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檀廬影×菊地成孔 『エンタシス書簡』 二〇一九年五月/檀→菊地「成孔様はいかに生き、死にたいですか?」

元SIMI LABのラッパーであり小説家の檀廬影(DyyPRIDE)と、ジャズメンでありエッセイストの菊地成孔による往復書簡。

 

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 韻は僕にとってはかつて頭蓋内で鳴り止まない幾多の人格の唯一の言語であると同時に出口のない迷宮を如何に生きながらえるかの方法を導き出す唯一の方法でもあり、それはまるで偶然に見えるタロットカードの配列から答えを導き出すような不思議な感覚で、闇雲に韻を踏んでいくとその先に答えが小出しに用意されている霊妙なるものでありました。

 しかしある時からその幻聴は抽象画的観念に変わり、声は鳴り止み、その混沌とした観念だけが渦巻いている意識下で日々の生活を営み、その他に為す術がありませんでした。少しすると「書け、書け」という声が聴こえる。僕は思わず辺りを見回す。一人暮らしの自室に誰かいるわけもなく久しぶりの幻聴に鼓動は早まる。「書け!書け!」僕は誰もいない空間に向かって両腕を広げ言いました。

「何を?」

「小説だ!小説を書け!」

「何を言ってんだ!俺に小説なんか書けるわけないだろ」

「書け!書け」

「勉強もしたことないし、できないし」

「書け!書け!」

「本もあまり読んでこなかった」

「書け!さもなくば死ね!」

「お前は本当に無茶苦茶だなあ」

「書け」

 という掛け合いがあって以来「書け」という言葉が何度頭蓋内に響いたことでしょう。学のない自分が文学などできるわけがないと信じていましたが、問答無用のこの声は日に日にボリュームも頻度も増し、ジェンガの如く積み上げられた倉庫内のパレットと対峙しながら脂汗をかき、フォークリフトに両足の甲を砕かれた同僚の悲鳴を己の幻聴と混同し、北野武氏の『顔面麻痺』を持って重傷を負った同僚を見舞い、面会拒絶されたあくる日、フォークリフトを乗り捨てて、何十個か目の仕事を辞めて、「お前がそんなにお望みなら書いてやるよ。ただどうなっても、箸にも棒にもかからなくても俺は知らねえぞ」と投げやりな文句を吐き捨てて。カオスの宇宙に住む奴の顔を見ると不敵な笑みを浮かべるばかりで何も答えず、僕ははただiマックに向かいタイプして、4ヶ月の後、気が付くと小説らしきものができていたのです。

 こんな次第ですから、自分自身ではそのハムどころか、サンドイッチに触れることもできず、「あれは一体なんだろう?」と遠くから眺めるのがやっとです。

 

 坂口さんは睡眠薬のアドルム中毒の治療の為に東大病院に入院して1ヶ月間の昏睡療法という意図的に1ヶ月間昏睡させその間に体内の薬物を抜いて依存を治すという現代では考えられない治療(確信はありませんが)を受け、その退院後にラジオ出演された際の音声がYouTubeに上がっておりまして、その音源でのみ肉声を聴いたことがあるのです。

 筒井先生の『敵』を読みましたが、抽象的で言語というものが暗号めいたものに見える僕には二重に暗号化された文体で書かれた印象を受け、成孔様の解説抜きではピンときませんでしたが言わんとしていることはわかりました。

 そう言われてみれば、自分の認識に対し改めて懐疑的にならざるをえませんが何年か前にウェブで読んだ記事で日本人の年間自殺者数は3万人であるが、日本の法律だと例え明らかに自殺に見える死因だったとしても遺書がなければ自殺にカウントされず、変死という名目で数えられ、変死者の数は年間15万いるので少なくとも年間十万人くらいは自殺しているという旨の内容で、それを読んで以来その数字が、僕の日本に於ける自殺者の認識となり、同時に、年間に何十万人か死ぬ内の一人になるということが酷くつまらなく滑稽に思えました。社会全体との相対性を強く意識する俺はやはり日本人的パーソナリティが強いようです。

 以来ダメならダメなりに生きることが目標でした、いつかいいことがあるなどという希望も全く持てず、持ちたいとも思わず、ただ行者の様に苦しみに耐え生き抜くことだけを念頭に置き暮らしている間に、おそらくは行者の苦行が快楽になっていくが如く、苦行により得た気付きの深さに感激し、いつしか苦が苦ではなくなり自我は薄弱になりました。

 確かに潔い切腹、玉砕、情死と、日本には古来より自殺のロマンが溢れおりますが全て薄っぺらい幻想にしか見えず、こういったものを題材にした芸術作品や美談的な事柄にもあまり惹かれません。苦しい時は惨めにみっともなく逃げ回ってでも生きるべきで。死んだつもりでなんでもできると言う人もいるが、それを容易にできないのが完璧主義的傾向の強い人間の性質でありますから、この言葉は他でもない自分自身に投げかけているようです。

 自殺は偉大でも悲劇でもありません。事故や癌で死ぬのと大差がないと思います。正直言いますと僕は死ぬことをなんとも思っていないのです。特に具合が悪い時などは、息をするように死ねるとさえ思います。ただ自殺は最も退屈で滑稽な死に方であると思わざるを得ず成すべきことがなくとも、金がなくても、孤独でも生きる事そのものに価値があり、どんな瞬間も体験も特別なものだと思う気持ちから、自殺衝動と殴り合っては逃げ回り殴り合い、を繰り返し人生の半分も生きてしまった。

 

 老人まで生きたものがどう死ぬか? これは興味深いテーマですね。若者は誰でも自分が年老いた時にいかに生きるべきかあまり考えないでしょうけれども、僕の場合、若者のその特性がより顕著で二十歳の頃には二十五歳位までには自殺か喧嘩か過度の不摂生により死ぬと信じて疑いませんでした。それが気付けば三十歳まで生き存え、当初の予定より幾分長く生き、この先も当分は生きるのか、と思うと長く長く、いつしか時を通り越しまるで止まった時の中に永遠に生きてきて、これからも永遠に生きてゆくような気がするのです。

 それとは反対に実生活の中では常に時という魔物に弄ばれ、置いてけぼりにあい、一日をどう過ごしたのかもよくわからぬままいたずらに歳月だけが疾風の如く過ぎ去り、時を捕まえようとして鏡を覗き込むとそこにはよく知る他人の顔があり、彼は僕に笑顔を送る。こんな具合ですから、自分自身と乖離した老人の姿を鏡の中に見つける日が来たとしても精神の方では相変わらず他人事のように観察しているだけかもしれません。だからこそ今よりも自分と他人や、自然や物との境界はどんどん薄くなり、自分個人の幸福よりも人類全体の幸福を望み活動しているか、あるいは人間の脳は未来を想像した時、良くなるか悪くなるかの両極端にしか想像できないそうですから、案外今と大して変わらないというのが現実的な線かもしれません。

 いかに死ぬべきか? といえば原一男監督の『全身小説家』を観ましたが、これは成孔様ももし未観でありましたら、一見されたし。末期癌に侵された作家が生き抜く姿が惜しみなく撮られています。何歳であっても、いかに死ぬか? ではなくいかに生きるべきか? に尽き、死神は来るに任せ、ただその時が来た時分に堂々と死神と歩いて行けるように生きるべきではないでしょうか。俺は原監督の作品が好きで大体観ておりますが、なぜかこの作品だけには手が伸びず、つい先日ふと見てみる気になったのですが。こういった経緯の上で良作に出会った時の常である、なぜもっと早く観なかったのかという感情とともに、これはきっと今の自分に必要であり、最も深く体感できる時に出会えたのだと感じました。

 

 成孔様はいかに生き、死にたいですか?

 

 伊豆高原は一碧湖のほとりに佇む洋館風ホテルのレストランでボーイをやっておりますが、このアルバイト生活がずっと続くことを考えると少しぞっとするような思いを胸に、先日、三十歳になりボーイという言葉も段々と似合わなくなり、そこにはまるで老人になっても白人の若者にボーイと呼ばれるおぞましさが年輪を一本増やす毎に育っていくような感じがあります。

 

P.S. ラップはやめたわけではなく、あまり声がかからなくなり疎遠になっているだけなのです(笑)

 

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檀廬影『僕という容れ物』

 

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〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

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PROFILE

檀廬影 だん・いえかげ/平成元年、横浜生まれ。日本人と黒人のハーフ。二十歳よりDyyPRIDE名義でラップを始める。2011年、音楽レーベルSUMMITより 1st ソロアルバム「In The Dyyp Shadow」 、グループSIMI LAB 1st アルバム 「Page 1 : ANATOMY OF INSANE」、2013年、2nd ソロアルバム「Ride So Dyyp」、2014年、2nd グループアルバム「Page 2 : Mind Over Matter」をリリース。2017年にSIMI LABを脱退。現在、小説家。

菊地成孔 きくち・なるよし/1963年、千葉県銚子市生まれ。ソングライター、サクソフォン奏者、ラッパー、文筆家、音楽講師。近著に人気ラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」(現在終了)のトークを纏めた『菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5』『菊地成孔の粋な夜電波 シーズン6-8』(共にキノブックス)、新宿区限定リリースの掌編小説『あたしを溺れさせて、そして溺れ死ぬあたしを見ていて』(ヴァイナル文學選書)などがある。