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遠迫憲英 『神々のセラピー|サイケデリック精神医学』 第二回「テンプル・オブ・サイキック・ユース」

精神科医・遠迫憲英が精神世界の迷宮を綴った虚構手記。音楽とドラッグと精神分析。交錯していく現実と妄想。1980年代初頭、少年時代の現の意識を撃ち抜いたのは、当時の西洋において最も実験的で凶暴な知性“サイキックTV”だった。

オーディオ・ヴィジュアルの衝撃

「俺はディスチャージのほうが格好ええな。現ちゃんのほうがエクスプロイテッド担当な」

 80年代初頭、初期オリジナルパンクの終焉とともに、労働者階級の闘争のための音楽として新しいパンクの潮流となろうとしていたハードコアパンクの日本版のリリースが、VAPレコードから開始された。リリース第一弾から、エクスプロイテッド、ディスチャージ、カオスUKと、どれも歴史的名盤となる素晴らしいラインナップのなかで、ディスチャージはメタリックなギターと疾走感のある演奏で、その漆黒のジャケットとともに男前な名盤、一方、エクスプロイテッドは格好こそマッドマックスの悪役のような巨大なモヒカンをもつ凶悪な風体であるものの、音はやたらと繰り返される雄叫びとシュプレヒコールを特徴とする、どうにもどんくさいサウンドを特徴としていて、なんだかムカついたものだった。

 当時、互いに音楽を掘り合い、どちらが新しい音楽を見つけられるかを張り合っていた相棒がヒロシだった。やつとは親元を離れ寮生活をすることとなったばかりの、地元の中高一貫校の1年の1学期に出会った。やたら多動で騒がしく、初対面の日に寮の俺の部屋のベッドの上で「オカヤマケンシジン!オカヤマケンシジン!」と奇声を上げて猿のように跳ね回る様子には呆れたが、互いにジャッキー・チェン好きであったり、当時発売当初で誰も持っていなかったファミリーコンピューターをやつだけが持っていたということもあり、すぐに親友になった。中学1年の夏休みには、親からちょろまかした金でプロジェクトAを20回は一緒に見に行った。そして残った金を持ち寄って、ゲームセンターでゼビウスをして帰った。

 そんな俺たちが音楽にどっぷりハマるようになったのは、80年代初頭のMTVブーム、それに伴うLAメタルブームによるオーディオ・ビジュアルの衝撃を食らって以来だ。ポリスやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなどのブリティッシュ・インヴェイジョンといわれる、パンク・ニューウェーブ以降に過去のロックとの決別を宣言する形で発生したこれらの新しい潮流においては、音楽が社会に対してはより対抗的に、個人に対してはより内向的に向かっていくことになった。パンクからハードコア・パンクが生まれ、ニューウェーブからはジョイ・ディビジョンが生まれた。イアン・カーティスは自殺したが、そのナイーヴさも魅力的だった。思春期の反抗期の到来とパンク、自意識の悩みと葛藤とニューウェーブは、それぞれ相性が良い。俺たちの興味がバウハウスから、バースディパーティ、スロッピンググリッスルへと至るまでに大した時間はかからなかった。

 音楽は時代を最も先駆的に表現する。音楽こそすべての文化の中で最速の情報スピードを誇る。まだ誰も関知していない新しい価値の到来を、世界の誰かが鋭敏に感じとって音源に込めてリリースする。そこには来るべき新しい価値に基づいた意識と思想の世界が広がっている。新しい音楽とはつねに、その音の中、あるいはタイトルやアートワークの中に、その思想が暗号のように表現されていて、聴くものに解釈を迫るものだ。新しい音楽が驚きと賞賛をもってリスナーに受容され、そこにシーンが作り出されたとき、新しいジャンルが誕生する。それは精神の中にのみ存在する、まるで新しい王国、新しい世界の創出のようだ。音楽家こそが神たりえる世界だ。

 俺とヒロシは毎日毎舜そうした音楽を求めてレコード屋に通い続けた。わずか3畳ほどのスペースしかない、県内唯一の輸入盤店グルーンハウスに、学校が終わるなり自転車に乗って駆けつけては、新譜のコーナーのレコードを前から後ろまで全部確認した。時間が余ったらドイツニューウェーブとノイズのコーナーをチェックした。いまだ聴いたことのない旧譜が紛れ込んでいるかもしれないからだ。

 ヒロシはおばあちゃんと二人で住んでいた。母親は美容師で父親と一緒に別の家に住んでいたらしい。父親は居酒屋をやっているようだが、いまひとつはっきりしなかった。家に遊びに行くとおばあちゃんがいつも優しく歓迎してくれた。ヒロシの家は市街中心部のマンションの9階で、窓からは市街を一望できた。俺はすぐにそのマンションに入り浸るようになった。マンションの窓から四季折々の街の夕日を見るのが好きだった。

 ほどなくしてライブハウスに通うようになった。俺たちはすぐに大人になる。ハードコアのライブが見ることができるのは、市内では最も老舗でオルタナティブなライブハウス、ペパーランドだけだった。ペパーランドは博覧強記なマスター、ノセ氏が店主を務めるライブハウスで、パンク、ロック、ニューウェーブ、即興演奏など、他のライブハウスだったらステージにさえ立たせてもらえない、先鋭的なロックに影響を受けたバンドたちが演奏する場所だった。オープンは1969年、学生運動の活動家でもあったマスターの志向がはっきりと打ち出されていて、友川かずきや三上寛なども出演する硬派なライブハウスだった。

 中学1年の3学期、当時リリースされたばかりの県内唯一のパンクバンド肉弾と広島のメタルコアバンドGASのカップリングシングルの発売ライブを観に、ペパーランドに行くことになった。通常はカフェ営業をしているペパーランドはログハウス調の建物で、入り口の天井にはエリファス・レヴィの魔法陣が掲げられている。ライブ会場はわずか10畳程度、ステージはせいぜい3畳程度、しかもステージとフロアの高さがフラットなのだ。そんな狭小なスペースに、多い日は50人ほどがすし詰めになる。その日も、自分よりはるかに体の大きい、トロージャンヘアのパンクスたちに周囲を囲まれていた。日本に生まれつつあったハードコア・パンクのシーンの現場で、音楽による衝動に任せてモッシュで互いに体を潰し合い、痛みや汗にまみれながらも音を共有すれば、新しいリアリティが今まさに勃興しているということを喜びとともに実感することができた。

 グールのマサミには片腕がなかった。モブスのライブではスタッフを小突いた客にボーカルのケンジが激怒し、客全員をライブハウスの外に整列させ、片っ端からビンタして回ったりした。俺たちはその列に並びながら、今日来たことを後悔するととともに、リアルなシーンを体験した喜びで、しょんべんをちびりそうになるほどに興奮もしていた。俺たちはすっかり、興りつつあったインディペンデントでアンダーグラウンドな日本のパンク・ニューウェーブシーンに夢中だった。

西洋において最も実験的で凶暴な知性

 音楽は常に進化しようとする。新しい表現方法、音色、イメージなどを感知すると、自己増殖的にそのミームを拡大しようとする。月1回の輸入盤リリースの度に、先月までは新しかった試みに対するアンサーがリリースされる。音楽の姿には必ず理由があり、それを読み解き理解するのがリスナーの喜びとなる。

 ペパーランドはそのための私塾のような場所だった。ノセ氏は古今東西の知を縦横無尽に渉猟してきた市井の賢者。もとは写真家で、全共闘の時代に映像作家に転身し、共同体をテーマとする映像で賞を受賞している。その後、松岡正剛の遊塾に塾生として参加していたことから、ライブハウスの3階には松岡正剛譲りの膨大な書物を蔵する書庫もあった。また80年代パンクニューウェーブ以降の、ほぼすべてのオルタナティブ音楽を収集していると言っても過言ではない、尋常ではない数のレコードコレクションを誇っていた。

 やがて俺たちはノセ氏に可愛がってもらうようになり、ライブ以外のカフェ営業日にもペパーランドに通うようになった。ノセ氏はライブハウスのスタッフらとともに、オルタナティブ新譜のレコードレビューを纏めたフリーペーパーを作っていて、そこにはロックマガジン執筆陣もライターとして寄稿していた。カフェタイムの終了後は購入したばかりのニューウェーブの新譜の視聴が行われる。俺たちもそこで一緒になって、次々と生み出される新しい息吹に耳を澄ました。ノイズ、インダストリアル、ポジティブパンク、ノイエドイッチェヴェレ、ネオサイケ、エレクトロボディミュージック。夜な夜なそれらの音楽が生まれた背景にある思想について語り合い、音楽の情報をデコードする。なかでも、当時のペパーランドで最も信奉されていたのが、サイキックTVだった。

 サイキックTVとは、ノイズインダストリアルミュージックのシンボル、スロッピンググリッスルの中心人物だったジェネシス・P・オリッジによって、TGの発展的解散後に再編成されたユニットであり、音楽に魔術を導入しようと試みたバンドとして、いまだその存在は解釈不能の領域に君臨し続けている。ジェネシスはこの世を悪意ある欲望と権力により支配された世界と捉えていた。そして、言語ウイルスによる洗脳から解放されるための方法として、ウイリアム・S・バロウズとブライアン・ガイシンのカットアップメソッドを利用し、意味生成のメカニズムを逆ハッキングして意味の解体可能性を示そうとしたり、あるいはバンドをカルト教団化して魔術と音楽の融合を果たそうと試みた。サイキックTVは当時の西洋において紛れもなく最も実験的で凶暴な知性だった。俺たちもまたノセ氏の解説のもと、すぐにサイキックTVの虜になった。

 バブル前期の83〜4年当時、欧米で最もハイエンドな知性を備えているとされていたバンドがなにを表現しようとしていたかなど、日本の知識人たちには到底理解不能だった。それはポストモダンではなく魔術だったからだ。ノセ氏はサイキックTVやそれに関連するインダストリアルミュージックのライナーノーツやジャケットのステイトメントを邦訳して、ミニコミや当時再創刊されたロックマガジンに寄稿していた。だから必然とノセ氏との話は新しい音楽が指し示す現代思想やオカルティズム、美学や映画、文学などの話題へと至り、ペパーランドにはまばゆいほどの知識に溢れた自由な思想が飛び交っていた。ノセ氏は西洋音楽に限らず、大本教を中心とした日本の神秘主義にも造詣が深く、実際に様々な教団にも関わっていたらしい。西洋のアンダーグラウンド音楽と西洋神秘主義との関係を、日本の音楽と霊統とに置き換えて解読することができる、おそらく当時でも唯一の人物だった。

 今思えば、ポストモダン思想によって身体性と生の実感を失ってしまった現代社会に対し、魔術や自傷の痛み、精神病によって対抗しようとしたサイキックTVは、時代を30年先取りした予言的バンドであったとも理解できる。ポストモダンの終着点としてのインターネット、そしてインターネットの普及によって生じる生のポストモダン的な希薄化をジェネシスは当時から予見していた。ポストモダン社会の陰謀論的側面もよくよく理解していた。

 その後、断片的に流れてくる情報によって、俺たちはサイキックTVがテンプル・オブ・サイキック・ユース(TOPY)として魔術結社化し、宗教的コミュニティとして活動し始めていることを知った。TOPYにおいては音楽は儀式のための音楽として位置づけられ、ステージでのライブは魔術儀式と同一視されていた。全ては参加者の意識変容のためにあるというわけだ。さらにジェネシスはLSDなどの薬物によって意識を高揚させ、エクスタシーに達することを自身の音楽の目標にしているとも真剣に語っていた。そしてチャールズ・マンソンのイメージを利用してファミリー化の重要性を説くと、アレイスター・クロウリーの魔術思想を継承した本気の魔術結社としての活動へと向かっていった。

 当時のロックミュージックのもっとも深い層がそこに存在していた。ゲイカルチャー、あるいはピアッシングやボンテージなどのSMシーンをも巻き込みながら、ジェネシスは闇の司祭のように、ステージで儀式的パフォーマンスを行っていた。その衝動は社会から支配されることへの抵抗、怒りによって支えられていて、その怒りに俺たちもまた感染していたのだ。俺たちにとっては、その怒りこそが、人生の秘密、そして愛の秘密を知る上での、重要な鍵でもあった。

 

“サイキック・ユース教団の儀式は支配構造により押し付けられた

慣習的、予定調和的なセックスの用法を完全に開放する。

魔術の理念はカット・アップ原則を行為に応用することである。

教団の手段は魔術を現代的・非神秘主義的に解釈することである。

教団の目的は個人の存在を自覚している者にせよしていない者にせよ、

彼らを正しい自律に向けて導くことである。

その結果、社会的支配の目的は無力化され、挑戦の対象になるであろう。

個人とは自らの究極の真実であり、自らの最大の力なのだ。”

(狼の群 テンプル・オブ・サイキック・ユース)

 

 ジェネシスの言葉はいつだって俺たちは打ち震わした。人生における魂の成長の一つの型がインストールされたように感じた。そしていつしか、俺たちの目の前には巨大な穴が立ち現れていた。それは時空を超える大きな穴で、その穴からは未来の自分がこちらを覗き込んでいた。

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

遠迫憲英 えんさこ・のりひで/精神科医。大学時代は音楽活動、格闘技に熱中。またバックパッカーとしてインド、東南アジア、中米、地中海沿岸など各地を放浪する。幼少期から人間の意識についての興味が深く、古代の啓明とテクノロジーの融合を治療に活かすべく精神科医を志す。平成21年にHIKARI CLINIC(http://hikariclinic.jp/)を開院。