logoimage

大島托 『一滴の黒 ―Travelling Tribal Tattoo―』 #03 オン・ザ・ロードのある一日

タトゥー・アーティスト大島托が世界中の「タトゥー」を追い求めた旅の記録。第三回は当時インドを拠点に旅の彫師をしていた大島のある平均的な1日の様子について。マシンの仕入れ、準備、クライアントとの交渉、いまはなき「オン・ザ・ロード」の日常。

トラベリングタトゥーイストの朝

 朝8時。僕はいつも腕時計をしていて、そのアラームで起きる珍しいタイプの観光地長期滞在者だ。まだみんな寝ているシェアハウスから抜け出し、まずはバイクで近所の漁港へ行く。地べたにゴザを敷いて今日の水揚げをさばく売り子達の店を一通り見て回る。今日は良いサイズのポンフレット(マナガツオ)を買った。これをフライでいくか、それともスチームにするか、が迷うところだ。

 ぺらぺらのちゃちな水漏れビニール袋に魚をぶら下げ、通りの犬たちに執拗に追いかけられながらそのまま職場のある街にバイクで向かう。

 朝飯はだいたい地元のバイクタクシーの運転手たちがたまっている小さな食堂でコッペパン1つと小皿サイズの豆や芋のカレーなどで済ますパターンが多い。住み家と職場の間の通り道だ。滞在も長期になってくると観光客向けのレストランでコンチネンタルブレックファーストというのもいい加減なくなってきて、地元の人が日常的に利用する店に落ち着いていくものだ。こうした店は同時に役立つローカルニュースの仕入れ先でもある。

 僕のタトゥーも入っている馴染みのドライバーの話では、昨夜はパーティー客相手のピストン輸送で徹夜してたそうだ。州知事と上手いこと話をつけたクラブが最近の箱ものパーティーでは独り勝ちしてて、客層も良いんだとか。あとは、ぶっ飛んでバイクを運転してたツーリストが水牛に衝突して病院に運ばれたとかなんとか。よくあるトピックだ。総論としては、貧乏でイカれたヒッピーはいらないが短期滞在のリッチな観光客は大歓迎、みたいないつもの流れか。まあ、商売やってりゃそれがあたりまえだ。ヒッピー相手で儲けようなんて、僕は完全なるニッチだ。

 職場はレストランを併設している宿の一室を借りて即席のスタジオにしている。漁港で買った魚をレストランの厨房のオカミさんにを預ける。仕事が終わったらオーダーするが、フライかスチームかでまだ迷ってる旨も伝える。

 スタジオに入ってまずやることは針作りだ。バラバラの針をその日の作業用途別にさまざまな形に束ね、その束をさらに12センチほどのステンレスの軸にハンダを使って固定する。静かな部屋の中で、熱したハンダとヤニが接する瞬間のジュッという音だけが響く。瞑想のような時間が流れる。

 針を束ねる形は絵筆のイメージに近い。丸型と平型の2系統。それぞれのグループの中でさらにいろいろな本数とアレンジがある。代表的なのは、たとえば丸型なら先端部を絞って少し紡錘形にするとシャープで密度の高い線が効率的に出せる、平型なら並びを一本ずつ上下にジグザグに組めば圧力が分散されて刺さりがスムーズになる、など。

 僕が当時使っていたのは3と7の丸型と7の平型の三種がメインだった。作った針は炭酸水素ナトリウム水溶液で洗ってハンダ付け作業のヤニ成分を取り去る。化学用語が出てきたと大袈裟に考えることはない。これはようするにキッチン掃除とかで使う便利な重曹のことだ。

 今はもうこの作業はタトゥー業界から消えつつある。すでに組み上がって滅菌パックされた使い捨て針セットがネット通販で手軽に買えるからだ。時間と手間が省けるので通常のスタジオ業務はもうほぼこれでいい。今の新宿のスタジオでは新しい世代のスタッフにはもう針作りは教えていないのが実情だ。が、旅先ではこれを自前でやることで荷物を軽く出来るのでまだアドバンテージがあると思う。軸自体は滅菌後に使用済み針を再びハンダごてで外して何度でも利用出来るし、針の種類も必要なものをその都度作るだけだから、使うか使わないか分からない種類の余分なストックを抱え込んだりしないで済むからだ。

 やがて針作りが終わったら テーブルやベッドにスプレーで水を噴いてラップを張る。これで養生完了。

 滅菌完了してあるチューブとチップ(これはペン軸&ペン先みたいなもの)に洗浄完了した作ったばかりの針を通し、それをタトゥーマシンにセッティングし、パワーソースに接続して軽く動作させながら各部の調整をしていく。音とか針先の残像とかが正常になるまで必要なことを手順を踏んでやっていくのだ。これの理論からいちいち解き明かすには紙面が足りないし、一般読者の興味も到底ついてはこれないだろうからここでは省くことにする。

 タトゥーマシンはアメリカから通販で買ったナショナルのスウィングゲートや、バンコクのタトゥーショップで買ったミッキーシャープスのコピーものなどのコイルマシン。これらはベルの原理を使った電磁コイルを動力とする機械だ。他に似ているものを考えてみたがやっぱりベルしかない。しかもそうとう昔のやつ。第二次大戦頃とか。

 ここ最近の10年では僕はロータリーマシンを主に使うように変わってきた。これはラジコンとかに使っているようなモーターを動力にしていて、その回転運動を針の上下運動に転換するシステムだ。車のエンジンが上下のピストン運動を車輪の回転運動に転換している仕組みの逆の流れといえば解りやすいだろうか。ロータリーマシンの良いところはとにかくメンテナンスが楽というところだ。コイルとロータリーの使い味には、さしづめハーレーとスクーターみたいな違いがある。

あたしの言いたいこと分かるでしょ? それをタトゥーにして欲しい、今すぐ!

 ここまで終わったらレストランスペースに移ってコーヒーでも飲みつつ宿題のオーダーのデザインを進める。直射日光でもなく、薄暗がりでもないスポットはこの時間帯ならここなのだ。まだ朝10時前。

 オーダーを受けるときはまず僕自身の描きためているオリジナルのデザイン集と実際に彫った作品のアルバムを見せる。そしてフラッシュ。これはその手の供給会社から出ているよくあるオーダーのありもののデザイン集。普通は原寸大のフラッシュを壁に無数に貼り付けたりするのが当時の欧米の街のタトゥースタジオのファッションでもあったのだが、僕が持ち歩いていたのはそのフラッシュを供給会社に発注するためのカタログだった。原寸の10分の1ぐらいの小さなフラッシュデザインを何百も載せたサンプル集だったが、絵柄は充分判別できるし、打ち合わせの材料としてはとても使えた。

 あとは欧米のタトゥー雑誌などもある。こういう雑誌は旅人の仲間たちがあちこちの国から買ってきてくれて、いつの間にかスタジオに溜まっていく。今なら小さな記録媒体でもその何千倍の資料でも持ち歩けるだろうし、ネットで検索するのなら手ぶらでもOKだが、当時はずっしりと紙が必要だった。こういうものをクライアントのイメージを聞いた後から該当するものをピンポイントで見せてもいいし、先に何となくざっと見てもらってからイメージをまとめてもらってもいい。そうして簡単なスケッチ案を出しつつデポジットを預かって施術の日程を入れるという流れだ。

 今、レストランでやっているのはその簡単なスケッチ案を最終デザインまで整えて行く作業だ。宿題がないときも泳ぎに行ったりもせずにここで好き勝手な絵を描いているのでONもOFFも特に代わり映えはしない。

 泡のムースみたいにふわふわの金髪ドレッドの女の子がレストランに入ってきて僕のことをウエイターに尋ねている。飛び込みのお客さんだ。パーティー帰りでそのまま寝てない感じ。ココナッツミルクシェイクを飲みながら昨夜のパーティーでぐりんぐりんになった時に見たヴィジョンについて夢見るように熱心に語ってくる彼女。訛りから判断するとおそらくロシアとかウクライナの人なのだろう。

 あたしの言いたいこと分かるでしょ? それをタトゥーにして欲しい、今すぐ!

 ほとんど感嘆の言葉ばかりで具体的なデザインの手掛かりが一向につかめない。こういう時は互いの脳同士を直結する配線が不可欠なのだが、もしそれが手に入らないのであれば、せめてなんとなくでもいいから図で説明をしてもらいたいところだ。あと、もうすぐ施術予約のクライアントが来るから今はどのみち無理なんだと告げていったんお引き取り願った。こういう型にはまらない打ち合わせもこの地ではしょっちゅうある。ある者は水牛に衝突し、またある者はタトゥースタジオに転がり込む。彼女は水牛の方ではなくて良かったのだと思う。ココナッツミルクシェイクをおごってくれるタトゥーイストもいたし。

 やがて今日の予約のイスラエル人の男のクライアントが来て、デザインにOKが出ると作業用の下絵であるステンシルを作り始める。今回は漢字だ。当時のゴアには様々な国から有名無名20人ぐらいのタトゥーイストたちが来ていたが、日本人のトラベリングタトゥー屋は僕だけだったし、漢字のオーダーはいつも独占していた。これは駆け出しの頃には非常にラッキーな要素だったと思う。デザイン画をヘクトグラフペーパーの上に貼り付けてボールペンなどの硬くて滑りの良いペンで主だった線をなぞっていく。カーボン紙と同じ仕組みだ。違いはヘクトグラフインクは逆性石鹸成分に反応して転写が可能な点で、皮膚にあらかじめ逆性石鹸を塗ってコピーしたデザインを貼り付けたりすればしっかりと転写することができるのだ。これはちょっとこすったり洗ったりしても落ちないぐらい安定している。

 ヘクトグラフペーパーは日本では見かけることはまず無い文具素材だが、サイン文化の欧米では郵便局やなんかでどうやら普通に使っていたものらしい。通常、タトゥーショップでは一回デザインを擦ったらポイ捨てするぐらいのありふれた消耗品だが、旅人の僕にとっては無くなったら手軽には買えない超貴重品だ。一枚のヘクトグラフペーパーを擦り切れて千切れてもなお50~100回は使い倒していた。逆性石鹸はデトールなどの傷口の殺菌消毒薬やワキガ制汗のデオドラントスティックなどに含まれているのでそういうものをそのまま使う。デオドラントスティックがイージーなのでその頃はどこのスタジオでも使っていた。

 ちなみに僕は見よう見まねの独学スタートだったので最初は普通のカーボン紙とスティック糊の間違い同士のコンビネーションで不毛な試行錯誤を繰り返したものだ。こうした試行錯誤で出口が見えることもあれば、行く先々で出会う他のタトゥーイストたちとの交流でポンと解決する問題もある。いろんな人にいろんな事を教えてもらったが、全ての壁がクリアーになることなんてのは永久にないわけで、そこは試行錯誤し続ける好奇心こそが重要だと思う。

 昼12時。細野晴臣の「エスニックサウンドセレクション」をスタジオに流す。いよいよ彫り始めだ。

イスラエル人専門彫師

 このクライアントもパーティー帰りらしい。アフガニスタンの舟を漕ぐ時の民謡みたいな音ですら首でリズムを取っている。朝食摂った? Yes。オーケー、ほんじゃあ始めますよ。

 施術エリアの肩にバセリンを塗り広げる。これは余ったインクを拭き取りやすくするためだ。彫る部分の周りを左手指で押しのばして張力を働かせつつ、3の丸型の先を絞ったやつ、つまりライナーでステンシルの線を黒インクでじっくりとなぞっていく。一定の長さを引いたら余ったインクだまりをティッシュで拭き取る。伸ばす、彫る、拭くの繰り返しで進めていく。そこに針先にインクをつける、と、バセリンを塗る、の動きが適宜混ざってくるリズムだ。作業に没頭して時間の感覚が消えていく。

 線を引くマシン、いわゆるライナーは力は強くないがピッチスピードに優れるチューニングだ。一般的に線を引く動きはある程度の早さでやらないと安定しないからだ。これに対して塗りのマシン、シェーダーはパワー重視で針の出る長さ、ストロークも長い。本数の多い針がしっかりと刺さるチューニングとなっている。

 引き終わったラインの中を今度はシェーダーで黒く塗り潰していく。漢字の払いの箇所は平針の角を使ったり傾けたりしながらそれらしく見えるように処理していく。MDで流していたアルバムはいつの間にか終わっていて、スタジオにはタトゥーマシンの音だけがジーッと響いている。最初は世間話をしていたクライアントは今はもう黙ってリラックスしていた。筋肉が緩んでいる。僕もさらに集中する。白人の透明なゼリーのような皮膚下に高速で侵入する針先の一本一本の軌跡までクリアに感知するほどに集中している。この状態になればクライアントがいきなり咳などしてもミスはない。今日は調子がいい。このまま一気に完成まで進みたいところだ。

 が、黒を塗り終わったらいったん休憩だ。漢字の背景のカラーワークに備えて針を水とアルコールでしっかり洗う。午後2時ちょい過ぎ。

 クライアントの仲間たちのイスラエル人が4~5人スタジオの外の廊下に集まっていた。彼らのお家芸のボングがハイペースで回っていて煙たい。デザイン資料を渡してレストランスペースで見てもらう。アップルパイwithアイスクリームがここのスペシャルだということもついでに伝える。レストランに儲けてもらうことは重要だ。兵役後に一斉に旅に出るイスラエル人たちはまるで修学旅行生みたいな感じだが、なにしろ命がけのストレスの後の解放だけにその弾け方も盛大だ。はっきり言ってやかましいので欧米人にもローカルにも迷惑がられているが、僕ら日本人はユダヤ人との歴史的な関わりが薄く予断がないので結構いいコンビだったりする。

 一人に良い作品をリーズナブル価格で提供すればあとはパチンコのフィーバーみたいにジャラジャラ連チャンすることもしばしばで、僕のことをイスラエル人専門彫師なんて呼ぶやつもいるぐらいだ。ちなみに近所には日本人専門と言われているカザフスタン人タトゥーイストもいたりして、その彼からは、どうして日本人は君のところには行かないんだ、とか訝しがられたりもしていたが、それは大きなお世話というものだ。

ポンフレットはディープフライで

 レストランのイスラエル人ボーイズ&ガールズはトライバルか漢字か、の選択肢であれこれ検討していた。彼等の言っているトライバルというのはボルネオアレンジのいわゆるクレイジートライバルだ。何というかその、ドンキホーテとかでよく売っているようなトライバルデザインシールとかの、あの柄だ。90年代はこの柄の流行によってタトゥーが現代のポップカルチャーの表舞台にまで波及していった時代でもあった。あらゆる描写の制約から解き放たれて自由な、そして完全に無意味なただの線の集合体。鮮やかでキャッチーなこのパターンは、社会が決めつけた価値やルールでがんじがらめになっていた当時の若者たちにとっては、七面倒臭いこと言ってんじゃねーよ、俺はオレだ、という主張でもあり、自由の象徴でもあったのだ。

 それと漢字とが天秤にかけられている。僕らにとってはガッチリ意味と結びついている漢字も彼等にしてみればアブストラクトな美でもあるのだ。そう思えばクレイジートライバルの大流行の下地にはひょっとしたら西洋世界の長きに渡る東洋の書に対する憧れがあったのかもしれない、と今になっては感じたりもする。

 さて、ギャラリーも増えたことだし、第2ラウンドはバキバキのゴアトランスを大音量で流してスタートだ。クライアントの名前の当て字の三文字の漢字の背景にブラウン、ダークグリーン、ライトグリーン、レッド、オレンジ、イエロー、ホワイト、の順番で炎上してモクモク煙をたなびかせるガンジャの葉を彫っていく。色はだいたい暗い色から明るい色へという流れだ。今作業している色がすでに終わっている色の部分に被って滲むようなことがあってもこれなら問題ないのだ。問題となってくるのはこのタトゥーを見た瞬間の実家のお母さんの反応なのだが、それはこの際、僕の責任では一切ない。

 イケイケムードの中で一気にフィニッシュ。集まっていた彼の仲間達からもいくつかオーダーをもらった。午後4時半あたり。ポンフレットはフライにしよう。ヒレまで煎餅みたいに食べれるぐらいのディープフライで。魚がデカいからポテトはいらない。それとキングフィッシャービール。

 レストランにオーダーを入れて、ビールを飲みながらチューブとチップをブラシで洗い、針のステンレス軸と一緒にティファールの超高圧モデル圧力鍋に入れて、灯油コンロの火にかける。圧がかかってから30分回し続けてそのまま明日の朝まで蓋は閉じておく。これが旅で出来る限りでは最強の滅菌装置だ。これは発展途上国の歯医者なんかは今でも普通に使っているところも多い安定した方法だ。圧力鍋が回せないような環境や、金属ではない道具に対しての滅菌では軍隊が遠征時に使用するような滅菌薬液の類を使うこともある。

 それすらままならない時はアルコールランプのクリーンな炎で直火滅菌だが、高価でデリケートな金属製品であるチップを焼きで変質させたくはないので、これは本当に最後の手段だ。現代の日本や欧米では全てのタトゥースタジオで重量が15キロ以上あるような医療用オートクレーブという装置の導入が当たり前なのだが、それがなければ絶対に滅菌が出来ないなどということではなく、これはプロの仕事の統一基準として最高のレベルを提示しているということだ。

 2本目のビールを飲みながらタルタルソースでポンフレットをいただく。どこの国でも、何度食べても、今食べているポンフレットがこれまでで一番の上物だと必ず思わされてしまう。つくづく不思議な魚だ、ポンフレットは。

 サンセットは海岸沿いの爆音を響かせているバーで踊りながら眺めるとしよう。

クレイジーな商売が成り立つ理由

 いま書いたのは、僕がインドで旅人相手のタトゥーイストをしていた頃の、ある平均的な一日の様子だ。シーズンごとに拠点こそ変わるものの、やってることは基本的に変わらない。ちなみに、当時のタトゥーの価格帯は国や地域で異なるのだが、たとえばインドのゴアなら普通のプロレベルで時間あたり30~50USドルくらいが相場で、僕もそこに基準を置いていた。これが名のある腕利きなら時間200ドルとかでもおかしくはない。欧米のトッププロのギャラそのままということだ。

 僕の一日の上がりは良い時で100~150ドル程度。それっぽっちかと言うなかれ、これは当時のインドの大卒初任給に匹敵する額で、それを僕は1日で稼いでいたわけだ。物価の安いインドで過ごし、旅を続けるためには、十分過ぎる稼ぎだ。どうしてそんなクレイジーな商売が成立していたのかというと、インドには欧米の旅行者の嗜好にかなうレベルのローカルのタトゥーイストが存在していなかったからだ。他の国ならすぐにローカルが真似するはずのこのビジネスに、インド人はカースト=職業の保守性から取り掛かることを考えもしなかったという特殊な事情があった。世界中からこの地にトラベリングタトゥーイスト達が集まっていた理由の一つが分かってもらえると思う。

 当時、インド滞在のために僕が得ていたのは6ヶ月の観光ビザだった。その期限が切れそうになると出国するわけだが、一度6ヶ月ビザを取ったらその期限後から次のビザ取得までは6ヶ月は間隔を開けなければならないルールだった。が、抜け道はあった。

 ネパール、そしてタイ。これらの国のインド大使館はそんなルールなんて知らないよと言わんばかりにすぐに次のビザを出してくれていたのだ。僕がいつも向かっていたのはタイだ。ネットの格安航空券などなかった時代、一番安いチケットが出回っていたのはタイの首都バンコクだったということもあり、ヨーロッパなどの第三国に向かう際にも必ずここに立ち寄る移動の軸でもあった。不可解なほどの各国ビザの融通とチケットの飛び抜けた安さは、東南アジア最強ハブ空港の地位を何が何でも取りたかったその頃のタイ政府による国策的裏取引だったのだと思う。

 インドと違いポップカルチャーとしてのタトゥーがある意味、欧米以上のスピードで急展開していたこの国でも、僕はタトゥーを彫りながら旅をした。

PROFILE

大島托 おおしま・たく/1970年、福岡県出身。タトゥースタジオ「APOCARIPT」主催。黒一色の文様を刻むトライバル・タトゥーおよびブラックワークを専門とする。世界各地に残る民族タトゥーを現地に赴いてリサーチし、現代的なタトゥーデザインに取り入れている。2016年よりジャーナリストのケロッピー前田と共に縄文時代の文身を現代に創造的に復興するプロジェクト「JOMON TRIBE」を始動。【APOCARIPT】http://www.apocaript.com/index.html