中村保夫 『神保町バブル戦争』 第六回「嘘と鰻の不等価な交換」
東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。19歳になった中村が立たされたのは離婚裁判の証言台だった。

佐川一政の実弟である佐川純著『カニバの弟』の取材中、純さんは度々辛い過去を思い出し目に涙を浮かべた。『カニバの弟』のまえがきに「人生を二度生きた気がする」とあるが、僕もまったく同じ気持ちでこの連載を書いている。
後に父と二十数年ぶりの再開を果たしたときに、僕は中村家を取り戻すために母・玲子と乗っ取り屋・下野順一郎(通称:増尾由太郎)と闘っていることを告げた。生まれた実家を赤の他人から理不尽に追い出され、タクシー運転手などをしながら苦労して暮らしてきた父は、僕の決意を聞いて喜ぶかと思ったが、予想外に苦々しい表情をしていた。
「生まれ育った神保町に、親父が大手を振って帰れるようにしたい」
「嫁を寝取られた男がのこのこと顔なんか出せるか」
このとき僕は生まれて初めて父の涙を目にした。「もう思い出したくもない」と父はつぶやいた。父からすると、僕と再び会えただけで嬉しかったのだ。長年、激しく下野と闘った父は、心に受けた傷を、二度と当時を振り返らないことで癒してきたのだろう。闘い続けるということは、セカンドレイプのような被害を受けることでもある。それを案じてか仕事が増えて面倒臭いからかは分からないが、警察や裁判官や弁護士など常識人面した偽善者たちは被害者にもっぱら「泣き寝入り」を勧める。この国は、特に詐欺師にとっては、犯罪者天国である。
幸い僕は間違ったことには絶対に屈しないという精神力を天から授かった。泣き寝入りなんかしてたまるか。悪事は必ず明るみに出るようでなければならない。これからは更に辛い過去を思い出さなければならないが、連載を続けていくので応援していただきたい。下野順一郎の家族、中村怜子の親族(特に実家である越後湯沢の森下家の人たち)にこの連載が届き、真実を知ってもらうことから、僕の本当の闘いが始まる。
崩壊する金銭感覚
中村家の創業一族の意思、ぼくたち子供の意思は、何一つ尊重されることなく、赤の他人である乗っ取り屋・下野順一郎(通称:増尾由太郎)の思惑で、僕たちきょうだいの人生は振り回され、狂わされていく。
神保町の製本屋の息子として生まれた僕は、幼い頃から大勢の人に囲まれて生きてきた。祖父と祖母、両親、弟、妹の7人家族の自宅の玄関に鍵がかかることはなく、従業員やその家族、親戚、友達、近所の人たちが常に出入りしていた。
従業員とは家族同然の付き合いで、社員旅行に製本組合の野球大会など年中なにかしらの行事があった。なかでもみんなが楽しみにしていたのは、夏の屋上ビアガーデンだ。昼過ぎから少しずつ従業員やその家族が集まり、賑やかになってくる。屋上にテーブルを並べたり、提灯などの飾り付けをしたり、お中元でもらったビールやジュースなどを氷入りのポリバケツで冷やしたりと、男どもが宴会場のセッティングしている間、女性陣はせっせとおつまみを準備していた。その周りを僕ら兄弟や従業員の子供たちが縦横無尽に走り回る。
昭和40年代の半ばから50年代頭にかけての記憶だが、まだ戦後の貧しさが残っていた時代だ。子供からするとジュースが飲み放題なんて夢のようだし、ビールも庶民の飲み物ではなかった(だからこそ代替品としてのホッピーが存在する)。大人も子供もみんな楽しそうに騒いでいた記憶が残っている。
左から、下野が連れて来た従業員、筆者(二十歳頃)、
今から思えば、それからわずか数年で状況が大きく変わった。出版不況により製本屋を廃業し貸ビル業に鞍替えすると、それまでの従業員やその家族に変わって、地上げ屋やヤクザ、右翼など「金目当て」で訝しげな人物が出入りするようになった。その魑魅魍魎のバトルロイヤルを制した下野が、怪しげな人物とともに美成社という会社そのものである「中村家」までリング外に叩き落とした。
突如、レフェリーとして現れ、自分勝手で非常識なルールを乱発し独裁を始めたのだ。何が反則で何がフェアプレーなのかは、そのレフェリー以外誰にも分からない。そもそも勝者は最初からレフェリーという、荒唐無稽な筋書きになっている。
祖母も父もいなくなった僕たち家族の生活においては、価値観と常識がまず一変した。最初におかしいなと感じたのは金銭感覚だ。実は僕はそれまで自分の家が裕福だと思ったことはなかった。同級生と比べてもお小遣いが多いわけではないし、親から誕生日やクリスマスにプレゼントをもらったこともない。家の食事だって、ごく普通の下町の家庭の献立だ。
母は新潟・越後湯沢の中学を卒業し、集団就職でソニーの工場に勤めていた。母にとって、中村家は「玉の輿」に乗ってセレブな生活を送るための嫁ぎ先という感覚だったのだが、東京の下町にそんな典型的な田舎者の成金はいない。
姑がいなくなった母は、口を開くと祖母・はついと父・素明、それと3人の叔母の不平不満ばかり言うようになった。それも金に関するものばかり。離婚する際の母親はみな同じなのかもしれないが、子供が自分に付くために、どれだけ自分だけが正しくて父親や姑がどれだけ酷い人かを吹聴する姿は醜い。僕は家を出るときの父のセリフをその都度思い出し、真面目に仕事をしてきたのは母だが、人間として正しいのは父であると思った。
母は僕たちをお金でコントロールしようとし始めた。あるとき母は「合挽き肉を100グラム買ってきて。それだけでいいから」と言い、僕に1万円札を渡した。そのときの母の表情には何かしらの決意のようなものが見て取れたのでよく覚えている。挽き肉を駅の近くの肉屋で買って帰ると、母は肉だけ受け取り、つり銭を返せとは言わなかった。1円単位で金にうるさい母がである。弟にも僕と同じことをしたので、僕らは「どうしたんだろう?」と話した。そのときには言わなかったが、僕は母がそれまで会社にかかりっきりで子供に母親らしいことができなかった贖罪意識を、金で解決しようとしているのだろうと解釈した。愛情表現が不器用なんだろうな、と。
数百円の買い物の都度、1万円札を財布から出す母に慣れてくると、僕らはお釣りでレコードを買ったりするようになっていった。どうせ返さなくていいのだから。僕たちきょうだいの子供の頃から培われてきた金銭感覚がまず崩壊した。
東陽町の家にて。左から弟・篤史、筆者
国民の義務と長男の覚悟
こんな家庭環境なので、僕と弟は受験どころではない。妹は相変わらず登校拒否をして自宅に篭っていた。母は僕たち兄弟に「お前たちは家にいて美香子の面倒を見てくれればいいから」と言ってお小遣いをくれた。時はバブル、ちょうど僕らのようなニートが社会現象化していた。
僕はバイトと小遣いを合わせると、月に20万円は軽く稼いでいたので、六本木で友達がオーガナイズしていたディスコ・パーティーには、毎回、新しいDCブランドのスーツを着て出かけた。
19歳当時、ディスコ・パーディーにて。一番左が筆者。80年代のディスコシーンについては、「1984年、歌舞伎町のディスコを舞台に中高生たちが起こした“幻”のムーブメント── Back To The 80’s 東亜|中村保夫」に纏められている。
この頃、頻繁に自宅に出入りするようになっていた下野は、常に母に何かしらの指示を出していた。以前も書いた美成社の持株の比率の話のときのように、「いいですか、こうしたほうがいいんですよ。あなたにとって得なんですよ」とバカを諭すように、自分の意見が受け入れられるまで、何日かかろうが下野は同じ話を母にし続けた。
「計画倒産という手もあるんですよ。悪いことでも恥ずかしいことでもないんですよ」
「利用できる親戚は利用して、あとで縁を切ればいいんです」
うっすらと聞こえてくる下野の小汚い悪意しかないセリフの数々が、明らかにまともな人間じゃないことを証明していた。しかし、そんな輩にどんどん洗脳されていく母に危機感を持った僕は、母に「あの男(下野順一郎)を信用するな」と何度も迫った。
しかし、わずか数ヶ月で母はすでに下野の軍門に下ってしまっていた。下野の言いなりに生きることを決意した母は、下野に1ミリたりとも抵抗することを止めた。それだけでなく、母は僕の毎日の言動をすべて下野に報告するようになったのだ。
僕が母に何かを話しても、その場では明確に答えず、下野に電話をして指示を仰いでからから僕に返事をするようになった。そうすることを強要されていることもすぐに分かった。下野と連絡が取れなければ、僕との会話の返答が翌日になることもあった。
「お前は、増尾先生(下野順一郎)が言っていることを誤解している。先生はこういう意味で、お前のために言ってやってるんだ。先生は素晴らしい人なんだ!」
母は下野から指示された、どうしようもなくレベルの低い詭弁で僕を制しようとした。そして、僕に反論させないように、いちいち大声で頭から押さえつけるようにしか、僕にものを言わなくなった。だんだんとまともな会話が成立しなくなっていった。「あれをしろ、これをしろ」と高圧的に自分の要求を言ってくるようになり、少しでも反論すると「私は社長だ! 社長の言うことを聞け!」と迫ってくる。
そうこうしているうちに、母が父に離婚裁判を起こし、僕は調停で母に有利になるような証言をするようにしつこく迫られた。僕は赤の他人の下野から、自分の両親の離婚裁判に出るように強要される筋合いはないと思い、ずっと証言台に立つことを拒否していた。
ところが、ある日、下野がまた汚い魂胆を歪んだ笑顔で隠しながら僕に近寄ってきた。
「いいですか、保夫君。裁判所から呼びだされたら出廷するのが国民の義務なんですよ」
義務であればしょうがない。僕は離婚裁判の証言台に立つ決意をした。
「分かりました。行きますよ」
僕の一言に、母と下野は目を輝かせた。そして間髪を入れず、下野が手書きの書類を僕に差し出した。
「はい。じゃあ、これとまったく同じように上申書を書いてください」
その文面には、父親がいかにひどい人間かといった罵詈雑言が書かれていた。僕は下野の目を見ながら言った。
「証言しなくちゃならないなら行きますよ。義務なんですから。でも、なぜ思ってもいないことを、他人に強要されて書かされなくちゃならないんですか?」
下野はフンと鼻で笑うと、「しょうがないですね。好きなように書きなさい」と言った。僕は自分の言葉で文章を書こうとした。だが、今読み返すと、元の文章にだいぶ引っ張られていることが分かる。連日のように父の悪口を聞かされ続けたこと、まだ実の母を信じていたことが影響しているのだろう。
この文章を書きながら、19歳になったばかりの僕は、中村家を引き継ぐ覚悟をした。それは弟の役割でも妹の役割でもない。あくまでも長男である僕自身が抱える責任なのであった。
嘘と鰻の不等価な交換
いよいよ僕が証言台に立つ日が訪れた。緊張の面持ちで家庭裁判所の証言台に立つと、裁判官が開口一番こう言った。
「保夫君は、これまで証言することを拒んでましたよね。どうして今日は証言する気になったんですか? あなたには拒否する権利があるんですよ。自分の意志で来たのですか?」
ああ、騙された。下野と実の母がグルになって、嫌がる未成年の僕を騙してまで離婚裁判の調停に引き摺り出したのだ。実の母が、欲に目がくらみ、実の息子の感情を踏みにじってまで欲望を遂げようとした事実が突きつけられた。頭が真っ白になったが、もう引き戻せない。
「今日は自分の意思でここに来ました」
そう言うと、僕は予め用意していた上申書を無感情に読み上げた。
19歳のときに書かされた離婚裁判の上申書
裁判が終わると、下野はいつもの歪な笑顔で近づいていた。
「なかなかよく出来ましたよ、保夫君。ご褒美に鰻でも食べに行きましょう」
母もホッとしたような顔をしていた。弟と妹も僕の気持ちには気づいていないようだった。この下野というのは、すぐに「会議だ」と言っては母に鰻や寿司の出前を取らせた。人に飯をたかっておきながら、「さあ、どうぞ食べてください。うーん、ここの鰻はまあまあですね」と言い放つ無神経で常識外れな男だ。こうした細かい言葉遣いひとつからも「人の金だから高価なものを食べよう」「人に金を使わせて自分が良い格好をしよう」という思考のゲスな人間だということが分かる。
それにしてもなぜ僕の家族の問題なのに、下野がまるで家族のような面をしてその場を仕切っているのか。僕はとにかくその場を離れたかった。「先生、良かったですね」なんて言っている母親に対し「鰻なんて食って喜ぶような精神状態じゃないことぐらい、人間の感情があれば分かるだろう?」と僕は心底失望した。でも、この時点で血の繋がった母を見放すことは出来なかった。
僕は「用事がある」と言って裁判所を出ると、行き場を探した。当時の彼女に電話をすると、友達と用事があると言うが無理矢理それをキャンセルしてもらい板橋にある彼女の家に向かった。彼女のお母さんに事情を話し、泊まらせてもらった。それから数日、泊まれる家を探しては転がり込んだ。
僕の通った中学高校は早稲田の係属校ということもあり、きちんとした家庭が多かった。まだ離婚なんて一般的でなく、片親と言われ差別される時代だ。ディスコで知り合う人は荒れた家庭環境の人が多く、そういった人たちは他人の心の痛みにも優しかった。僕はそれまで以上に家に帰らなくなっていった。自分の居場所を求めて夜な夜な刹那的に遊び回った。家を継がなくてはならないことは承知の上だが、そうせざるを得なくなるまで、当面は好きなことだけをして生きていこうと思った。
僕はせっかく合格した大学にも通うことなく、堕落した生活を続けることでしか精神の均衡を保てなかった。そのまま成人を迎えた僕は、ある意味、下野の思い通りだったのだろう。何も出来ない人間になってくれたほうが、下野が会社を乗っ取るには都合が良いのだ。当時の僕は幼く、そのことに気づくことができなかった。そして、その被害は弟にも及んでいくことになるのだが、続きは次回とさせていただく。
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