代沢五郎 from O.L.H. 『Fetish Guitar Ethic Committee』 #01 ビザール・ギターの罪と罰
X-RATEDノワールファンクバンド〈Only Love Hurts a.k.a. 面影ラッキーホール〉の主催者・代沢五郎(sinner-yang)がナビゲートする“フェティッシュギター”の銀河系。第一回は「ビザール・ギター」の歴史と心得について。
ビザール・ギターの心得
我がココロのボス、故・色川武大は「収集行為とは、世界を自分の視点で並べ替えて再構築すること、すなわち神にならんとする行為である」と言っています。至言です。
結構前のことですが、親友のRECエンジニアと秋葉原で真空管をディグっている時に、どちらからともなく「これ以上いったら、俺たち地獄に落ちるんじゃないか」と話し合ったことがありました。今思えば、その時の僕たちはすでに真理に気付いていたのかもしれません。そう、牛乳瓶のフタであろうが、レコードであろうが、本であろうが、ギターであろうが、しょうもないものを集めて悦に入る人は、知らず知らずのうちに神の領域に踏み込んでいるのです。そして「知らなかった」では許してくれないのはお巡りさんも神も同じ。神の領域を侵す者は報いを受ける覚悟をしなければなりません。ウソだと思う人はヒョーツバーグやドストエフスキーを参照のこと(笑)。集めてイイのはお金だけ、勃ててイイのはチンコだけってことです。そこを踏まえつつ、フェティッシュ・ギターについて語っていこうと思います。
実は、僕の手許にあるギター・ベースの約半数がいわゆる“ビザール”です。昔のヘンな形のエレクトリック・ギターをビザール・ギターと呼んだのは1993年にリットーから出版された「60’s Bizarre Guitar」というムック本が最初。名付け親はそのムックを企画した当時のギターマガジン誌の編集長・野口さんという方です。それまではバッタもの扱いで、サルベージするのも質屋さんとか古道具屋さんからでした。つまり、普通の”楽器”屋さんが扱う代物ではなかったんです。「ビザール・ギター」と命名されたことで、一挙にカテゴリー化して、小さいながらマーケットらしきものが出来、価格も高騰しました。昔はゴミ扱いなので、発掘するのはかなり大変でしたが、だいたい1本数千円程度の世界でした。
もう少し遡ると、こういう系(としか呼びようがなかった)のギターが紙メディアで大量に紹介されたのはプレイヤー誌 89年8月号の岡野ハジメ師のコレクションが最初だと思います。
さらにそれ以前だと、80年6月のジューシー・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」のジャケットのGuyatoneとVox、その少し前、80年4月の沢田研二のシングル「恋のバッド・チューニング」のジャケットのSuproが記憶に残っています。
1980年というと、この辺りのギターが生産されてから約15年。レトロの対象とするには短かすぎるかどうかくらいの年数でしょうから、きっと「恋のバッド・チューニング」のジャケットが、いわゆる“ビザール・ギター”再評価の嚆矢といえるのではないかと想像します。この素晴らしいグラフィックは伝説のスタイリスト・早川タケジ氏の手によるもの。勿論ギター史的な文脈ではなく、スタイリングの一環でこのSuproをセレクトしたんでしょう。さすがの慧眼です。
何をもってビザールとするかは衆目の一致しないところでしょうが、「一般に受け入れられなかった」ことは大前提になります。じゃ、なんで受け入れられなかったかというと「ヘンな形だから」も有力な根拠です。一応ギターなんだから「演奏性や音色が劣るから」ももちろんあるでしょう。しかし、全てのダメ・ギターがビザール・ギターになれるわけじゃありません。みっともなく、弾きにくく、音がしょぼくて受け入れられなかった、だけではビサール・ギターの必要条件は満たしません。もっと積極的な資格が必要です。
ギターに限らず、あらゆるマス・プロダクト製品は、当然ながら少しでも多くの人に受け入れられ、売れることを目標とします。そしてその目標に向かうために、作り手側は創意をこらします。ところが、その志があまりに高すぎて自己主張が過剰になるケースもたまに見られます。一般に、マス・プロダクト製品にとって既存の価値感から大きくズレるほどの志と、過剰な自己主張は邪魔にしかなりません。
ギターにおける主流とは、言うまでもなくFender、Gibsonですが、そういう価値観が確立したのはおそらく60年代の中後期だと想像できます。それ以降の新製品は80年代の一時期に一世を風靡したSteinbergerを除いて、ほとんどが何らかの形でFender、Gibsonの流れを汲むからです。
既存の価値観を受け入れて、それらをブラッシュアップしていくモノづくりは、経営の観点からは正しいことです。しかし、経営能力の高さと志の高さは基本的に関係ありません。
秒速で1億稼ぐ経営者
たとえば、もしクルマに心があれば、広域暴力団四次団体の密接関係者に乗ってほしくないと思っているセルシオも、EXILEをかけながらドンキやバーベキューに向かうことに忸怩たる思いのアルファードもあると思います。でもそれは、それらのクルマとしての自己主張があまりに保守的すぎるから起こる悲劇であって、その対価として一般性を獲得できているわけです。だからゾロ目のナンバープレートや金ロゴをつけられるくらいは我慢しなきゃいけません。
ハイエースにもっと強烈な自己主張があれば、憂国の猛者も国防色に塗って金網と拡声器を設置することをためらうんじゃないかと思います。それがないから街宣車にされちゃうんでしょう。
保守性が招いた悲劇#1
ギターに話を戻すと、Fenderをベースに細部をチマチマとブラッシュアップしたようなストラトもどきが、結局ピックアップや配線をとっかえひっかえいじくられた揚句に、ヤフオクで売り飛ばされてしまうのも、これと同じ要因です。Fenderのフォーマットにちょいとのっかってみた志の低さが自ら招いた境遇です。
ビザール・ギターとは一般性を獲得できなかったギターではなく、一般性を拒否したギター、一般性をキッパリ拒否するほどの自己主張を持ったギターだけが初めて到達できる一種の高みです。しかし、マスプロダクト製品である以上、一般性の拒否は目的ではありえません。
つまり、「一般性を獲得せんがための志が高すぎるあまり、ついうっかり、一般がついてこれないほどの激しい自己主張を持ってしまったギター」ということです。志の高さゆえに、内部に大きな自己矛盾を抱えてしまった稀有なギター、それがビザール・ギターなんです。
”ビサール”とは造形の奇抜さを指すのではなく、内的に自己矛盾を抱えた状態を指しているんだと思います。だから、ビザール・ギターとは、広義には音楽にも人にも当てはまる概念だとも言えるでしょう。
Wandre → 造形もさることながら、これが一般化すると思いこんだその志こそが美しい、イタリアのバイク屋さんが作ったビサール・ギターの王様
奈良寮子『父ちゃんどこさ行った』→ 出稼ぎから帰らぬ父にむけたメッセージのあまりの強烈さにビザール・ギター化した曲
森本潔(阪急―中日)→ 通算1122安打を放つも歴史から消え、ビザール・ギター化したぴんから系三塁手。特注のギラギラしたシルバーのグローブを使用。
次回からは、これまでに僕が罪深くも収集してきたフェティッシュギターたちの一部を紹介してみようと思います。
〈MULTIVERSE〉
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