの人がいるんだろうか?」と疑問に思い始めたのだ。

 

 友達に尋ねてみると、「あぁ、スナップ写真に撮られるのを待ってる人達だよ」と教えてくれた。なるほど、自分が一番カッコイイと思う格好をして、みんなにそれを見て欲しくて、特に用があるわけでもないけど原宿に来ているのか、と納得し、それと同時に違和感も感じた。

 

 私はファッションについてはあまり詳しくなく、自分の価値観でしかファッションを語ることはできないのだけど、ファッションという世界は多分、承認欲求をわかりやすく消化できる場でもあるのだなと、その時に思ったのだ。

 

 人は、美しい人に憧れるし、惹かれる。そして、自分もそうなりたいと願う。それは普通のことだと思う。私も美しい人を見ると自分を鏡で見るのが嫌になるし、自分も努力してあれくらい美しくなりたいなと思うし、嫉妬心のような感情だって抱く。人は美しいモノを見ると所有したいという欲望にかられる。全部が全部そうではないだろうが、SNSが流行りだしてからは特に、人のそうした欲望が一層強まっているようにも感じる。

 

 かくいう私も、数年前まではSNSに死ぬほど悩まされた。人に見られているという気持ちよさ、人に貶されるという恐怖心を非常に上手く刺激し、依存へと導く力がSNSにはあると思った。

 

 また、SNSができたことで、色んな国の色んな人たちの何気ない日常を見ることができるようになった。これを金もうけしたい人たちは決して見逃さないだろうし、実際SNSのおかげで潤っている人がたくさんいるんだと思う。

 

 私は老子の教えがとても好きなのだが、老子は「無知であること」が善い生き方だと言っている。SNSの存在はまさにこの老子の言っていることの逆だと思うのだ。SNSやネットなどを通じて知ってしまうから欲しくなる。手に入れることができなければ腹が立ったり悲しくなったり苦しさを感じたりする。

 

 ファッション業界はこうした心理を本当に上手く活用しているなと思う。でも、現代で老子の教えのような生活をすることはとても難しい。そもそもファッションの言葉の意味を調べてみたら流行という意味もあるらしい。流行は人に知られてこそ流行する。どうりで、ファッションについて書くことに私は違和感を覚えるわけだ。

 

(Photo by Morika)

 

 そんな私にも好きなデザイナーはいる。ポール・ポワレというデザイナーだ。ポワレはファッションの世界を大きく変革したデザイナーでありながら、人生で三度も破産している。ポワレのように自分の好きなことをやるためにマイナスの利益になってしまうことすら恐れないくらいの人間が、本物のファッショナブルなんじゃないかと私は思う。

 

 服というのは元をたどれば身を守るための方法の一つだった。しかし、人間の交流が広がり、多くなるにつれ、人間達は世界の美しいモノをたくさん知ってしまった。そして、それが欲しくなり、実際に手に入れるために、たくさんのことを犠牲にしてきた。

 

 それは仕方ないことかもしれない。人は知ってしまうとどうしても欲しくなってしまうからだ。でも、その欲しいものが本当に欲しいものかどうかは、また別の話だろう。

 

 だから、私は老子の教えと現代的な感覚を良い具合に織り交ぜて生きることができたらと思っている。知識をたくさん詰め込んだ結果、人の欲望に利用されてしまうのではなく、自らちゃんと良い悪い、欲しい欲しくないを見極めた方がいいと思うのだ。

 

 結局、私はどんな内容の話をしていても同じ所に行き着いてしまうのだけど、自分が欲しい、かっこいいと感じたら、迷わずその直感を信じるべきである。

 

 お金のことを気にしたくはないけれど、残念なことにこの世界はお金が人間を支配していると言っても過言ではない世界になっている。その中で、人生もファッションも、自分の好きなモノを、ちゃんと自分で選んで手に入れることができる人間が増えたら、と日々思うのだ。

 

(Photo by Morika)

 

 私が身につける服たちは平均2千円以下の服が多い。私は貧乏なので、それ以上高いと買えないのだ。東京に暮らし、原宿に通っていたときも私は貧しかった。その時に学んだことは、ボロボロの服を着てようが、どんな服を着てようが、カッコよく見える人間になるしかないということだった。服やファッションに踊らされずに自分がカッコよくなれば、黄ばんだTシャツを着ていてさえカッコよく見えるものだ。つまり、服に着られる人間ではなく、服を着る人間にならなければ、一生ファッションに利用されて終わってしまうということだ。

 

 だから、もし美しく人を魅了する人間になりたいと思うなら、中身も外見も人の何十倍も努力して磨くべきだと思う。中身が伴っていない人間は、見ただけでもすぐにわかる。外見だけ繕っても本当の美しいモノにはなれない。流行を生み出すことができるような人というのは、きっと、何気ないモノをカッコよく変換して、見せることができる人なのだと私は思う。

 

 カッコよくなりたいなら、美しくなりたいなら、中身も、外見も磨きましょう。それが私のモットーなのです。

 

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

「私の子だからって私だけが面倒を見る必要ないよね?」 エチオピアの農村を支える基盤的コミュニズムと自治の精神|松村圭一郎インタビュー

「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

 

PROFILE

吉山森花 よしやま・もりか/沖縄県出身、沖縄県在住。Instagram @morikarma。