中村保夫 『神保町バブル戦争』 第九回「そして大分へ」
東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。平成元年、中村は大分へ飛ばされる。一年の予定だったはずの大分暮らしは、結局、九年間に及ぶこととなる。

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あらためて明言するが、この連載は僕が高校3年生の頃から35年ほど続く闘いの記録である。この闘いが何をめぐるものかは僕と相手(実の母・中村怜子と黒幕・下野順一郎)とではまったく異なる。「人生は金がすべて」と「人生は金じゃない」という価値観の代理戦争なのである。
昭和の終わり頃、バブルの始まりととともに下野のような所謂「事件屋」「乗っ取り屋」と呼ばれる人間が神保町に現れるようになった。神保町2丁目にあった元映画館「東洋キネマ」の跡地を代表とする「地上げ屋」の暗躍がそのきっかけだ(※土地総合研究2010年秋号によると昭和61年に千代田区神保町、同九段南、中央区日本橋などから地価の上昇が始まった)。
地上げ屋の立場からすると、小さな町工場などの地権者から一つ一つ買収していくよりも、最初からまとまった土地が望ましい。だから映画館跡の広い敷地が狙われた。僕の実家である製本屋「美成社」は合わせて200坪近くあった。バブルが始まった頃の実家あたりの実勢価格は坪単価500万円くらいだったが、それがあっという間に何倍にも膨れ上がった。父が詐欺師どもに騙され、祖父から譲り受けた土地の多くを手放さなくてはならなくなった時には、なんと坪単価3000万円。200坪すべてを「金」に換算すると60億円という途方もない金額になる。人生が狂う額である。
中村家の人間からすると、代々、地道に経営をしてきた製本屋の工場や自宅として必要な土地でしかなく、以後の子孫に引き継がれるためのもので、売るつもりも金に換算するつもりもない。ところがバブルの騒乱はそんな生易しいものではなかった。バブル全盛期には、地上げ屋、ヤクザ、右翼、事件屋、悪徳弁護士だけでなく、上場企業などの紳士ヅラしたサラリーマンまでもが「目」に「¥」を浮かべて神保町中を蹂躙しまくった。
そういった欲に目が眩んだ余所者たちからすると「金」にしか見えない工場や家々も、僕ら住民からすると親から受け継いだ「家」であり「会社」といった「生活」の場なのである。
他人の財産を掠め取ることを生業とする下野順一郎(通称:増尾由太郎)が実家に入り込んできたことは、許されるかどうかは別にして自然の行為であろう。だが、解せないのは実の母・怜子だ。中村家に嫁にきて僕を生んだ母親が、自分の息子の人生よりも「金」に目が眩んだ余所者でしかなかったのが、僕の最大の悲劇なのである。
綺麗事に聞こえる人にはそもそも理解できないだろうが、僕にとってのこの闘いはまったく以って「金」ではなく、家督を継ぐ長男として背負っている「業」なのだ。先祖から受け継いだ「家」と「墓」を守るべく立場にある「責任」なのである。正直、僕が金目当ての人間だったら、東京キララ社なんてやっていない。東京キララ社の姿勢は僕の「生き様」そのものなのである。
しかし、この闘いは過酷だ。平成24年から起こる裁判のため、そして儲かりもしない会社の存続のため、僕は貯金をはたき、自宅マンションを売却し、膨大な金額を借金してなんとか乗り越えてきた。その過程をよく知る特殊顧問・根本(敬)さんの「人生、金じゃないと言うためにも金が必要だ」という名言に心底納得する。
祖父・中村要松(右)
ディスコ通いとテレビ番組
22歳になったばかりの僕は、平成元年9月、家業を継ぐための修行と称し、九州は大分県大分市の不動産デベロッパー「つかさ興産」に就職することとなるが、それまでの数年間、大学には一日も通わず、遊びとバイトに明け暮れていた。母親からは「お前は学校に行かなくてもいい。美香子(妹)にはもうお父さんがいないんだから、私が仕事に行っている間は親代わりに面倒をみてほしい」と言われていた。
当時中学生だった妹は相変わらず学校に通わず、ほぼ毎日、自宅で過ごしていた。母は朝早くから夜遅くまで会社に行ったり、下野と会ったりしていたので、僕たちきょうだいは、3人きりで家にいることが多かった。お笑い番組が大好きな妹は録画魔でもあったので、僕らは3人で仲良く、妹が録り貯めたお勧めの番組を一緒に観て過ごした。その番組のチョイスには抜群のセンスがあったので、何日か家に帰らない時があっても、面白いテレビ番組を見逃す心配がなかった。
僕と弟の部屋はアコーデオンカーテンで仕切られていたが、いつも開け放していてお互いの友達の溜まり場にもなっていた。僕はディスコ狂いで、弟は当時まだ日本に数件しかなかったレゲエ専門のレコード屋で働いていたので、二人で遊ぶ時はいつもレコードだった。最初はカセットデッキのRECとPAUSEを駆使してミックステープを作っていたが、やがてお互いのバイト代を合わせテクニクスのSL-1200 MK2を2台買って、家でDJをするようになった。30年以上前から僕のやることは何も変わっていない。
僕は長らく永田一直さん主催の和ラダイスガラージなどのイベントでDJをさせてもらっているが、音楽に関しては逆立ちしても弟には敵わない。表現に携わる様々な仕事をしてきたし、センスで飯を食ってきた自負が僕にはあるが、本当に才能があるのは篤史のほうだ。それだけに、母と下野に人生を狂わされた弟が不憫でならない。
下野は僕たちに「官僚や弁護士になることが人生の成功だけど、それは無理でしょうから、公務員や銀行員なんかの堅い仕事に就いたほうがいいですよ」と言っていたし、それの受け売りで母からも同じことを何度も聞かされた。その度に「俺はそんな人生は真っ平御免だ。生きる上での価値観がまったく違う」と反論した。センスも才能もない人間にいくら言っても通じないから、僕は自分の人生を以ってその間違いを正すつもりで生きている。そのためには、そういった人間にもはっきりと分かる形で成功しなくてはならない。果てしなく遠い道のりだが、少しは前進していると信じたい。

母からヨーマツ役員宛に書かされた手紙
大分に隔離された長男
実家の屋号を、罰当たりにも創業者の名前を拝借して「株式会社ヨーマツ」と改名した母と下野は、不動産を買い漁った。神保町の本社屋と自宅を売って得た資金は、父がこさえた借金をかなり上回っていた。
都心の商業地の実勢価格が1年間で2倍にも3倍にも跳ね上がったため、バブル対策として昭和62年に「超短期重課制度」が施行され、所有期間が2年以内の物件を売却する時には重い税が課されるようになり、また23区内で売却した不動産を地方に買い換えることで税金の繰り延べができる「事業用資産の買替え特例」が導入された。その優遇税制を利用して、ヨーマツは大分市の一棟売りマンションを購入する。
昭和63年から64年(平成元年)にかけてヨーマツは、大分駅から徒歩5分に位置する9階建てのマンション、さらにその近くにある建築中の同規模の物件をそれぞれ1億円ほどで購入。販売主の「つかさ興産」は大分市内でリースマンション・シリーズを展開していて、グループ企業で建設やプロパンガスを手がける(のちにホテル事業も始める)デベロッパーであった。
不動産業となったヨーマツを継ぐため、僕はその会社に修行で行かされることとなった。以下は下野の息のかかったヨーマツ役員宛に書かされた僕の手紙である。母親がこのコピーを大量に取り保管していた。後に僕が発見した時に人権人格無視の最低の母親だと改めて思った。以前も書いたと思うが、僕が大分に行かされる本当の理由は、僕のいない間に僕の名前で裁判したり、僕の名前で手紙を父や祖母に(ワープロ打ちに実印を押して)勝手に送ったり、様々な工作をするためだった。
平成元年のある日、僕は母と下野と一緒に大分空港へと旅立った。空港にはつかさ興産の役員が迎えに来てくれていた。下野は少し前に物件を買うために大分に来ていたが、僕にとっては大分どころか九州上陸が初めてだった。
大分の地名は変わった名前が多い。下野は車中、標識に現れる地名をいちいち「あれはなんと読むでしょう」とクイズのように僕に問題を出してきた。
まずは「国東」。僕は「こくとう」と言った。下野は「ハズレ。これは『くにさき』です」。
次に「杵築」。僕は「きねつき」と答えたが、正解は「きつき」。
他にも「日出」に対して「ひので」と言うと、「あれは『ひじ』って読むんですよ」とその都度、「どうだ。僕は物知りだろう」とばかりに誇らしそうな顔を浮かべていた。
「だいたい初めて見る変わった地名なんて読めるはずがないし、お前だってこの前知ったばかりじゃん。それをそんなに得意げに披露して恥ずかしくないのかな」と僕は思った。
この時、僕は客人として、つかさ興産から接待を受けたが、次は社員として大分に行くこととなる。正直、バブル絶頂の東京で華やかに暮らす僕には、大分での生活は想像ができなかった。ディスコやプールバーもなければもレコード屋もない。当時はコンビニやレンタルビデオだって個人店しかないし、ファミレスもローカルだ。
ひとまず修行期間は1年間。僕は「大人にならなくてはならない」と東京の夜の生活に別れを告げ、家を継ぐために大分行きを決意した。その後、結局、9年間、大分で過ごすこととなる。僕が大分に隔離されている間も、中村家の騒動は収まる気配はなかった。

大分時代の筆者と会社の同僚
地獄の日々と違約金
当時、僕らが暮らしていたのは文京区後楽の安藤坂下にあるマンションだった。18歳の時に神保町の実家が人手に渡ってから、22歳で大分に行くまでの4年間、僕らは四谷三栄町、調布布田、東陽町、文京区後楽と5回の引越しをした。その間、家族や親族から引き離され、思い出の品や僕の様々なコレクションが処分させられていった。慣れ親しんだ街や友人たちとも疎遠になっていく。それが九州の大分ともなれば、誰一人知り合いなんていないし、土地勘もなければ言葉も違う。不安しかなかった。
最低限の荷物しか持って行けないため、僕は洋服とレコードだけ持って行くことにした。母は「父親にバレるから」と言って、僕の住民票は東京に置いたままにさせられた。「なぜバレたらいけないか」と疑問を投げかけたが、的を射た答えは返ってこなかった。今だからこそ「下野と一緒に偽装してきた悪事が一瞬でバレてしまうから」だと明確に分かるが、その時はまだ疑問や不安も持ちながらも、母との血の繋がりを信じていたのでそれほど追求しなかった。
約束は1年の間だけなので、「それでもいいか」と思い、ほとんどの荷物を自宅に残して行くことにしたが、それが最大の後悔となる。それらの僕の私物は30年近く、何の承諾もなく、下野の自宅に保管されることとなり、僕の生きてきた証がすべて奪われたのだった。縁もゆかりもない土地で、家族や親族だけでなく知り合いさえ一人もいなく、写真から何から過去の僕の存在を証明するものが一つもなく、住民票さえそこにない。僕のアイデンティティは崩壊した。
大分に行って初めて出社すると、奇異の目にさらされた。腫れ物に触るように接してくる人はまだましだ。面と向かって「東京のボンボンが」と吐き捨てるように言う人もいた。賃貸の部署に配属されたのだが、仕事内容も地名も分からなければ、何より方言がさっぱり分からない。一部の役員からは目の敵にされ、直属の部長が東京嫌いの大阪人だったため必要以上に冷遇された。毎日毎日、永遠に続くと思われる地獄の日々が続いた。
僕が入るはずの単身者マンションのメンテナンスが終わらないということで、仮の物件があてがわれた。すぐに引越しをしなくちゃならないので、荷解きもせず布団しかない2LDKのだだっ広い部屋でしばらく過ごした。長く辛い一日が終わると、自宅に帰って缶ビールを飲んで寝るだけだ。一人になると流れ出す涙が止まらなかった。その都度、ごたごたし続けている家族が安定するためにも、乗り越えなければならない宿命を背負っているのだと自分に言い聞かせた。その役割は弟でも妹でもなく、僕でしかないのは明白だからだ。
しばらくして驚愕の事実を知る。ヨーマツがつかさ興産からマンションを購入する際に、下野が契約書に「特約事項」を追加させたのだが、その内容には大きなトラップが仕掛けられていた。物件が建築中でまだ所有権がつかさ興産にある時に、銀行借り入れのため土地を一時的に担保に入れたようだが、それが違約にあたるとして、5000万円の違約金を支払わせたというのだ。
つかさ興産にとっては初めて東京向けに販売した物件だし、いかんせん田舎の会社なので契約とか法律に疎く、「まさかそんなことで」という甘い考えもあっただろう。だが、「勉強代」と思って支払ったそうである。下野からすると「金を得る」ことに成功したとしか思わないだろうが、そんな会社に送り込まれた僕がどうなるかなんて考えも及ばないのだろう。もし及んだとしても、自分には何の被害もないのだから問題がないという考えの人間だ。他人の感情なんて1円にもならないものには何の意味もない、それが下野の哲学であり、その考えのもと、僕の監視の目がなくなった家族、特に弟と妹を支配していったのである。
そして、僕の大分行きと時を同じくして、下野に対峙する父に援軍が現れた。『突破者』を出版する以前の宮崎学だ。にわかに生じた下野順一郎vs.宮崎学の構図は、後の三一書房の労使紛争へと繋がっていく。
〈MULTIVERSE〉
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