中村保夫 『神保町バブル戦争』 第八回「弟・篤史と妹・美香子へ」
東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。下野の分断工作の末に15年ほど前より没交渉となっている弟と妹へ。

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この連載では30年以上前に発生した事件をなるだけ時系列に沿って書いている。しかし同時に闘いは現在も継続中であり、僕は相変わらずその最前線にいる。この連載のおかげで様々な情報、励ましのお言葉をいただくようになった。特ダネもあるので、その辺りはまたいずれ触れたい。今回は、時系列から脱線し、きょうだいのことについて書きたい。
弟・篤史と妹・美香子へ
昭和42年生まれの僕、44年生まれの篤史、50年生まれの美香子、僕らは非常に仲の良いきょうだいだった。3人とも父や叔母たちと同じく千代田区立錦華小学校に通った。
妹は小学校の高学年から学校をよく休むようになった。クラスでいじめがあって、そのいじめっ子を注意したことがきっかけと母から聞いたことがある。「そういうことしちゃダメでしょ」と本人にダイレクトに言ったようである。
神田っ子には曲がったことが大嫌いで思ったことを口に出さざるを得ない性質の人が多い。そういった下町の気質を、僕は人として非常に正しい姿だと思うが、もちろんそうでない人も多い。僕の「筋の通らない間違ったことは許さない」というこの性格も、幼少期より神保町で育まれた。
僕の近所に遠藤という肉屋があった。そこのコロッケは神保町の名物で、昼時になると長蛇の列ができた。僕が小学校の頃は「半ドン」といって土曜日の授業は午前中だけで、昼飯はそれぞれの家に帰ってから食べる。実家の製本屋はもちろん、土曜日も通常業務なので、昼は出前が多かった。もしくはご飯だけが炊いてあって、そういう時は遠藤にコロッケを買いに行くのだが、それは僕の役目だった。
当時は会社も土曜日は普通に出勤日だったので、同僚から頼まれてまとめて10個とか買って帰る会社員なんかも多く、コロッケを揚げても揚げても間に合わないという感じだった。その揚げたてのコロッケにソースをかけて竹皮に包んで渡してくれるのだが、家の食卓に上がる頃にはコロッケに染み込んだソースが蒸されていてたまらなく美味しい状態になっている。ソースはユニオンソースというブランドで、それがまた美味かった。当時、スーパーなどではブルドックソースしか売ってなくて、どうしても欲しければ、合羽橋まで行って業務用の一升瓶を買わなければならなかった。
遠藤のコロッケはそのソースあってのものなのだが、なぜか僕にだけはソースをかけてくれないのだ。大人たちに混じって長蛇の列に並んで、他の人の様子をいつも観察していたが、僕以外の人には無条件に慣れた一連の手つきでソースをかけて竹皮をくるりとかけているのだが、僕だけは「すみません、ソースをかけてください」と言わなければかけてくれない。小さな子供が、客も店員も大人しかいない状況でそのセリフを言うのに、どれだけ勇気がいることか。でも、「ユニオンソース」で、しかも蒸された状態での遠藤のコロッケと、食べる直前にブルドックソースをかけた遠藤のコロッケではまったく勝負にならない。だからソースをかけてもらえなかった時は醤油をかけてコロッケを食べた。その名残で今もコロッケに醤油なのかと、これを書きながら気づいた。
その理由は後に分かるのだが、その遠藤の経営者は僕の祖父である中村要松と千代田区議の議席を争った相手だったのである。遠藤は自民党で祖父は社会党。祖父は千代田区議を4期務めたが、遠藤は落選。その恨みだったのだろう。町内会は自民党が強いので、町内会のお祭りでもよく嫌がらせを受けた。妹の美香子が「あんた中村さん家の子でしょ?」と言われ、一人だけ金魚掬いをやらせてもらえなかった時は頭にきて、美香子に「どいつだ?」と聞き、そのおばさんに文句を言いに行った。いい大人が小学生に対し、よくそんなことができるなと思う。当時から僕はこういった恥や常識も知らないくせに、偉そうにしている大人が大嫌いだ。
僕自身も小学校の2つ上の上級生から、公園などで会うたびに嫌がらせをされた。そいつらは神保町には珍しく「不良」扱いされていたグループで、ターゲットにされていた友達をかばったことがきっかけだった。小学校を卒業する直前、神保町の交差点でこの有賀を中心とする5人ぐらいのグループに自転車で囲まれ「お前、来年から一橋中学だよな。どうなるか覚悟しておけよ」と言われた瞬間、僕は全員のチャリを蹴倒し、歩道に倒れているそいつらに「うるせーバーカ! 俺はお前らと頭の出来が違うから私立行くんだよ!」と言って家までスケボーでダッシュした。
また、小学6年生から通い始めた進学塾に、僕がその塾に入る前からずっと成績一位の林田っていうのがいたのだが、僕が彼を抜いた時にも、トイレでそいつとその手下どもに囲まれて「たった一回、一位になっただけでいい気になるなよ!」と詰められた。「くやしかったら成績で抜いてみろよ」と返したが、それからは一度もそいつに一位の座を渡さなかった。
同級生からだけでなく、小学校の担任の先生や近所の大人たちからも様々な嫌がらせをされた。特に担任からは目の敵にされ、今だったら大問題になるくらいの仕打ちを受けている。だから、僕は理不尽なことには徹底的に抵抗すると決めて生きている。この連載もその一環であり、もっとも大きな闘いなのである。
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弟も妹も元々は曲がったことが嫌いなので、下野が登場した頃はその人間性を見抜いてネタにして話し合っていたのだが、洗脳と乗っ取りはというのは本当に恐ろしい。完全に下野に服従している母を通じて、僕らきょうだいは振り回されていく。
まず母はあれだけ父抜きの「家族」を望む離婚裁判をしていたのに、「僕と弟をダシに」会社の株や資産を間接的に手にすることに成功すると、急に僕は「株式会社ヨーマツを継ぐための修行」と称し、九州の大分に飛ばされた。すると、すぐに弟は、母と妹と一緒に住んでいたマンションから追い出された。きょうだい3人を物理的に分断すると、今度は心理的分断作戦だ。例えば母が「そう言えば、この前、篤史が保夫のことこんなこと言ってたよ」とか「篤史がこんな酷いことをするんだよ」といった話を深刻な顔で言ってくる。きょうだいが仲違いするように、母は僕たちそれぞれに対し工作活動に励んだ。時に誰かを贔屓し、またある時は誰かを冷遇する。例えば、家族旅行と称しながら一人だけ連れて行かなかったり、妹だけに贅沢をさせたりと、金をチラつかせながらきょうだい間に不満を溜めていくのだ。最終的には「きょうだい間で連絡を取り合ってはいけない」という「社長命令」まで僕たちに下された。
家族間で社長命令とは!? と思う人も多いでしょう。というかほとんどでしょう。その通り、とてもいびつで異常な家族内での支配体制が、母と下野によって築き上げられていたのだ。
そのきっかけはハッキリと覚えている。離婚騒動がひと段落し、僕たちがまだ母を信頼していて、母も父抜きの「家族の絆」をアピールしていた頃、僕らはイギリスに家族旅行に行くことになった。何故かというと、母が下野から「パースという街がいいから、そこに行ってきなさい」と言われたからである。そのパースは15世紀までスコットランド王国の首都だった都市で、街並みは美しく温泉の遺跡など見所ある街ではあった。だが問題はそこではない。なぜ赤の他人の指示で家族旅行の行き先まで決められなくちゃならないんだ、ということだ。しかも、ピンポイントでそんなニッチな観光地に。さらに言うと、僕以外はたぶん初めての海外旅行だ。
その日は朝から予兆はあった。弟の具合があまりよくない。母は嬉しそうにデパ地下で弁当とデザートを買い込んでいた。成田空港に向かう京成の特急の車中、僕らが弁当を食べ終えると母は、「はい、デザート」と言ってゼリーを僕らに配った。弟は「あんまり具合が良くないから、今はいいや」と断った。母は「そぅ…」と少し残念そうな顔をした。暫くして「喉が渇いたから、ジュース買って来る」と弟が言うと、「ほら、ゼリーがあるわよ」と母がゼリーを差し出した。僕らは3人揃って「ゼリーはジュースじゃない!」と突っ込んだ。
さらに少しすると、弟の具合が悪化していき「熱があるかもしれない」と言うので、風邪薬を飲むことにした。薬を手にした弟が「なんか飲み物」と言うと、母は「はい、ゼリー」と、性懲りも無くまたゼリーを差し出した。僕らは「だから、ゼリーは飲み物じゃないって!」と突っ込みながら大爆笑した。ゼリー1個だけ残って邪魔だという気持ちからの言動だろうが、母にはこのように天然なところがある。
僕たちきょうだいは楽しく笑っていたが、母は小さな声で「バカにしやがって…バカにしやがって」と悔しそうに言っていた。僕からすると、家族旅行まで他人に細かくコントロールされている方がバカにされていると思う。東大出が自慢の下野が、中卒で集団就職した母を「簡単に騙せる。支配できる」と、それこそ「バカにして」いると思うが。
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思い起こせば、その日が境だった。僕らは当時、実家の会社・株式会社ヨーマツの株主総会などに出席させられ、予め下野が他人に任せず一字一句自分で作った議事録に実印を押させられていた。自営業の家というのは、すべて同じだが、家族であると同時に、同じ会社の上司部下でもあるのだ。
母は僕たちに「私のことは社長と呼びなさい。社長の言うことは絶対だ!」と言うようになった。支配は下に伝染する。母は僕たちを支配しようとし始めた。以前、夜中に下野が母の後ろから肩に手をかけ「いいですか、あなたは社長ですよ。社長は会社で一番偉いんですよ」と呪いのように繰り返し言っていたのを思い出す。どうせ「子供たちが私をバカにする」と母が下野に相談した結果、その手を使うように指示されただけのことだ。
それからというもの、母は都合良く立場を使い分け、母親として社長として僕らを服従させようとやっきになるようになった。下野→母・玲子→子供達(または社員)というピラミッドの下野帝国が中村家(または株式会社ヨーマツ)に作られようとしているのだから、僕が抵抗するのは当然の行為であり権利だ。
「ヒトラーを崇拝している」と週刊誌に書かれるほど独裁願望が強い下野順一郎は、下の者からは些細な抵抗も許さない。実家や三一書房の騒動などで長らく下野を観察してきたが、正直、僕以外のほとんど全員が言いなりになっていた。僕はその手口の一部始終を見てきたので、これからも明かしていきたい。
一時でも闘ったのが三一書房の編集役員だった林さんだったが、すぐに降参して引っ込んでしまった。船瀬俊介さんは、下野に異論を唱えただけで、紛争の頭から経営者側を支援していたにも関わらず、簡単に下野からパージされてしまった。僕は下野がおかしなことを言う度に公然と批判していたにも関わらず、何故、僕に対してそこまで強硬にできないのか。それは、まだ株や財産などの権利を僕が所有しているからである。要は金の為なのである。
「バカにされたから復讐したい」とか「他人を支配したい」という、そういう下らない負の感情と異常なほどの強欲が、僕らの人生を狂わせた。その狂った生活の証拠をお見せして、今回は締め括りたいと思う。下野順一郎という男は、裁判の癖なのかどうかは知らないが、すべての資料のコピーを大量に取らせる。会社では事務員に、家では母に一日中、コピーさせていた。そうやって人を支配していることに快感を覚えているのではないかと思うほど、女性にコピーをずっと取らせる。その資料を発見した時の話がまたドラマティックなのだが、今後書く予定なので楽しみにしていてほしい。
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まずは弟が社員として実家の会社の手伝いをしていた22歳の頃に、前回の連載でも触れた登場人物であるヨーマツの岡部部長から弟へ送られた「勧告書」だ。弟の友人関係の問題なのに、会社の上司から公正証書で「勧告」されるという気違いっぷりである。ここに至るには、母が下野に相談→下野が岡部に命令→岡部が文章を作成→岡部が下野にチェックを以来→必ず修正を入れて岡部に戻す→公証役場に行く、といった全くもって生産性のない行為が必要となる。このようなことが日常的に会社で行われている。それも含めて僕は、下野と母怜子はずっと会社ごっこをしてるだけだと思っている。
次に美香子が書いたテレビ番組へのリクエスト葉書。こんなものまでコピーを取って下野に報告していたかと思うと、洗脳の恐ろしさに寒気がした。
弟なんかは会社に行っても、朝から晩まで岡部からダルマを磨かされていたと聞く。言うことさえ聞いていれば、たいした仕事がなくても、生活できるだけの給料が保証され、歯向かえばクビになる。下野が三一書房時代に「兵糧攻めだ。人間は金が無くなれば言うことを聞くようになる」と誇らしげに言っているのを聞いた時は、本当に虫酸が走った。
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弟と妹とは、15年ほど前からほとんど会っていない。母・中村怜子が接触も連絡も禁止しているからだ。弟と妹は、「きょうだい同士で連絡しちゃいけない」と実の母が命令してくることに何の疑問も湧かないのだろうか? 異常なことだとは思っていないのだろうか。異常だとわかっていても、声に出してはいけないほどの恐怖政治が敷かれているのは知っている。反抗したら給料や小遣いがもらえなくなり、日々の生活ができなくなるからといって、そんな理不尽で狂った生き方を強要されてまで、人としてのプライドを捨ててまで、そんな金をもらいたいか?
そもそも、そのお金だって本来は僕と弟に渡す約束で、中村家から奪い取ったものである。勝手に僕らの実印を乱用して裁判をしまくり、僕らの名目で取り上げた財産をすべて隠し、真実を知る親族との縁を切らせて僕らに事実が知られないようにし、さらにきょうだいが連携しないように分断しているのだ。それはすべて下野の指示であり、母怜子も承知の上で「山分け」している。どうか篤史と美香子には、これまでのことを思い起こし、目を覚ましてほしい。これからもどんどんと事実を暴いていくのでお付き合い願いたい。
〈MULTIVERSE〉
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