中村保夫 『神保町バブル戦争』 第四回「父との訣別」
東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。ある日、家に帰ると母ときょうだいの姿がなく、父が一人、居間のテーブルに座っていた。下野のシナリオがいよいよ動き出す。

前回から少し時間が空いてしまい、多くの読者から「次回はいつアップされるんですか?」と聞かれていました。パリ人肉事件佐川一政の実弟、佐川純さんの著書『カニバの弟』など東京キララ社が新刊ラッシュだったため、どうにもなりませんでしたが、これからはアップの頻度を高めていきますので、よろしくお願いします。お待たせしました。第4回です。
と、始める前にもう一言。最近、「自分の家も同じような経験をしている」と声を掛けられることが非常に多い。特に東京生まれの人は大なり小なり同じような目に遭っているようだ。そのほとんどが過去の話だが、もし現在進行形でお悩みの方がいれば気軽に声を掛けてほしい。この連載の大きな目的は、そういった人々に悪事の手口や乗り切るヒントを公開し、被害者を救うためだから。
つい先日も海外に住む知り合いが帰国した際に話したのだが、彼も最近自分の店を乗っ取られてしまったそうで、そのやり場のない怒りに震える中、この連載を読んだことで救われたと言う。彼も「闘う」と決めたのだ。僕のこのクソのような30数年間の経験が、少しでも誰かの役に立つのであれば、その被害も無駄ではなかったと思えてとても嬉しい。
仕組まれた離別
前回の続きである。中村家が調布の家に引っ越してから3ヶ月ほど経ったある日のこと。友達の家に泊まってから帰宅すると、玄関前で掃除をしていたお手伝いさんの藤田さんが僕を手招きした。
「お兄ちゃん、社長(母・中村怜子)はあっちゃん(弟)とみかちゃん(妹)と一緒に今ここにいるから」
そう言って藤田さんは僕に住所をメモした紙切れを渡した。母は何の前触れもなしに、弟と妹を連れて家を出たと言うのだ。ちなみに母は、共同代表になる前は「怜子ちゃん」と呼ばれていたが、この頃は自分のことを「社長」と呼べと周囲に強要し始めていた。社長は社長だが、家族経営の小さな会社である。
それには明確な理由があった。自分のことを「先生」と呼べと言う乗っ取り屋・下野順一郎が母に執拗に言っていたセリフを思い出す。
「いいですか、法人と個人は別の人格なんですよ。会社で一番偉いのは社長なんです。あなたは社長なんですよ。だからあなたは美成社で一番偉いんですよ」
下野は電気もつけずに食卓で母と向かい合い、このセリフを何度も何度も、バカを諭すように優しく繰り返していた。僕がそれを覗いていたことは2人とも気づいていないようだった。執拗なまでに繰り返す同じセリフに、僕は下野に何かしらの「魂胆」があることを察知し、このときから下野の言動を監視することに決めた。
話を調布の自宅に戻そう。藤田さんは僕にメモを渡すと、「荷物は後で全部送るから、すぐにこのまま家を出なさいって社長が……」と言ったが、そんな話があるものか。僕は何もやましくないのに、なぜ親父から逃げるように自分の家を出なければならないのか。
玄関のドアを開け「ただいま」と家に入ると、親父は居間のテーブルに一人でポツンと座っていた。
「怜子は篤史と美香子を連れて出て行った」
「聞いたよ」
「お前はどうするのか? 自分の人生は自分で決めろ。ただしいいか、これだけは言っておくぞ。離婚というのはどちらが悪いということではない。どちらを選んだとしても、親を恨むんじゃないぞ。例え俺を選んだとしても、怜子のことを恨むなよ」
僕は「分かった。ちょっと話をしてくる」と言って家を出た。
東陽町の新居
母は東西線の東陽町駅から徒歩10分ほどのマンションの一室を借りていた。部屋に入ると中には階段があり、下の階にはダイニングキッチンとリビング、上の階にそれぞれの居室があった。いわゆるメゾネットである。
荷ほどきされていないダンボールに囲まれ、親父のいない家族がそこに揃っていた。
「お前はこのままここにいなさい。荷物は取り寄せることになっているから」
母はそう言うが、僕には僕の考えがある。
「俺は親父と一緒にいることにするよ。きょうだい3人揃っていなくなったら、あの人はダメになる。だからせめて俺一人だけでも親父につくよ」
母は僕の言葉を予想していたかのように、すかさず言った。
「美香子にお父さんがいなくなるから、お前がお父さん代わりになって一緒に住みなさい。美香子もそう望んでるんだから」
妹を見ると不安げな顔で頷いていた。後から考えると、このとき妹は素直にそう思っていたのだと思う。しかし、母親からすると、下野に命令されて、僕を説得するためのセリフを言わされていたとしか思えない。なぜならば実家の会社の後継者は僕であり、下野と母にとって会社を乗っ取る上で僕は必要不可欠の人物だからである。母のその後の行動がすべてを物語っている。家族の愛情とか絆とか、そんなものは数億円の資産を目の前にすると何の意味もなく、実の息子であろうと損得ゲームの駒でしかなくなるという現実を、その後、僕は徐々に知ることになる。
シナリオに従って
妹は僕よりも8歳年下で、当時10歳の小学生だった。その頃から学校に行かなくなっていて、いわゆる登校拒否児のハシリであった。僕は妹と暮らす決断をした。そのためには調布にとんぼ返りして、親父にその旨を伝えなければならない。ところが、母は「絶対に調布に行ってはいけない」と言う。
僕が「とにかく話をしたら戻ってくるから」と言うと、それから親父の悪口を延々と言い始めた。どれだけ自分が正しくて、父親がひどい人かを一方的に話し続けたのだ。それはとても気分の悪いものだった。
神保町の近所の人たちや実家の会社の関係者からすると、父は2代目のボンボンで会社に損害を与えた悪い人間、母はそれを健気に支える真面目な人間、というイメージがあった。というよりも、母親がそのように言いふらしてイメージを作り上げていた節が確実にある。
僕は家を出る前の親父の態度と母親の態度を比較していた。親父は自由気ままに遊び呆けていたけど、人情に厚く曲がったことの嫌いな性格である。それに対し、母は仕事こそきっちりするが、感情的で利己的な性格だ。しかし、もう決めたことだ。僕は東陽町から調布へと向かった。
親父は相変わらずリビングに座っていた。
「美香子が心配だから、向こうにつくことにした」
「誰かにそう言えと言われたわけじゃなく、お前の意思なんだな?」
「そう。俺が考えて決めた」
「分かった」
「じゃあ、行くね」
わずか5分もない会話だった。この会話を最後に、親父と30年近く会わないことになるとは、このときは思いもしなかった。
東陽町のマンションに着くと、どっぷりと陽が暮れていた。その日は荷物の山に囲まれたまま、リビングに布団を敷いて家族4人が枕を並べて寝ることにした。不思議だが、家族から父親が欠けたというのに、僕は初めて家族というものを意識した。しかし、これからはその欠けた役割を自分が果たさなければならない。
吹き抜けの居間にある窓は縦に異様に長く、既製品では寸法がまったく足りない。カーテンもない窓を見上げると、まんまるに近い月が僕らを照らしていた。幼い頃、母と一緒に寝たいと思って布団に潜っても、「あっち行け!」と蹴り出されたことを思い出した。もう10年以上前のことだが、いまこうして枕を並べていることに幸せを感じてしまったことは確かだ。
しかし、ここからが本当の地獄だった。父と母が引き裂かれたことにより、毎日のように下野が家に訪れることとなる。そして下野の描いたシナリオがいよいよ本格的に動き出す。

左から、弟・篤史、母・伶子、筆者、下野順一郎(通称:増尾由太郎)、社員
〈MULTIVERSE〉
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