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吉山森花 『だけど私はカフカのような人間です』 第一回 MORIKAについて

沖縄県恩納村に生きるアーティスト・吉山森花のフォト・エッセイ。第一回は《自分》について。イジメ、登校拒否、家出、帰郷、そして石川真生との創作。森花の半生。

 カフカはミルクの入ったコップを持つことさえ恐ろしいと言った。私はその気持ちが痛いほどよくわかる。

 ガラスのコップに入ったミルクを持って何が見えてくるか。私はガラスのコップに入ったミルクを見るとそのコップを手に取り、そのまま床に叩き割る自分が見えてくる。割れたコップを眼の前にした私はそのガラスの破片たちに顔を埋めて自分の顔をグチャグチャにしたくなる。コップさえ時には凶器になりうる。カフカや私みたいな人間はただ生きるというだけでも日常生活に潜む何かに怯えなければならないのだ。だけど私は完全なカフカにはなれない、私はあくまでも森花なのである。

 私は昔から何かと引き寄せてしまうタイプの人間だ。私の仲のいい友達いわく、私たちは変人引寄機らしい。でも相手からしたらよっぽど私の方が変人に見えると思う。なにせ精神科の医者は私が精神障害2級に相当するというのだ。2級というのも随分と中途半端な精神障害者だけど、社会生活を普通にこなせる人間から見たら立派なキチガイの部類だろう。

 たしかに幼い頃から友達付き合いも難しくケンカばかりしていたし、よく変なことを家族に言っていたらしい。その時はまだ家族も私のことをちょっと変わった個性的な子供くらいにしか思わなかったそうだ。私が異常なのではないかと家族が心配し始めたのは、私が高校生になって、ある日突然に学校に行けなくなってからだ。もうその頃には、私はふたたび社会生活に復帰できないくらいに変な人間になっていた。

 もともと変わった趣味趣向を持っていた。そのうえ私は昔からテレビを見ない人間だった。子供という生き物は本当にテレビが好きだ。学校へ行くと前日の夜に放送されたテレビの話で教室は持ちきりで、私はその話にまったくついていけなかった。

 私の家は海と森に囲まれた田舎の村にあって、私は毎日、海と森に遊びに行って、帰ってきたら絵を描いていた。母親は地元の子供たちにピアノを教えていて、私はピアノのある部屋でピアノの音を聴きながら一人芝居をするのがとても好きだった。だけど、私はそれを小学生の高学年になっても続けていたために、ピアノの生徒達に変人扱いされ、よく陰口を言われていた。

 学校の成績は優秀な方だったが、小学四年の時に“猫引っ掻き病”という変な病気にかかってからガクリと成績が落ち、そこから二年間、イジメられることになった。小さな学校で各学年に一つしかクラスがなかったため、中学を卒業するまでずっと同じ人間達と学校生活を共にしなければならなかった。私にとっては地獄の日々だった。一方、イジメは良い学びにもなった。イジメから逃れるために、私は自分を偽ることを覚えることができた。でも結局はそれが、私をさらなる社会不適合者へと追い詰めていくことになった。

 どうやら私はとても舌ったらずで、喋りかたがオカシイらしい。姉や兄、弟にも小さい頃バカにされたのを覚えている。家族とは死ぬまで付き合うわけだから許せるけど、他人からしたらそうはいかない。喋り方がぶりっ子してると言われ、また陰口を言われるようになった。他人にイジメられたり陰口を言われるたびに、私は自分を偽るための仮面を厚くしていった。

 でも、仮面は仮面でしかない。特に私のように嘘をつくのが苦手な人間は、この仮面にものすごく苦しめられてしまう。結局、私の仮面は5年しかもたず、高校3年の春が過ぎた頃に崩壊してしまった。

 自分でもわけがわからないまま学校に行けなくなった。学校に行くふりをして毎日海に行き昼寝をして帰る日々が続いた。親にも言わずに休んでいたため、しばらくすると担任の先生から電話がかかってきた。私は、とにかく理由はわからないけど学校には行けない、としか言えなかった。

 家族はただ困惑していた。やがて姉が「もしかしたら森花は病気かもしれないから精神科に連れて行ってみてはどうか」と母親に提案した。こうして私は精神障害者の資格を得ることになる。医者の診断は私には一切告げられることはなかった。ただ言われるままに私は大量の薬を飲んだ。私が何の病気と言われているのかを親に問いただしても、教えてくれることはなかった。悶々とした気持ちのまま、私の高校生活は終わった。

タトゥーと家出

 高校生活を終えてしばらくはニートと呼ばれるものになっていたが、母親に勧められ地元である恩納村の民族博物館で働くことになった。最初のころは仕事もろくにせず、朝8時から夕方の5時までずっと絵だけを描いているような給料泥棒だった。上司の女性がとても懐が広い人だったので、私は怒られることなく、私自身が気がつくまで黙って見守ってくれた。彼女はむしろ私が描いてる絵を褒めてくれたりもしていて、こんなにダメな人間によくあんなにも優しくしてくれたものだと、心から感謝している。

 博物館で仕事しながらも病院には通い続けた。よっぽど人間嫌いだったのか、どこの病院に行っても医者とうまが合わず、病院を頻繁に替えているうちに、私は病院難民になっていた。

 20歳になったばかりの頃だっただろうか、私はそのころ頻繁にメールのやり取りをしていたメル友に自分が感動している瞬間の話をした。それまで自分の感じていることについて、あまり人に話すことはなかったのだけど、その人は私のことを否定することなく聞いてくれるだろうと思ったのだ。

 私が話した内容はたしか「血管が身体中から出てきて触覚になり、それがたくさんの情報を集めてきて身体の中に入ってくるから気持ちいい」というものだったと思う。それを聞いたメル友は、今すぐ病院に行くことを勧めます、と私に言った。それまでは自分のどこが変なのか理解できなかったのだが、その友達のおかげで私は何が普通で、何が普通ではないとされているのかを学んだ。

 21歳の時に、このままでは私は少しもアーティストになれないと思い博物館を辞め、胸の真ん中にタトゥーを彫り、そのまま家出同然で福岡に行った。私は幼いころから漠然と自分はいずれアーティストになるのだとばかり考えていた。福岡には高校生の時に付き合っていた彼氏の姉であるサオリさんを頼って行ったのだが、仕事も何も決まっていなく、お金も2万円しか持っていなかった。

 福岡に着くとサオリさんが空港まで迎えにきてくれていた。サオリさんには服役歴があり、ヤンキーな女性だったのだが、なぜかそのまま空港の警察署まで一緒に行き、昔世話になったという刑事の人に挨拶をして帰った。その時から少し変な感じだなと思っていたのだが、覚せい剤の中毒者であることは前々から知っていたので気にしないように努めていた。

 サオリさんには子供がいて、仕事はデリヘル嬢をしていた。私はそのころとてもうぶだったので、デリヘル嬢がどういった内容の仕事をするのかわかっていなかった。サオリさんに聞いても、男の人と二人きりでお話しするだけだよ、としか教えてくれず、そんなうまい仕事があるなんて世間は捨てたもんじゃないなと思ったりしていた。仕事も決めていなかった私はサオリさんの勧めもありデリヘル嬢をやることにして福岡について二日目に広告写真を撮りに撮影所に連れて行かれた。撮影が終わりアパートに戻ると沙織さんの仲の良い売人が来ていて、サオリさんはその人と一緒にシャブを打ち、私はそれを見ながら眠りについた。

 翌日の朝10時にインターホンが鳴った音で私は目が覚めた。するとサオリさんがものすごく焦って「森花! 急いでこれにおしっこ出してちょうだい!」と言うので、私は言われるままにおしっこをアイスのカップに出した。サオリさんが玄関の扉を開けると令状を持った警察を先頭に十数名の人間が後ろについていて、令状を読み上げるなりドタドタと中に入ってきて、部屋中をひっくり返していった。もちろん私の荷物も全てひっくり返された。

 そのままサオリさんは連れて行かれることになり、残った私も警察に連れて行かれることになったが、サオリさんが子供を24時間の保育所に預けていたため私と二人の刑事で迎えに行くことになった。子供がアパートに着くと手錠をされたサオリさんを見て何かを悟ったのか、声を張り上げて泣き出した。まだ23歳の小さな子だったが、母親との別れを周りの雰囲気から感じ取ったのかもしれない。とても胸が苦しくなった。

 警察署に着くと私はまたオシッコを取られ、事情聴取を取られ、私が何もやっていないことが証明されて、そのまま解放された。家族ぐるみで仲良くしていたため、サオリさんの家族が迎えにきてくれた。私は別の友達を頼って翌日の高速バスで宮崎に行くことになり、その日はサオリさんの妹の家にお世話になった。翌日、妹が福岡の天神を案内してくれたおかげで最後の福岡を楽しい思い出にすることができた。

 とても疲れていたはずなのに高速バスでは一睡もすることができず宮崎についた。宮崎では10日間友達に世話になった。私は高速バスの運賃にほとんどのお金を使ってしまい全財産が数千円と携帯電話とボロボロの服しか残っていなかった。その友達はそんな私にご飯を食べさせてくれたり宮崎を案内してくれたりと心から優しくしてくれて、私はその友達に返したくても返せないほどの恩を今でも感じている。 

 宮崎について初めて親に電話をした。親は明日までに連絡がなかったら捜索願を出そうと話し合っていたとこだったらしい。私は幼馴染を頼って東京に行くことに決めていたので、その航空券を買うお金を貸して欲しいと親にお願いした。親も借金だらけの文無しなのは承知していたが、このまま沖縄に帰るわけにはどうしてもいかなかった。親は渋々私にお金を送ってくれて、私は宮崎を発つことができた。

Photo by Morika

歌舞伎町とガールズバー

 東京に着くとその時に仲のよかったラッパーの男友達が迎えにきてくれていた。その人もとてつもなく親切にしてくれて色々なところに連れて行ってくれた上、お金も全部出してくれた。

 私の幼馴染の麗華がその頃歌舞伎町で働いていたので、翌日の朝に歌舞伎町の公園で待ち合わせをしていた。歌舞伎町の街の荒んだ街並みに、あの時の私はひどく感動したのを覚えている。

 最初は麗華にお金を借りて、麗華の彼氏の家に居候しながら仕事を探したがなかなか見つからず、そのまま麗華が働いていた歌舞伎町の中にあるガールズバーで働くことになった。

 ガールズバーを辞めるまでの数ヶ月は地獄の苦しみだった。私はもともとデブ体質ではないのだが、東京に行った頃はジプレキサという薬の副作用で体重が10キロ以上も増えていて一般的にいう醜い姿になっていた。そのせいもあってお客さんの態度も働いている女の子達の態度もとても冷たく、裏で陰口を言われているのが手に取るように分かり、すぐにでも辞めたいくらいだったが、生きるためには辞めることができなかった。

 そうこうしているうちに私にも彼氏ができ、麗華もその時に付き合っていた彼氏とは別れ新しい彼氏ができた。私達は麗華の元彼が住んでいた西新宿のマンションから新しい彼氏の住む中目黒のアパートに移った。今思い返すと、私は本当に出会う人に恵まれている。

 しばらくの間、私は当時付き合っていた彼氏と同棲するためお金を貯めていた。そしてやっと二人で住めることになりお世話になった麗華とその彼氏の家を去った。本当に世話になりっぱなしだったのに、あの頃の私は自分の苦しみでいっぱいすぎて誰にもちゃんとお礼をすることができなかったし、いまだにできていない。

 新居は吉祥寺だった。住所は吉祥寺だが西荻窪の駅の方が近かったので友達や家族には西荻窪と教えていた。私は中央線沿いの街が非常に好きで、吉祥寺や高円寺などに近い場所がいいと彼氏にワガママを言って、吉祥寺の物件にしては安いアパートに決めてもらった。

 新居に移ってからもしばらくは歌舞伎町で働いていたが、また人間関係がこじれてしまい、ある日から行かなくなってしまった。無職のまま12ヶ月過ごしていたものの、さすがに東京で生きるためにはどうしても仕事が必要で、私はまたガールズバーで働くことにした。そのガールズバーは西荻窪にあったため毎日歩いて通った。東京に来たばかりの頃は体重が56キロほどあったのだが、西荻窪で働き始めた時には47キロまで落ちていた。薬を飲まなくなっていたのと短期間ですごいストレスを感じたことで体重が落ちたのだと思う。

 西荻窪のガールズバーで働きだしてからは、新宿で働いていた時よりもだいぶ精神的に落ちついていた。

写真家・石川真生との出会い

 私が石川真生さんと出逢ったのは恩納村の博物館で働いていた時だったのだが、初対面から真生さんは私を気に入ってくれて、その時に紹介してくれた彼氏よりも深い付き合いをしていた。

 真生さんが展覧会を東京ですることになり、私が吉祥寺に移ってすぐに私を訪ねてきてくれた。私は仲のいい友達も彼氏も原宿で働いていたのでよく原宿に遊びに行っていたため、真生さんとも原宿で待ち合わせをして駅まで迎えに行った。

「森花は原宿でも目立つわね、すぐどこにいるか分かったわよ」

 そう第一声で言われたのを今でも覚えている。

 真生さんと食事をしながら私が見えている世界について話していると、真生さんが「一緒にそれ写真にして残さない?」と言ってくれた。その言葉をきっかけに私と真生さんの共同作品を作ることが決まった。

 それからは真生さんが東京に来るたびに私が見えているもの私の頭に流れているものを形にしていった。マイナス2度の夜に真っ裸で撮影したこともあった。

 そんな中、私がガールズバーのお客さんに性的な乱暴をされてしまうという事件があった。その事件からは家から出ることもできずにずっと引きこもって、家で何をすることもなくただ苦しむだけの日々を送るようになった。酷く傷ついた私は全身に謎の蕁麻疹ができ、二ヶ月経ってもその蕁麻疹は消えることなく酷くなるばかりで毎日泣いてばかりいた。その話を真生さんに話すと、今すぐ沖縄に帰ってきなさい! お金ないなら私が貸すから、と言ってくれたので、私は電話を切ってすぐに沖縄行きの航空券を購入し、着の身着のまま自分の荷物もほぼ全て置き去りにして沖縄に帰った。

 沖縄に帰ってきて真生さんと作品を作っていくうちに私はだんだんと自分を取り戻していった。帰ったばかりの頃は父や兄弟にさえ嫌悪感しか抱けず、男性と二人きりになる空間がとてつもなく恐ろしくて、世に存在する男が絶滅してくれることを本気で願ったりしていたけど、そんな気持ちも1年、2年、と時間がたつと、沖縄の空気に浄化されたのか、少しずつ受け入れることができるようになり、同時に自分が本当に進みたい道も開けていった。やがて真生さんとの共同制作は『森花:夢の世界』という作品集に実を結び、真生さんが撮影した力強く美しい写真を目に、私は自分らしく生きることの素晴らしさを知った。

 それまでは自分を主張することはイジメにしか繋がらなかった。でも普通ではないと言われることが、今度は森花の個性として認められるようになった。生きていてよかったと本当に思った。とはいえ、幻聴や幻覚、被害妄想が消えたわけではなかった。相変わらず、薬は飲んでいて、今度は薬を飲むことによって今まで見ていた世界がガラリと変わってしまい、それに苦しめられた。こんな世界に生きているなんて苦しすぎると、一ヶ月分の薬を全部飲んでも恐怖心が消えないので、家にある薬をかき集めて全部飲み干して救急車で運ばれたことが数回あった。死にたいという気持ちなどではなく、ただ怖くて意識を消したかっただけだけど、1週間も昏睡状態になってたこともあったらしい。

 現在、私は絵を描いたり写真を撮ったりしながら、生まれ育った恩納村で生きている。2018年には初めての個展を開催することもできた。今も私は病院に通っているけど、薬は完全にやめて、自分の精神とシラフで向き合うことができるようになっている。被害妄想や幻聴はまだあって、それを完全に受け入れることができているわけではないけど、少しずつ上手い付き合いができるようになってきていると思う。まだまだ周りの人間には迷惑をかけっぱなしだ。破天荒で自由気ままな上に妄想や幻聴などがついてまわるのだから家族や友達はたまったもんじゃないだろう。それでも私を見捨てないでいてくれて本当に感謝しかない。

 私はとても変な人間で、変な人たちを引寄せる変人引寄機だ。カフカのように、私には生きるということがとても恐ろしい。でも、カフカと違って、そうした自分の人生に私はとても満足している。私は自分の人生が好きで、周りの人たちが好きだ。変人なりにも自分に誇りを持って生きている。

 私はカフカのような人間だ。でも、私はカフカにはなれないし、ならない。

 私は森花だ。

Photo by Morika

 

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PROFILE

吉山森花 よしやま・もりか/沖縄県出身、沖縄県在住。Instagram @morikarma。