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檀廬影×菊地成孔 『エンタシス書簡』 二〇一九年四月/菊地→檀「返信(主に、自殺について)」 

元SIMI LABのラッパーであり小説家の檀廬影(DyyPRIDE)と、ジャズメンでありエッセイストの菊地成孔による往復書簡。

 

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 拝啓 檀廬影先生

 

 自分は坂口安吾の生まれ変わりだと公言する野田秀樹氏をはじめ、無頼派というセクトは、移入や同一化を起こさせる特別な力を持っていたようです。太宰治などは、読者に移入させる力が強すぎて、小説のハイスキルが伝わる暇がないと言われました。檀先生よりも些か歳を取っている、そして無頼派の作家たちが存命中に思春期前期後期を過ごした人々よりも些か若い私ですが、自分の世代だと、小説家に限定するならば、筒井康隆先生が最高のもので、先生の小説を読んでいると、だんだんと自分のことが書かれているような、更には自分自身がその小説を書いているような気分になったものですが、先日、実際にお会いした際に、全く移入が断ち切られ、完全な別人化が起こり、まるで夢から覚めたような感覚に囚われたので、改めて小説を読み直すと、再び馥郁たる移入と同一化が生じたので、つまりは平衡化の如きものが生じたのでしょう。それは非常に豊かなものでした。ですから、桜桃忌に生真面目に出掛ける人々というのは、恐らく太宰治に会った事がない、ある種の幸福な人々だと言えるでしょう。この現象の極限値が宗教ではないかと私は思っています。

 

 檀先生、と口にするや否や、檀一雄か団鬼六、更にはダン・ブラウンまでを想起してしまうのは、シュミュラクラと言って、仕方がない、というより、先生の前職であるラッパーならば、韻を踏むために、この事ばかりを考えていることになりますから、例えば現在、前職を辞められた先生に於かれましては、「頭の中でまだ韻は踏んでいますか?」という質問が虫のように湧いてきそうなのですが、『僕という容れ物』を拝読する限り、むしろ韻を踏まない事への、生理的な要求というか、国文学というフォームに向けられた(シェイクスピアは小説家ではありませんが、英国の散文文化として、普通に韻を踏みますので)シンプルな解放感があり、未だにラッパーでもある私からすると、先生の作品は、やっと国境をこえて自由になれた解放感と、永遠に追いかけてくる、インディオの暗殺者への絶望に似た閉塞感が混ぜこぜになっている感があり、そこが最大の魅力だと思うのですが、この事が読者に伝わるかどうか、恐らく伝わらないだろうな、自殺衝動と自己未確立との闘いばかりが移入と同一化を呼ぶのではないかと思うと、些か憂鬱です。ハムサンドを買って、ハムだけ食べているような事ですので。

 

 先生の、作品から離れた生の人格が、非常なるユーモアに溢れている事と別に、作品そのものにも溢れている事が伝わるには、ラッパーから小説家へ。という移動が、前例としての町田康氏や辻人成氏のような「ロックミュージシャンから小説家へ」という移動と、きちんと区別される事が最優先だと思うのですが、それについては、一度、韻について生理的に理解しないといけないので、この論法に従いますと、先生の作品を理解するには先ずラッパーになるべし。といった、阿呆のような極論に行き着いてしまい、「ならば、ハムサンドを買って、パンとレタスは捨ててしまい、ハムだけ食べる、というコスパの悪さもまた良しかな」という、またしても阿呆のような結論に行き着いてしまい、些かの憂鬱は無限に晴れません。

 

 それよりも、先生の新居に現れる、郵便配達夫が「顔も体格も声までもが」坂口安吾に似ている。という認識、特に「声までも」とありますが、先生は坂口の肉声を、何らかの形で聞いた事がおありなのでしょうか? 私の勉強不足で、たとえば動画サイトに、過去のインタビュウ動画や録音が遺されているとしたら、ぜひ聞いてみたく思います。私はサルトルやデリダの肉声などを、フランスの国営放送のコンテンツで聞いた事がありますので。

 

 我が国が自殺大国である、という認識は、私の考えでは誰かの創作ではないかと思います。デマゴーグというより、創作に近い。確かに、たとえば私の前妻の父君は自宅で自殺しました。壮年性の抑うつ神経症だったとはいえ、確率論的に言えば、自殺率は高いと評価できると思います(因みに私は友人や自分の生徒、同業者等に自殺者が数名しかおらず、自殺大国説には若干懐疑的ですが、それでも尚)しかし、エビデンス主義的な事の当否は兎も角、私が驚嘆とともに受け止めたのは、自宅で首を吊って自死した夫を発見し、別室に運び、通報した妻(前妻の母君)と息子(前妻の弟君)、そして、遠隔で報告を受けた前妻本人までもが、その事から大きなショックを受けていない。という事です。この件から10年近くも経っていますが、抑圧しているとか、無理しているとかいう様子はほとんど見られず、むしろ前妻は、私と別居した際に抑うつ神経症にかかり、私は別居当初、彼女が父親同様に自殺するのではないか? という憂慮が頭から離れる事がなかったのですが、彼女は結局元気になり、今では私の良き友となっています。

 

 自殺衝動という症状がおありの檀先生に於かれましては、自殺こそが最高の悲劇、人類の最悪の選択、といった認識もあろうかと思います。しかし、否、それでは、先生に問いたいのですが、尊属殺(家族殺し)、内紛などによる虐殺、テロリズムによる虐殺、通り魔的殺人、孤独死、交通事故から医療ミスまで、あらゆる事故死、等々と、自殺の悲劇度の高さを比したとき、順位や差は、幾ばくのものでしょうか? 私の考えでは、一時期、流行語のように使われたこともあった「尊厳死」の類型、いわゆる「名誉の自殺」が、我が国においては太平洋戦争における「特攻」「ひめゆりの塔」という悲劇の歴史によって、大いなる抑圧を受けている事が、自殺大国日本説という創作物を作り出している気がします。アラブ社会には未だに横行する自爆テロも明らかなる名誉の自殺であり、我々はそのことに対し、抑うつ症による自殺に対するような、物分かりの良さを持ち得ません。

 

 先生にぜひ読んでいただきたい小説があります。それは、ぐるっと回って、筒井康隆先生の短編ですが『敵』という小説で、これは、妻を(普通に、加齢で)失った老人が、尊厳死としての自殺を選び、年金が尽きた段階での自殺を緻密に計画し、それまでの日々を充実したものとして送っていると、ある時、PCの中に「敵」が現れる。というものです。私は自殺大国説は創作だと思いますが、高齢化社会は紛れもないリアルであると認識しており、老人まで生き延びた者がどう死ぬか? という問題の方に、言葉を選ばぬならば、惹かれるものがあります。神経症や精神病による自殺は、私のカテゴライズでは病死となり、癌に代表される死病が一定数に保たれているだけだと思っています。

 

 他ならぬ檀先生にこの問いかけをしたのは、檀先生の御回答が、企まざるユーモアに満ちていると私が確信しているからです。私は先生が老人まで生きると思うのですが、自殺せずに老人まで生きたとして、老人となった先生が、何を考え、どんな発言をするのか、それ以前に、先生はご自分が老人になったら、というビジョンはお持ちでしょうか? 勿論、この派生的な問いに対しても、先生の御回答が企まざるユーモアに満ちていると私は確信しています。それは、読者が無心にかぶりついたハムサンドのハムから、パンとレタスを奪回する事、あるいはそもそも、ハムが食いたいなら同じコンビニにハムが単体で売っている。という事に気付かせる行為に他ならないと思うからです。

 

 

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〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

 

PROFILE

檀廬影 だん・いえかげ/平成元年、横浜生まれ。日本人と黒人のハーフ。二十歳よりDyyPRIDE名義でラップを始める。2011年、音楽レーベルSUMMITより 1st ソロアルバム「In The Dyyp Shadow」 、グループSIMI LAB 1st アルバム 「Page 1 : ANATOMY OF INSANE」、2013年、2nd ソロアルバム「Ride So Dyyp」、2014年、2nd グループアルバム「Page 2 : Mind Over Matter」をリリース。2017年にSIMI LABを脱退。現在、小説家。

菊地成孔 きくち・なるよし/1963年、千葉県銚子市生まれ。ソングライター、サクソフォン奏者、ラッパー、文筆家、音楽講師。近著に人気ラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」(現在終了)のトークを纏めた『菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5』『菊地成孔の粋な夜電波 シーズン6-8』(共にキノブックス)、新宿区限定リリースの掌編小説『あたしを溺れさせて、そして溺れ死ぬあたしを見ていて』(ヴァイナル文學選書)などがある。