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HAGAZINE

中村保夫 『神保町バブル戦争』 第三回「実家の喪失と転居の日々」

東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。実家を失い、転居を繰り返していた中村家は、嵐の前の静かなる日々を送っていた。しかし後年、嘉悦学園の学長によって、その時すでに下野の謀略が始まっていたことが明らかにされる。

人生のドライブレコーダー

 この連載を始めてから、様々な場所で「HAGAZINE読んでます!」と声をかけられる。続いて「ほんとに面白くて!……あ、いや、すみません、面白いと言ってしまって……」と言われることが多い。

 僕はこういった「事件屋」「乗っ取り屋」という存在を知ってもらうことで、同じような被害者が減ってもらえれば良いと思っているし、現在進行形で被害に遭っている人たちに行動する勇気を持ってもらうためにも自らの恥を公開している。だから、ぜひ興味を持ってもらいたいし、多くの人から面白いと言ってもらえるのはとても嬉しい。

 僕はすべての悪事は明るみに出るべきだと思っている。幼い頃から曲がったことが大嫌いな性格だったこともあるが、この下野順一郎と闘うにあたり、僕が決意したこととも関係する。

 下野は損得勘定で人を支配しようとする男だ。その最も顕著な例は「金」である。金が絡むと人は冷静な判断ができなくなる。下野の口癖は「兵糧攻めにすれば誰もがひれ伏す」だった。それは三一書房の労使紛争時代に下野から散々耳にした言葉だ。

 これまで金のために人を裏切る人間をたくさん見てきた。実際、母親だろうが弟妹だろうが嫁だろうが僕を平気で裏切ってきた。だからある意味、下野の言葉は正解である。ただ、下野の言いなりになった誰もが幸せになっていないから、やっぱり全員不正解である。わずかな金のために下野の支配下に甘んじてきた人たちは、今からでも遅くないので早くそのことに気づいてほしい。

 僕からすると下野に扇動される人は「自らの欲望のために人間として間違った判断をした人」である。下野のような人間と闘うには、判断基準を「正しい」か「間違っているか」にする以外ないのだ。損得勘定は状況に応じて常にぶれるものだが、信念や倫理観は揺らぐことがない。下野に対抗するためにも、僕は人生における自分の言動のどこを切り取られても恥ずかしくない生き方をすべきだと決意し生きてきた。円谷プロ製作『猿の軍団』の最終回でのユーコムのように、自分の人生が録画されていると分かれば、この世の中から「詐欺師」は消滅するはずだ。だから、現在進行形で被害に遭われている人は、録音でもメモ書きでも、とにかく証拠の品を揃えておくことをオススメする。「正義の闘い」のためには人生のドライブレコーダーが必要だ。

 

嵐の前の団欒

 高校3年の時に下野順一郎が現れたことにより、僕の人生は激しく流転していった。まずは父が騙され背負わされた3億5000万円の借金を返済するため、神保町の自宅が売却されることとなった。1985(昭和60)年12月の僕の日記には、突如親子3代が暮らした自宅から追われたこととなった痛切な気持ちが綴られている。かつてこの家には、祖父・中村要松の元に浅沼稲次郎が訪れ、親父の姉である叔母とデートするために岡田真澄や長嶋茂雄が訪れてきていた。それがいつしかヤクザ、地上げ屋、右翼、極左の活動家、詐欺師、乗っ取り屋などが群がる家になっていた。

 

現実逃避のディスコ狂いの日々と汚い大人への荒ぶる感情が、時代感たっぷりのファンシーな日記帳に綴られている。

 

 代々暮らしてきた自宅を失ったこの時から、僕のアイデンティティを取り戻す長い旅が始まった。以後、家だけでなく僕の家族、親族、財産から人間の尊厳まで、僕からすべてを毟り取ろうとする2人の人物(まったくの赤の他人の下野順一郎と血の繋がった実の母・中村怜子)との闘いの火蓋が切られた。詳しくはいずれ書くが、実はこの日記帳を含む僕の多くの私物は、ある事情から30年近くの間、下野順一郎に奪われてしまっていた。やっと3年ほど前に一部を取り返すことができ、この日記帳は取り返した荷物の中から出てきたものだ。

 余談だがこの荷物の中から80年代のディスコに関する資料も出てきたため、拙書『新宿ディスコナイト』を書くことができた。これまでに十数回の引越しと二度の結婚、そして離婚などがあったことから、ずっと持ち歩いていたらどこかで処分せざるを得ない状況になっていたかもしれないが、まるでタイムカプセルで厳重に保管されていたかのように、当時の状態のままディスコの会員証やキーホルダー、全国ディスコチャートが掲載されたフリーペーパーが僕の手元に戻ってきたのである。このことが、あくまで結果的にだが、下野の存在が僕の役に立った唯一の事例である。

 18歳の僕では抗いきれない、人生を変える大きな力が動くのを感じた。人生初の引越しは1985年の暮れだった。年末の駆け込み引っ越しは、不動産業界では要注意とされている。あからさまに訳ありということだ。結局、新宿区三栄町、四ツ谷駅から徒歩10分弱の入り組んだ路地にある、築数十年のボロボロの木造家屋が中村家のリスタートの場となった。

 元々は住居兼、診療所だったようだ。診察室だったと思われる応接間の窓は異常に高く、不気味な空気感が漂っていた。オカルト的な話になって申し訳ないが、僕の経験上、こういった悪い意味での人生の転換期というか、人生の一大事の時は神経が研ぎ澄まされているからか、霊感みたいなものが急に強くなる。引っ越した初日から不思議な心霊現象が続いた。一晩中、雨戸を叩く音がしたり、朝起きると布団の下がびっしょり濡れていたり、写真を撮ると見知らぬおじいさんが映っていたり、何かしらの不思議な現象が毎日のように起こった。この四谷の家は一時の仮住まいだったが、その間、僕以外の家族全員が不気味がって家の風呂に入らず銭湯に通っていた。良い方向に向かっていない時ほど変な家に住むことになるから、以降も引っ越す先引っ越す先で心霊現象に苛まれた。

 ただ、引っ越したことで得られた経験もあった。それまでの生活では居住空間が分かれていた祖母と僕の家族が、一つ屋根の下で生活することとなった。引っ越し直後の年末と正月は、さすがにみんなおとなしく家で過ごしていた。それは十数年ぶりに家族水入らずで過ごす貴重な時間だった。

 うちは不思議な家庭だった。祖父と祖母は明治の人間だからか、もともと無口であり、父親は生活のパターンがまったく逆なので、滅多に顔を合わすことがない。母親はすぐヒステリーを起こして怒鳴るから、僕ら兄弟は極力接触を避けていた。いわゆる家族の会話や団欒というものがほとんど存在しない家だった。

 会社の行事で社員旅行に同行することはあっても、両親と一緒に休日を過ごした記憶は一度しかない。ヨチヨチ歩きの弟も一緒に、北の丸公園にピクニックに行った4歳くらいの記憶だけだ。両方の手を両親に繋いでもらいながら家まで歩いて帰るのが夢のようで、その後もずっとおねだりしたが、徒歩十数分の北の丸公園に家族で行くことさえ、二度とは叶わなかった。

 

年に一度の社員旅行が家族旅行の代わりだった。

 

 母は父親のせいにして、どこにも息子を遊びに連れて行かない父をなじっていた。しかしだからと言って母親がどこかに連れて行ってくれるわけじゃない。家業の製本工場を手伝っていて忙しかったこともあるが、僕は幼い頃お手伝いさんに育てられた。東北弁丸出しの家政婦・ミネさんが僕にとっての母親代わりだ。ミネさんの背中で子守唄を聞いて育ち、公園に遊びに連れて行ってもらった。

 中村家は僕以外、3人の叔母も父も弟も妹もみんなお茶の水の浜田病院で生まれているが、なぜか僕だけは九段坂病院で生まれている。浜田病院は産婦人科、九段坂病院は総合病院だったが、結果的にそのことで僕の命は助かることになった。生まれながらにして肺炎を起こしていた僕は「もう助かりません」と先生に言われたという。母乳は止められ、僕は何の処置をされることなく、保育器の中で放置された。その後、奇跡的に僕は蘇生したのだが、通常は寝返りできない赤ん坊のために、頭の向きを変えてあげるところ、僕は「死ぬ」と宣告され同じ体勢のまま放って置かれたので、片耳はつぶれ、頭の形も歪になってしまった。僕が長髪なのは、子供の頃からずっと歪な後頭部を隠すためである。

 ということで僕は一度も母親の母乳を口にしたことがなく、生まれてからずっと粉ミルクで育った。そのせいかどうか分からないが、両親ともに特に背が高いわけではないのに、保育園時代から小学6年生まで学年で一番背が高い男子だった。

 話を元に戻そう。四谷のボロ家での生活にも慣れ始めた3ヶ月後、すぐに次の引越しとなった。引越し先は京王線の調布。最寄駅でいうと一つ手前の布田だった。四谷の家と比べると比較的新しく日当たりが良くて、二階建てで部屋数も6LDKとかなり広かった。それまでビルの3階とか4階にしか住んだことがなかったから、テレビの中で見る普通の幸せな家庭というものが突然手に入った気がした。欠点といえば都心に出るのに時間と手間がかかるということだったが、それゆえに父親がいる機会が増えた。親父は休日の昼飯にカレーそばを作ってくれた。また「これダビングしてくれ」と言って鶴田浩二のLPを僕の部屋に持ってきた。そして熱々のお茶をさらに電子レンジにかけて飲む趣向があることも知った。人生でこんなに親父と日常的に顔を合わせる日々が来るとは、それまで思ったこともなかった。

 しかし、そんな平穏も一瞬だった。もともと学校を休みがちだった妹は、自宅が調布に移り、越境して神保町の小学校に通わなくてはならなくなったことで、いよいよ完全に学校に通わなくなってしまった。いや、通えなかった。朝のラッシュアワーに10歳の女の子がランドセル背負って満員電車に乗ることは不可能に近いだろう。しかも年齢的に家庭がおかしなことになっていることも分かっていたはずだ。精神的な衝撃は大きかっただろう。

 僕は僕で新宿や渋谷に遊びに行っては、調布まで帰るのが面倒で、そのまま友達の家を泊まり歩くようになった。もう受験勉強どころじゃなかった。一番、自分が自暴自棄になっていた時代だ。母親は母親でいつも下野に呼び出されて忙しそうにしていた。そして、家にいるとずっと愚痴と他人の悪口しか言わなくなっていた。

 

中村家の命運を分けた30分

 詐欺事件の責任を取ることになった父は、下野の方針のもと実家の美成社の代表の座を、あくまでも「一時的に」ということで退いていた。これは30年近く断絶させられていた中村家の親族と再会した後に知ったことなのだが、この社長交代のプロセスの中にすでに下野の罠が仕掛けられていたのだ。

 父の素明には三人の姉がいて、その三女の佳代は嘉悦学園に嫁入りしている。嘉悦学園とは1903年に創立した日本で初めての女子を対象とした商業学校であり、卒業生には高見知佳や坂上香織、おニャン子クラブの岩井由紀子などもいる。その嘉悦学園の理事長であり、義理の伯父である嘉悦克さんが僕に当時起こったことを語ってくれた。叔父曰く、父の退陣後、本来は祖母・はついが一人で代表となるはずだったそうだ。しかし、下野の盟友である弁護士・河合弘之の事務所に中村家関係者が呼び出されて話に行く際に、なぜか祖母だけが30分前に呼ばれていて、下野たちに囲まれた祖母は有無もなく母・怜子を共同代表にする書類に判子をつかされてしまったのだという。

「あれはまずかった。共同代表の判子なんて押させられたらお終いだよ。僕たちが行った時にはもう判子を押した後だった」

 叔父はため息を吐きながら僕にそう語った。たったの30分、しかしその30分の間に、その後の中村家の命運が決まってしまったのだ。

 ところで話は逸れるが、この義理の伯父さん、嘉悦克さんもなかなかできない経験をしてきた面白い人物なのである。嘉悦克さんの親族である嘉悦義人氏は、横井英樹襲撃事件の際に安藤昇を一時匿っていた方で、安藤昇の著書にもそのエピソードが書かれている。嘉悦克さんもまた大学生の時に、義人氏に安藤組の事務所に連れて行ってもらったことがあるそうだ。義人氏から安藤組の人たちに「これは俺の甥っ子だ。渋谷で何かあったら面倒見てやってくれ」と紹介してもらい、その後、実際に何度か安藤昇とゴルフをしに行ったらしい。真っ白なゴルフウェアをビシッと決めていて、それはそれはカッコ良かったという。

 嘉悦さんは社会的な地位もあることから親族内でもっとも信頼されていた。その嘉悦さんを利用したのが下野(とその指示に従う怜子)だった。詳しくは追って書くが、下野と怜子は、自らの欲望のために、親族だろうが実の子供だろうが誰彼構わず利用した。異常なほどの金銭欲と支配欲を満たすためには、道義的に外れた悪行にも躊躇することはなかった。

 すでに判断能力の乏しい高齢者であった祖母はついを欺きそそのかし、下野順一郎が河合弘之弁護士と結託して、中村怜子を共同代表とする書面に捺印をさせた瞬間から、下野と怜子の乗っ取り行為はいよいよ露骨なものになっていった。中村家の財産を搾取するために、二人の乗っ取り屋が最初に着手したのは、父・中村素明と母・中村怜子の離婚だった。下野からするとすでに自分の支配下に置いている怜子を、夫である素明と離婚させた上で、怜子に子供たちの親権を取らせ、跡継ぎである僕たちを利用して中村家から財産を奪う、という算段だ。

 乗っ取り屋からすれば、自分の利益(お金)のためには他人がどうなろうと知ったことじゃない。十代だった僕ら兄弟は、人生も感情も弄ばれていくこととなった。そのことに対していくら抗議しようとも、母親は「うるさい! 増尾(下野)先生の言うことが正しいんだ!」と聞く耳を一切持たず金切り声をあげるだけ。下野と出会って以来、母は日に日に話の通じない人になっていった。

 さて、次回は両親の離婚から話を始めるとしよう。以下、最後に掲載するのは下野順一郎(通名:増尾由太郎)が、弁護士・遠藤誠と河合弘之に送った離婚に関する文章だ。いちいち〝大義名分〟と強調しているところに注意してもらいたい。企みがあからさまである。

 

下野順一郎の手書き文章

 

〈MULTIVERSE〉

「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

「REVOLUCION OF DANCE」DJ MARBOインタビュー| Spectator 2001 winter issue

「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」奥野克巳に訊く“人類学の静かなる革命”

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「子どもではなく類縁関係をつくろう」サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る

 

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PROFILE

中村保夫 なかむら・やすお/1967年、神田神保町の製本屋に長男として生まれる。千代田区立錦華小学校、早稲田実業中学、同高校卒業。2001年に東京キララ社を立ち上げ、「マーケティングなんか糞食らえ!」をスローガンに、誰も踏み込めなかったカルチャーを書籍化し続ける。書籍編集者以外にもDJ、映像作家として幅広く活動。永田一直主催「和ラダイスガラージ」で5年半レギュラーDJを務め、現在は両国RRRで定期開催されるDJイベント「DISCOパラダイス」を主催。数々のMIX CDをリリースしている。著書には『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』(東京キララ社)、映像作品には『CHICANO GANGSTA』(監督)『ジゴロvs.パワースポット』(監督・編集)などがある。