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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #01 インド・ゴアの浜辺で出会ったネオトライバルタトゥー

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を巡って行なった旅の記録。第一回は大島托がトライバルタトゥーの高みを志すことになった理由、その経緯について。

 

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彼我の境もなき大いなる原初の光に黒い一滴
見る間にそれは鮮やかな形となっていき、意味を帯び、拡がり、
絶え間無い変遷をたどってゆく

やがてかけがえない固有の印象を放つデザインへとなり、
いつの日か再び光の中へ溶けていくその瞬間まで

 

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 タトゥー、タタウ、ティティ、タタック。あるいは日本語では文身や刺青という。人間の皮膚の表面を彩る、消えることのない、また消すことのできない文様。いま、欧米では人口の半分にも迫ろうかという勢いで愛好者が増えているし、また世界の辺境とか未開とか言われる場所に行けば未だ現地の風習として残っていたりもする。おそらくは5万年前にアフリカを出て以来ずっと、人類はこの習俗を累々と営んできたのだと思う。取り立てた利便性などないことを考えると、これは人間の在り方自体と相当に相性が良いということなのだろう。

 が、それはこの国で東京通勤圏ギリギリのベッドタウンの、団塊世代のサラリーマン核家族で育った僕には正直なところ縁遠い物事でもあった。振り返っても子供の頃、いや成人してからだって自分がやがてタトゥーを生業にするようになるなんて、これっぽっちも思っていなかった。そんなことを言えば大抵の生業にしてみたってそんなものなのかもしれないけれど―

トライバルタトゥーとの邂逅

 それはおよそ25年前、東京の大学を卒業後、僕がバックパッカーとしてインドを放浪していた頃だった。予定のない長旅に、資金が底を尽きかけていた僕は、旅を続けていくためのお金を現地で調達する一つの手段として、タトゥーを彫り始めたのだ。とはいえ、もとからタトゥーに強い関心があったというわけではない。当時のインドの僕の周りの環境においては、こまごまとした小遣い稼ぎをしている旅人も多かったが、がっちりシノギを得ようという場合、その選択肢はドラッグのプッシャー(売人)になるか、あるいはタトゥーイストになるかくらいしかなかった。絵が得意だった僕はほんの軽い気持ちでタトゥーイストになることを決め、だから、最初はジャンルなんて意識もしていなかったし、技術についても見よう見まねで、自分の皮膚を実験台にしながら、半ば手探りでタトゥーを学んでいった。

 当時の僕のクライアントとなっていたのは、もっぱらヨーロッパからインドを訪れるバックパッカーたちだった。彼らの渡印の主な目的はレイヴ(パーティー)だ。学生時代にトランスパーソナル心理学やスタニスラフ・グロフのLSD臨床研究にはまっていた僕の主たる興味もヒッピー文化にあった。僕は彼らを追いかける形でゴアを始めとするレイヴの開催地をシーズンごとに巡り、レストランやクラブにチラシを貼り出し、宿の一室に設営したブースで彼らの皮膚にタトゥーを彫り続けた。

 単なる旅費稼ぎのシノギに過ぎなかったタトゥーだったが、やってみると面白く、またマシン一つあればどこでも商売ができるという身軽さは、気ままな僕の性分にも合っていた。結果、日本に帰国してからも僕はタトゥーを生業としつづけることになり、やがては新宿でタトゥースタジオを開くまでになったのだから、人生とはつくづく奇妙なものだ。

 あれから時を経て、現在、僕は黒一色のブラックワークを基調とするトライバルタトゥーを専門としている。トライバルタトゥーとは文字通り「部族のタトゥー」のことで、主に狩猟採集によって食をなし、いまだ文字文化を持たないような少数部族において、成年の通過儀礼、あるいは身体装飾の一環として、伝統的に施されてきた文身の総称だ。

 あえてトライバルと称しているのは、近代以降に発生したモダンタトゥーと区別するためだ。たとえば日本においては、江戸時代に大和絵をベースに発祥した和彫がモダンタトゥーに、アイヌ民族や琉球民族が20世紀前半まで行なってきたシヌエやハジチなどの文身がトライバルタトゥーに、それぞれ該当する。もちろん、日本列島外の世界各地にトライバルタトゥーの伝統はあったし、いまもなおある。1990年代にはボルネオ島の文様をベースとするクレイジートライバルが世界的に大流行したため、トライバルタトゥーと聞くとまずクレイジートライバルの文様ばかりを思い浮かべる人も多いかもしれないが、それはトライバルタトゥーの文様の現代的なアレンジの一つのパターンにすぎない。実際のところ、トライバルタトゥーの文化は実に豊穣で、トライブや地域ごとに多様な文様が存在している。

大島托によるクレイジートライバルタトゥーのフルスリーブ作品。

 そうしたトライバルタトゥーを僕が専門とするきっかけとなったのは、インド滞在中にゴアのある浜辺で見かけた一人の白人女性だった。およそ30~40メートルも向こうを歩くその女性のタトゥーに僕の目は釘付けになったのだ。当時プロとして3年目、商売もすこぶる順調で調子にも乗っていた僕にガツンと衝撃をもたらせたそのタトゥーの作者はロンドンのアレックス・ビニーだった。彼に代表されるそのスタイルはネオトライバルと呼ばれていた。世界各地のトライバルタトゥー資料にインスパイアされ、そのエッセンスを抽出し、再構成することで作り上げられた、現代のブラックワークである。

 その身体とそのタトゥーはイコールの関係だった。これこそが本物のタトゥーだと、その時思った。この領域を目指さなければウソだと思ったその瞬間から、今の僕のキャリアは始まったと言ってもいい。だから、一般的にわかりやすいようにトライバルと称してはいるが、厳密には僕が立っているのは今でもネオトライバルアーティストというポシションだ。そのアングルからあらためて世界各地の部族習俗としてのトライバルタトゥーを見つめ直してみると、はたしてこれから僕が現代のタトゥーイストとして目指して行くべきはるかなる高みに、何百年、何千年、あるいは何万年も前に人類がすでに到達していたことを知らされたのだ。

大島托によるネオトライバルタトゥーの総身作品。

各地のトライバルタトゥーが共有する傾向

 以降、僕は様々な部族の里を旅し、その土地どちのトライバルタトゥーに触れ、また各地の彫り師たちとも交流を深めていった。あるいは、すでにタトゥーの伝統が途絶えてしまった部族における伝統的なタトゥーのリバイバルの現場に立ち会うようなこともあった。新宿にスタジオを構えるようになってからも、僕の旅が終わってしまったわけではない。いまなお一年のうち数ヶ月は世界の各地を飛び回っているし、近年では物理的な移動だけでは飽き足らず、はるか縄文時代へと思いを馳せ、当時の列島で施されていたタトゥーを現代に創造的に蘇らせるという、時空を超えた旅も行っている。そうしたあてどもない旅路のなか、僕自身、トライバルタトゥーに関していくつか分かってきたこともあった。

 さっき触れたように、トライバルタトゥーと一口に言っても、その文様、意味合いは、土地や集落によって様々だ。そうした差異の一つ一つを現地で体感することは、僕にとって実に興味深いことではあったが、一方で、各地のトライバルタトゥーに触れていく中で、僕はそれぞれのタトゥーがまったく無関係であるかといえば、そうとも言えないのではないかということにも気付き始めたのだ。

 少なくとも日本列島を含む環太平洋の島々のトライバルタトゥーには、相互に親戚関係のような近似性がある。いわば、トライバルタトゥーという文化全体で共有している大きな傾向のようなものがあるのだ。たとえば、僕自身が見聞してきた限りにおけるトライバルタトゥーの傾向をまとめるなら、以下のようになる。

 

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1 見える部位

 服の外側、手、腕、脚、など。南なら全身。北なら顔や手の甲。ちなみに日本の気候ならかつての縄文時代などは全身に施していたのではないか。見える、というか見せるのがトライバルタトゥーの基本中の基本だ。日本の和彫りのように服に隠れる部位に施すというのはいわば現代の社会生活との折り合いであって、歴史上それが普遍だったわけではない。最近の若いもんは手や顔にはタトゥー入れてるくせに服の内側はガラ空きなんだぜ、とかなんとか洋の東西を問わず僕らオッサン世代の愛好家達はバカにしているのであるが、これはタトゥーがより一般化していくことで普遍的なところに還ってきてるだけのことなのだ。

2 左右対称と鑑賞距離

 デザイン&部位全てにおいて左右対称である。そして独立した絵画表現よりもより身体を装飾するアクセサリー的であり、服的である。だから当然全身の尺で捉えられている、つまり現代のほとんどのタトゥーよりもはるかに遠い鑑賞距離を備えている。現代のタトゥーで左右の腕で同じデザインを入れる人はほとんどいないということを考えるとこれはとても大きな要素だ。ひょっとして人類の発達段階で右と左の区別がなかった時代の感覚が強く残っているということでもあるのだろうか。

3 同じデザインを共有

 男と女のデザインそれぞれ1バージョンを皆で使い回す。現代タトゥーのオリジナル重視は近代的個人主義の思考。トライバルタトゥーのデザイン共有をユニフォーム的な帰属意識のあらわれだという捉え方は一般的であるが、実はこれも個人主義的思考の判断か。誰かが良いタトゥーを入れていたら自分もそれが良いし、真似された方も気にしない。そういうメンタリティーによるのだと思う。現在でも欧米とアジアを比較するとそのベクトルの差はわかるし、日本社会の中に限ったってそういうセンスが濃い人と薄い人はいる。

4 男と女

 数で言えば女のトライバルタトゥー資料が圧倒的に多い。世界中でまんべんなく同じような女性のトライバルタトゥーは存在してきた。それは縫い物、編み物に近いファッション性の高い、腕力のいらない娯楽、技である。にもかかわらずデザインの印象としては男のタトゥーばかりが思い浮かぶ。それは地味ながらも永続する女性ファッションと、全く無いかと思うとある瞬間爆発し極大化する男性ファッションとの違いか。現代タトゥーのマーケットはクライアントもタトゥーイストも男性主導で始まり、そして爆発した。今、それがどんどん一般化していく流れの中で、クライアント、タトゥーイストそれぞれ女性が増えてきている。おそらく現時点で先進国のマーケットに限って見ればクライアント数では女性が男性を上回ったはずだ。そしてこの流れはこれからも加速していくのだろう。

5 デザインの変遷

 伝統という言葉の持つイメージのせいかトライバルタトゥーは資料が採集された瞬間のものが、あたかも歴史上ずっと続いてきたかのように捉えられがちだが、一人の職人として考えればそんなことは不自然だし無理だ。ポリネシアのように同一のルーツを持ちながらも多様な分岐を遂げた各島のデザイン達を見てもそれは分かるし、縄文時代の土器を見れば日本という同一地域でもそれらは時の流れとともにダイナミックに変遷するものだということはわかる。もしかしたら言語学のような分類が世界のトライバルタトゥーのデザインでもできるのかもしれない。

6 意味

 現代のタトゥーと比べた場合、トライバルタトゥーはそれぞれ意味を持っていると捉えられることが多い。現代タトゥーの個人的な思いなどとは違う習俗としての共通認識としての意味、正式な意味とでも言おうか。通過儀礼がその代表格な訳だが、そのバリエーションの豊かさがトライバルタトゥーの魅力でもある。ほぼ全てのトライバルタトゥーは石器時代から現代までの間の様々なステージの何処かに依拠しているわけで、そのコミュニティの時代や地域のステージに合った意味合いをそれぞれ含んでいるのであり、それらを透かして向こう側の現実感を感じることは現代日本の我々からしても興味深いことだ。しかし、四半世紀にも渡ってこの分野にタトゥーイストとして向かい合い、なおかつ様々な地域に足を運んでいると別の側面も見えてくる。そもそも、意味があってしかるべき、そしてそれを体得するためにタトゥーを入れているに違いないという発想は、中世以降の合理主義の考えであり、フィールドワークする外部の学者の視線だと思う。極論すれば特にプリミティブな部族、森の中で石器時代的な暮らしを送っているような人々にとってはそんなもの実際大した意味はないのだ。僕らが人生に意味が必要なのは先進国の現代人だからで、人類史におけるその他圧倒的多数はYESという感覚だけで歴史を生き抜いてきたのではないか。タトゥーを外から見れば、意味はカッコよさ、可愛さに勝り、カッコよさ、可愛さはさらに楽しさに優っているという構図だが、実際現場のコアなクライアントでは、あるいはプリミティブな部族社会ではそれらは完全に逆の並びなのである。

7 文字との入れ替わり

 大筋において文字社会の到来、発達と入れ替わるようにしてトライバルタトゥーは消えて行く。これは農耕定住社会の到来と言い換えてもいいのだが、とにかくそこらへんのタイミングで本来の力が失われて廃れ始める傾向は世界中で普遍的である。現代のコアな顧客層を見ても文字に依存する人が少ないことや、大きな会社の勤め人よりは自営業の人が多いことなどから考えるに、それは大脳生理学的な仕組みではないかとも思われる。また、文字=記録との相性の悪さがトライバルタトゥーの歴史を掘り下げて検証することを困難にしている。

 

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 上述したものは厳密な学術的調査に基づいたものではなく、いち旅人である僕の観測に基づいた大雑把なまとめに過ぎない。土地や集落によっては部分的に当てはまらないケースというのもあるだろう。

 ただ、それぞれ別々の土地で、別々の文化を持ち、相互に没交渉に暮らしてきたにも関わらず、トライバルタトゥーにおいては、どこか示し合わせたかのように共通している点というのが、たしかに多いのだ。しかし、一見したかぎりでは、それらは全く異なる文様にも見える。言うなれば、トライバルタトゥーにおいては特殊性と普遍性が矛盾なく両立しているのであって、それは僕がトライバルタトゥーという文化をいまなお興味深く思う一つの理由でもある。また、この20~30年の現代タトゥーの隆盛、一般化によって、かつてはシャープな対比関係で捉えられていた両者が、再び特殊性と普遍性というまさにその点で、歩み寄りを始めているようにも感じるのだ。

 前置きが長くなってしまった。あらためて説明すると、本連載は、僕が過去20年にわたって行なってきたトライバルタトゥーをめぐる旅の記録を纏めてみようというものである。もちろん、ただ旅の思い出を綴るだけではつまらない。僕が見聞してきた限りにおける地域ごとのタトゥー観、あるいは彼らの世界観やライフスタイル、さらには上述したような、タトゥーという文化の地域や共同体を超越する本質についても、連載では可能な限り記していきたいと思っている。また同時に、僕はそうして学んだ各地のトライバルタトゥーの意匠を日本へと持ちかえり、タトゥーイストとして日本のクライアントたちの皮膚にそれらを刻んできた。そうした僕の一連の作品群も、文章に合わせて公開していきたい。

 そろそろ話を始めよう。冒頭にも記したように、僕の旅の始まりはインドだった。世界第二位、13億人という圧倒的な人口数を誇るこの巨大な国は、同時にアジア最大のタトゥー大国であり、またヘナ=メンディ文化の中心地でもある。

 

〈MULTIVERSE〉

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PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html