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亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #02 僕が他人の「死」に関心を持てない理由

タトゥー、身体改造、ボディビル、異性装……絶えざる変容の動態に生きるオイルペインター亜鶴の、数奇なるスキンヒストリー。第二回は亜鶴の死生観、そして“身体先行”の哲学について。

身体の変容のゴール地点は「死」

 昔から早死にしそうだとよく言われる。他人の目に映る僕の生き方はあまりに向こう見ずで、ともすれば断崖を目掛けて疾走するブレーキの壊れた暴走トラックかなにかのように見えるようだ。

 とはいえ、僕自身としては、早死にする予定などはない。平均寿命より少し長め、80代半ばくらいまで生きて、ごく健康的なまま、平穏に人生をフィニッシュするものだと思っている。

 にしても、あまりに多くの人から「亜鶴くんはきっと早死にするから~」 だとか「華々しく散って伝説になるのよ」なんて事を言われ続けているうちに、やはり自分は夭折するのかもしれない、なんてことを最近ぼんやりと思ったりもしている。

 ちなみに四柱推命曰く、35歳、71歳、83歳のどれかが僕の天寿まっとうのタイミングらしい。

 たしかにドラマチックな死に憧れがないと言ったら嘘になる。なんなら太宰治の命日が僕の誕生日と同じだったりして、そんな話を幼少期に母から聞いたものだから、調べ物が好きな僕は「いまの自分には、幸福も不幸もありません」なんて言葉を知り、以後つねに頭のどこかに太宰がいたりもする。

 それと同時に鴨居玲だとか、石田徹也だとか、バスキアだとか。死因には諸説あれど僕が作家として活動していく上で憧れを抱いている彼らの終結も、確かにもれなく自死(自滅を含む)なのだ。

 やはり僕は早く死ぬのだろうか。死ぬとしたら自殺なのだろうか。もし自殺するならば方法はなにがいいだろうか。そんな、よくある思考テストのようなものに興じたこともあった。

 まず、首吊り。これは全身の体液が漏れ出るらしいから、見た目の美しさに欠ける。よって自身の美学に反する。じゃあ太宰のように溺死はどうかと言えば、息が出来ないままに死ぬというのは、未練がましくもラストの一呼吸を追ってジタバタしてしまいそうで、なんかダサい。

 あれこれ考えてはみたが、今のところもし一つ選ばなければならないなら、僕は爆死を選ぶという結論に達した。可能か否かは置いておいて、全身にダイナマイトでも括り付け、なんらかのフェス的なものを企画し、好きな音楽を掛けながら空中で派手に散る、というのがいいなと思う。死と同時に肉骨粉になる。一瞬でこの世から跡形もなく存在を抹消するというのは、気高く生き、気高く死にたい、という僕なりの矜持にも見合うような気がする。

 

行き倒れるのも悪くない

 

 さて、なんでこんな話を書いたかと言えば、「死」をどの様に捉えるかというのは、本連載のテーマである「身体の変容」にも直結する命題だと思うからだ。身体の変容のゴール地点はどこか、と言えば、それは間違いなく死体になることだ。あるいは、九相詩絵巻よろしく腐乱の過程までをも「変容」と捉えるにしても、個体としての身体のラストが死であることに大異はないだろう。

 とりあえず、その上での僕の理想の最終段階は、暫定的に「爆死」、そして爆破による「肉骨粉」ということになったわけだが、正直なところを言えば、僕はそもそもこの「死」というものにかなり無頓着な方だと思う。たとえば、自分以外の他人の死に関して、その無頓着さは顕著にあらわれる。このように言うと「ドライ」だとか「近親者を亡くした事がないからだ」なんて言われるのだが、僕だって30年弱は生きているのだ。当然、死別の一度や二度は経験している。

 

他人の「死」に関心がない理由

 僕はいわゆるおばあちゃんっ子だった。長男であった僕に父方の祖母は特別に優しく、年2、3回会う程度であったが、その都度映画や食事に連れて行ってくれた。その祖母が亡くなったのが僕が小二の頃。それが僕にとって初めての近親者との死別だった。

 悲しかったかと言えば、まったく分からない。というより、はっきり言ってしまうと、どうでも良かった。父が泣いていたことが印象に残った程度で、僕としては、老婆なのだから当然死ぬだろう、くらいの感覚だったのだ。そして亡くなったと同時に祖母の顔は僕の記憶から消え失せてしまい、今となると祖母がどんな見た目であったのかすら思い出せない。ただ覚えていることと言えば、まだ元気だった頃の祖母と繋いだ手が異様に冷たかったことくらいだ。

 おそらく僕は「生きている」ということ、もっと端的に言うと「この世にフォルムを持って存在している」ということにのみ興味があるのだと思う。だから、身体が死に、荼毘に付されてしまえば、途端に関心を失ってしまう。身体がやがて機能を停止するのは当たり前だ。当たり前のことに、なぜみんながそんなに狼狽えるのか、僕はよく分からない。

 

世界はフォルムとの出会いで満ちている

 

 このようなことを言えば、すぐさま「ドライだ」と冷たい視線を向けられるわけだが、僕としては特に自分が「ドライ」だという実感もない。別段、東洋思想的な輪廻転生を強く意識しているわけでもないけど、僕には「死」というものが所詮は一過性のものに思えて仕方ない。だからいちいち死を悼む気になれないのである。

 多分、一般的に「死」というものは「人生」においてもっとも大きなハードルとされていて、その先には虚無しかなく、だからこそ、そのハードルを自ら飛び越えるようなことはあってはならないとされているのだろう。ただ、僕にはなんとなく、飛び越えた先にはきっと地続きの「次の地面」があると感じられる。そういった意味ではたとえば沖縄で言うニライカナイ信仰のような、より土着的な宗教思想が自身の死生観には近いのではないかとは思える。

 僕の「死」も「生」も「僕だけの物語」ではない。大きな連続性の中のたかだか一瞬の1コマなのだ。どうせ1コマなんだから華々しく美意識を持って死ねたらいいし、死後に地獄へ行くとか、残された人間がどうだとかいう話もあったりするが、基本的には限りなくどうでもいい。もはや、好きにしてほしい。し、好きにさせてほしい。死ぬことを含め、生きることということは、与えられた1コマをどのように使うか、どのようにパフォーマンスするか、でしかなく、その1コマの中で今のところ「死」を選択せず、他人に不義理を働かず、他人を悲しませないようにしているというのは、今、まだ「生きている」僕が、僕なりに他人に気を使っている、ただそれだけの話なのだ。

 実は、全身に入った刺青が、手の甲や首、顔にまでそのエリアが拡大した事をきっかけに、僕は両親とは会っていない。LINEや電話など、電波上でのやり取りは定期的に交わすし、雑談もするので関係としては良好だと思う。そんな両親がもし今この瞬間亡くなったとすると「マジか!」とは思うものの、その事実が僕の考えや行動をドラスティックに変えることがあるとは思えない。税金関係どうしよう、だったり、長男だし手続きの諸々困ったな、なんて現実的な問題に直面するだけだろうと思う。

 そうは言っても個人的な希望としては両親には健康的に長生きしてもらいたいものだし、僕には僕の死生観があるように両親含め他人には他人の死生観があるはずだ。各自が各自の死生観に沿って、生き、死ぬことができたなら、それがもっとも幸せなのだろうと思っている。そして、他人の死生観がどういうものかなんて、僕には分からないわけで、だからこそ、他人の死が本当にどうでもいいのである。

 ちなみに僕は5歳になる愛犬と暮らしているのだが、唯一、愛犬の死については想像するだけで悲しみに暮れてしまう。愛犬と暮らし始める前はハムスターと暮らしていたのだが、2年程生き、最後イボだらけになり毛も抜け落ち、禿イボネズミとなったハムスターを見つつ、もしこいつが死んだとしたらアーティストたる者、ハムスターの死体をすり潰して絵の具にでも練り込んでやるしかない! と、妙な意気込みを持っていたのだが、いざ亡くなってみるとやはり悲しかった。

 人の死や別れに対しては無頓着で居続けられているのにペットとの死別は想像するだけで苦しい。その非対称性はどういうことなのか、おそらく、それは僕にとってペットは、僕に全面的に依存した存在で、保護すべき客体であるからなのだろうと思う。

 

愛犬と

 

身体先行の哲学

 ところで、もう一つ、他人からよく言われることがある。それは「亜鶴くんってクスリとか大好きそう」というものである。意外に思われるかもしれないが、僕はドラッグというものをあまり好きではない。というより、ドラッグ崇拝をしている人間が少し苦手だ。

 意識が変容したり、なんだか不思議な感覚になったり、みたいなことは非常によく分かる。ただ、それに傾倒するだけではなく、その良さを切々と語り、「絵を描いてるなら亜鶴くんは絶対もっと色々やるべき! だってドラッグってさ……」云々かんぬん。

 何かに頼っていることを自覚していない、そのスタンスは気色が悪いぞ、とさえ思う。なので全般そういったお話、お誘いはお断りさせてもらっている。好きならば好きで、好きにしたらいいと思う。同様に僕は刺青が好きだし、酒も好きだし、筋トレだって好きだ。そのどれにおいても世間よりもはるかにオーバードーズしていると思う。しかし僕はそれを人に勧めることはない。僕は全てのアイテムを、ただ自分自身に深く潜るためだけのツールとして選択している。

 ドラッグを経験すること自体には法の問題があるが、もしそうした部分を取っ払って、「経験する」という尺度だけで測るならば、良いことだとは思う。しかしそれを継続し、それに耽溺し、つまりは常用するということになれば、また印象は変わる。結局、二度目以降は過去の模倣になってしまうわけだし、これをこれだけ摂取すると今から何時間はこの状態だ、みたいなアタリがつけれるようになってしまう。あるいは、僕の知らない常用の深みがあるのかもしれないが、どんな刺激的な体験でも、それが既知のものになってしまった途端、僕にはどうにも面倒臭く感じられ、再びそれをしようとは思えなくなってしまうのだ。

 もしかしたら、それはアプローチの順序が違うということかもしれない。身体と精神、そのどちらにおいても拡張、肥大させていくことが僕は好きなのだが、順序としてはまず身体性を拡張し、その後に結果として生じる精神の肥大を楽しみたい、という気持ちがある。だから、いきなり精神に作用するドラッグにはいまいちノレないところがある。身体先行という僕なりの哲学だ。

 しかし、なぜつねに身体を先行させてしまうのだろうか。勉学に勤しむ優等生のルートを絶ち、美術の世界に向かうことになったのも、高校時代の大怪我などいくつかの事情があったとは言え、根源的なところでは、この身体先行の哲学に促されたようにも思う。高校の勉強とはそもそもルーティンワークだし、偏差値や点数で測られる世界だ。そして、それは実に退屈ということでもある。なぜなら、テストの点は頑張れば上がる。その世界で際限なく上を目指すということも可能だが、それはなんだかモロに資本主義的で嫌だった。

 その点、身体はある意味、予想がつかない。ピアッシングすれば身体に穴が開く、ということは分かっていても、それによって自分の視界や感覚、つまり精神がどう変容するかは事前には分からず、いわばギャンブルのようなところがある。それは経験した人間にしか分からない、味わえないものなのだ。

 さらに身体改造には尺度となるような点数もなく、ある画一性の中でより上位のポジションを取ることを目指すような神経症的なノリがないのも魅力的だ。子供が壁中に落書きをするような遊戯性。しかも、それを最も身近なキャンバスである自分の皮膚において行うのである。そして、そこには確かな「痛み」があり、「痛み」があるとはすなわち、現実を生きているということでもある。僕は、現実を生きたいのだ。

 

皮膚は現実でありプレイグラウンドでもある

 

 さて、僕はこうした身体先行の哲学のもと、厳しい校則を敷かれた高校を卒業後、彫師になるために絵を学ぼうと美術専門学校に入学したのだった。言わずもがな、そこからはいよいよ皮膚へのアプローチを加速させていった。家を出て一人暮らしを始めたことにより、もはや見える箇所、見えない箇所というボーダーも関係なくなっていた。

 当時、僕がまずトライすることになったのは、身体にフックを通して吊るし上げるサスペンション、それと熱した鉄を押し当てる事で出来る火傷や、その先に発生するケロイドで図柄を描くブランディングだった。

 

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

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PROFILE

亜鶴 あず/1991年生まれ。美術家。タトゥーアーティスト。主に、実在しない人物のポートレートを描くことで、他者の存在を承認し、同時に自己の存在へと思慮を巡らせる作品を制作している。また、大阪の心斎橋にて刺青施術スペースを運営。自意識が皮膚を介し表出・顕在化し、内在した身体意識を拡張すること、それを欲望することを「満たされない身体性」と呼び、施術においては電子機器を一切使用しないハンドポークという原始的な手法を用いている。

【Twitter】@azu_OilOnCanvas