ワクサカソウヘイ 『エクソダス・フロム・イショクジュー/衣食住からの脱走』 #01 プロローグ 〜禁断の野草食〜
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。ワクサカソウヘイによるおおよそ“真っ当”ではない生活クエストの記録。
「不安」という名の怪物
私はアダムとイヴに怒っている。
ご存じのとおり、アダムとイヴは楽園で禁断の果実をかじった。それにより「恥」を知ってしまい、裸を隠すようになった。神の怒りに触れたふたりはそして、苦しみ溢れる地上へと追放され、そこで生きることを余儀なくされた。
ああ、なにしてくれてるんだ。
つまりいま、私たちが服を着たり、三度三度の食事をとったり、風雨をしのぐために屋根のあるところで眠ったりしなければならないのは、すべてアダムとイヴが禁断の果実を口にしてしまったからなのである。
おい、アダムとイヴ、どう責任をとるつもりだ。お前たちのせいで、こっちは1LDKの部屋に住むために月々8万円とか払わなきゃいけなくなったんだぞ。野菜の値段の高さにため息をこぼさなきゃいけなくなったんだぞ。靴下が片方見つからなくて、外出前にオロオロしたりしているんだぞ。地上、苦しみだらけだぞ。なに楽園を追放されているんだ。
私だけなのだろうか、思わず神話の登場人物に悪態を吐いてしまうほどに、「生活」というものに対してなんとも言えない重苦しさを感じているのは。いや、貯金が底を尽きて食うや食わざるやのところまで追い込まれている、みたいな切実な話をしたいのではない。なんとか人並みに労働をし、それ相応の暮らしを営むことができているにも関わらず、目に見えない敵に静かにボディーブローを喰らわされているような感覚が常に付きまとっているのである。
ただ生活を紡いでいるだけなのに、暗闇の向こうからじわじわとしたダメージがのしかかってくる。
私を邪魔してくるのは、いったい誰なのだ。
それはつまり、「不安」という名の怪物である。
私は人よりも若干多めに不安を抱えている人間だ。不安による知覚過敏も、たびたび起こす。
たとえば夜道、背後から誰かの走ってくる音が聞こえるだけで「はい!私は五秒後に刺されて死ぬ!」と勝手に自分のライフをチェックメイトし、心臓を無駄にバクバクさせる。
新しい携帯電話を契約する際、複雑な料金プランを説明されて、よくわからないまま書面にサインをし、ショップを出たあとで「来月の請求額が600万円とかになっていたらどうしよう……」と生きた心地がしなくなる。
ふとした思いつきで宝くじを買い、最初は「一等が当たったら何をしよう!」と心を浮つかせるが、そのうちに「でも本当に莫大な賞金が当たってしまったら、金銭トラブルによって家族や友人を失い、酒とギャンブルに溺れて、ついには生活破綻者に……」などといったネガティブな考えとマコーレー・カルキンの顔とが浮かんでしまい、陰鬱な気分に襲われる。
そんな不安による知覚過敏は、「生きる」という大きな場面においても、反応を起こしたりする。現状、ノーマルな暮らしを営んでいるはずなのに、突然に「将来、飢えたり、着るものがなくなったり、住む場所を失ったりしたら、どうしよう……」という、身も蓋もないネガティブな想像にじっとりと襲われる夜が、ままあるのである。
「この先、寝食を潰さない絶対的な保証など、どこにもない……」
私は温かい布団の中で、小さく身震いをする。
ただささやかに生活をしているだけで、これ以上のものを望んでいるわけでもないのに、なんだか漠然と生きづらい。
なんなのだ、これは。おい、アダムとイヴ、ちょっとこっちに来て、説明しろ。
人類最初の男女に因縁をつけたところで、なにも状況は変わらない。
お金では解決できない
こういった悩みは、なかなか周囲には漏らしづらい。だって、みんな多かれ少なかれ、同じような不安を胸にしまって、この時代を生きているからだ。「いまの暮らしをずっと続けるための方法を教えてくれ」と相談を持ちかけたところで、「こっちが知りたいよ」と一蹴されるのが関の山だろう。個々の現在点の暮らしが永久持続可能でないことくらいは、すでに周知の世の中なのである。ああ、世知辛い。
そんな世間の風に乗って、最近頻繁に耳へと飛び込んでくるのは『不労所得やベーシックインカムによって、楽な暮らしを実現してうんぬん』という言説であったりする。うん、わかる。言いたいことはとてもよくわかるのだけど、私が生活の中で根源的に抱えている不安は、金銭面だけで完全解決できるものではないのだ。たとえこの先、ひょんなことから大金持ちとなり、ガウンを着たり、シャンパン風呂に入ったり、揺り椅子の上でシャム猫を撫でながら娘のピアノに耳を傾けるような身分を手に入れたとしても、きっと私は心の隅で「この生活がいつか終わったらどうしよう……」という想いに囚われ続けることだろう。
誰に相談することもできない、そしてお金で解決することもできない。まったくもって厄介な敵を抱え込んでしまったわけだが、ではこの「不安」はいったいどこから湧き出てくるのだろうか。その出所さえわかれば、先回りして相手を牽制することだってできるはずだ。
しかし、その敵のアジトがどこなのか、それがさっぱりわからない。
深い霧から伸びてくる何本もの触手に絡め取られるようにして、私は逃げることも戦うこともできぬまま、ただただ昨日と同じような生活を続けるしか手はなかった。
悦子は野草を食べる
ところがある時、事態は急展開を迎える。敵が這い出てくる巣穴を、突然に発見することに成功したのだ。
きっかけは、「野草食」だった。
私は現在、主に文筆業を営むことで、生計を立てている。よって取材や夕飯の買い物がある時以外はずっと自宅に閉じこもっており、普段の生活範囲は半径10メートルといったところだ。
こうした生活を数年にわたり続けていると妙なもので、近所のご老女たちと次第に仲良くなっていく。私と彼女たちとは狭い生活行動範囲が重なっているので、スーパーでの買い物や散歩の途中など様々な場面で声をかけあう機会があり、自然と友人関係が結ばれていくのである。
そんな還暦を過ぎた「友人」の中のひとりに、悦子さんという方がいる。
悦子さんは小柄ながらも活発な女性で、コミュニケーション能力も非常に高い。折を見ては私の自宅に顔を覗かせ、中学生になったお孫さんの思春期ならでは行動を嬉しそうに話し、自宅菜園でとれた白菜やネギなどを置いて帰っていく。悦子さんとの時間は、他者と関わる機会の少ない日中の私にとって、貴重なブレイクタイムでもある。
その悦子さんが、ある春の日の夕方、私にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、今日の夜、ヒマ?」
なんだか色っぽいセリフだが、相手は免許返納を最近本気で検討している、70歳間近のおばあちゃんである。まさか飲みの誘いであるわけもなく、訝しみながらも「ええ、ヒマですけど……」と返答した。
「草、食べない?」
「え?なにを食べるって?」
「草よ、草。一緒に野草を食べようよ」
そこで初めて知ったのだが、野草を摘み、それを天ぷらにして食べることを、悦子さんはなによりの趣味としているのだという。
「この季節は若い草や葉ばかりだから、どれも柔らかくて食べやすいよ」
春になるとはりきって野外に出かけ、ビニールいっぱいに野草を収穫する悦子さんだが、毎回毎回、どうしても天ぷらを作りすぎてしまう。ひとりではとても食べきれず、いつもは近くに住む娘家族を呼んでいたのだが、その家族が今回はあいにく旅行へ出かけてしまっていた。それでこのたび、私にディナーのお誘いの声がかかったというわけだ。
白羽の矢を立ててもらったことは嬉しかったが、しかし私は、あまり気乗りがしなかった。だって、草である。野草を食べるのである。「やったあ!草だ!草が食べられるぞ!」などと『三びきのやぎのがらがらどん』のようなテンションになるわけもなく、「なるほど、草ですか……わかりました、一緒に食べましょう」という非常に低いトーンで返事をし、悦子さんの家へと向かった。
悦子さんの家のキッチン、そこには摘みたてと思われる、地味な顔ぶれの野草や葉っぱたちが並べられていた。どれもこれも、名前さえ知らない。友人に無理やり誘われて、中野でやっている学生演劇を観に来てしまったがごとき残念感に包まれながら、ダイニングテーブルに着く。
「さあ、どんどん天ぷらにしていこう!」
楽しげな声を上げると、悦子さんは衣ダネに野草をくぐらせ、次々とコンロの上の油へ投げていく。ジュワー。
揚がっていく天ぷらを前に、私のテンションはさらにトーンダウンしていった。なぜこんなにもポジティブな感情が湧かないのか。それはひとえに「草を食べる」というワードが、私が最もおそれている「寝食を潰した先の生活」を連想させていたことに尽きる。
食い詰めて帰る家も失った未来を想像する時、そこには河原で影を背負いながら野草を摘み、それを口へと運んでいる自分の姿をいつも必ず浮かべていた。
「草を食べる」という行為は、私にとって不幸の象徴でしかなかったのである。
「さあ、どうぞ。いっぱい食べてね」
大皿いっぱいに、キツネ色の野草天ぷらたちが差し出された。ああ、苦いんだろうなあ、筋が口にひっかかるんだろうなあ、と一瞬躊躇したが、これも大切なご近所さんとのお付き合いである。意を決して、出自不明の草を箸でつまみ、ツユに浸してから口へと放る。
「………、………、………!」
驚いた。
美味しい。普通に、美味しい。
想像していた苦さや青臭さはまったくなく、ポテトチップスのような軽やかな味わいである。
「どれも味が違うから、一通り食べてみてよ」
そう勧められて別の野草に手を伸ばすと、たしかにそれぞれ異なる風味があり、そしてどれもが確かな美味しさ。中でも注目すべきは柿の若葉の天ぷらで、悦子さん宅の庭から直送で揚げられたというそれは、まるで搗きたての餅のような食感。ああ、これは何枚でも食べることができる。明日からこれを米の代わりに主食としてもいい。
こうして私は、食前の躊躇から一転、猛然とした勢いで野草や葉っぱを食べ、大皿の上をすべて片付けた。
「野草を食べるたびにさ、なにがあっても生きていけるよなあ、って思えるのよね」
食後のお茶を淹れながら、悦子さんがそんな一言をなにげなく漏らした。
「生きていける?」
「そう、だってお金がなくなっても、野草を食べればいいんだもん」
「……」
「こんなに美味しいのに、タダなんだよ。しかも野草を摘むのって、楽しいしね」
その瞬間、ささやかだが、しかし確かな解放感を感じた。長いこと自分を縛っていた呪縛が、弛んだ心地がしたのである。
そうだ、やっと見つけた。私をずっと蝕んできた不安の出所を。あいつらは、「真っ当な衣食住」という呪いの穴から現れ出ているのだ。
「基本的生活水準をあきらめることなかれ」の呪詛
子どもの頃から、誰に教えられたわけでもなく、基本的水準の暮らしを送ることが幸福につながるのだと信じてきた。
人並みのものを着て、人並みのものを食べ、人並みのところに住む。そこにこそ楽園があるのだと、疑いもせずに生きてきた。
そして大人になり、望んだとおりの暮らしを手に入れたはずが、どうにも幸せの手触りは薄い。それどころか、ずっと何かに焦らされて、不安な思いがなぜだか消えない。
「汝、基本的生活水準をあきらめることなかれ、あきらめたら最後、お前は路頭に迷うことだろう」
絶えず耳元で囁かれる、不穏な声。あきらめてはならぬ、真っ当な衣食住をあきらめてはならぬのだ。
ところが私は、予期せぬ拍子に、まったくもって「真っ当ではない」野草食を体験してしまった。
するとどうだろう、巣穴からこだまする呪詛の響きが、一瞬、怯んだのである。
野草を食べたら、もう毎日これでもいいんじゃないかというほどに、美味しかった。そこには野草を口にした者しか知らぬ多幸が秘められていた。
ということは。
べつに人並みの食事を毎日三度三度キープしなくても、いいのではないか。
たとえ路頭に迷う未来が訪れたとしても、うつむき加減で野草を探しながら路頭をウロウロするのであれば、それはけっこう楽しい未来なのではないか。
衣食住にまつわる固定観念をあきらめることこそ、「将来に対する漠然とした不安」に対抗できる唯一の手段なのではないか。
目の前に、軽やかな景色が広がっていた。
禁断の野草は、私を呪縛から一時的に解放させてくれたのである。
「いまの暮らしをずっと続けるためのまじない」は、おそらくこの世に存在しない。しかし、「これからの暮らしが崩れた時に活きるまじない」は、おそらくいくつも存在している。いままで信じてきた生活水準をあきらめた時、それはきっと現れる。
私はそうしたまじないを、たくさん集めたいと思った。たくさん集めて、「真っ当な衣食住」の巣穴の周りにそれを配置し、魔法陣を形成したいと思った。
衣食住を部分的に「あきらめる」
あきらめるな、と人は言う。
あきらめなければ、夢は叶う。ネバーギブアップ。あきらめたら、そこで試合終了だ。涙の数だけ強くなれる。あきらめなければ、きっとこの先、新しい景色が見られるはずさ。
それははたして、本当なのだろか。
いや、「あきらめない」が間違っているとは言わない。ただ、「あきらめる」ことで初めて辿りつくことのできる景色だってあるはずだ。
その景色を眺めた時、私たちはやっと気がつくことができるのかもしれない。さっきまでの自分が「あきらめない」の過剰摂取者であったことに。
どうにも「あきらめる」というワードの中に、これからを生きるためのヒントが隠されている気がしてならない。
これから綴るのは、全裸で一週間過ごしてみたり、魚を突いてみたり、焚き火のそばで眠ったり、時には住む場所を積極的に失ってみたり、不食に挑戦してみたりしながら、「衣食住」を部分的にあきらめることはできないかと模索し、呪いを解くためのまじないを探し続ける、おおよそ真っ当ではない、私個人の生活クエストのログである。
なにかをあきらめた瞬間、なにかが明らかになることは、きっとある。
(illustration by Michihiro Hori)
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