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HAGAZINE

中村保夫 『神保町バブル戦争』 第二回「東大出の事件屋・下野順一郎との闘い」

東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期、古書の街・神保町を襲った「侵略者」たちの実態。第二回は事業の失敗に伴う中村家の崩壊、そして、東大出の事件屋、乗っ取り屋である下野順一郎(増尾由太郎)による“乗っ取り”の手口について。

長い悪夢の始まり

 この連載の第一回が3月20日にアップされてから、ありがたいことに予想を超える多くの方々から応援の言葉をいただいた。いくら事情が事情とは言え、肉親の醜悪な姿を晒すことに葛藤はあったが、そんな僕の背中を押すように様々な縁とタイミングが重なり、30年以上に渡る孤独で壮絶な闘いをやっと公にすることができた。この機会を与えてくれたHAGAZINEには心から感謝している。

 HAGAZINEの〆切が迫る3月6日。僕はどうしても外せない用事があって湘南へと向かっていた。4月26日から公開されるドキュメンタリー映画『HOMIE KEI〜チカーノになった日本人〜』の取材だった。映画のクルーと新宿で合流し、KEIさんが運営する茅ヶ崎の施設まで車で向かう道中、コンビニでコーヒーでも買って行こうとなってローソンに寄った。何気なく雑誌の棚を見ると、見覚えのあるタイトルの本が目に入った。増尾由太郎著『誰も書かなかった《知的》ケンカのしかた』。この増尾由太郎の本名は下野順一郎、僕の実家を蹂躙した〈乗っ取り屋〉ご本人である。

 奥付を見ると、2019年2月19日に株式会社アントレックスという会社が発行しているが、これは1980年に三一書房から発刊された『誰も書かなかったケンカのしかた』に加筆修正した改訂版である。そして、何を隠そう、34年前にその本を実の母・中村怜子が手にしたことこそが、現在まで続く長い長い悪夢の始まりだった。

 

KEIさんの施設に行く途中で見つけた改訂版『誰も書かなかった《知的》ケンカのしかた』

 

美成社の凋落、そして家庭崩壊

 実家に怪しげな人たちが出入りするようになったのは、僕が高校2年生だった1984(昭和59)年頃だった。

 実家の製本屋「美成社」は1930(昭和5)年に創業した上製本など豪華な装丁を得意とし、全盛期には従業員50名ほどを抱える神保町でも有数の会社であった。しかし、出版界の主流が雑誌へと移り、昭和55年頃から製本業は構造的不況に陥った。美成社は1983(昭和58)年に製本業を閉鎖。120軒ほどあった神保町の製本屋も、昭和60年頃には10軒程度しか残っていなかった。

 ちなみに印刷屋や製本屋が文京区や板橋区に多い理由は、バブル直前の好景気だった当時に、神保町の土地を処分して、比較的安い土地に工場を移した会社が多いからだ。地上げ屋からすると、都心にあるまとまった土地である神保町の印刷・製本の工場は絶好のターゲットだ。神保町に土地を持つ同級生の大半が、この当時に神保町から離れて行った。また、バブル全盛には事業用資産の買換特例が制定され、23区内で売却した資産を23区外に移すと課税が繰り延べできるようになったことが、後に埼玉の戸田などに製本工場が増えた理由だ。

 

創業者の祖父が健在だった頃の美成社の封筒

 

 実家は製本業を廃業し、貸しビル業へと転換するが、それに伴い会社の代表を務める二代目の父・素明の周りに集まる人物が一変した。それまでの出版業界の人間とはまったく違う人種が、実家の事務所に入り浸るようになる。学校から帰ると、品のないスーツを着て、貴金属や高級時計をこれ見よがしに見せつけ、大声で話すがさつで下品なオッサンが家にいた。その下品なオッサンは親父に「社長はこれぐらいの時計をしないと」と言って、ロレックスをプレゼントしていた。母親にも「今度ネックレスでも買ってあげよう」と気前の良い男を演じていた。僕にも「お小遣いをあげよう」と言ってきたが、見ず知らずの下品な男から金をもらう理由が見当たらず、僕は無視をして通り過ぎた。今考えると、このロレックスは100%偽物であろう。

 中学3年から新宿のディスコ通いをしていた僕は、そのオッサンから歌舞伎町にいるヤクザと同じ匂いを感じた。この頃はすでにうちの家庭は荒れていたが、この男の出現で本格的に中村家の崩壊が始まる。

 父が「宮ちゃん」と慕うこの男は、有限会社永代信用の代表で宮崎泰朝という前科5犯の詐欺師だった。この男の口車に乗り、一冊何十円という単価の製本業から、一回の融資の裏金利などで数百万稼ぐことを夢見た父親も軽率だった。月額30万円の役員報酬と、手形を割引すれば多額の手数料が支払われることを条件に、父はこの有限会社永代信用の役員となる。それからは、まったく決済される見込みのない手形を割引させられ、永代信用が増資する上で必要だと騙されて白紙委任状に判を押してしまった。

 気づくと神保町の実家はナショナルファミリーという闇金の抵当に入っていた。わずか1年足らずで被害額は3億5000万円。有限会社永代信用の代表・宮崎泰朝とナショナルファミリーの会長・佐藤新一がグルとなった詐欺行為だったが、月々30万円の給料や数百万の裏金利、それとたとえ最初のロレックスが本物だとしても、すべて合わせても安い投資だったであろう。

 この頃、僕の実家は毎日が修羅場だった。もともと父は毎晩飲み歩きほとんど家にいない人だったし、母親も家業に従事し育児を他人に任せていたから、親子のコミュニケーションというものはほとんどなかった。幼少時から母の仕事が終わるのを待って話しかけると、「これからは私の時間だ。早く寝ろ!」と怒鳴られ、夜中に一人で寝るのが怖くなって母の布団に潜り込んでも「邪魔だ! あっち行け!」と足蹴にされていた。

 それまでほとんど会話することのなかった母親が、高校生になった僕に話しかけるようになった。ただし、その内容は僕の父親、祖母、叔母など中村家への罵詈雑言で、とても聞くに耐えない内容だった。そして、毎日のように夜中になると酔っ払った母と父が怒鳴り合いをはじめる。そうかと思えば、最後にはSEXをしはじめ、母親の馬鹿でかい喘ぎ声が隣の僕の部屋まで丸聞こえだった。それまで以上に家にいるのが嫌になった僕は、友達の家を泊まり歩き、ディスコに入り浸るようになった。高校2年の頃である。

 

幸せだった頃の両親と自宅の屋上で

 

不自然で歪な笑顔には裏がある

 そんな日々が数ヶ月続いたある日、母は家を出た。父親がこれ以上、おかしな人に騙されないように、実印を持ってある人物の門を叩いた。それが下野順一郎だった。母・怜子が、冒頭に紹介した書籍『誰も書かなかったケンカのしかた』(三一書房)を読んでその著者に助けを求めたのだ。「毒をもって毒を制す」つもりだったのだろうが、下野からすれば「鴨がネギと鍋を背負って来た」状態である。東大出の事件屋、乗っ取り屋にとって、中学しか出ていない母親を騙し支配するのは容易いことだった。

 

母が引っかかった、三一書房版『誰も書かなかったケンカのしかた』

 

 しかし、どんな悪党であろうと、最初から牙を剥くバカはいない。まずは自分が乗っ取ろうとする会社から、自分以外の「甘い汁を吸おう」という人間を排除することが下野にとっての最初の仕事だった。当時の母は、実直に家を守ろうという気持ちがあったと思う。下野の指示のもと大変なミッションを忠実にこなしていた。僕も母と同行し、闇金やヤクザの事務所に乗り込んで、本来であれば存在するはずのない借用書などをコピーさせてもらい、または出回っている美成社の白紙の手形を回収して回った。

 僕が高校3年生になったある日、母がその下野という男を僕に対面させようとした。僕は中学から早稲田実業に通っていて、本来であればそのまま早稲田大学に推薦入学を果たすべき道を歩んでいたが、どうもその世の中の人が言う真っ当な道というものに訝しさしか感じなかった僕は、独断で早稲田大学への推薦を〈希望しない〉と学校に提出した。その件を母が下野に相談したところ、「僕が保夫君に話をしますよ」となったようである。

 安っぽいペラッペラのグレーのスーツはツンツルテンで、ズボンの裾はくるぶしの上までしかなく、黒くて薄いいかにもオジさん然とした靴下が露出している。薄い頭髪を無理やりポマードでバーコードにセットし、口からは仁丹の強烈な匂いがした。目眩がするくらいセンスのない40代前半の男が、ニタニタと笑いながら近づいて来た。

 

昭和42年に三菱銀行立て籠もり事件を起こした当時の下野順一郎

 

 僕は幼い頃から製本工場で遊んでいた。その際に従業員を見て学んだことがある。何か魂胆のある人は、無意味な笑顔を見せるということだ。普段は(当時)専務だった父親に笑顔を見せ近づいてくる人たちも、父親のいないときは180度人格が変わり、父親の陰口を言い、子供である僕に八つ当たりをする。そんな大人が大嫌いだった。だから下野と初めて会った時にも、まずその不必要な笑顔に嫌悪感を抱いた。

 僕が早稲田大学に進学しないという答えを出したのは、幼い頃から抱いていた「どうしたら、汚らしい大人にならずに済むか」を考え続けた結果だった。当時の僕が選んだ道は、他人に雇われないことであり、そういった雇われて卑屈に生きる人たちとも接触しなくてもいい仕事だった。そのためには自分一人で完結できる表現者になると心に決めていたし、やっていける自信もあった。そもそも推薦で早稲田に入ったって、何もやりたいことがない。僕は映画監督になるために、日大芸術学部を受験するつもりでいた。

 そこに現れた下野はニコニコと不自然で歪な笑顔を晒しながら、「いいですか、保夫君。東大や京大には及ばないけど、早稲田や慶應だってそこそこの学校なんだから、出ないよりは出ておいた方が得なんですよ」と優しげに、低俗な第一声を投げかけてきた。その時になんと返事したかは覚えていないが、「ああ、東大を出たことだけが自慢で、その歳になってもそれだけが取り柄の人間なんだな」と思ったことと、自己中心的で他人の気持ちは理解できないんだろうなと思ったことをはっきりと覚えている。

 ファッションに興味がないことは一見して分かったが、音楽にも映画にもカルチャーにも興味がないどころか、無駄なこととバカにしているのも話をしていてすぐに分かった。勉強しかできないし、してこなかった人間が、東大を出ていないことを理由に人をバカにする姿勢が滑稽だった。正直、早稲田実業の同級生は全員が偏差値でいうと70以上あって、学校や地域でトップの成績だった人の集まりだ。僕の小学生の時の偏差値も80以上だった。早実の同級生はみんな勉強だけでなく、スポーツにも打ち込み、放課後や週末は、ディスコにコンパに麻雀、ビリヤードと遊びまくる。その上でやりたいことを目指して大学に進学する。中高生という多感な時期に、勉強しかせずに東大に入ることだけが目標の人生なんて真っ平御免だ。僕たちも真面目に勉強し続けていれば東大に入れるポテンシャルはみんな持っているが、そうではない人生を自ら選択している。別に東大なんて入りたくないから。東大しか見えてない人よりも、もっと広く世間を見ているから。

 だいたい、音楽にもファッションにもカルチャーにも興味がないということは、もっと分かりやすい金や名誉といった俗物的なものにしか興味がないつまらない人物である。それくらいのことは高校生の僕でも十分に理解していた。この第一印象の直感は正しいと僕は確信していた。僕にはこの男の言動の裏がすべて見えていたから、長い闘いになることもこの時に予感していた。

 最初の闘いがすぐに始まった。この男は、自分のことを〈先生〉と呼べと言い始めた。うちの母もかなりの跳ねっ返りなので、最初こそ抵抗していたが、毎晩毎晩、下野から「俺の言うことは絶対だ! 口答えするな!」と怒鳴りつけられているうちにすぐに軍門に下った。母からも「増尾(下野)先生と呼びなさい」と言われるようになったが、僕は「俺が先生と呼ぶのは担任と主治医(いないけど)だけだ。そもそも自分のことを先生と呼べと言う人間はまともな精神じゃない」と反発していた。ただそれもすべて下野に報告するようになっていて、実の母から監視されていたこともすぐに分かった。ある日、母は「〈増尾先生〉という〈あだ名〉だと思えばいいのよ」と言ってきた。そこまでして自分のことを〈先生〉と呼ばせたいという下野の異常性に吐き気がした。今思うともうこの頃の母親は下野の言いなりとして生きることに決めていたようだ。

 父がこさえた3億5000万円の損害の件が落ち着いてくると、下野の乗っ取り行為は益々エスカレートしていった。それと同時に、下野に抵抗する父親の援軍として宮崎学(当時は別の名字を名乗っていた)が現れることとなる。宮崎が『突破者』を出版する、だいぶ前の話だ。この二人の闘いが、やがて三一書房の労使紛争へも繋がっていくことになるのだが、それはまた次回以降に書いていきたいと思う。

 

当時の裁判資料

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

 

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PROFILE

中村保夫 なかむら・やすお/1967年、神田神保町の製本屋に長男として生まれる。千代田区立錦華小学校、早稲田実業中学、同高校卒業。2001年に東京キララ社を立ち上げ、「マーケティングなんか糞食らえ!」をスローガンに、誰も踏み込めなかったカルチャーを書籍化し続ける。書籍編集者以外にもDJ、映像作家として幅広く活動。永田一直主催「和ラダイスガラージ」で5年半レギュラーDJを務め、現在は両国RRRで定期開催されるDJイベント「DISCOパラダイス」を主催。数々のMIX CDをリリースしている。著書には『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』(東京キララ社)、映像作品には『CHICANO GANGSTA』(監督)『ジゴロvs.パワースポット』(監督・編集)などがある。