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大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #02 不思議の国インドの知られざるタトゥー事情

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第二回はアジア最大のタトゥー大国であるインドのヘナ=メンディ文化、そして山村に暮らす少数部族の顔面タトゥーについて。

 当時、羊の群れを追う遊牧民のように各地の拠点を回っていた僕の生活の足は、長距離のバスや列車だった。

 都市のある海岸線を離れた内陸部、山間部には大自然がはてしなく広がっている。グランドキャニオンもアルプスもサハラ砂漠も実はインドだったんじゃないのかと感心してしまうほどにバラエティとスケールに富んだ大自然だ。実際、トラとライオンがどちらも棲んでいる国なんてインドぐらいだ。そしてインド人口13億人の25%、つまり3億人にものぼる大量の、そして無数の少数部族たちが展開しているのもそういったエリアで、バスや列車は彼らの住む僻地の名もないような集落や駅に何度も止まって休憩しながら進んでいくのだ。

 そこでは道行く人々や我々に近づいてくる軽食などの売り子のタトゥー率がぐっと高くなる。入っているデザインを観察してみると、マントラ(聖なる言葉)、ヤントラ(聖なる図)、ハスの花、孔雀、装飾的幾何学模様などが多いようだった。これらは日本やヨーロッパならヘナのデザインとして認知されているような柄でもある。言わずもがなインドはヘナ=メンディ文化の中心地でもある。

似て非なるタトゥーとヘナ

 そもそも、ヘナとはインドから中東圏を経て北アフリカまで、広く高温乾燥地帯にミゾハギ属の植物のことである。インド名をメンディーといい、その葉には鮮やかな着色作用があることが古くより知られている。多くの地域で主に女性の装飾として様々なデザインとなって愛用され続けてきたヘナと、同様に古くより人々の身体装飾法として受け継がれてきたタトゥーとの親和性は高い。

 実際にヘナとタトゥーが同じ地域に存在している場合、両者はデザインを共有しているケースが多く見られる。北アフリカのベルベル人(berber)、ヨーロッパから南アジアを広く流浪する民、ジプシー(gypsy)、ロマ(roma)、そしてインドの女性達。どちらが先にあったのか、あるいはどちらがどちらに影響を与えているのかという議論に関しては諸説入り乱れるところでもあるし、また地域によっても異なるところかもしれない。ここで確実に言える事としては、ヘナとタトゥーという2つの身体装飾法はもともとセンス的に類似した視点で捉えられやすいということだ。そうしたデザイン共有地域の典型としてもインドという国は理解できるのだ。

大島托によるヘナデザインのタトゥー。

 もちろん僕らの側からすればヘナとタトゥーは全然違う。それは僕ら現代の日本人からすればということと、また僕らタトゥー愛好家から見て、の2つの角度で違うということだ。

 ヘナは一定期間が過ぎたら消えるのに対してタトゥーは基本的に一生消えることはない。便利とか不便とかの次元の問題ではなく、このことがもたらす社会的な意味合いの違いは日本では特に大きく意識されるところだろう。たまにハジけるのはまあ良いとしても、常にハジけ続けるハジけのプロは許さないような社会的な圧力。いや、最近はたまにでもそれを認めないような同調圧力もジワジワ感じているけれど。

 そしてタトゥーは施術や術後の経過に痛みを伴うがヘナにはそれがまったくない。己が血と痛みを供物として捧げることの対価として何かを受け取っているかのような感覚を覚えているタトゥー愛好家にとって、ヘナはノーペイン、ノーゲインの、ちょっと物足りないものとも感じられるのだ。

 しかし本当のところはどうだろう。タトゥーだって今はレーザーで焼いて消せるのだ。それはタトゥーを入れる作業よりもさらに肉体的にも経済的にも負担は大きくなるが、タトゥーはもはや不可逆的なものではないのだ。施術中や術後の痛みだって高品質の皮膚麻酔のクリームの登場で今では完全に無きものにすることも実際に可能だし、何だったらそれは今、世界中で大流行していると言っていい。

 そういう現状を鑑みた上で、この先、ヘナ状のボディーペイント素材がさらなる進化を遂げて取り回しの精度が向上し、どんどん期間が長くなり、やがて一生変わらず皮膚に定着させることが出来るようになって、なおかつ消したい時にはすぐに完璧に消せるような洗浄薬剤なども開発されたとしたらどうだろう? マーケットの軸はきっと完全にそちらに移るだろう。そして、そんなのタトゥーじゃないと拒絶して廃業する道は選ばずに、僕もそこに適応していくことになるのだ。そこでは今まで追ってきた創作上のテーマをさらに加速して追い詰めることにもなるはずだ。

 不可逆性と痛みはタトゥーの魅力の重要な属性ではあっても本質や目的ではないのかもしれない。ヘナとタトゥーとを抱き合わせて、何故これらが存在するのかを考えた場合の答えこそがその本質、といったところだろうか。

 たとえば南米大陸の無数の部族たちの間にもインドの現状のようにタトゥーとボディーペイントが混在していて、それぞれの研究者と専門家たちが違いを巡って侃々諤々やっているわけなのだが、実際それらをやっている当の部族たちにとっては、そんなことはどっちでもよく、単なる手段の違いにすぎないのかもしれない。

 そのように捉え直すことで、スカリフィケーション、ボディーピアス、タトゥーなどのハードな身体改造と、スポーツの応援などのボディーペイント、髪を染めたりパーマをかけること、ネイルアート、アクセサリー、現代の美容に関するあらゆる技術などのソフトで一般的な身体装飾との間には共通する心の仕組みがあることを推し量ることも出来る。

 タトゥーもヘナも自己の内と外との境界の最前線である皮膚面を使って遊ぶ錬金術のようなものだ。外を内に取り込むことで等価交換された自意識が世界へと解放されていく様子が美しいという点で両者に違いはないだろう。

大島托によるヘナデザインのタトゥー。モデルは琵琶奏者の西原鶴真。

 話を戻そう。マルコポーロ「東方見聞録」の記述から、インドのタトゥー文化はもともと東アジア方面から入って来た可能性も指摘されているが、そのデザイン的な発展としては常に同時代のメンディと歩調を同じくしてきたようだ。

 インドではどこの街角の文具店でも売っているメンディデザインのカタログ本がそのままタトゥーのデザインソースでもある。第二次世界大戦の終わりやイギリスからの独立の頃を境にタトゥー人口は徐々に減って来ているとのことだが、それでも女性の前腕内側のハスや幾何学模様などのちょっとしたタトゥーなどは今でもごく一般的に見る事が出来る。そしてインドの様々な地域の人々を観察していると、ある一定の傾向が見えてくる。

 

都会よりも田舎にタトゥーが多い。(プロのメンディ職人は都会にしかいないから?)

金持ちよりも貧乏人にタトゥーが多い。(消えてしまうメンディに何度もお金を払うのはもったいないから?)

肌の色が薄い人より濃い人にタトゥーが多い。(黒い肌には茶色のメンディーよりもタトゥーの方が鮮やかだから?)

 

 なお、()内の考えは大都市コルカタのメンディアーティストからの聞き取りだ。もちろん僻地のタトゥーだらけの野菜売りのオバはんから言わせれば、ヘナは肚のくくれないビビった奴らがやること、とかになる。お互い様だ。

 これらの傾向はインド独特の言い回しでまとめるならばつまり、カースト(古来よりの身分制度)の高い人よりも低い人にタトゥーが多い、ということになる。実際、その頃のインドにはいわゆる欧米的なタトゥースタジオというのはまだ存在せず、というのも、インドにおいて彫り師という職業はアウトカーストに位置付けられているからだ。

 彼らが商売しているのは、主に貧困層が住むエリアであり、野菜売りの露店などに紛れてひっそりと看板を出している。どの地域にも彼らのような露天の彫り師が存在していることから、インドの少数民族におけるタトゥー率はおおむね高いのだが、僕の見解としては、それらのうちの大半は、厳密な意味でのトライバルタトゥーだとは考えてはいない。本物のトライブが入れているからといって、必ずしもそれが真性のトライバルタトゥーであるとは限らないということだ。

 メンディデザインとの共有性、他地域他部族タトゥーとの類似性、そして何よりも上述したカーストとタトゥーとの関係性を考えると、それらはもっとはるかに大きな括り、つまりインドという超巨大文化圏が古代より連綿と受け継いで来たファッションとしてまとめて捉えるほうが妥当という気がするのだ。

クティア・コンド族の少女

 もちろん本物のトライバルタトゥーと言えるだけの独自性を備えたものも無数の部族達の中にはある。

 その1例としてオリッサ州南西部のクティア・コンド族(kutia kondh)の顔面タトゥーなどがある。このレベルだと通りがかりに偶然遭遇ということもほぼあり得ないぐらいの奥地なので、麓の沿岸部の長逗留の旅行者たちで賑わうプリーという町でローカルのドライバーを雇って山村部へと繰り出したものだ。

 この辺りの多数の少数部族達はどれもユニークではっきりと際立ったファッション上の特徴を持っているのが見ていても楽しい。なかでも、他部族との違いを明確に出した“顔面を広い面積で覆うタトゥー”に関してはクティア・コンドの専売特許というか担当みたいなところが感じられる。これらは言わば他部族とのファッション差異化のためのトライバルタトゥーだ。こういう部族たちの豊かなバラエティーは多部族密集地域では世界的によく見られる現象だ。競争原理が働くためであろう。人々がまだ大きなくくりでまとまることのなかった時代、世界は僕らが想像しえないぐらいにカラフルだったのかもしれない。

 村の一つを訪ねてみると、「あ! また外人がタトゥー見に来たよ」みたいに子供の伝令が走って行って一軒の家から少女が出てくる。綺麗な娘だしちょっとしたポーズを取ってくれてしっかりとカメラ目線だった。きっとこういう役割なのだろう。お礼を言ってチップを渡した。

クティア・コンド族の少女。

 現在は手つかずの部族なんてほとんどいない。そしてほとんどの部族風習は町の文化との接触から長くは持たず廃れて消えていく運命だ。そういう不可避的な流れの中でも物珍しさから商売のタネになるような部分が存続していられるのであれば、それはそれで僕ら旅人にとってはありがたいことだと思う。

 彼女の入れている顔のタトゥーは、結婚相手の決まった女性が、部族外部からの誘拐に遭わないようにするためのものいうことだった。ということはまだ少女とも見える彼女にも許嫁がいる、もしくはすでに結婚しているということだ。ひょっとしたら先ほどの伝令の子供は息子だったりするのかもしれない。

 こういったタトゥーの理由づけは世界中の女性のトライバルタトゥーには付き物なのだが、その多くは実際はタトゥーを嫌がる幼い娘達の背中を押してやる、親の言うこと聞かないと鬼が来るよ、みたいな脅しの決まり文句でもある。しかしカーストランク内とランク外では天地の差とでも言わんばかりの暴虐無尽がまかり通ってきたインドの階層社会では、そんな子供騙しがいつもよりもずっとリアルに響いたこともまた事実だ。

 最後に肌の色が薄い人より濃い人にタトゥーが多い、という点からインドにおけるタトゥーの起源をちょっと考えておくと、アーリア人がヘナの文化を携えてタトゥー文化のドラヴィダ人の地域に進出してきたというのがかつての歴史上の流れだったのかと思えるし、それは支配した側とされた側の構図としてカースト制にも今だに顕著に見られる。しかし、先住民のドラヴィダ人はオーストラリアのアボリジニ、パプア人、ネグリトなどと近いオーストラロイドであり、アフリカから出て南アジアの海岸線を進みオーストラリアに到達するまでに彼らが独自にタトゥーを持っていた形跡は実はない。あるのはスカリフィケーション(創傷)やピアッシングなどの身体改造で、パプアの東南部の海岸伝いに見られるタトゥー文化は後に台湾にルーツを持ちポリネシアへと展開していった航海タトゥー集団との交流によるものと考えられている。

 一方、支配者であるコーカソイドのアーリア人は組織的な軍備を持った集団で、世界でも最も古くから存在する言語でもあるサンスクリット語を使い、0に代表されるような高度の数学的概念をも想定していたような人々であった。世界中のトライバルタトゥーを取り巻く栄枯盛衰物語の中で見られるクローザー役としては典型的な存在だと言えよう。彼らがタトゥーをインドに持ってきたと考えることは相当な無理がある。そうなるとやはりさらなる古代に東南アジアに南下してきた北方モンゴロイド達のタトゥー文化が隣接するインドにも波及していったということになり、マルコ・ポーロの見解が結局正確だったということか。

 

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 ところで、僕はそうした複数文化のバイパス地点であるインドという国に約8年間滞在し、旅人を相手にタトゥーイストをして生計を立てていたわけだが、僕のように一箇所の拠点を持たず、各地を遍歴しながらタトゥーを行うタトゥーイストは、トラヴェリング・タトゥーイスト、あるいは「オン・ザ・ロード」と呼ばれていた。

 当時のインド、特にレイブの聖地であるゴアの周辺には僕のような「オン・ザ・ロード」のタトゥーイストが多くいたが、いずれも欧米出身の人間であり、東洋人は僕一人だった。インターネットが一般に普及し、タトゥーイストがSNSを通じて世界の顧客と直接繋がるようになる以前の話である。現在でも旅のタトゥーイストはいるが、ネット以前と以後では集客の方法、移動の方法に至るまで全く違う。ある意味では、僕の世代のタトゥーイストが、古典的な「オン・ザ・ロード」のタトゥーイストの最後の世代であったと言ってもいいかもしれない。

 当時の僕たち、オン・ザ・ロードの日常とはどんなものだったか。たとえば、それはこんな風に始まる。

 

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

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PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html